油食林間のブログ -2541ページ目

プ~ メネイ!

 που μενει (プ~ メネイ!)
 原典で聖書を読んでいると、良くハッとする箇所に出会います。上記の言葉もその様な箇所の一つです。この言葉が登場するのは新約聖書ヨハネの福音書の1章39節です。日本語にしてしまうとなんでもない表現なのですが、原文でははっきりとわかる事が在るのです。
 それは何かと言うと、最初の言葉の発音が教える意味なのです。そう 「プ~」と言う発音です。しかも、後ろのプ~と伸ばす所に何とも言えない響きがあるのです。ギリシャ語で「プ~」と言う音で始まる音には特定の概念が存在しているのです。列挙してみましょう。

プネウマ→霊、風
プレー→門、入り口
プリュ→火、炎
プトーコイ→乞食 
プロオーイ→夜明け
プロ→前、方に
プロソーポン→面前に、顔

 わかりますか? そう、「目に見える物質が何もない場所=空間を表現する時」に、この「プ~」音が使われるのです。なんと無く感じが掴めますね。そして、次の言葉メネイは「彼が留まっている」と言う意味です。

 この箇所の意味は「彼らは見た、何処に(プ~) 彼が留まり続けている(メネイ)」と言う事です。ですから彼が留まっているのは場所であって何もない空間、と言う事は建物や天幕のない只の場所であって(プ~)を見たと言う事になります。

 さて、では彼とは一体誰でしょうか?

 そう、イエスキリストです。そして、その場所を目撃したのはキリストの一番弟子のヨハネです。これは大切な事を教えています。キリストの公の生涯のスタートは「野宿者」であったと言う事です。そしてその弟子となったヨハネの使徒としてのスタートも同様でした。その場所をキリストの後に付き従って見に行った二人の弟子達(ヨハネとアンデレ=ペテロの弟)も「そして彼(キリスト)の傍に彼らは留まった」と記されているからです。

 おそらくこの時キリストと最初の二人の弟子達が夜を過ごした野宿の場所は、豊かな水量で累々と流れるヨルダン川からすこし上った、なだらかな高台で、何もない荒野の風除けの岩場の陰であったでしょう。そして、原文の「留まる」と言う動詞の時制は現在形なのです。と言う事はこの「野宿の状態が」一時的なものではなく「習慣的常態」であった事を示しています。

 その3年半後にキリストは十字架に処刑され、その復活を見たヨハネを初めとする弟子たちは、生涯地中海世界を渡り歩き、悉く殉教の死を遂げていきました。最後まで地上に残されたのは、この最初の弟子ヨハネでした。彼もローマ帝国の迫害下に90歳を過ぎてパトモスと言う島に流されて、普通の人間の価値観から見れば不遇の宣教生涯を終えるのです。その事を思う時に、キリストの教えの原点は、この何もない場所で、何ももたずに眠ったことを記している、この記述の重要さがひしひしと感じられるのではないでしょうか。

  この 「プ~メネイ!」にはそのような意味で「キリストの生涯と宣教」を理解する上で知っておくべき、人間の原点を知る為に大切な基本ではないでしょうか。それは、「裸で産まれ獲得した全財産を残して裸で死んでいく人間の本当の姿」を見据える事を教える大切な言葉ではないでしょうか。

 家も、家族も、枕する場所も、そして何の地位も財産もない全くの無産の状態を表すこのプ~メネイと言う言葉には本当に考えさせられます。特に、今日の世界のキリスト教のあり方を見ると、すっかりこの原点が忘れられ、巨大な伽藍や政治や学問の権威に塗り固められた教会の現実の姿と、聖書に記された教会の原点のありさまは、あまりにかけ離れてしまっているように思います。

最初の弟子、ヨハネとアンデレは「全く何もないその場所」で、キリストの傍に満天の星を仰ぎながら静かに目を閉じて安らかに眠り、凛とした黎明の後に輝く朝日と共に起き上がり、キリストと共に生きるキリスト者としての生涯をスタートしたのです。

