読売新聞「新春対談」を読んで思う | 世日クラブじょーほー局

世日クラブじょーほー局

世日クラブ・どっと・ねっとをフォロースルーブログ。

 読売新聞の元旦付、「新春対談」は、本社特別編集委員の橋本五郎と宗教学者の山折哲雄という顔合わせ。昨年11月に起こったパリ同時テロを頂点として、宗教、民族間の衝突でカオス状態にみえる世界情勢の中で、日本はどう針路をとるべきか語り合った。

 二人は、わが国の歴史を通じた社会のあり方を高く評価し、果敢に世界平和のために貢献すべしという。これはこれで貴重な提言だ。なお山折は、グローバリゼーションの弊害についても言及した。しかし、ハッとさせられたのは後段の“大震災 宗教者の限界”の見出しが冠されたくだりだ。

 その中で橋本が、「2011年の東日本大震災は、ある意味で精神的末法状況を生み出した。宗教は機能したのか」と切り出す。山折は、「1995年の阪神・淡路大震災のときもそうだったが、宗教者はボランティアになっていた」とし、加えて「13世紀、同じような貧困と差別と戦乱で末法思想が深まった時代には、浄土宗を開いた法然、浄土真宗の親鸞、日蓮宗の日蓮たちが宗教者として語りかけた。ところが、近代の社会においては宗教の言葉が人の心に届かない。しっかりとした言葉で説く宗教者が出てほしかった」と。

 それに応えて橋本は、「心を届けようとしても、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)に吹き飛ばされてしまう。これだけ生きづらい社会であれば、本来ならまっとうな伝統的宗教が力を持ってもおかしくないのではないか」と投げかけた。

 この二人の指摘は、大震災当時、当方が痛感した内容そのものだ。そのために何度か当ブログで提言もした。あの大震災は自然現象ではあったが、日本人が覚醒するための産みの苦しみではなかったかと。すなわち、物質至上主義的価値観から、目に見えない価値観(「絆」や「犠牲的愛」などの言葉で語られた)への転換だ。

 いうなれば、聖書に「虫も食わず、さびもつかず、また、盗人が押し入って盗み出すこともない天に宝をたくわえ」(マタイによる福音書6章20節)るという人生指針といえる。ともかくも数多の尊い犠牲の上に、日本が一つになろうという機運が生まれたのだった。

 天皇皇后両陛下は身をもって、「民の父母」としてその精神を示された。あの時こそ宗教者にとって卑近な言い方だが、天与のチャンスではなかったか。あの時声を枯らして彷徨える魂を導かなければならなかった。さにあらずんば、石が叫ぶという具合だったろう。しかしあろうことか、手をこまぬいて無為に時を逸した。史上最大の不作為をしでかした。

 果たしてその後は反原発や、中国船による尖閣事件、日韓関係の悪化などの騒音に掻き消されていく。かつまた人心は荒み、振り込め詐欺には拍車がかかり、猟奇殺人はじめ異様な事件が今日まで続く。SNSも災害時役立ったのは事実だが、陰険ないじめやⅠS(イスラム国)拡散の格好のツールに悪用された。

 私見によれば、真の宗教は「一つになる」ことを目的とし、自己犠牲や利他愛を説き、これを実践し、心血を注ぐ。イエスは自ら、「仕えられるために来たのではなく、仕えるために来た」と言ったのではなかったか。

 理論理屈はひとまず措け。「一つになること」、これがすべての答えだ。橋本、山折両氏のご指摘に感謝するとともに、「この二人に先言われちゃったよ」と、どこまでも忸怩たる思いの募る年始めでした。