広島の原爆がさく裂の瞬間に放出した熱線は次のように説明されている。
(原爆の炸裂から)〇・二秒後、火球は直径三一〇メートルに膨張する。最も大きく、明るく見える瞬間である。このときから地上での熱線の影響が出始める。この時間から二秒までの間に熱線の九〇%が放出される。(NHK広島「核・平和」プロジェクト『原爆投下・10秒の衝撃』日本放送出版協会1999)
さらに、熱線が地上に影響を与えるのは爆発の0.2秒後から3秒までの間とされ、爆心直下での熱量は120カロリー/㎠と説明されている。カロリーといわれても困るのだが、条件によって温度が違うということなのだろう。
では、爆心地にいた人は熱線にさらされてどうなったのか。私も若い頃授業中に一度だけ「蒸発したかもしれない」と口走ってしまったことがあるのだが、調べてみると、人間は熱線で蒸発することはないとわかる。
以前にも一度紹介したことがあるが、爆心地でいち早く人の死にゆく姿を目に焼き付け、それを体験談に残したのは、燃料会館(現 レストハウス)の地下室で被爆し、そこから脱出して奇跡的に生き延びた野村英三さんだ。
野村さんは地下室から何とか抜け出し、燃料会館の外に飛び出した。すぐ目の前は元安橋である。
急いで元安橋のところへ来た。ふと橋の上をみると、中央手前のあたりに、まる裸の男が仰向けに倒れて、両手両足を空に伸ばして震えている。そして左腋下のところに何か円い物が燃えている。(野村英三「爆心に生き残る」『広島原爆戦災誌』)
元安橋の中央あたりとすれば爆心直下から120mの距離で、真下といってもいい。「まる裸」なのは一瞬にして服が燃えつきた、あるいは焦げて吹き飛んでしまったのだろう。
住友銀行広島支店の石段のところにあった遺体を運んだという証言がある。その当時広島中央放送局に勤めていた中島正男さんだ。8月9日のことらしい。
ちょうど階段の中ほどで柱にもたれかかるようにして座っとられました。着物も大部分焼け焦げ、顔や両手は大火傷で、男女の区別もつきませんでした。(後略)(高橋昭博ほか『きみはヒロシマを見たかー広島原爆資料館―』日本放送出版協会1982)
この遺体が石段に「影」をつけた人の遺体であった確証はない。また「影」をつけた人の身元も特定されたとはいえないようだ。
それでも、紙屋町界隈の被爆直後の様子はうかがい知れることができそうだ。