男女の服装
今日は聖書から服装のお話をしたいと思います。と言っても聖書が言っているのは服装の事ではないのですが? 問題の聖書箇所で一般の邦訳(英訳もほぼ同じ)は以下の様になっています。
旧約聖書 申命記22章 5節
新改訳・女は男の衣装を身につけてはならない。また男は女の着物を着てはならない。すべてこのようなことをする者を、をあなたの神主は忌みきらわれる。
新共同訳・女は男の着物を身に着けてはならない。男は女の着物を着てはならない。このようなことをする者をすべて、あなたの神、主はいとわれる。
口語訳・女は男の着物を着てはならない。また男は女の着物を着てはならない。あなたの神、主はそのような事をする者を忌みきらわれるからである。
なにか、随分と封建的でニューハーフを聖書が禁じているのだと思われそうな記述ですが、聖書がここで言っているのは見当違いの事なのです。(もちろん聖書が見当違いではなく翻訳が見当違いなのですが。)以下にこの部分のへブル語の原典をそのまま日本語にしたものとそれを紀元前3世紀にギリシャ語に訳出した物の直訳を掲載します。前後の文脈はこちらから申命記の章節をクリックしてご覧ください。
http://bible.co.jp/bible/
直訳・へブル語 05 ・ 無い 彼が存在する 備品の 強い男 上 女 そして無い 彼が着せる 強い男 外套(=寝具)の 女 として 憎悪の ヤハウエ 神らあなた 全ての 作るは これら
直訳・70人訳 05 ・ 無い 彼が確かに存在する 備品は 男の 上に 女、無いも 無い 彼が着せた(為) 男は 長服を 女を、それは 嫌悪ら 主に その 神に あなたの 彼が確かに存在する 全ては 作るは これらを。
一般の翻訳と原典の相違が分かりますか?
原典直訳と一般の翻訳では随分と様子が違います。第一の相違点は男には服ではなく「備品」となっている事です。へブル語でも70人訳でも同じです。
★当時の備品とは第一に水汲み用の水瓶をさしました。
と言う事はこの「男の備品を女の上に乗せてはならない」と言う聖書原典の主張は「男用の大きな水瓶で女性に水を汲ませる無理な労働を、奴隷の主人はさせてはならない。」と言っているのです。
ではもう一方の「女の服を男に着せる」はどうなのでしょうか。
原典直訳を注意して見てください。女の「服」では無くへブル語は「外套」70人訳は「長い上着」と言う用語が使われている事です。
★当時の上着(外套=長い上着)は貧しい人々にとって布団=寝具を意味しました。聖書の世界である乾燥地域でしかも山地=バレスチナは昼間は酷暑ですが夜間はすごく冷えるのです。それゆえにこの言葉の意味は「女の服を男が着る=男は女装してはならない」ではなく、「奴隷=労働者の衣服=寝具=布団代をけちって寒い思いをさせて私腹を肥やすな」と言う意味になります。衣服を小さくした事で奴隷の主人が得る利得の為に、寒くて凍えるかわいそうな奴隷が起きない様に、他者の生存権を冒す様な卑劣な弱いものいじめを聖書は禁止しているのです。
★更に、この部分の文脈を見てみましょう。22章の1節から4節は迷子になった家畜や落とし物の外套の返却命令です。そしてこのあとの6節からは鳥の巣にいる母鳥と卵の両方は取らず親は逃がせ等と言う命令です。そのあと13節からは口実を構えて離婚させられる女性の身分と権利の擁護です。
明確です。この文脈で聖書が言っているのは「弱者の正当な権利の擁護」なのです。
結論です。
この「男の服を女に着せるな、女を服を男に着せるな」と言う翻訳は間違いです。聖書がここで言っているのは、「強い立場の者(お金持ち=資本家=王様や貴族)は自分の利益の為に弱い立場の者(使用人や奴隷)の当然の権利を侵害して私腹を肥やしてはならない。」と言う事なのです。この箇所で聖書が言っているのは、聖書全体の重要で大切な主題である「弱者の権利の擁護」なのです。
ですから、この箇所の正しい翻訳は以上の理由で下の様になります。
男用の大きな水瓶(備品)を女奴隷にもたせて水汲みの労働をさせてはならない。そして、女用の小さな服や布団を、一人前の男奴隷にあてがってはならない。
