はじめに

 

これまで、宗教法人に対する解散命令は、オウム真理教と明覚寺のみに出されてきました。その事から旧統一教会の解散命令請求が話題になると、旧統一教会(以下、統一教会と記述します)とオウム真理教が頻繁に比較されるようになりました。

 

私自身は殺人という重大な刑事事件を起こしたオウムと、幹部が刑事事件を起こしたことがない統一教会とでは、大きな違いがあると感じています。しかし、両者が大きな社会不安を引き起こしたという点では同じで、そこに何か共通点があるのではないかと思うようになりました。

 

その共通点を探るために、地下鉄サリン事件で死刑宣告を受けた井上嘉浩(いのうえよしひろ)を題材にした「オウム死刑囚 魂の遍歴」(門田隆将 著)と、実行犯である林郁夫の自叙伝「オウムと私」を読んでみました。その結果、解ったことは、統一教会と同様にオウムでも、教祖が自らを神格化し、信徒に対して「絶対服従」を要求していたことです。

 

オウムでは、教祖への絶対服従を「グルに帰依する」と表現します。これは、教祖である麻原彰晃(本名:松本智津夫)に対する絶対的な信頼と忠誠を捧げ、彼の教えや指示に従うことを意味します。これは、文教祖を崇拝し、忠誠を誓わせた「絶対服従」に近いと感じました。

 

この麻原への絶対服従が、日本史上最大のテロである地下鉄サリン事件を引き起こしました。しかし、これらの行為を行った人々は皆、もとは善良な市民であり、純粋に世界平和を目指してきた人々です。私はその事実に深い哀れみと、切なさを感じます。

 

これから、この問題を深く掘りしていきます。その前に現在、20代、30代の二世は地下鉄サリン事件やオウム真理教について、よく知らないかもしれませんので、そこから説明していきます。

 

 

(1)地下鉄サリン事件とオウム真理教

 

<地下鉄サリン事件>

 

1995年3月20日、オウム真理教の信徒たちは東京の地下鉄車両に神経ガス・サリンを散布しました。この事件により、乗客や駅員ら14人が死亡し、約6,300人が負傷しました。私自身も朝方のニュースでこの事件を知り、現場の混乱と、何が起こったのかを理解できない人々の様子を目の当たりにしました。「さがってーーー!」と絶叫する駅員の声、そして動けなくなった人々を運び出す光景は、今でも忘れられません。

 

この事件は当初からオウムの犯罪と疑われ、麻原彰晃の逮捕時には私もテレビに釘付けでした。長期間逃亡していた実行犯も最終的には全員逮捕され、裁判の結果、麻原を含む13名が死刑、1名が無期懲役刑を宣告されました。現在、死刑判決は全て執行されました。

 

(猛毒サリンを吸って身動きできない人達)

 

オウム真理教は地下鉄サリン事件以外にも数々の凶悪な犯罪を引き起こしました。その中でも特に衝撃的だったのは以下の二つの事件です。

 

・1989年11月:坂本堤弁護士一家殺害事件。

 オウムの悪質性を追及していた坂本弁護士本人とその妻、1歳の子供が殺害されるという悲惨な事件です。

 

・1994年6月:松本サリン事件。

 長野地裁松本支部の裁判官を狙ったこの事件では、周辺の市民7名が死亡しました。この事件もまた、オウム真理教の凶悪犯罪として記憶されています。

 

<オウム真理教と教祖 麻原彰晃>

 

オウム真理教は仏教の一派で、特にチベット仏教の影響を強く受けている教団です。この教団では、輪廻転生という概念が中心的な役割を果たしています。信者たちは厳しい修行を通じて輪廻転生から解脱(げだつ)し、最終的な成就へ至ることを目指しています。

 

輪廻転生とは、人間が今生の行いによって、再び人間(人間界)に生まれ変わったり、動物(畜生界)に生まれ変わったり、あるいは一生苦しむ地獄(地獄界)に生まれ変わるとされる概念です。そして輪廻転生の中にいる限り苦しみは続きます。その苦しみから抜け出すことを解脱と言います。

 

信者たちは、教祖である麻原彰晃の導きがなければ解脱は不可能であり、逆に麻原に見放されれば永遠の地獄に落ちると信じています。この点は、文教祖の祝福を受けなければ原罪を清算できず、今は解りませんが、かつては脱会すると地獄に墜ちると言われた統一教会と似ています。

