油食林間のブログ -2544ページ目

三匹の鯰(なまず)

今日は難しいお話は止めて13年前に書いた物を紹介します。

阪神大震災の2年前の大渇水の夏の出来事です。父兄として長女の通う附属少学校文集に投稿したものです。1993年12月

「三匹の鯰(なまず)」    

この夏の異常渇水でわが家に珍客が舞い込んだ。干上がった武庫川で取り残された鯰である。
体長は十センチ余り。髭面の丸い顔に小さな目、なかなかの役者だ。水槽の石陰に潜み、髭であたりの様子を伺う。子供と一緒になって喜んでいたが意外な事実が判明した。

同居しているオタマジャクシやオイカワ、ハゼの類が目に見えて少なくなる。ある日現場を発見した。
水槽を縦横に逃げ回るオタマジャクシに鯰が食いついた。尻尾に噛みついた後、石陰に身を潜め、お隠れになった。鯰は肉食であったのだ。それから鯰の餌とりが始まった。近くの小川に、また猪名川に六歳の長男と奮戦した。長女にあっさりと振られたからである。折からの渇水でようやく捕まえた哀れな生贄たち。家に帰りつくまでに早くも犠牲者が発生した。折角の努力も虚しく腹を背にして浮いているオイカワ。痛ましさを覚えつつもみるみる成長する鯰の魅力とたくましさに押し切られた。

この珍客によってわが家は子供とともに生きることの意味を考えさせられた。

鯰の貪欲さを問う以前に、食卓にのぼる生贄の多さに気づかされた。ステーキは牛、トンカツは豚、鮭、鰯、フライドチキン、野菜も穀物も皆生物である。生きるということは他の命の犠牲の上に成り立っているのだ。自分を生かすことは他者を犠牲にすることであり、自分を犠牲にすることは他者を生かす道となる。

ある日、二匹の鯰が目についた。近くの小川の溜まり水に取り残された子鯰であった。独りぼっちの鯰の「お仲間に」との親心で捕獲し同居させた。何と翌日、新参者の鯰は両方とも背中に大きな噛み傷を受けていた。大きく成長した最初の鯰の仕業である。縄張りに侵入したよそものと認識したのであろう。二匹のうち小さいほうの鯰の傷は深刻であった。その後も執拗な攻撃が加えられもはや別居は不可避と判明した。

それぞれに新居を用意しながら考えさせられた。強いものが弱いものを苛める。弱者が強者から逃れるためには逃避以外に道はないのかと。三匹の鯰を通して家族で考えさせられた。せめて人間ぐらいは進んで自己を犠牲にし、弱者を援助するべきではないのだろうか? (教育雑感)

JEDP文書資料説

 文書資料説なんてい古めかしい言葉は最近めっきり見られなくなりました。一世を風靡したこの仮説ですが未だにこんな物を後生大事に信奉している御仁もおありとききます。今日は、この学説について簡単にお話してみたいと思います。
 ユリウスベルハウゼンと言うドイツの旧約聖書学者が同国人のヘーゲルが案出した哲学に感化されて創出した旧約聖書生い立ちに関する想像上の仮説です。

 このベルハウゼンと言う人は創世記の神名に使われているヤハウエ(当時はエホバと呼んだのでJ資料)と言う言葉やエロヒムという神名(E資料)と言う2つの神名は創世記の元になった異なる資料の名残りだと言う思いつきの仮説に基づいて旧約聖書の編集過程を解明しようとしたのです。

 この仮説は後に申命記資料(D)と祭司資料(P)を加えて一般にJEDP文書資料説と呼ばれています。従来の保守的な見解の立場からは「破壊的聖書批評学」として前世紀前半に随分と派手な議論が展開されました。
  この文書資料説が広く旧約聖書の研究者に支持され大勢を占めるに至るのです。その理由は明解です。20世紀初頭において新約聖書の写本は一世紀後半のもの(ムラトリ断片)等多数発見され年代も確定していたのです。しかし、旧約聖書の一番古い写本は新約聖書の写本よりも千年も新しいキリスト紀元1100年頃の物しか存在しなかったのです。それゆえに新約聖書が先に書かれ、それに合わせて後代に旧約聖書が創作されたのだと言われると当時の学術資料を駆使しても否定が出来なかったのです。