聖書は 弱者に無理な労働を強要して弱者の犠牲の上に自己の収益を構築する事や、体よりも小さな寝具(当然安い)をあてがって、経費を削減して当然支出するべき労働対価を搾取する事を禁じているのです。ここで言われているのは「強者が私利私欲の為に弱者に無き寝入りさせる事の禁止」なのです。
となります。★ さて、そこで大切な問題が発生します。
一体誰がこんな明確な聖書の主張をはぐらかして 、でたらめに訳出させたのでしょうか? それは簡単です、キリスト教会の歴史の中で常に聖書を翻訳しえたのは王様でした。最初はヒエロニムスによるラテン語ウルガタ訳です。彼が聖書を翻訳したのはローマ皇帝お命に因る物でした。
以下はその経緯です。
初代教会以来300年に渡ってキリスト教(当時は敗戦国ギリシャ語=ローマの植民地=被支配民族の宗教)を迫害していたローマ帝国は疲弊し、コンテタンチヌス帝は帝国の建て直す為に文化も経済もローマに勝っていたギリシャ人を味方にする為にキリスト教を公認しすぐに国教化します。そこで必要になったのがラテン語訳の聖書です。その当時は、ギリシャ語で書かれた新約聖書とへブル語の旧約聖書とギリシャ語に訳された70人訳旧約聖書しかなかったのです。コンタチヌス大帝の死後 、混迷するローマ帝国のヴアレンテイニアウス帝の要請で時のローマ教会のダマスス監督の命令でヒエロニムスはラテン語訳聖書の大改訳作業に取りかかりました。しかし名ばかりのクリスチャン政権であったローマ帝国側やローマ教会からの執拗な干渉を排除する術がありませんでした。聖典には含まれない外典や偽典も強引に含ませられてラテン語聖書(ウルガタ訳)を翻訳させられました。そればかりではありません、「皇帝や教会の監督の権能があたかも神から直接与えられたものである」という意向にそった翻訳となる様に、翻訳内容にまで沢山の介入を余儀なくされてしまいました。もし、逆らえば翻訳の承認はおろか下手をすると処刑ものでした。こうしてラテン語訳聖書は公にされたのです。それ以後ローマ帝国はこれ以外の翻訳を一切認めず、帝国の傀儡ラテン語教会(=今日のローマ教会の前進)と結託して悉く翻訳者は異端審問で処刑し訳された聖書は徹底的に焚(ふん)書されたのです。
その次はルッターのドイツ語訳ですがご存じの通り彼は宗教改革の旗手となり、フリードリッヒ選定公の庇護の元に聖書翻訳を完成しました。当然、為政者=民衆の搾取者に都合の悪い翻訳など出来ようがありません。
その次は英国王ジェイムが命じて国教会の御用学者達に訳させた有名なキングジェイムズ訳です。もう説明は不要でしょう。
当時の封建体制下においては、労働者や一般民衆の権利などを擁護する翻訳など出来ようはずはなかったのです。
ですからこのようなとんでもない翻訳が現在までまかり通っているのです。
と言う事で、聖書は今の時代に英訳を参考にせず日本語に訳し直される必要があるのです。
旧約聖書 申命記22章 5節
新改訳・女は男の衣装を身につけてはならない。また男は女の着物を着てはならない。すべてこのようなことをする者を、をあなたの神主は忌みきらわれる。
新共同訳・女は男の着物を身に着けてはならない。男は女の着物を着てはならない。このようなことをする者をすべて、あなたの神、主はいとわれる。
口語訳・女は男の着物を着てはならない。また男は女の着物を着てはならない。あなたの神、主はそのような事をする者を忌みきらわれるからである。
なにか、随分と封建的でニューハーフを聖書が禁じているのだと思われそうな記述ですが、聖書がここで言っているのは見当違いの事なのです。(もちろん聖書が見当違いではなく翻訳が見当違いなのですが。)以下にこの部分のへブル語の原典をそのまま日本語にしたものとそれを紀元前3世紀にギリシャ語に訳出した物の直訳を掲載します。前後の文脈はこちらから申命記の章節をクリックしてご覧ください。
http://bible.co.jp/bible/
直訳・へブル語 05 ・ 無い 彼が存在する 備品の 強い男 上 女 そして無い 彼が着せる 強い男 外套(=寝具)の 女 として 憎悪の ヤハウエ 神らあなた 全ての 作るは これら
直訳・70人訳 05 ・ 無い 彼が確かに存在する 備品は 男の 上に 女、無いも 無い 彼が着せた(為) 男は 長服を 女を、それは 嫌悪ら 主に その 神に あなたの 彼が確かに存在する 全ては 作るは これらを。
一般の翻訳と原典の相違が分かりますか?