近代文明、物質や情報資産に取り囲まれて、生きる現代がどこかに置き忘れてしまった、「なにか大切な物」がこの言葉に込められているように思います。

愛の定義

 今日はどんな題ではじめようかと様々に考えました。「愛と法律」、「法律と愛」、なんて言う題にすると、きっと「何時から不倫の相談をはじめたのか」と疑われそうな題になってしまいます。ずばり今日は「愛の定義」として今日の聖書箇所を見ていくことに致しましょう。

  キリスト教は愛の宗教と言われますが、一言で言って「愛とは何か」というお話は、この5?年間一度も聞いた事がありません。しかし、聖書はこの定義を明確に記しているのです。今日の聖書箇所こそ、その「愛の定義」の聖書箇所なのです。 

いつもの様に、一般の翻訳をまず記しましょう。

新共同訳・愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。

口語訳・愛は隣り人に害を加えることはない。だから、愛は律法を完成するものである。

新改定訳・愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。

 上記の翻訳で 「愛の定義」がおわかりでしょうか? 「なにか釈然としない」とおっしゃるかたが多いのではないかと思います。例によって、使徒パウロが記したギリシャ語の原文を見る事に致しましょう。

原文のギリシャ語のローマ13章10節の意味を一語ずつそのまま日本語=直訳してみます。

  直訳 ・その愛 そのに 近くを 悪を 無い 彼が働かされる 。 満たされた物 そういうわけで 法律の その愛は。

  これを、出来るだけ損なわないように日本語らしくしてみます。

  私訳・愛は親しい人に悪を働かさせないのです。そうなのです、法律の満たされた物が愛なのです。

  違いがお判りでしょうか? いろいろち細かな相違は放置して一点に絞りたいと思います。一番最後の部分に注目してください。 

  一般の邦訳は「愛は律法(ユダヤ宗教法)を全うする。」そして、原文は 「法律(宗教法)を満たすものが愛だ」となっているのです。 「何がどう違うのか、同じではないか。」と言う方には果して同じでしょうか? と聞いてみましょう。じつはこの両者には大きな違いが存在するのです。愛と法律どちらが地位が高いかと言う視点で見てみると良いかと思います。 

  一般の邦訳は■「愛は律法を全うする。」と言う事はすかさず■「愛は律法を超越してよりすぐれた物」であると言う前提=「■人間の思考」が隠されているのです。 

 一方の原典の直訳は、●「律法を満たす範囲の行為が愛である。」と明らかに●「愛に対する律法の次元の高さ=優位」が前提=「●聖書の原則」となっているのです。

  この両者は一見同じことを言っているように見えますがその根本は全く相違しているのです。

  この一般の翻訳の背景には、実は大変大きな問題が隠されています。それは「律法=旧約聖書のテーマ」と「愛=新約聖書のテーマ」の優劣論議です。もちろんこんなふうに聖書を簡単に割り切る事は出来ません。旧約聖書にも愛や誠実があり、新約聖書にも神の律法が記されています。まあ一般に言われている程度の理解での事としてお聞きください。
  その様な一般の理解と言う事を踏まえた上で、販売されている翻訳聖書の立場として「新約聖書(愛は)は旧約聖書(律法)に優越している」という思考形体が存在しているのではないでしょうか。それ故に、この箇所の様に「愛が律法を完成する」などと「律法に対する愛の優越性を当然の如く訳出している」のではないかと思います。
  大切な事は聖書に実際に「新約聖書は旧約聖書に優る」と記されているのならば良いのですが原典で聖書の何処みてもその様な箇所は見当たらないのです。
  そして、原文のギリシャ語で読むと、反対に新旧両約聖書が全く同じ物として扱われているのです。その論拠の一つがこの箇所なのです。
  パウロが記したギリシャ語の聖書の原文は「旧約聖書(律法)に合致しているから、新約聖書(愛)は有効だ」と言う内容なのです。あるいは「旧約聖書の教えの範疇に新約聖書の教えが存在している。だから新約聖書の教えは正しい」と明確に旧約聖書の優越性を主張していると見た方が正確だと思うのです。
  原文のギリシャ語がこの箇所で主張している事は一般の翻訳が訳出しているとはむしろ反対です。
「人間が愛だと思っている行為の中で旧約聖書に合致しているものだけが本当の愛だ」と聖書のこの箇所(パウロ)は言っているのです。それ以外の行為はたとい人間が愛だと思っていても聖書の教えている健全な愛ではないのです。間違った愛なのです。
 何故なら、愛には様々な間違った愛があるからです。間違った愛として金銭愛、溺愛、偏愛、などが在ります。愛そのものは健全に思えても対象を間違えると大変悪い物に転化してしまいます。地位や金銭や物に執着する愛情を聖書は否定しています。ですから愛だけではその愛が良い物か悪い物かは判断できないのです。聖書が良い物として奨励している愛は、沢山ある人間の愛を動因とする行為の中で「律法=聖書の教え」を満たしている「愛」が健全な愛だと言っているのです。

