峠三吉『原爆詩集』より15~人影の石1 | ヒロシマときどき放送部

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2016年広島で高校の教員を定年退職し現在は山奥のお寺の住職をしています。ヒロシマのこと、放送部顧問をしてきたことを書いてみます。

 爆心地からの距離280mのところに住友銀行広島支店があった(現 三井住友銀行広島支店)。原爆の強烈な熱線が入り口の石段や壁の花こう岩を焼いて白変させ、その石段に座っていた人の陰だった部分が黒っぽく残った。「人影の石」と呼ばれている。

 いち早く市内へ救援に入った陸軍船舶練習部第十教育隊の柴田富雄さんが「人影の石」に気づいたのは8月14日のことだった。

 

 やがてある建物(最初芸備と思いこんでいたが後日住友銀行と知った。)の入口附近の壁に、人の影が黒く鮮やかにうつっているのが目についた。何故だろう?石段をのぼり近づいて見る。トビラのあくのを待って、壁にもたれて坐っていた人が、原子爆弾の強烈な熱線をまともに浴びて出来たものだろう。死体の代りに影が残る。こんな不思議なことがあろうか。じっと見つめていると、今にも壁のうしろから本人が現れてきそうな気さえする。(柴田富雄「被爆者救護活動の手記集」『広島原爆戦災誌』)

 
 8月16日に住友銀行広島支店を訪れた峠三吉は、その時は親戚知人の消息をたずねるのに必死だったであろうから、「人影の石」に気づかなかったとしても不思議ではない。
 松重美人さんが「人影の石」を写真に収めたのは1946年末ごろだ(高橋昭博ほか『きみはヒロシマを見たかー広島原爆資料館ー』日本放送出版協会1982)。佐々木雄一郎さんは1948年に撮影している(佐々木雄一郎『写真記録ヒロシマ25年』朝日新聞社1970)。
 「人影の石」は1948年には広島の「原爆名所」のひとつに指定されているから、早くから多くの人の関心を集めていたのだろう。峠三吉も「影」という詩を書いた(『原爆詩集』所収)。
 年ごとに薄れていく「人影の石」の影を保存するため、1959年には「影」の周りに柵が設けられ、1967年に「影」は強化ガラスで覆われた。(「中国新聞」2011.4.1)
 そして銀行建物の建て替えに伴い、「人影の石」は切り取られて広島平和記念資料館に寄贈され現在に至っている。