原典直訳と一般の翻訳では随分と様子が違います。第一の相違点は男には服ではなく「備品」となっている事です。へブル語でも70人訳でも同じです。
★当時の備品とは第一に水汲み用の水瓶をさしました。
と言う事はこの「男の備品を女の上に乗せてはならない」と言う聖書原典の主張は「男用の大きな水瓶で女性に水を汲ませる無理な労働を、奴隷の主人はさせてはならない。」と言っているのです。
ではもう一方の「女の服を男に着せる」はどうなのでしょうか。
原典直訳を注意して見てください。女の「服」では無くへブル語は「外套」70人訳は「長い上着」と言う用語が使われている事です。
★当時の上着(外套=長い上着)は貧しい人々にとって布団=寝具を意味しました。聖書の世界である乾燥地域でしかも山地=バレスチナは昼間は酷暑ですが夜間はすごく冷えるのです。それゆえにこの言葉の意味は「女の服を男が着る=男は女装してはならない」ではなく、「奴隷=労働者の衣服=寝具=布団代をけちって寒い思いをさせて私腹を肥やすな」と言う意味になります。衣服を小さくした事で奴隷の主人が得る利得の為に、寒くて凍えるかわいそうな奴隷が起きない様に、他者の生存権を冒す様な卑劣な弱いものいじめを聖書は禁止しているのです。
★更に、この部分の文脈を見てみましょう。22章の1節から4節は迷子になった家畜や落とし物の外套の返却命令です。そしてこのあとの6節からは鳥の巣にいる母鳥と卵の両方は取らず親は逃がせ等と言う命令です。そのあと13節からは口実を構えて離婚させられる女性の身分と権利の擁護です。
明確です。この文脈で聖書が言っているのは「弱者の正当な権利の擁護」なのです。
結論です。
この「男の服を女に着せるな、女を服を男に着せるな」と言う翻訳は間違いです。聖書がここで言っているのは、「強い立場の者(お金持ち=資本家=王様や貴族)は自分の利益の為に弱い立場の者(使用人や奴隷)の当然の権利を侵害して私腹を肥やしてはならない。」と言う事なのです。この箇所で聖書が言っているのは、聖書全体の重要で大切な主題である「弱者の権利の擁護」なのです。
ですから、この箇所の正しい翻訳は以上の理由で下の様になります。
男用の大きな水瓶(備品)を女奴隷にもたせて水汲みの労働をさせてはならない。そして、女用の小さな服や布団を、一人前の男奴隷にあてがってはならない。
聖書は 弱者に無理な労働を強要して弱者の犠牲の上に自己の収益を構築する事や、体よりも小さな寝具(当然安い)をあてがって、経費を削減して当然支出するべき労働対価を搾取する事を禁じているのです。ここで言われているのは「強者が私利私欲の為に弱者に無き寝入りさせる事の禁止」なのです。
となります。★ さて、そこで大切な問題が発生します。
一体誰がこんな明確な聖書の主張をはぐらかして 、でたらめに訳出させたのでしょうか? それは簡単です、キリスト教会の歴史の中で常に聖書を翻訳しえたのは王様でした。最初はヒエロニムスによるラテン語ウルガタ訳です。彼が聖書を翻訳したのはローマ皇帝お命に因る物でした。
以下はその経緯です。
初代教会以来300年に渡ってキリスト教(当時は敗戦国ギリシャ語=ローマの植民地=被支配民族の宗教)を迫害していたローマ帝国は疲弊し、コンテタンチヌス帝は帝国の建て直す為に文化も経済もローマに勝っていたギリシャ人を味方にする為にキリスト教を公認しすぐに国教化します。そこで必要になったのがラテン語訳の聖書です。その当時は、ギリシャ語で書かれた新約聖書とへブル語の旧約聖書とギリシャ語に訳された70人訳旧約聖書しかなかったのです。コンタチヌス大帝の死後 、混迷するローマ帝国のヴアレンテイニアウス帝の要請で時のローマ教会のダマスス監督の命令でヒエロニムスはラテン語訳聖書の大改訳作業に取りかかりました。しかし名ばかりのクリスチャン政権であったローマ帝国側やローマ教会からの執拗な干渉を排除する術がありませんでした。