 

これらの教義は、教祖の絶対的な権威を強調し、信者へ絶対的な服従を求めるようになります。

 

(オウム真理教 教祖:麻原彰晃)

 

麻原は幼少期からほとんど視力がなく、盲学校に通っていました。そのためか、人の顔を見なくても相手の心情を見抜き、心をつかむ才能があったと言われています。そういう才能がないと宗教の教祖にはなれないのかもしれません。

 

 

(2)オウム信者:井上嘉浩の神秘体験

 

著書の主人公である井上嘉浩(よしひろ)は1968年生まれで、高校生の頃から神秘体験に強い興味を抱いていました。彼が麻原彰晃と出会ったのは、街角の本屋で麻原の空中浮揚の写真に目を引かれ、その興味からオウムのセミナーに参加したことがきっかけでした。そういう小さな出会いが、彼の人生を大きく変えることとなります。

 

その後、井上は地下鉄サリン事件では実行犯でなかたったものの、事件には欠かせない周到な準備を行ったということで25歳で逮捕され、最終的に死刑判決を受けました。この事件で命を落とした人々や、その家族が最大の被害者であることは言うまでもありません。しかし、私は井上もまた、麻原の被害者であると思えてなりません。

 

(オウム信者:井上嘉浩)

 

オウムでは数々の修行が用意されています。その修行を通して井上は覚醒し、麻原を自分の救い主と確信するようになりました。その修行は非常に過酷なものでした。その修行について井上は以下のように語っています。

 

(書籍より)

 午前六時から午後四時まで、十時間連続の立位礼拝(りついれいはい)、午後十時まで六時間のヴァヤヴィヤ(ムドラー)、午前一時まで三時間のツァンダリーのプラーナヤーマ、午前二時までヴィバリータカラーニ(ムドラー)、このムドラーは倍の時間、シャバアーサナという横になるポーズをとる必要があり、三時間ほど休息できた。

 

そして午前五時半に起き、食事を済まして六時から立位礼拝というくり返しである。 食事は血のイニシエーションとしての丹(柔らかいビスケットのようなもの)が百グラム、風のイニシエーションとしてのソーマ(ヨーグルト)一杯という質素なものだった。

(以上)

 

文章からは何のことやら、よく解らないと思います。探してみたら立位礼拝の写真がありました。

(立位礼拝)

 

立位礼拝という修行は、立っては伏せて、立っては伏せての動作を10時間連続で行うという非常に過酷なものです。これは若くて体力がある人でさえも持ちこたえるのが困難で、邪念を振り払い、精神を集中しなければ達成できない修行です。しかし、その過程を乗り越えることで、信者たちは不思議な体験をすることができると言われています。

 

井上はその修行を通じて、自身の身に起きた神秘体験を詳細に記録しています。以下にその一部を引用します。

 

(書籍より)

 『三日目の立位礼拝が最も辛かった。身体中が痛くなり、意識が朦朧とした。

(中略)

全くの混乱かつ無気力状態になりました。それでも自分の状態を無視して続けているうちに面白い体験をしました。カルマは六道輪廻に対応して浄化されると言われていました。地獄として全身が刺すような激痛でおおわれ、それを無視して続けていくと、餓鬼として腹がこげるような空腹になったり、考えもしなかった食物のイメージがひっきりなしに現れ、それを無視すると動物として呂律(ろれつ)が回らず、動物が唸っているような声が出ました。』

(中略)

 『僧侶、ヨーギ、王、将軍、軍人、商人、と様々な階級の人物や見たこともない民族衣装をまとった人物が走馬灯ように映り変わり、この一つ一つが自分の過去生なんだと驚きながら観察していました。ずーっと移り変わっても、すべて人間以上の姿なので、私は人間以下には生まれていないんだと喜んでいると、やがて人と人との間に毛をふさふさとまとった動物が出て来て、その回数も増えたり減ったりしてびっくりしました。

 

 やがてベルの音で意識が戻りました。これは宿命通(しゅくめいつう)で前世の転生を繰り返し、修行に入ってから動物への転生が消えた流れがまざまざと実感として残っていました。 「輪廻転生はまさに実在するんだ。本当に修行は大切なんだ」と確信しました。』