  それは当然です。配偶者が存在するのに、それ以外の異性に心を引かれ愛情を感じたとしたら、それは邪恋であり律法に禁じられている「姦淫」に繋がる罪の行為となるのです。また、両親が神様に与えられた自分の幼い子供を遺棄して、慈善活動にのめり込んだら慈善活動その物は愛の素晴らしい行為に見えても、遺棄された子供たちは両親を敬う事が出来ないで餓死してしまう事でしょう。もしこのような行為があったら、それは聖書が言っている愛では無いのです。 律法が言っている教え(具体的には有名なモーセの十戒です)が満足されてこそ正しい愛であって、それ以外の行為は、たとい当人がどんなに愛だと思っていても、聖書の言う愛ではあり得ないのです。

  そして、その愛の対象とされるべき範囲は「隣人」と聖書のこの箇所は教えています。これはギリシャ語のプレージオンと言う言葉です。これは日本語の隣人と言う意味より以上の意味を持っています。直訳には「近い」と訳出しましたが、これが大切です。人間は遠くの他人を愛する事はたやすいのです。しかし、目の前の配偶者や実の子供や両親などの家族を実際の行為を持って具体的にしかも正しく愛する事は大変難しいことなのです。プレージオンと言う言葉が第一に指しているのは、法的に言うならば「一親等」です。そして今日の様々な事件や犯罪を見てみると此の一親等内で起きている事件があまりに多いのではないでしょうか。

  親が自分の子を殺し、実の子が親の家に放火して親を焼き殺す悲惨な事件が頻発しています。そしてその家庭の夫婦関係が大変乱れて子供たちが苦しんでいるのです。そしてその親たちが医師であったり、教育に従事していたり、かなり社会的に責任在る立場の方も多くお見かけします。他人の子供、見ず知らずの患者さんには笑顔で良い評判を頂いていても、一親等の家族に憎まれるような現実が今の世界を満ちあふれているのです。

 ですからこの聖書の「近い=一親等を具体的に正しく愛せよ」という教えはその様な今日の世界に大変重要なことを教えているのです。地球の裏の飢えている人を愛する事も大切ですが、あなたの目の前のあなたの夫、妻、両親、子供を正しく愛する事出来ているでしょうか。 その近い人たちが聖書の律法を守れるように貴方は仕向けているでしょうか。

  これが、此の聖書箇所が教えている正しい愛の姿なのです。

  今日の様々な家庭や教育や政治などの様々な社会問題を見る時に、この正しい愛の判別基準(=聖書の教えにあった愛)が欠如している事に原因が在るのではないでしょうか。

  参考の為に正しい訳している二つの翻訳を最後にご紹介しておきます。

岩波訳・愛は隣人に対して悪を働くことはない。それゆえに愛は律法の満たされたものなのです。  
WEB・Love doesn’t harm a neighbor. Love therefore is the fulfillment of the law.

参考のために・★穂新約聖書と旧約聖書の関係についてはやはり基本事項として、最も聖書原典に準拠しているとされるウエストミンスター信仰告白(基準)の第8章5~6を確認して置く必要があるでしょう。「だから本質上異なった2つの恵みの契約(旧約と新約聖書)があるのではなくて、違った時代の元に、同一の物があるのです。」

妻は夫に逆らえ!