聖典には含まれない外典や偽典も強引に含ませられてラテン語聖書(ウルガタ訳)を翻訳させられました。そればかりではありません、「皇帝や教会の監督の権能があたかも神から直接与えられたものである」という意向にそった翻訳となる様に、翻訳内容にまで沢山の介入を余儀なくされてしまいました。もし、逆らえば翻訳の承認はおろか下手をすると処刑ものでした。こうしてラテン語訳聖書は公にされたのです。それ以後ローマ帝国はこれ以外の翻訳を一切認めず、帝国の傀儡ラテン語教会(=今日のローマ教会の前進)と結託して悉く翻訳者は異端審問で処刑し訳された聖書は徹底的に焚(ふん)書されたのです。
その次はルッターのドイツ語訳ですがご存じの通り彼は宗教改革の旗手となり、フリードリッヒ選定公の庇護の元に聖書翻訳を完成しました。当然、為政者=民衆の搾取者に都合の悪い翻訳など出来ようがありません。
その次は英国王ジェイムが命じて国教会の御用学者達に訳させた有名なキングジェイムズ訳です。もう説明は不要でしょう。
当時の封建体制下においては、労働者や一般民衆の権利などを擁護する翻訳など出来ようはずはなかったのです。
ですからこのようなとんでもない翻訳が現在までまかり通っているのです。
と言う事で、聖書は今の時代に英訳を参考にせず日本語に訳し直される必要があるのです。
真理と真実
昨日は「罪の放置」について学びました。今日はもう一つ大切な言葉について学びましょう。このブロクの一番最初に扱った国会図書館の誤訳の記事はご覧になられましたか? あそこでは、「真実は奴隷解放する」として奴隷解放を指すエレウセロイに焦点をあてました。今日はもう一つの言葉 「誤訳の真理」に注目してみたいのです。
ご覧になられていない方の為URLです。→http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/508137.html
取り上げたのはヨハネの福音書の8章の20節で以下の様な原文でした
(Η ΑΛΗΘΕΙΑ ΕΛΕΥΘΕΡΩΣΕΙ ΥΜΑΣ ヘー アレーテイア エレウテローセイ ヒュマース)
今日はもう一つの方の言葉の間違いについてです。そう、「真実=ΑΛΗΘΕΙΑ=アレーセイヤ」の方なのです。これは以前お話した「信仰と信頼」の箇所とも深く関わっています。
参考URL→http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/688353.html
真理と言う意味ならば別に信頼とは無関係ですが、「真実」となると当然それが信頼されなければなら無いのです。嘘ではなく真実なのですから万人がそれを支持し、そのことを主張する人々とその言われている事に対して信頼が当然なのです。そして、同時に真実なのですから別に人が信じようが信じまいが真実に変わりは無いのです。そして、真実は証明されなくともまた理解されなくとも真実自体に価値の変化はないのです。この事は説明不要です。何故ならば、そのことが真実だからです。そして 真実なのですからそのことを主張する人の言葉は実言でなければならないのです。
実言と虚言に関しての参考URLは→ http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/746266.html
この真実か真理かで重要な違いを持っているのが、ヨハネの福音書18章38節に記されたキリストの処刑された時のローマ総督ポンテイオ・ピラトの言葉なのです。
そこではキリストを十字架につけようとするユダヤ指導者がローマ帝国のユダヤ総督ポンテイオ・ピラトの前に押し寄せてキリストの死刑を要求している最中に総督ピラトがキリストの面前で語った言葉なのです。この言葉は最後までキリストに付き従った大祭司の一族である使徒ヨハネ以外の他の使徒達には聞き知り得ない言葉であったでしょう。それゆえヨハネの福音書にのみこの言葉は登場します。