(以上)

 

井上は修行を通して、これまで自分が輪廻転生の中でどのような世界を生きてきたのか知りました。これは言葉で説明されたものではなく、自らが体験したことで井上は輪廻転生を疑いの余地のない真実と確信しました。

 

 

(3)統一教会のマイクロ隊と私の体験

 

統一教会では、このオウムの修行にあたるのがマイクロ隊かもしれません。私ごとで恐縮ですが、私の体験をお話しします。珍味売りを始めて数日間は順調でしたがある日、朝から全く売れません。始めてから2週間ぐらいたっていました。膝には痛みが走り、歩くのも辛い状態です。さらに珍味が入ったバックの紐が肩に食い込みます。

 

その日は高級住宅街でした。そういう家々は玄関に到達する前に4、5段の階段があります。痛みに耐えながら、両手で膝を抱えて一歩一歩階段を登り、何とか玄関にたどり着くという状況でした。しかし、何件訪ねても全く売れません。どれだけ相手を賛美し、どれだけ歌を歌っても売れないのです。ただただ、むなしいばかりです。

 

隊長からの「神様は必ず用意しているからね」という言葉だけが支えでしたが、正直なところ、身も心もボロボロです。そんな時、夕方近くになってようやく一件売れました。相手はご婦人でしたが、特に賛美をすることもなく、歌を歌うこともなく、「珍味を売っているなんて珍しいわね」と言いながら一個買ってくれました。普段ならばラッキーな一件です。

 

私はお礼を言って玄関を出てから、溢れる涙を止めることができませんでした。「神様は私という一人の人間を探し出すのに、こんなにも苦労してくれたのか」と。私は初めて神様が自分のそばにいてくれることを実感しました。これが私の神様との出会いであり、確信となりました。

 

井上の体験はもっと凄まじいものっだったのでしょうが、私には体験から確信を得た井上の気持ちが解ります。

 

 

(4)再臨復活から見た輪廻説

 

原理講論には、興味深いことに輪廻転生についての記述があります。その一部を「第五章 復活論 第二節(四)再臨復活から見た輪廻説」から引用します。

 

(原理講論)

『地上で自分の使命を完成できずに去った霊人たちは、各々自分たちが地上で受け持ったのと同じ使命をもった同型の地上人に再臨して、そのみ旨が成就するように協助するのである。このときに、その協助を受ける地上人は、自分自身の使命を果たすと同時に、自分を協助する霊人の使命までも代理で成し遂げるである。

(中略)

仏教で輪廻転生を主張するようになったのは、このような再臨復活の原理を知らないで、ただその現れる結果だけを見て判断したために生まれてきたのである。』

(以上)

 

再臨復活は霊界にいる別人から地上人への協助だが、現象として同一人物が生まれ変わるように見える。仏教ではこれを輪廻転生と誤解しているということです。

 

1980年代の霊感商法では、この再臨復活が活用されたようです。「先祖が自分では達成できなかった使命を、あなたに託している」という使命感を強調したのは、再臨復活の論理から来たのかもしれません。

 

それでは、1990年代以降の先祖解怨はどうでしょうか。先祖が地獄で苦しんでいるとされ、先祖を恨みから開放しなければ、あなたの家族や子孫も永遠に地獄の苦しみを味わうとされています。しかし、この話を裏付ける論理は原理講論からは見つけられません。しいて言えば遺伝罪でしょうか。それよりも、私は「28. 清平教と韓国シャーマニズム」で述べたように、先祖解怨は死者の恨みを解くという韓国の伝統的なシャーマン文化から発生したものと思います。

 

文教祖は日本人の性格をよく理解しており、日本人が先祖の話に弱いことをよく知っていたのでしょう。日本人にお金を出させるためなら、どんな理屈でも良かったのでしょう。

 

 

(5)麻原が作ったポア(殺人)という身勝手な論理


麻原は高弟の上祐史浩らを引き連れてチベットに修行に行きました。チベット密教ではヴァジラヤーナという教えがあり、教えの一つに他人を殺そうとしている悪いやつは、他に方法がなければ、殺すこともやむを得ないというものです。

 