古い写本が残らない理由ですがそれは以下の理由によります。マソラの書記(ユダヤ正統派の聖書=律法学者の子孫)たちは羊皮紙に筆写された古い写本を新しい物に書き写すとその新旧の巻物の文字数をカウント(へブル語セフエル=数える=書記と訳される)し新旧の文字数が完全に一致すると古い巻物を焼却処分していたので古代の写本は残っていなかったのです。

  しかし、文書資料説の信奉者はその様なユダヤの伝統に無知で知っても無視して自説を掲げたのです。そして、この文書資料説が世界の旧約聖書学会を席巻し、その最盛期に突然一連の巻物が死海のクムランの洞窟で発見されたのです。

 それは第二次世界大戦が収束し、パレスチナに平和が訪れ折しもユダヤ民族の悲願であった祖国イスラエルが2千年の空白をへて聖地パレスチナに建国されたその時だったのです。
 1948年(発見は1947年の早春)のことでした。そして、この中にはほぼ完全な形の旧約聖書が含まれその筆写年代は紀元前3~4世紀と結論されたのです。

JEDP文書資料説に酔っていた多くの聖書学者達は一斉に沈黙しました。なにしろ今まで一番古かった旧約聖書の写本よりも1500年以上も前の物が突然登場し、しかもその年代が確定してしまったのです。第一、第二、第三イザヤ等と派手に議論されていたイザヤ書も完全な形でしかも第一イザヤの時代に、それよりも遙に後代としていた第二、第三、イザヤもそこに含まれていたのです。そして、モーセ五書もほぼ完全な形で発見されてしまったのです。

  しかし、それから60年を経た今日に至っても、死海写本の全容は公にされていません。多くの理由があるのですが最大の物は、これを進めているのがスポンサーとなっているバチカンにとって不都合極まりない文書が厖大な分量含まれている為だとされています。何しろ、死海写本を擁していたクムラン教団がローマ軍によって滅亡させられたのですからローマ帝国やその当時の1世紀の世界のキリスト教会の勢力図を明示する多くの古文書がその中に含まれていたのです。

  それゆえ、バチカンは今まで公表していた歴史上のバチカンのプロパガンダ(初代教会時代からローマは世界の教会の首位性を保っている等という一連のフエイクです。)が霧散することをおそれて公表を無期延期にしてしまったのです。何しろこの研究を実際に取り仕切っているのは1892年に教皇レオ13世によって創設されたエルサレムの聖書学院に設けられた「国際チーム」言われる研究者達なのです。しかしそれは表向きの顔で実際にはバチカンの教皇庁聖書委員会の傀儡御用学者集団であったのです。

  それゆえに今日にいたるまでJEDP文書資料説は生殺しの状態で死ぬ事も出来ず、かと言ってこれを公に掲げる専門の旧約学者もいないわけなのです。しかし、今日にもこんな死に体の文書資料節の亡霊が横行するのは次の理由によります。問題は、全くその様な事情を知らない門外漢の人々が、特に新約学や組織神学などの旧約聖書に関して専門知識をもたない方々が、まさかそんな事になっているとは露知らず。このJEDP文書資料説を振りかざして無知をさらけ出しているのが現状なのです。

  さて、以上でこの仮説の現在の状態ナノですが、以下にその学説のその他の問題点を上げておく事にします。 

 JEDP文書資料説も最近は混迷の限りを尽くしとうとう、構造解析とかパソコンを使った聖書の分解作業が講じてすっかり統一性を失ってしまっています。その結果今では学説がバラバラに散開、錯綜し、もはや定説は何一つありません。しかし、未だにこの仮説を真実と思っている専門外の人も多いので困りものです。