この箇所は一般に「ピラトは言った。『真理とは何か。』」(新共同訳)「ピラトはイエスに言った。『真理とは何ですか。』」(新改訳)「ピラトはイエスに言った、『真理とは何か』」。と訳出されています。
しかし、原典のアレーセイヤには「真理」等と言う意味はありません。「真実」と言う意味なのです。そして、この箇所を正しく「真実」として訳出してみましょう。
ギリシャ語のこの箇所の原典はこうなります。
原典 「λεγει αυτω ο Πιλατοs,Τι εστιν αληθεια ; 」 簡単なギリシャ語で誰でも見れば分かるでしょう。直訳はこうなります。 「彼は言った 彼に その ピラトは 、何が 彼が存在し続けている 真実? 」
誰が見ても分かる様にローマのユダヤ地方総督は「 何が 真実だ!」と言ったのです。考えてみてください。戦争に明け暮れたローマ帝国で熾烈な権力闘争に打ち勝ち、やっとの事で手に入れたユダヤ地方総督の地位、そこに現れた30そこそこの見すぼらしい大工(正確には石工)の若造にすぎないイエスキリストに、日に焼けた肉体労働者風情に真理を尋ねなければならないほど無教養なピラトでは無いのです。 自信にあふれ虚栄の世界に出世を目指す彼にとって「真実などに、何の意味があるか」と吐き捨てたのです。
もちろん、後世のラテン語訳を作ったヒエロニムスはローマの皇帝にそんなステゼリフをキリストにぶつけた事をそのまま訳出する事は許されませんでした。
大学者であるヒエロニムスは、ローマ帝国の代表であるピラトがキリストを尊敬どころか侮辱と取られかねない捨てぜりふを吐いたのを真正直に訳してしまう様な愚かな事はしませんでした。
もしそうすれば翻訳の依頼人である時のローマ皇帝の顰蹙(ヒンシュク)を買うことは必須です。 ヒエロニムスは、ばか正直にその様な愚かな訳をするほどの愚人ではありません。 上手に皇帝の検閲をクリヤし歴史に名訳者の誉れを残す為にあえてこのような「ローマの総督であったピラトがキリストを尊敬し丁重に質問したように改変」する事などお手の物だったのです。
と言う事で、この箇所の正しい翻訳は、どうみて信仰や神様などに何の関心も無い野蛮で残忍なローマ総督の当然の発言として「何が真実だ! こいつは馬鹿じゃないか!! 」という意味です。そしてこの世俗的なピラト総督の捨てゼリフを使徒ヨハネは神と人間世界の隔たりを表す言葉としてここに記録したのです。
というわけで、「ギリシャ語のアレセイヤは真理と言う意味はなく、真実を意味するものである。」と言う事なのです。
そして、この言葉は旧約聖書のアマンと言う言葉に相当します。だからで此のアマン=アーメンもやはり「真実」あるいは「信頼」と訳されるべきなのです。
この真実を意味するギリシャ語のαληθεια=アレセイヤ(女性名詞)の聖書中での使用頻度は新約聖書に110回 です。 それに同語根の副詞(21回)や形容詞(27回)や動詞(2+2=4回)その他(25)を加えると187箇所になります。また、旧約のアマンが関連語を含めて約200回で合計400箇所のかなりの部分の翻訳はいずれも訳語を再考する必要があると思われます。
今日は、αληθεια=真実と言う言葉の訳し方に関する問題点でした。
ご覧になられていない方の為URLです。→http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/508137.html
取り上げたのはヨハネの福音書の8章の20節で以下の様な原文でした
(Η ΑΛΗΘΕΙΑ ΕΛΕΥΘΕΡΩΣΕΙ ΥΜΑΣ ヘー アレーテイア エレウテローセイ ヒュマース)