 今日は随分と進歩的な主題です。しかし、この言葉には考えなければならない内容が含まれているのです。  前置きはこれくらいにして早速本題に入りましょう。今日、取り上げる箇所は表題とは全く反対のことを言っているかの有名な新約聖書エペソ人への手紙5章22節なのです。 いつものようにまずこの聖書箇所の一般の翻訳で代表的なものを取り上げてみましょう。
 
1・新改訳・妻たちよ。あなた方は、主に従うように、自分の夫に従いなさい。

2・新共同訳・妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。

3・岩波訳・女たちは主に[従属する]ように、自分の夫に[従属しなさい]。

 面白いですね。こんな簡単な聖書箇所ですが翻訳によって随分と様子が違います。こうなって来ると使徒パウロがギリシャ語の原文でなんと記しているのかが気になります。早速以下に記してみましょう。 

αι γυναικεs τοιs ιδιοιs ανδρασιν ωs τω κυριω 

  これを順番を変えないで単語毎にそのまま日本語に置き換え(直訳)してみます。

その 女らは その 自分らに 男らに 様に その 主(人)

できるだけ原文を変えない様にして日本語にしてみましょう。

私訳・「女たちは 自分の男らに 主の様に 」

  となります。分かる事ですが主動詞(術語)も 目的語も無い短い文章なのです。ですからこの言葉の周辺から術語と目的語を捜して来ないと英語にも日本語の文章にもならない箇所なのです。

  さてこうなると原文の文脈を何処で切る(ピリオードの場所)かが重要な意味を持ってきます。冒頭に上げた翻訳では一番上の新改訳(1・)は前節の19節の直前にピリオードを設定します。(ギリシャ語の元の文章には句読点は一切存在しないので編集者が自由に文脈を設定できる。)そうして その前の節にある分詞(主格受動現在男性分詞複数)をこの20節に適応して、「妻は夫に従え」と訳出しているのです。しかしこの訳文には問題点が残ります。それは、ギリシャ語の修飾の基本である分詞、形容詞の修飾関係は「性、数の一致」が条件なのです。原文を見れば分かる様に「従っている」は男性受動現在分詞主格複数)です。 また、新約聖書本文批評の前世紀の権威者であるメッツガー教授は、文脈の設定をこの20節の直前に設定します。という事は前節19節の「従っわされている男ら」と20節の女たちの間には何の修飾関係も発生しないと言う事になります。あと残るのは24節にある「教会が自分の為に(中態(=行為の目的が自分自身)キリストに従っている」を借用してこの箇所の術語としていると考えられます。

  という事で新改訳(1・)の 「妻は夫に従え」という翻訳は単純にそのまま受け入れるには二重に問題があると言う事にになります。そして、もし24節の借用だとすると「自分の利益になる範囲内(=中態=行為の目的が自分自身)で夫に従え」と言う意味で記されてると考えなければなりません。あるいはそうであるかもしれません。

  さて次なる、新共同訳(2・)の「夫に仕える」はどこにもそのような言葉は無く、翻訳者が適当に(自分の願い=大抵翻訳者は男)この様に訳出したと考えられます。

  岩波訳は原典に出来るだけ忠実であろうとして訳出されており、[従属する]という言葉を 鍵括弧にいれて翻訳者の解釈であることを明確にしているのはたいへん良い訳であると思います。 

  さて、以上のことを踏まえた上で今日の表題に戻りたいと思うのです。 この箇所のギリシャ語の原文は「女たちは 自分の男らに 主の様に 」と言う事なのです。そして 術語と目的語は無いのです。パウロはこの箇所でそれら意図的に省略したのです。何故でしょうか?

  ここから先は聖書に書いていない事を考えますので「想像」と言う事になります。もし彼が書いてくれればそんな想像は不要なのです。と言う事は反対にパウロが「当然記されているべき言葉を記さなかった」と言う理由があるのでは無いのでしょうか。

  もちろんその事に関しては様々な解釈が成り立ちます。

  当然、分かりきった事だから記さなかった。と言う立場を取ると、妻は夫に「従う」のが当たり前なのだと言う考えが(or思い込み?) がまず第一に考えられます。

  次に考えられるのは理想はよく知っているけれども現実を見なければならないと言う人も在るでしょう。聖書の中に夫婦の姿が沢山記されていますがそれぞれを思い浮かべてみてそれをこの箇所に当てはめるのも正当な解釈だと思います。