 このJEDP学(仮)説の根拠の最大の物は次の事です。

ドイツヘーゲル哲学的社会学進化論に乗っ取り「最初は簡単な聖霊崇拝がやがて中央集権的祭祀宗教となり、その権力の座に最終的に大祭司が登場し壮大な神殿が建設された」その段階になって初めて教典が必要とされ歴史が捏造されたという想像上の仮説が発展してJEDP文書資料説と成りました。

  
 JEDP文書資料説の最も顕著な問題箇所は、捏造された証拠として取り上げられている、初期の祭儀や宗教形態にあります。当然全ての祭司資料や祭儀に関する聖書の記録には信憑性が無いというのです。だから中央集権祭司集団によってフエイクされた幕屋などという古代祭祀神殿は架空の物で実在しなかったとされたものです。それゆえに幕屋は実際に建設は不可能で構造も矛盾だらけのでたらめである。と言う物でした。

 じつは、この中央集権祭司の文書資料集のP(祭司典)の最たる捏造の証拠とされる「幕屋」に関する事が実は私の最も専門とする所です。何故こんな物を好き好んで研究したかというと、「幕屋の構造が制作不可能な非現実的記述である」というので実際に原典を調べてみて作れるか作れないかを検討してみました。もし嘘なら必ずどこかに矛盾や不合理が出て来て真偽の程は自明になると思ったからです。その研究結果は意外な物でした。事細かな計算の結果ピタリと寸法や重量構造は驚くほど厳密でその上実に正確でした。詳細は以下のリンクをご覧ください。JEDP文書資料説の最大の論拠であるP祭司資料に関する主張を見た限り、文書資料説の主張は私の確認した限り只の妄想でしかありません。

幕屋の構造の論文に関しては下のリンク先か「幕屋の構造」と検索して概要をご覧ください。。


 さてもう一方の文書資料節を真っ向から否定しているコンサバテイブ(保守派)の主張にも、確かに問題(弱点)があります。それはどうして3,500年前の部分と2,300年前のマラキ書などが1,200年の時代差が在るのにほぼ同じ文法(正確には語法)で記されているのか?と言う事がどうしても説明出来ません。 実際に旧約聖書はほぼ同じ文法で記されています。おかしいですね、「言葉や文章は必ず時代によって大幅に変化します。その解決に、バビロン捕囚から帰還した律法学者のエズラが同一の文法に成形して写本を纏めたと言う人も居ます。


  しかし、私はそれにも疑問を感じます。なぜなら翻訳されている旧約聖書は上手にそして見事に翻訳されていますが、実際に自分で原典をあたると、不思議に思ええる程、原意不明の単語が続出しています。正確にカウントした分けではありませんが、意味不明の単語、特に相当古そうな、アッカド語やセム語に類似する言葉ですが、全く意味の分からない単語が1割以上あります。もしかしたら15%ぐらい存在しるでしょう。それは厖大な数です。もしエズラが編纂したならどうしてこれらの古めかしい単語を、後代の分かりやすい一般的な単語に変換しなかったのか不思議でなりません。


 まあ古代の事ですから、今の私達とはどこかで相当考えかたが違っていたのかも分かりません。例えは、著者と言う概念に関しても相当違います。古代の文書の常識ですが、著者に関しては新約聖書の全書物同様に認識する必要が有ります。分かる事ですが新約聖書には「キリストの直筆」も「使徒達の直筆」もありません。当然です。それは当時の常識です。書き物(書物や手紙)は全て口述筆記でした。書記と言う職業があって、それ以外の人間が物を書くと言う事は古代にはあり得ない事だったからです。ですからモーセや預言者や使徒の自筆原典などと言う物は初めから無いのです。


  そして、これらの文書は全て綺麗に韻を踏んだ覚えやすい物語に(ナラテイブ)になっています。原典で読めば自明ですが、音読すると実に感情が自然に移入され解釈不要です。単語を発音する音だけで、あたかも交響曲を聞く如くに、音で迫力が伝わってきます。やはり相当コトダマの超弩迫力な人格がその音声の向こうにいて、その脈動が音声を聞く物にのりうつってくるのです。