今日はもう一つの方の言葉の間違いについてです。そう、「真実=ΑΛΗΘΕΙΑ=アレーセイヤ」の方なのです。これは以前お話した「信仰と信頼」の箇所とも深く関わっています。
参考URL→http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/688353.html
真理と言う意味ならば別に信頼とは無関係ですが、「真実」となると当然それが信頼されなければなら無いのです。嘘ではなく真実なのですから万人がそれを支持し、そのことを主張する人々とその言われている事に対して信頼が当然なのです。そして、同時に真実なのですから別に人が信じようが信じまいが真実に変わりは無いのです。そして、真実は証明されなくともまた理解されなくとも真実自体に価値の変化はないのです。この事は説明不要です。何故ならば、そのことが真実だからです。そして 真実なのですからそのことを主張する人の言葉は実言でなければならないのです。
実言と虚言に関しての参考URLは→ http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/746266.html
この真実か真理かで重要な違いを持っているのが、ヨハネの福音書18章38節に記されたキリストの処刑された時のローマ総督ポンテイオ・ピラトの言葉なのです。
そこではキリストを十字架につけようとするユダヤ指導者がローマ帝国のユダヤ総督ポンテイオ・ピラトの前に押し寄せてキリストの死刑を要求している最中に総督ピラトがキリストの面前で語った言葉なのです。この言葉は最後までキリストに付き従った大祭司の一族である使徒ヨハネ以外の他の使徒達には聞き知り得ない言葉であったでしょう。それゆえヨハネの福音書にのみこの言葉は登場します。
この箇所は一般に「ピラトは言った。『真理とは何か。』」(新共同訳)「ピラトはイエスに言った。『真理とは何ですか。』」(新改訳)「ピラトはイエスに言った、『真理とは何か』」。と訳出されています。
しかし、原典のアレーセイヤには「真理」等と言う意味はありません。「真実」と言う意味なのです。そして、この箇所を正しく「真実」として訳出してみましょう。
ギリシャ語のこの箇所の原典はこうなります。
原典 「λεγει αυτω ο Πιλατοs,Τι εστιν αληθεια ; 」 簡単なギリシャ語で誰でも見れば分かるでしょう。直訳はこうなります。 「彼は言った 彼に その ピラトは 、何が 彼が存在し続けている 真実? 」
誰が見ても分かる様にローマのユダヤ地方総督は「 何が 真実だ!」と言ったのです。考えてみてください。戦争に明け暮れたローマ帝国で熾烈な権力闘争に打ち勝ち、やっとの事で手に入れたユダヤ地方総督の地位、そこに現れた30そこそこの見すぼらしい大工(正確には石工)の若造にすぎないイエスキリストに、日に焼けた肉体労働者風情に真理を尋ねなければならないほど無教養なピラトでは無いのです。 自信にあふれ虚栄の世界に出世を目指す彼にとって「真実などに、何の意味があるか」と吐き捨てたのです。
もちろん、後世のラテン語訳を作ったヒエロニムスはローマの皇帝にそんなステゼリフをキリストにぶつけた事をそのまま訳出する事は許されませんでした。
大学者であるヒエロニムスは、ローマ帝国の代表であるピラトがキリストを尊敬どころか侮辱と取られかねない捨てぜりふを吐いたのを真正直に訳してしまう様な愚かな事はしませんでした。
もしそうすれば翻訳の依頼人である時のローマ皇帝の顰蹙(ヒンシュク)を買うことは必須です。 ヒエロニムスは、ばか正直にその様な愚かな訳をするほどの愚人ではありません。 上手に皇帝の検閲をクリヤし歴史に名訳者の誉れを残す為にあえてこのような「ローマの総督であったピラトがキリストを尊敬し丁重に質問したように改変」する事などお手の物だったのです。