  「主の様に、夫に」と言う言葉が意味深遠だと思います。具体的に見ていきましょう。

  最初の人アダムとエバに当てはめれば面白い翻訳になります。

 最初の女「エバ」は「禁断の木の実を食べるな」という神(主)の明確な命令に逆らったのですからエバに当てはめてこの文章を翻訳すると。「主に逆らった」様に夫にする事を言っているのですから

★ エバ訳の聖書 
 「女達は、自分の夫らに逆らえ、主に逆らったように。」と訳しても間違いと言えない事になります。

★アブラハムの妻サラ訳の聖書 
  創世記18章12節「サラは心の中で(主を)わらってこういった。....」

  「女達は、自分の夫を笑え、主を笑ったように。」

★ヤコブの妻ラケル訳の聖書 
  創世記30章1節 「私に子供を下さい。でなければ私は死んでしまいます。」(夫に不平を言った)

   女達は、自分の夫に不平を言え、主に不平を言ったように。」
  
★王ダビデの妻ミカル訳の聖書
  競汽爛┘覽7章20節「イスラエルの王は本当に威厳が御座いましたねごろつきが..」(夫を蔑んだ)
  女達は、自分の夫を蔑みなさい、主を蔑んだように。」 
 
★ヨブの妻訳の聖書 
  ヨブ記2章9節 「あなたは...神を呪って死になさい。」(神を呪った)

  女達は、自分の夫を呪いなさい、主を呪ったように。」 
 
★イスラエルの民訳の聖書
  エゼキエル書の16章16節 「イスラエルの民か神である主を捨て外国の神々と姦淫(偶像礼拝)した。

 女たちは自分の夫を捨てて他の男と姦淫しろ、あなた方が主にしたように。」

となります。

  私は何もこの箇所を上記のその様な翻訳にするべきだと言っているのではありません。パウロがギリシャ語の原文で「女たちは 自分の男らに 主の様に 」という言葉でそれ以上何も付け加えなかった意図と言うものがあったとするならば、将にその様な多様な妻たちの信仰の現実の姿がエペソの教会には存在していただろうと思うからなのです。

  初代教会は全て聖い素晴らしい何の問題も無いキリスト者の善男善女の集まりでは決してありません。初代教会内には世の中と全く同じように様々な現実の問題が常に存在していました。

  以下に新約聖書の教会の様々な現実を記している箇所を列挙します。

信徒間の訴訟(汽灰螢鵐6章節から11節、
近親相姦(汽灰螢鵐7章1節から7節)、
離婚 姦淫、説教批判(競灰螢鵐10章10節)、献金ボイコット(競灰螢鵐硲絃1節から9章15節)
貧富による差別(ヤコブ書2章1節から13節)
背教ヘブル10章25節、汽謄皀4章1節、汽謄皀1章20節、競謄皀2章17節 他)

  このような現実を上げれば新約聖書も、前に見た旧約聖書も神様を信じる人々の様々な現実の苦悩見ることができるのです。これは、聖書に記されている神様を信じる人々の問題のほんの一部にすぎません。
  そしてエペソ教会は初代教会の中でも取り分け問題の多い教会であったのです。それゆえパウロはあえてこの箇所に術語や目的語を記さないで現実を脳裏に思い浮かべさせ、そしてしかる後にあるべき夫婦の姿を記しているのではないでしょうか。

エペソの手紙4章24節直訳 

・反対に 様に その 教会は 彼が下に任命し続けている その キリストに、 この様にして そして その 女らは その 男らに 中で 全て。
  
  24節の原典直訳にある「反対に」と言う言葉に注目して欲しいのです。原典には明確に反意を表す接続詞がアルラが配置されているのです。 現実を踏まえてあえて尚、あるべき教会の姿とそれに習った夫婦の姿(現実はいずれも反対である)を記す為に、パウロはあえてこの箇所に 述語と目的語を省いたのではないでしょうか。

最後にもう一度この箇所の私訳を記します。 「女たちは 自分の男らに 主の様に 」