  聖書を読む音声には何処を読んでも本当に圧倒されます。しかし、翻訳してしまうと実にくだらない(すみませんこんな言い方で)意味不明の文書(もんじょ)に変化してしまいます。おそらく原典の音声に表される、この名文なら、ネイテイブのヘブル人なら大抵簡単に暗記出来るでしょう。しかも相当量を。「ユダヤ教のラビが3人寄ればその暗記している記憶で全聖書を正確に復元出来る」と言う主張を聞いた事が有りますが当然かと思います。

  その様な訳で私はモーセ五書はおそらくモーセの従者シュア(ギリシャ訳はイエス)あたりが目撃した事を口述して、書記が書いたと推測しています。モーセ五書の殆どの部分を。その論拠ですが、目撃者でなければ書き得なかった事実が沢山聖書に記されているからです。それは先に述べた出エジプト記に記された移動式神殿の幕屋の記述です。確かにこの「幕屋」難解な記述が多くいのですが、実際に幕屋の実物を見た物でなければ書き得ない正確で緻密な表現が随所に見られるからです。そして70人訳の翻訳も忠実にそれらをギリシャ語に見事に訳出しています。

  結論ですが、私は手元にある聖書原典を読んだ素朴な感じとして、誰がそれを記したかは私が見た訳ではありませんが、こんな言葉を記した人物は並の凡人ではなく卓越した相当の奥深い学識と威厳を如実に顕示する人物が聖書を記したのであると、ひしひしと実感します。

以下は参考リンクです

http://bible.co.jp/tabernacle/

出エジプトの人数と進化論

出エジプトの人数

昔ある方(●●さん)から、聖書の信憑性に関してご質問を受けた事が在りました。それは、出エジプトの人数に関してでした。

出エジプト記38章の26節他に記された●1●・「60万人は信じられない」と言う物でした。その根拠として」聖書の数字は全て象徴で、もし実際に20歳以上の男丈で60万人なら女子供を加えると200万人を越え、その様な大人数が紅海を渡りシナイ半島で移動する事も生活する事も不可能だ」と言うのです。その質問には「具体的に移動するには1m間隔の5列縦隊で総延長は600劼肪してシナイ半島に収まり切らない」というものでした。●2●・それに当時には筆記する事が不可能で、●3●・その上聖書の記録には進化と言う観点から時代錯誤が見られるとう言う物でした。