これを麻原は、自分たちに反対する者は、悪行を積むよりは、早くポア(殺害)してあげた方がいいという身勝手な論理に作り上げてしまいました。オウムの殺人事件も最初は脱走した信者への暴行でした。ポアしてそれ以上、悪行を行わせないのがその人のためだという考えから、坂本弁護士一家殺害事件、松本サリン事件となっていきました。なんとも恐ろしい考えです。


麻原から井上に対してもカルマ(悪行)を取り除くと称して何回もの拷問がありました。脱走信者への殺人を目の当たりにし、自ら拷問を受けるようになると、さすが井上も麻原から逃げたいと思うようになりました。しかし、それができなかったのは何故か。

 

オウム真理教では麻原は最終解脱者とされています。最終解脱者は単なる解脱者以上の存在で、人間の来世の行先も自在に決定できるとされています。オウム信者にとっては麻原次第で天上界にも地獄界にも行くことになり、麻原の指示に逆らうことができませんでした。それはオウム信者にとって恐怖でもありました。それは洗脳というよりは呪縛と呼んだ方がいいかもしれません。

 

 

(6)最終解脱者 麻原への絶対服従

 

麻原はやがて尊師と呼ばれるようになりました。信者たちは、限界を超える修行ができているのも、全て麻原のおかげであると信じ、自分で善悪を判断するよりも、麻原の命令に絶対服従することが解脱への道だという信仰を持つようになりました。井上は、麻原に服従していた当時の心境を次のように述べています。

 

(書籍より)

『罪とは大義である神々の意思にもとづくグル(麻原)の意思に逆らう事でした。何故なら多くの人々を救うための道を妨げることになるからです。つまり善悪の基準はグルの意思の一点にありました。

そのためグルの意思に逆らう発想がまずありませんでした。できないと思うこと自体が罪悪感を伴い、自分が未熟なんだと自分を責めるばかりでした。

(中略)

当時を振り返りますと、私は大義を妄信することで、善悪の判断を麻原に委ね、自己の言動に対する人としての当然の責任感を出家以来はじめから放棄していました。だからこそ私は人としての恥ずべき様々な矛盾を犯しているのに全くそのことに思いいたすことはありませんでした。』

(以上)

 

「グル」を「お父様」に置き換えると霊感商法当時の信者の心境は同じだったと思います。地下鉄サリン事件の実行犯であった林郁夫(はやしいくお)の書籍「オウムと私」によると、殺人は麻原への忠誠心の証しだったということです。何ともおぞましい話ですが、私には霊感商法で文教祖への忠誠心を競い合った古田氏を始めとする幹部の姿が重なります。

 

幹部だけではありません。信者同士の会話でも、「お父様は霊界を通して全てご存じだ。お父様の指示は人間的には間違っているようでも、絶対に従わなくてはならない。」と言っていました。私もそうでした。そう思う事が信仰の証だと思っていました。

 

ここから得られる教訓は、教祖への絶対服従は、善悪の判断を狂わせるということです。

 

 

(7)文教祖と麻原の共通点は自分を神格化したこと

 

 

上の写真から解るようにオウムでは麻原を神格化しています。同様に、統一教会では文夫妻の写真を祭壇の最上段に掲げます。これも文夫妻の神格化と言えます。しかし最上段は無形なる神様の位置なので本来なら何も置くべきではありません。

 

以前、私は現役信者と思われる方と、「6. 自分を神格化した文鮮明師は間違い」で、この事で意見交換したことがあります。その方によると御父母様の写真は目に見えぬ神様を形で表したものであって神格化したのではないということでした。しかし写真のお方を神様と同等と思ってお祈りするのは、どうみても神格化です。

 

写真は偶像に他なりません。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教で固く偶像礼拝を禁じているのは、神のみを崇拝せよということです。無形なる神様に形は必要ないのです。

 

この神格化こそが、信者から自分で判断するということを奪い取ったのです。ではなぜ麻原、文教祖が神格化に成功したのでしょうか。

 

麻原は、この方を通してしか輪廻から解脱できないと信じ込ませたことです。文教祖は、この方の祝福以外に原罪は拭えないと信じ込ませたことです。信徒にとってそれが最高の希望でしょうが、神格化された教祖が判断を誤った時に悲劇が生まれます。

 

教祖の指示による地下鉄サリン事件、霊感商法は誰にも止めることはできませんでした。

 

(後編に続きます)

 

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