2月14日はパレンバンデー | 世日クラブじょーほー局

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 さる2月14日、憲政記念館において、パレンバンデー記念講演会が開催されました。パレンバンデーとは、大東亜戦争の緒戦1942年(昭和17年)2月14日、蘭印(現在のインドネシア)のスマトラ島のパレンバンに、日本帝国陸軍の落下傘部隊が舞い降りて、激闘のすえ、当地を占領し、石油基地を押さえた。ここは当時、東南アジア有数の油田地帯。

 

 この作戦の成功によって、ABCD包囲網による大日本帝国への石油の禁輸から始まった大東亜戦争の継戦に大いに寄与した。当地の被占領民は、「空から神兵が舞い降りた」と仰ぎ見て歓声で迎えたそうだ。今現在、巷ではこの日を”バレンタインデー”として、男たちは、もらったチョコの数に一喜一憂する中、モテないやもめが集まって憂さ晴らし…ではなく、もっと健全に、国民が共有すべき事実がある。まず、戦時中にこのような出来事があったということ、そして、我が国のエネルギー問題を考える恰好の史料として、その意義と価値をあらためて確かめる時間となりました。

 

 第一部は、「パレンバン奇襲部隊が果たした役割」と題して、ジャーナリストの高山正之氏が基調講演。第二部は、「石油なくして国防なし」(空の神兵から学ぶもの)のテーマで、4人の識者によるパネル討論会。なお来賓として、山田宏参議院議員、杉田水脈衆議院議員、田母神俊雄元航空自衛隊幕僚長があいさつした。そして、会の締めくくりとして、会場全体で、1942年に高木東六が作曲した「空の神兵」を大合唱して幕を閉じた。以下、基調講演とパネル討論会におけるそれぞれの要旨。

 

基調講演 「パレンバン奇襲部隊が果たした役割」 高山正之

 

 今年は、明治維新から150年。司馬遼太郎は、維新の主導者たちが立ち並んで日本をグイグイ引っ張って、新しい時代へ持ち込み、日清日露に勝って坂の上に立ったと書いている。ただその後はいけないと。坂の上から転げ落ちて、傲慢になって無謀な戦争を始めたというような展開だ。

 この「司馬史観」なるものは大いなる誤り。司馬はよく人の悪口を書いた。乃木希典、伊地知幸介、松倉重政、etc。その人格を罵った。元来、日本人は人格を罵るようなことはしない。だが、彼は大衆文学にそれを持ち込んだ。それだけでも問題だが、その明治時代に対する読み解き方は大変間違っていると思う。

 明治時代とは、カオスの中にあった。五箇条の御誓文の四番目に、「旧来ノ陋習ヲ破リ」とあるが、人々は喜んでちょんまげを切り落とし、ザンギリ頭になって、下駄を脱いで靴にして、着物をやめて洋服にした。民族衣装を捨てる、風俗を捨てるというのは大変なこと。シナでは辮髪切るだけでも大騒ぎで、何万人という人が殺されたりした。そういう意味では、日本人はあっさりしている。これは稀有な民族の知恵といえるだろう。

 御誓文の五番目には、「智識ヲ世界ニ求メ」とある。日本では、明治5年に鉄道が走り、15年には発電を始めた。しかも火力発電ではない。安積疏水を造ったりして、水力発電まで始めてしまった。大変進取の気性に富んだ転換、もっと言えば革命をやった。しかし、一方では足軽出身の山縣有朋や井上馨などは、平気で汚職をやる。伊藤博文は、鹿鳴館を作って、舞踏に明け暮れるなどある意味大変恥ずかしいことをやっている。彼らが望んだのは、側近政治。いつまでたっても御誓文に言う「万機公論二決ス」という大事なことが行われないでいた。

 

 民選議員が設立されるのは、実に明治23年になってから。ここでようやく、「万機公論二決ス」のかたちが出来上がった。しかし、それまでの日本の外交は、例えば明治14~15年にはハワイの王様が日本に来て助けを求めても、そっぽを向いた。米国に下手に絡まれると怖いから。征韓論によって国内の人士(西郷など)を潰してしまった。外交問題の解決は、内戦をやることで潰して、ないことにしてしまおうと。挙句はシナの海軍が起こした長崎事件。300人くらいわが国に上がり込んできて暴動をやった。だが、そのシナに対して明治政府がやったのは謝罪外交。シナと事を起こしたくないと。

