統一教会の各家庭の祭壇の最上位には文鮮明ご夫妻の写真が置かれています。
そうすると敬礼は神様ではなく文師夫妻への敬礼になります。

今はどうか解りませんが、私が現役だったころ、お祈りをする時は、「天のお父様、真の御父母様から」から始まりました。お祈りは神様との会話なので、今思えば「真の御父母様」が入いるのはおかしな話です。しかし当時は疑問を持ちませんでした。

この行為が日常化すると、おのずと信仰の対象は文師夫妻になります。神様以外に敬礼や祈祷するのは偶像礼拝です。私は文鮮明師がご自身を信仰の対象にしたのは間違いだと思います。

私がそのように思うようになったのは教会を離れ、統一教会の色を無くして新約聖書を読み直してからでした。イエス・キリストの言動は我が身を通して神の愛を伝えることに一貫していました。自分を信仰の対象にするなど全く考えていませんでした。

信仰の対象は神様だけなのです。私はここにイエス・キリストと文鮮明師の違いを感じました。

統一教会員は当然ですが誰でも教祖である文鮮明師を尊敬します。それはいいでしょう。

しかし、その気持ちが高まり、いつの間にか神様より上に見てしまいます。
幹部の中には説教の中で「お父様(文鮮明師)は神様を超えた」と公然と言う人もいました。他にも似たようなことを言う幹部がいました。まるで文鮮明師への忠誠心を競っているようでした。信者に対して絶対忠誠を唱えていたのは文師自身でしたから、文師も満足だっと思います。

私はオウム真理教の地下鉄サリン事件の実行犯であった林郁夫氏の手記を読んだことがあります。この人は医師でもあり優秀な方です。サリン散布の実行犯は皆、死刑になりましたが、この人は反省の色が濃いということで無期懲役で現在、服役中です。

手記の中の語りで、林氏を殺人まで駆り立てたのは麻原教祖へ忠誠心を示したかったというものでした。これは良心より忠誠心が勝ればどんな犯罪でもできるようになるということを表しています。教祖自らが信仰の対象になり、信者に忠誠心を求める宗教の末路は皆同じような気がします。

 

今、その忠誠は韓鶴子総裁へです。

 

いくらなんでも、これはあいた口がふさがりません。

 

 

 

 

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