と言う事で、この箇所の正しい翻訳は、どうみて信仰や神様などに何の関心も無い野蛮で残忍なローマ総督の当然の発言として「何が真実だ! こいつは馬鹿じゃないか!! 」という意味です。そしてこの世俗的なピラト総督の捨てゼリフを使徒ヨハネは神と人間世界の隔たりを表す言葉としてここに記録したのです。
というわけで、「ギリシャ語のアレセイヤは真理と言う意味はなく、真実を意味するものである。」と言う事なのです。
そして、この言葉は旧約聖書のアマンと言う言葉に相当します。だからで此のアマン=アーメンもやはり「真実」あるいは「信頼」と訳されるべきなのです。
この真実を意味するギリシャ語のαληθεια=アレセイヤ(女性名詞)の聖書中での使用頻度は新約聖書に110回 です。 それに同語根の副詞(21回)や形容詞(27回)や動詞(2+2=4回)その他(25)を加えると187箇所になります。また、旧約のアマンが関連語を含めて約200回で合計400箇所のかなりの部分の翻訳はいずれも訳語を再考する必要があると思われます。
今日は、αληθεια=真実と言う言葉の訳し方に関する問題点でした。
罪の放置
ギリシャ語の原文で聖書を読んでいると、いつも翻訳とは随分と意味が違っているのが大変気になります。有名な「主の祈り」を見てみても、随分と気になることが沢山出てきます。その筆頭が表記の「赦し」と言う言葉です。この言葉は贖罪宗教であるキリスト教の基本教理の一つで大変重要な単語なのですが、これもどうも正しく訳されていない様です。以下にその聖書箇所を記します。
マタイによる福音書 6:12
και αφεs ημιν τα οφειληματα ημων, ωs και ημειs αφηκαμεν τοιs οφειλεταιs ημων
これを語順そのままに日本語(直訳)にすると次の様になります。
「マタイ6章12節 ・そして あなたは放置しろ 私達に その 借金を 私達の、様に そして 私達が 私達が放置した その 借金を 私達の。」
気になるのは一般の翻訳で 「赦す」と訳されている二番目に使われている言葉「αφεs」です。この言葉は αφιημιと言う「置き去りにするor見捨てる」という言葉のアオリスト2人称単数命令形です。一般の翻訳は「あなたは赦せ」と訳しています。しかしギリシャ語のこの単語の意味は少し違っているのです。「あなたはそのまま放置ろ」と言う意味です。
この言葉使われている他の場所、たとえば第一コリント7章11節と12節には「離婚してはいけません」と訳されているのですがそのように訳出されているのはいずれもこのαφιημιなのです。この言葉の意味は「そのままにする」なのでここでは意訳して「離婚してはいけません」と訳出しているのです。
またこの言葉は借金にも使われます。マタイの福音書の18章の21節から35節に登場する有名な「借金の免除」のたとえ話です。ここでも21節の罪の「赦し」と訳されている言葉と27節に使われている借金の「免除」と言う言葉は両方ともこのαφιημιなのです。32節にも35節にもこの言葉は使われていますが良く注意してみるとこの αφιημιと言う言葉は借金にすればその「免除=消滅」では無く「請求権の放置=返済を求めない事」を意味することが分かります。
とすると、この語が「罪」に対して用いられる時も「赦す」言う意味ではなく「放置」すると言う意味である事が分かります。その意味は借金は無くならないし、債務証書もそのままだけれども借金の返済を迫らないと言う事になるのです。それを罪に当てはめると「罪の刑罰を与えたり、償いを要求せずそのままにしておく」意味です。