 そうこうしてやっと民選議員ができた。一般人もシナがどういうものかを見て、また朝鮮半島問題も新聞がいろいろ書き立てた。それでも維新の主導者たちは、戦争には反対。だが日本人はいつまでも忍耐できるかと。その答えが日清戦争。

 日清戦争に至って明治天皇は、自らの宮廷費を削り、官僚たちは自分たちの俸給から一部を差し出し、もちろん庶民もそれに倣う。そうやって一生懸命、軍備を整えて戦争を戦った。

 この時はじめて、五箇条の御誓文の第二条に言う、「上下心ヲ一ニシテ 盛ニ経綸ヲ行ウベシ」が完成する。戦争にも勝った。それと同時に、日本人はもう一つ学ぶ。日清戦争後、三国干渉が起きた。欧米人が介入してきた。さらに、米国人というもっと下衆な人種がやってきて、ありもしない旅順大虐殺を言い立て、日本人を貶めようとした。こういう展開が繰り広げられた。日本人は心を一にして日清、日露を戦い抜き勝利した。司馬はこの時を、やっと坂の上に来たと言ったが、そうじゃない。日本人は、自分たちがどういう存在なのかにはじめて気が付いたのだ。

 第一次大戦が起こる。パリ講和会議がある。国際連盟が設立される。この時日本は、人種平等案を出すが、蹴られてしまう。さらに大きな問題を日本人は知るのだ。国際連盟規約第22条に、「 今次の戦争の結果従前支配したる国の統治を離れたる植民地及び領土にして近代世界に激甚なる生存競争状態の下に未だ自立し得ざる人民の居住するものに対しては、その人民の福祉及び発達を計るは、文民の真正なる使命なること」というくだりがあるが、一方では、アヘンを禁止するアヘン条約がある。この中に、欧州諸国では、製造や取引は禁止だが、植民地では留保すると。すなわち、自分の植民地は売り放題ということ。こういう状況を日本は、国際連盟の五大国の一つに加わってつぶさに見た。これはひどいじゃないかと。明治維新から日清日露を経て、第一次大戦、パリ講和会議を通して見てきた日本人の一つの到達点。

 こういうことがあって、日本はその後、明らかに国際社会から除外されていく。世界を支配するのは白人で、お前ら邪魔者だと。それを石油禁輸という恰好で、日本を追い詰めて戦争を仕掛けさせた。それに対して、日本は敢然として立った。一兵卒に至るまで、そういう思いでこの戦争に臨んだ。その一つがパレンバンの落下傘降下部隊。

 スウェーデンやオランダが、落下傘降下で奇襲して成果を上げた。日本はこれを見て使えると。やがて行くパレンバンの石油工場を無傷で取る方法はこれしかないと。一年前に志を立てて、落下傘部隊の訓練が始まった。当時、今の二子玉川に、降下訓練用の鉄塔があり、また、満州でも訓練した。そして真珠湾のあと、パレンバン攻略のための部隊は出航する。だが、その先遣隊は、乗船した明光丸が火災で燃えてベトナム沖で沈み、落下傘もなくなった。その予備部隊として、二ヶ月前に徴集したばかりの第二部隊があり、彼らに命令が下った。この中に奥本中尉がいた。1月3日に先遣隊が沈没し、その10日後に彼らは出陣している。落下傘もなかったが、製造担当である藤倉工業も一生懸命、徹夜してつくった。彼らも、ともに戦っているという思いだったのだ。

 1月31日に、ベトナムのカムラン湾に第二部隊が到着。訓練らしい訓練はまったくない。そして、2月2日にプノンペンに行って降下訓練をやった。1泊するかしないかの状況でマレーの飛行場へ行く。マレーから出撃したのが2月14日。中島飛行機とロッキードで飛んで行った。落下傘訓練では500メートル降下する。奥本中尉の記録では300メートル。実際は150メートル。300メートルあれば自分たちが下りる途中に僚友がどこに降りていくか見える。そのことによって、後で集結しやすい。150メートルだと無理。ジャングルを彷徨い、のちに5人がやっと集合した。たった5人でしかも別投下した火器・弾薬が入手できずに、ピストルと手りゅう弾だけで、150人以上の敵を壊滅させ、敵の輸送車や装甲車の奪取に成功した。これはありえない戦い。こういう戦いをやって、英蘭軍を150人以上投降させた。5人は憶することなく、まさに鬼神のように戦った。この強さというのは、日本人としての覚悟だ。



