筆坂秀世著「日本共産党と中韓 左から右へ大転換してわかったこと」(ワニブックス新書)を読む | 世日クラブじょーほー局

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日本共産党と中韓 - 左から右へ大転換してわかったこと - (ワニブックスPLUS新書)/ワニブックス

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 筆坂といえば、共産党のナンバー4である政策委員長まで務めた押しも押されぬ大幹部の一人だった。舌鋒鋭く政権を追求する姿は、まさしく共産党の切り込み隊長に相応しい存在だったが、ただ彼には共産党特有の「暗さ」がなく、ルックスもよかった。かつ学歴エリートでなく、民間銀行員からのたたき上げということで、「好感?」を持って見ていたものだ。それが10年前のセクハラ事件によって、急転直下失墜し、その後、離党している。

 タイトルにもあるように、離党後、彼は思想的大転換をして、今では「保守派」なのだという。ま、いわく付きの辞め方をした人物の古巣への口撃は、割引いて聞かなければならないのは常識。がしかし、本書はゴリゴリのマルキストが転んで、「俄か保守」となり、やっつけ仕事で書き上げたとは思えない筆致だ。筆坂はやはり共産党在籍中から、内に沸々と滾るマグマを秘めていたのだろう。(今現在の党員の誰しもそうなのかもしれないが) それがくだんの「事件」によって大噴火を起こしたのだ。そういうことにしよう。

 なお離党したのち、筆坂が「保守派」に転向するにあたって、大きな影響を与えたのが、故中條高德氏だったという。中條氏からは、「君は一回の人生で二回生きているんだよ。いい人生だ」と言われたという。

 筆坂はプロローグの最後に、「自国の近現代史を語れないような国を、まともな国家とはいえない」と喝破し、のちに発表される安倍内閣の「戦後七0年談話」に期待を寄せている。本書は長年共産党に在籍した筆坂ならではのバランス感覚に長けていて、その労は多としよう。

  特に印象に残ったのは、第二章「日本に武力闘争路線を押し付けた毛沢東」において、昭和41年(1966年)訪中した宮本顕治書記長を中心とする日共代表団と毛沢東との会談が決裂したのち、毛沢東は日本共産党を『宮本修正主義集団』と規定し、日共本体はもとより、日共のフロント組織である「日本ジャーナリスト会議」「日本アジア・アフリカ連帯会議」や「日中友好協会」、そして社会党、公明党、民社党の野党勢力さらに全学連運動を舞台にした新左翼、マスコミなどありとあらゆる分野、組織に手を突っ込んで、毛沢東思想の浸透工作を図ったことが記されている。

 毛沢東による「大躍進」や続く「文革」によって、数千から1億ともいわれる中国人民の犠牲を出し、かつまた中国の近代化は30年遅れたとされる。

 しかし当時の新聞が文革を評せば、「中国がいま進めている文化大革命は、近代化をより進めるための模索といえよう。とすれば、文化大革命は、いまだに近代化への道を捜しあぐねている国々に、一つの近代化方式を提起し挑んでいるともいえる」(朝日新聞 昭和42年8月11日社説)、「党活動が軌道に乗り、大きなエネルギーを有効に発動させるためには、なんといっても党中央の指示を大衆の中に持ち込んで、大衆を自発的に積極的に中央の指示にそって動かしうるようなすぐれた末端幹部が必要である。国づくりとはこういう人づくりのことである。」(読売新聞 昭和45年10月2日社説)など歯の浮く提灯記事で占められていた由。

 読売はのちに学習したのだろうが、朝日はじめ左翼メディアは今なお懲りないようで、力ずくによる覇を唱える中共には見て見ぬ振りをして、普通の国たらんとするわが安倍政権に食ってかかる始末。嗚呼…。

 さらに第四章「韓国と日本共産党」では、韓国元大統領の以下の言葉を記す。「我々は国を失った民族の恥辱をめぐり、日本の帝国主義を責めるべきでなく、当時の情勢、国内的な団結、国力の弱さなど、我々自らの責任を厳しく自責する姿勢が必要である」(1981年8月15日光復節記念式典における全斗喚の演説)、「わが五千年の歴史は、一言でいって退嬰と粗雑と沈滞の連鎖史であった」「(韓国社会は)姑息、怠惰、安逸、日和見主義に示される小児病的な封建社会の一つの縮図にすぎなかった」(朴正煕著書「国家・民族・私」)。

 昨年末、日韓は従軍慰安婦問題に関して、最終的かつ不可逆的な合意を得たが、しびれを切らした日本側が旧日本軍による関与を認めたことは、痛恨の極みだった。軍の関与を認めることなど合意によるいかなる果実もバーターし得ないと思っていたが…。安倍氏の真意は測りかねるが、戦前の実態を知る両元大統領の上記の言葉もしっかり記憶されねばならない。