果たしてどうなのでしょうか?その時の私の反論です。

●1●・「出エジプトの人数」への反論 

 聖書がダバールやロゴスとして主張している部分は、以前お話しした様に (参考URL「言葉」という言葉 http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/746266.html )で史実でなけれはならないのです。もし、この聖書の明確な主張が否定されると問題は一部ではなく聖書全体に波及する問題となります。もしこの点が否定されるとその結果、聖書全体の記述はでたらめと結論されざるを得なくなるのです。
 ●●さんが出エジプトの人数に言われるように5千人だとすると「男だけで60万人(出エ38章26節、他)」という明確な聖書の主張が崩される事になります。そしてその主張は聖書はロゴスとして記録していますので、それが否定されると、結果的に聖書全体が否定されてしまうのです。
 さらに、この点をより具体的にお話ししましょう。この出38書26節の前後に在る60万人の登録人数と、その時にその献げられた一人当たりの銀の重さ(半シケルの5.7g)に人数(603550)を掛けるとその合計は3440235gできっちり100タラント1775シケルになります。そしてこの献げられた銀を用いて幕屋は建設されているのです。この重さが否定されると私の論文の多くの計算はこの数値を前提にすべて割り出されました。その結果幕屋全体のたの数値とも符合して全体が見事に調和しているのです。もしこの銀の数値が否定されると私の論文全体にその影響は波及し、おそらく「幕屋は実在しなたかった」という結論を私は導き出さざるを得なかったでしょう。
 その点から見ても、聖書は本気で出エジプトの人数を男だけで60万人としている事を疑う事は出来ません。さて、聖書の記述から現実の実際に話をむけましょう。言及された通り現在のシナイ半島に200万人を超える難民を養う自然は皆無である事は私も十分知っています。しかし、紀元前11世紀(私は1440年の早期説を取ります。)のシナイ半島がどうであったかは明確な資料はありません。ソロモン神殿の建設に使われたレバノン杉の大森林や、ダビデの息子アブシャロムの反逆時のヨルダン渓谷の密林での戦闘の記述やライオンなどの動植物の記述を見る時、現在のパレスチナと余りにかけ離れている豊かな自然の描写であることは自明です。それはパレスチナだけに止まりません。当時の周辺諸国の考古学的調査結果による都市の壮大さなどと比較検討する時、時代をさかのぼるほどシナイ半島やパレスチナには、「当時は現在と比較出来ない、より豊かな自然が在った」事は否定出来ないと思います。
 さらにその周辺のエジプト周辺やメソポタミヤにも、紀元前2千年期には豊かな自然があり、文明の発展していました。しかし、豊かな自然が失われると同時に、その地に存在した文明も消失してしまったのは周知の事実です。
 さらに今日の日本とシナイ半島を比較してみましょう。シナイ半島は今日の日本の四国(人口約415万人)の約3倍の面積が在ると言われています。一方現在のシナイ半島は面積(61,000 km 2)で四国(18788 km 2)の約3倍に相当します。とすると「出エジプトの難民時代には、シナイ半島は四国の3倍の面積で四国の約半分の200万人程の人口を養っていた」という事になります。言い換えると「出エジプトの時代のシナイ半島の人口比の土地の負荷は現在の四国の6分の一」と言う事です。
 以上の事を総合的に勘案して考えると聖書の記録は現在よりもかなり有利である事が分かります。しかし、どうひいき目に見ても結論は「当時の自然が現在よりも少しぐらいは豊かであったにしてもまあ200万人が生活するのは非常に厳しい」という事実に変わりはありません。
  そして、その事実をすべて踏まえて、「聖書の記述の真実性に本当に問題があるのか」という事に目を向けましょう。よく聖書を読んでください。200万人は出エジプトの後、どうなったのでしょうか? 聖書は厳しい現実を記しています。聖書が明確に記しているのは200万人が荒野で生活したと言っているのではありません。聖書が言っているのは、「その荒野で20歳以上のものは記された通り2名以外は悉く死に絶えた」と言う記録です。(民数記26章62節)当然でしょう。どのような状態で出エジプトの民がどれぐらいの割合で死んだのかは記されていません。しかし、明確に聖書は彼らは悉く荒野で死に絶えたと記しています。とすればそれで当然で、聖書その記録を疑う根拠にはなり得ないのではないでしょうか。
  そしてもう一つの問題が生じます。ではどうして40年の放浪の末期にはまた男だけで約60万人だったと記されているのでしょうか? 
 その回答は次の様に考えてはいかがでしょうか。
当然、難民の常として、シナイの荒野の悲惨な40年の期間には死亡数の増大と同時に、出産数の異常な増大が見られたでしょう。多くのものが死に絶えたでしょうが、同時に多くのものが生まれたのではないでしょうか。もちろん、その中でも死者が多くなるのは当たり前です。40年間の荒野の放浪ではおそらく、イスラエル難民の人口は半減、いやそれ以下になったでしょう。
 そして生まれる子供達も次から次へと餓死した事でしょう。その悲しみに直面していた荒野の40年間の殆どの期間に対して聖書はほぼ沈黙しています。(民数記に記されているのは荒野の40年の期間の最初の2年間と最後の2年間の僅か4年間で16章から18章の36年間に関する記録は皆無です。)しかし、シナイ半島の放浪の後半には彼らの生活事情は大幅に改善されました。シナイの荒野を出てモアブの草原地帯やアモリ人達の居留地を侵略し生活が安定した事を聖書は記しています。パレスチナにも土地を略取したシナイ半島難民時代の末期には爆発的に人口が増加し、再度出エジプト当初の規模を回復した(民数記26章51節)のはごく自然の成り行きかと思います。
 また1974年 韓国で開かれた民族総福音化をテーマに国会議事堂前の広大なヨイド広場で行われたエクスプロ'74に日本から参加した時の事です。宿泊していたミヨンドンの韓国キャンパスクルセードの本部ビルからバスで会場入りをしました。会場に向かう4車線の道路の両側の歩道は会場に向かう人々で一杯でした。そしてハンガンを渡る橋は大渋滞でした。聞けば一日中このような状態と言う事でした。会場のヨイド広場は端から端まで見渡す限りの人でした。この会場は縦2キロ横1キロあり、有事には航空機が発着出来る広さであるときき驚きました。そしてその会場に入った入場者総数は200万人であったと発表が有りました。出エジプトに参加したと言われる全難民と同数でした。確かに200万人はものすごい人数ですがまとまればこの程度なの感嘆しました。そして、その翌日、復光節の大統領婦人の陸女子の暗殺事件が起きました。戒厳令が解かれて漸く私達日本からの参加者が会場に尽きました。その数約3000名でした。その日は日本のラジオ牧師羽鳥 明さんが説教でしたが、その中で韓国に介する日本国の罪をわびられて、私達は豪雨のなか、会場の前方に移動して、講壇の正面で200万人の韓国の方々に向かって土下座し戦争中の非道をお詫びしました。そのために群衆の中を移動しましたが人は詰まっている様でも結構移動には手間取りませんでした。確かに出エジプトには200万人の人間の他にも家畜や牛車がっあって、移動は大変だったと思いますが、ご心配されるほどの混乱は生じないかと思います。
  以上の事から出エジプトの人数200万人の記載は聖書の記述の信憑性を疑う根拠にはなり得ないと認識します。
 