ですから聖書が教えている罪の赦しは罪が消えて無くなる事ではないのです。信仰してもキリストの贖いに与っても、人の罪はそのまま残っているのです。しかし、その罪は神様が関西弁で言う「ホッタラカシ」にして下さっているのです。そして私達が他者に、罪の償いを要求しないことが要請されています。(先程見たマタイ18章23節から35節の借金免除のたとえ)だから、神様は私にも罪の償いを要求されないのです。キリストの贖罪に与った人は入信前は罪人でした、そして入信後も罪を冒しますが、神様はキリストに免じてどちらの罪に対しても「罰」を与えたり、「償い」を要求されないのです。
ですから、主の祈りを初め聖書が「赦す」と訳しているαφιημιが使われている146箇所中「赦す」と訳されている70箇所程が誤訳です。それらの箇所で聖書が言っている事は「人や罪を赦す」事ではなく、人が行った罪にたいして腹が立っても、赦せなくとも「ほっておく」ことが要請されているのです。
マタイによる福音書 6:12
και αφεs ημιν τα οφειληματα ημων, ωs και ημειs αφηκαμεν τοιs οφειλεταιs ημων
これを語順そのままに日本語(直訳)にすると次の様になります。
「マタイ6章12節 ・そして あなたは放置しろ 私達に その 借金を 私達の、様に そして 私達が 私達が放置した その 借金を 私達の。」
気になるのは一般の翻訳で 「赦す」と訳されている二番目に使われている言葉「αφεs」です。この言葉は αφιημιと言う「置き去りにするor見捨てる」という言葉のアオリスト2人称単数命令形です。一般の翻訳は「あなたは赦せ」と訳しています。しかしギリシャ語のこの単語の意味は少し違っているのです。「あなたはそのまま放置ろ」と言う意味です。
この言葉使われている他の場所、たとえば第一コリント7章11節と12節には「離婚してはいけません」と訳されているのですがそのように訳出されているのはいずれもこのαφιημιなのです。この言葉の意味は「そのままにする」なのでここでは意訳して「離婚してはいけません」と訳出しているのです。
またこの言葉は借金にも使われます。マタイの福音書の18章の21節から35節に登場する有名な「借金の免除」のたとえ話です。ここでも21節の罪の「赦し」と訳されている言葉と27節に使われている借金の「免除」と言う言葉は両方ともこのαφιημιなのです。32節にも35節にもこの言葉は使われていますが良く注意してみるとこの αφιημιと言う言葉は借金にすればその「免除=消滅」では無く「請求権の放置=返済を求めない事」を意味することが分かります。
とすると、この語が「罪」に対して用いられる時も「赦す」言う意味ではなく「放置」すると言う意味である事が分かります。その意味は借金は無くならないし、債務証書もそのままだけれども借金の返済を迫らないと言う事になるのです。それを罪に当てはめると「罪の刑罰を与えたり、償いを要求せずそのままにしておく」意味です。
ですから聖書が教えている罪の赦しは罪が消えて無くなる事ではないのです。信仰してもキリストの贖いに与っても、人の罪はそのまま残っているのです。しかし、その罪は神様が関西弁で言う「ホッタラカシ」にして下さっているのです。そして私達が他者に、罪の償いを要求しないことが要請されています。(先程見たマタイ18章23節から35節の借金免除のたとえ)だから、神様は私にも罪の償いを要求されないのです。キリストの贖罪に与った人は入信前は罪人でした、そして入信後も罪を冒しますが、神様はキリストに免じてどちらの罪に対しても「罰」を与えたり、「償い」を要求されないのです。
ですから、主の祈りを初め聖書が「赦す」と訳しているαφιημιが使われている146箇所中「赦す」と訳されている70箇所程が誤訳です。それらの箇所で聖書が言っている事は「人や罪を赦す」事ではなく、人が行った罪にたいして腹が立っても、赦せなくとも「ほっておく」ことが要請されているのです。