 明治時代に、エドワードモースや、古事記を翻訳したチェンバレンなど、外国人が日本に来て、これから日本を担う学生や若者に話を聞くと、「日本に文化はありません。これから欧米から学ぶものが新しい文化です」と言った。文部大臣をやった森有礼は、外交官に、「お前、外国行ったら青い目の嫁さん連れて帰れよ」と。そして「もう日本語は面倒くさい。国語を英語にしてしまえ」と言った。こういう明治時代と後の日清日露を戦った日本人とは全く違う。

 第一次大戦のキール軍港におけるドイツ水兵の反乱があった。戦争はもう終わりだ、ほっとけば生きて故郷に帰れるというとき、ドイツ海軍は、キール軍港から出撃して連合軍に一泡ふかして停戦条約を有利にしようと考えたが、水兵たちは冗談じゃないと。俺たちは命が欲しいと反乱を起こして、ドイツは最後はさんざんな格好で負けた。GNPの20年分を賠償金として取られて、ドイツはダメになった。

 日本でも似たような状況があった。占守島の戦いだ。終戦後、ロシア軍が占守島に奇襲攻撃を仕掛けた。連合国側に約束があったのだ。武装解除によって、下ろした大砲を再びのっけて、入ってくるロシア兵を皆殺しにした。日本軍は256人死んでいる。ほっとけば自分の故郷に帰れる。その命を日本のために捧げてロシア軍を食い止めた。これを見ても、日本人は大した覚悟を持っている。少なくとも,第二次大戦終わるまで。そのおかげで、白人の植民地支配体制は終わりを告げた。まさに、20世紀は日本の世紀だった。これこそ坂の上に立った日本人。パレンバンも占守島も神風特攻隊の兵士もそうだ。パレンバンデーは断面だけ見るのでなくて、第二次大戦以降、日本が白人国家と戦った一つの記念碑としてこれからも見守っていって欲しい。

<パネル討論会>

「石油なくして国防なし」(空の神兵から学ぶもの)

 

(頭山興助・呉竹会会長)

 

 日本が明治維新後、一番変化をもたらしたのが、ロシア革命とコミンテルンの設立。次に飛行機の登場と燃料としての石油への転換。その石油を求めて世界中が右往左往した。その流れが今も中近東を中心に残る。日本は石油が一滴も出ない。原子力技術を高めて世界に資するようにすべきだ。

(西村慎吾・元衆議院議員)

 

 私たちの親の世代は、戦争についてあまり語らなかった。そういう意味で、この本「なぜ大東亜戦争は起きたのか」(ハート出版)は奇跡だ。これは、我が国の歴史の回復のための石碑だ。

 

 我々は無謀な戦争をやったのか。当時、日本国政府が帝国政府声明を出している。これはアジアを解放する戦争だということを明確に言い切っている。だが、これを義務教育では教えない。そして、必勝の戦略があったことも教えていない。では、その戦略とは何か。

 

 昭和16年11月15日、もうギリギリに発表された大本営政府連絡会議の決定「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」。この第一前提は、”速やかに極東に於ける米英蘭の根拠を覆滅して自存自衛を確立すると共に更に積極的措置に依り蒋政権の屈服を促進し独伊と提携して先ず英の屈服を図り米の継戦意思を喪失せしむるに勉む”。このためにまず南方作戦を行う。これがパレンバン制圧である。この1日後に、シンガポールが陥落しているが、ド・ゴールもチャーチルもこれを数百年の欧米のアジア支配の終わりを告げるものであるという歴史認識を示した。だが実は、心臓を掴んだのがパレンバンである。そして南方作戦は成功する。

 

 次に、戦略に基づいて何を決定していたか。それはインド洋の制圧。インド洋を制圧すれば、英の生命線であるインドと英が切断され、英国はエルアラメインでロンメルに打倒されるだろう。そしてインド洋を制圧すれば、インド洋からインドを経て蒋介石にいく援蒋ルートが切断され、浙江財閥の娘を嫁に貰っている蒋介石も継戦意思がなくなり、継戦能力もなくなる。英国が屈服して手を上げれば米国は戦争できない。すなわちF・ルーズベルトは前年の12月に、「お母さん、あなたの息子は絶対戦場には送りません。戦争しません」と選挙で言いまくって第三期の当選を果たした大統領だ。米国は戦争できない。

