映画「アントニオ猪木をさがして」を観る | 世日クラブじょーほー局

世日クラブじょーほー局

世日クラブ・どっと・ねっとをフォロースルーブログ。

 

 本作は、新日本プロレス創立50周年記念として企画されたドキュメンタリー。

 

 アントニオ猪木が昇天して1年が経つ。その79年の生涯は、波乱万丈かつ誰にも真似できない、まさに記憶に残るものだった。当方も猪木ゆえにプロレスファンを自任したが、猪木引退後、時勢に応じて、K-1、総合格闘技などリアルファイトに流れ、ショウアップされたプロレスは顧みなかった。当方にはプロレスイコールアントニオ猪木だった。当方が特に印象的な試合が、月並みかもしれないが、ハルク・ホーガン戦、スタン・ハンセン戦、アンドレ・ザ・ジャイアント戦。身長220センチ、体重230キロのアンドレをボディスラムしたのは、このホーガン、ハンセン、猪木の世界で3人だけだ。

 

 もっとも総合格闘技や異種格闘技戦の先駆者こそ猪木でもあって、モハメド・アリ戦、ウィリー・ウィリアムズ戦、ほかウィリアム・ルスカやチョチョシビリなどなど、格闘技に縁のない人間でも心ときめくマッチメークを実現。アリ戦などとくに、賛否両論の物議をかもし、莫大な借金も背負った猪木だったが、プロレス最強を体現すべく、”いつ何時、誰とでも”をモットーにした。

 

 また格闘技の世界に止まらず、1989年に江本猛紀らとともに、スポーツ平和党を立ち上げ、その年の参院選に当選。この時のキャッチフレーズが「国会に卍固め、消費税に延髄斬り」。ポピュリズムもここに極まれりの感だが、91年に起こった湾岸戦争では、イラクに人質となった日本人解放を政府の反対を押し切って実現してみせた。このときもアリ戦以来の人脈やアリがムスリムだったことも含め奏功したようだ。常識や慣例にとらわれない型破りな新人議員、猪木ならではの快挙だ。ただ、この政党の末路は猪木のカネの問題による内紛で瓦解。もっともこれは猪木の私利私欲の故ではなかろう。藤原喜明に言わせれば彼は「純粋な人」だったろうし、かつ生き方が愚直で下手すぎたのではないか。もっとも、会社の社長や政党の党首がそれでは困るのも確かだが。

 

 「元気ですか!元気があれば何でもできる」「迷わず行けよ行けばわかるさ」「バカになれ」などなどの名言(猪木語録)を残した猪木。ありふれた言葉なのだが、猪木が語れば含蓄がある。同じ言葉を今の金髪の新日の選手が語っても上滑りするだけだろう。これは生まれつきもった独特な個性もさることながら、これまで歩いて来たまさに波乱万丈といえる人生行路によって裏打ちされていよう。

 

 猪木は、横浜の裕福な家庭で生まれ育ったが、幼少期に父親が死去。やがて家業が傾き、一家は困窮。猪木の少年期に一家は一縷の望みをかけ、新天地を求めてブラジルに渡る。10代前半ですでに日本人離れした体格に恵まれた猪木だったが、コーヒー農園で朝から晩まで、苛酷な労働に従事せざるを得ない少年時代を過ごした。やがて陸上競技の選手として活躍する姿が、当地に遠征中の力道山の目に留まり、再び日本の地を踏むことに。そして、力道山のもとで、ジャイアント馬場とともにプロレスラーとしてデビュー。我々が今日知るアントニオ猪木の軌跡がここに始まったのだ。

 

 猪木の最晩年は、難病である心アミロイドーシスに冒され、痩せこけて車いすでの生活、さらには寝たきり状態を余儀なくされた。往年のファンとしては直視できないほど痛々しい姿だったが、自身を映すカメラは常時入れていた。本作中、安田顕か神田伯山だったか「猪木はすべてをさらけ出していた」と語っていたが、まさにそうで、かっこいい姿ばかりでなく、逆境でも普通なら逃げ出したい、隠したい場面でもカメラを拒まず、ありのままのアントニオ猪木をファンと社会の前にさらけ出してきた。その真意はどこにあったのか。生来の世渡り下手で断り切れなかった面もなくはなかろうが、武藤啓司は「改めて思う。アントニオ猪木にはなりたくない」と述べている。これは意味深長で、多くを含んでのことだろう。誰しもできることではないのだ。当然ながら。

 

 日本でアントニオ猪木の名を知らぬ者はいない。猪木亡きあとも、あの顔をあの言葉をいつまでも忘れることはないだろう。これからも”燃える闘魂”を語り継ごう。

 

(監督)和田圭介

(キャスト)

アビッド・ハルーン、有田哲平、内間政司、海野翔太、オカダ・カズチカ、片山芳郎、神田伯山、棚橋弘至、中村喜夫、原悦生、藤波辰爾、藤原喜明、安田顕ほか

(ナレーション)福山雅治