●2●・「筆記具」への回答 
さて次に、筆記の問題です。当時にも文字はありました。オストラカに残されている楔形文字やフエニキヤ文字やエジプトの線文字なと全てアルファベットの表音文字ですからどんな言葉でも、そのまま簡単に記録出来たでしょう。また記録媒体には幕屋に大量に使われたなめし革はそのままで最高のメデイヤになった事と思います。

●3●・「進化論」への反論
  最後に、「物事にはおおよそ発展進化があります。」と言う事ですがこの点も敢えて反論させていただきたく思います。全ての発展を見れば自明の事ですが、資源の枯渇がかならずその背景に有ります。ガソリンという化石燃料の枯渇によるコストの増大がハイブリッド車を生み出し、更なる資源の高騰がやがて燃料電池車や電気自動車を生み出したのです。もし縄文時代の狩猟経済の川の魚が枯渇しなかったら、丸木舟は不要であったでしょう。そして沿岸の漁業資源が枯渇しなかったら漁船や遠洋漁業や魚群探知機は不要であったでしょう。今日の発展した高度な軍備や科学技術を持つ高度な情報社会は、そのような観点から見る時、物質資源の枯渇が原因であって、けっして進化や発展が先に在った訳ではありません。そしてますます資源は不足し更なる技術の進化が止めどなく必要とされるだけの事ではないでしょうか。

聖書に記されている記事に対しては聖書はダバール=ロゴス=実言と言う明確な立場を顕示しています。もしその立場で記されている聖書の明確な記述に虚構や象徴的な意味が存在すると仮定するならば、聖書その物が明記している実言というスタンスが瓦解してしまうのです。それゆえに聖書の記事や数字は事実によって裏打ちされていなければならいのです。これを看過しては聖書に関する最初のボタンをかけ違えてしまい、聖書の読み方の前提が崩れてしまいます。その結果付随する、聖書翻訳やその結果構築される全神学は無為に帰すのです。これを認めないと聖書や神様に関する、最初の一歩が踏み出せません。