 

 このことを念頭において、パレンバンの落下傘部隊が勇戦奮闘したその思いは、わが国家はアメリカはじめ世界を相手に戦うが、これは欧米植民地支配を覆すためであるという大義のもとに、欧米キリスト教圏のオランダ等から見れば悪魔のような強さを発揮したのだ。

 

 次はシンガポールの石油の資源地帯を取って、日本がインド洋に出て行って、インドを独立させるということ。インドシナ半島、そしてインドネシアは、そこにいる敵を屈服させた。最大のインドを独立させれば蒋介石と英国が屈服していく。この作戦を待たねばならなかったのに、その時、帝国海軍の機動部隊はミッドウェーに出て行った。

 

 はっきり言えば、「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」は、大本営政府連絡会議の決定であり、ここに天皇陛下がご臨席されれば御前会議になるのである。この決定にもかかわらず、最終段階での打倒を計画していた米国に対して、なぜ緒戦で突っ込んでいくのか。

 

 このことについて、明治時代に遡れば、「戦時大本営条例」の改正が日露開戦の40日前に急遽行われた。これが致命傷だった。すなわち、英国においても日本においても、英国は現在でもそうだが、戦時においては陸軍が統帥の中枢を握って海軍と連携するというかたちだが、「戦時大本営条例」の改正によって戦時においても、海軍の統制と陸軍の統制は別々に存在するという体制になって、国家戦略としての戦争を戦えなくなった。シンガポールとパレンバンも取ったわけだから、インド洋に集中すべきわが機動部隊は、そこから出てミッドウェーに行って負けたということを終戦まで内閣総理大臣も知らなかったのだろう。

 

 われわれはこれをもって歴史を回復し、負けた戦いにおける勝機…勝てたのだということを子供たちに教えなければならない。これは民族の叙事詩として語り継がれなければならない。そしてこのような将兵をもったわが民族の歴史と伝統、天皇を戴く国家の誇りを伝えていくべきだ。

左・藤井厳喜  右・奥本康大

 


(藤井厳喜・国際政治学者) 

 今日も帝国主義の時代と思うが、これは天然資源、とくに、エネルギー資源をどうやって押さえるかということ。これが世界の金融構造の基本。日本の自立のためには、エネルギーの自立体制を作らなければならない。

 

 大東亜戦争は、石油に始まって石油に終わったとよく言われる。こんにちも日本を巡る資源状況は基本的に変わらない。太陽光や風力もちょっとずつ伸びてはいるが、あまりあてにならない。米国では補助金なしでも徐々に伸びてはいる。

 

 実は、日本で再生エネルギーで一番大切なのが忘れられているのが、水力発電だ。これに関してはダムをつくってはいけないとか、公共投資は悪だなどと言われてすっかり忘れられているのが現状だ。専門家によれば、20センチの段差があれば水は発電に利用できるそうだ。日本中でやれば8割くらいの電力は賄えるのではないかと思う。だが、やはり現実としては原油は必要。

 

 そして、クリーンなエネルギーというと天然ガスが挙げられるが、これも原油同様ほぼ輸入しなければならない。大東亜戦争の時も昭和16年6月くらいに、日本の戦争プランの一つとしてインドネシアの保障占領があった。ここは、ロイヤルダッチシェルが製油所を操業する石油の宝庫。ここでは、実際上はオランダのみが敵。オランダは日本から遠く、軍事的力も大してない。当時、米国もソ連も保障占領をやった。ソ連はフィンランドに対してやったが、混乱が終われば返すというやり方。当時、日本がオランダだけを狙って保障占領しようというのは、当然石油が目当て。そうしておけば、米国と表立って事を構えなくても、とりあえず資源の自立ができるはずだった。大変いい案だったのをなぜやらなかったのか。反省すべき要素が多い。

 

 今も状況は変わってないのだ。南シナ海を中共は領海化しようとしている。もしそうなれば、中東からのタンカーも日本に来れなくなる。もちろん、大回りしてロンボク海峡や東側のルートを通ってくれば可能だが、大変な時間と労力がかかる。インドネシアの石油、ブルネイの天然ガスを買おうとしても南シナ海を封鎖されればダメ。南シナ海が中共の内海となれば、たとえ東側を通ってきても日本のタンカーは止められてしまう。日本のエネルギー供給の生命線たるシーレーンは、遮断されてしまうことになる。

 

 日本の天然ガスの輸入先の可能性としては、ロシアがある。サハリンなど有望で、パイプラインをつくれば非常にいい。しかし、この国は、国防上の理由から頼れないことははっきりしている。よって、やはりインドネシア、中東から持ってこざるを得ない。南シナ海における闘いは、日本の生命線。ここが公海でなくなれば、日本はいつでも中共に喉元を締め上げられる。

 

 南シナ海は、「公海=international waters」である。ここを通る国が自由に使える海だ。ここを何の理由もなく、一方的に自分のものだなどと主張する中共は、今世界最悪の帝国主義、軍国主義国家だ。チベット、ウイグル、南モンゴルは実際は植民地だ。これを糺すことができるのは日本しかない。この中共に大きな力を持たせてしまったのは、欧米の責任もあるが、日本にもある。田中角栄以来、営々として我々は、中国に経済援助や技術移転したことが全部裏目に出ている。

 

 白人の帝国主義は、我々の先人が頑張って追い出したが、アジアの内部から最悪の帝国主義国家が生まれて周囲の国々に侵略を続けている。大東亜戦争を戦った日本人は、この中共帝国を打倒するという歴史的使命がある。

(奥本康大・「空の神兵」顕彰会会長)
 石油にまつわる戦前、戦後、将来について。(奥本氏のご尊父・實中尉が活躍された)パレンバン占領によってどれくらいの石油が確保できたのか。当時の日本の年間の石油消費量は、500万トン。パレンバンで300万トン確保した。ざっと6割だ。それ以外も併せて、800万トン確保できた。これによって日本は、戦争を3年半も継続できた。そしてパレンバンでは、300万トン確保したのち、日本の石油技術者が改良を施して、倍くらいの生産量を上げた。

 

 だが、海軍が遠くまで出かけて、一回50万トンくらい使うような戦闘をそこら中でやってしまった。そして制海権、制空権が奪われてしまって、南シナ海で多くの輸送船が潜水艦に沈没させられた。これが敗戦につながったと言われている。林千勝著「日米開戦 陸軍の勝算」(祥伝社新書)に詳しいが、秋丸機関が戦争経済を一生懸命シミュレーションして、これは勝てるということで戦争を開始した。だが、海軍と歩調が合わず、おかしな方向に行ってしまったというのが偽らざる歴史ではないかと思う。

 戦後は、経済で日本を占領しようというアメリカの意図によって、石油メジャーが日本に入り込んで石油は牛耳っていた。そこで立ち上がったのが、出光興産の出光佐三で、日章丸という船を派遣して独立をしようというイランから石油を買って、日本に自主の原油を持ち込んだ=「日章丸事件」。これによって日本経済が復興できた。それまでは、米国の言い値で原油を買っていて、経済復興も困難だったが、佐三の活躍によって日本は救われた。

 では、今の状況はどうかといえば、戦前と同じく砂上の楼閣だ。石油の輸入に関して、いつ何が起こって日本に入ってこない状況が起こるかもしれない。それを阻止するためにはどうすべきか。日本はサウジなど産油国と友好関係を結んでいるが、最近、中国がでしゃばってきた。「一帯一路」を掲げて、世界を牛耳ってやろうと。中国はサウジと友好関係を結んで盛んにあれこれ工作をやっている。

 

 中国は十数億の人口を抱える。将来に備えて石油を買い込んでいる。この5年ほどで、500万バレルの製油所を作った。そして、貯蔵タンクをいっぱい作っている。これから日本より中国の方が、サウジの上客になってしまう。そうして、世界の石油価格をこれから中国が握るという状況に陥りつつある。これに日本が何らかの対応をしないと、「一帯一路」が完成し、アフリカからそこら中が真っ赤っ赤の状況になってしまう。安倍政権も「自由で開かれたインド太平洋戦略」を打ち出すなど、頑張って頂いていると思うが、日本は一枚岩になるべきだ。残念ながら中国は一枚岩だ。日本は石油と国防をよくよく考えて欲しい。

 

なぜ大東亜戦争は起きたのか?空の神兵と呼ばれた男たち