油食林間のブログ -2542ページ目

聖書解釈

今日は随分と退屈そうな題のお話です。この聖書解釈の問題について話し合うと、解釈ではなく癇癪を起こす人を随分と見てきました。おそらく理性的に自分の立場を弁明するのが不得手なのか癇癪(怒り出す)の発作が起きてしまうのでしょう。さて余計なことはこれぐらいにして早速本題に入りましょう。 

 今日考えたい聖書箇所は新約聖書のペテロ第二の手紙の1章 20節です。以下に、この聖書箇所の一般的な翻訳をご紹介します。

新共訳・ 何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。

口語訳・聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。

新改訳・それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならないということです。

WEB・knowing this first, that no prophecy of Scripture is of private interpretation.

  何が問題かというと上記の翻訳は私的(自分勝手な)解釈は問題だが公的(=教会や国家の)解釈は良いと言う誤解をあたえるかのように訳されている点なのです。お判りでしょう。ここには明確な問題のすり替えがなされています。問題は「正しい解釈」が良いのであって私的であろうが公的であろうが「間違った解釈」は問題なのです。そして現実の国家やその手先となった教会によって都合の良い解釈=翻訳がこれまた国家の費用によって領布されています。この点は今まで随分と沢山取り上げてきましたので具体例はそちら以下のリンクをご覧ください。

    間違った公的解釈の実例(これ以外にも沢山在ります。)

  王権神授説  http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/1294750.html
  男女の服装  http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/1242034.html
  教会の分類 http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/942292.html
  翻訳と解釈 http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/857729.html

  まあそのことは置いておいて原典に戻ってこの箇所のギリシャ語本文に目を向けましょう。以下にそのギリシャ語を語順そのままに出来るだけ正確に直接日本語(直訳)にしてみます。

ギリシャ語原典直訳 20 節・この事を 第一を 知っているらは、それは 全ては 預言は 書物の 自分の(らを)上解放(解明or 解釈)の 無い 彼が存在し続けている。

 これを、意味を変えずに日本語にしてみます。

  私(試)訳・ この事を第一に知っています。全ての書物の預言(聖書)は、自分の解明では決してありません。

 分かりますか、「聖書を記した預言者たちは自分が経験した事や神様の啓示を自分で解明(釈)してそれを記したのでは無い。」という意味なのです。そう分からない事も理解できない事も一切の解釈抜きに神の啓示をそのままに記した物が聖書だと言っているのです。

  この聖書箇所に関しては教文館と言う出版社から出ている織田 昭氏の新約聖書キリシャ語小辞典の επιλυσιs(解明or解釈)の項目(213~4ページ)に随分と紙面をさいて詳しく解説されています。

  聖書がこの箇所で言っているのは解釈云々ではありません。そうではなく、聖書の本質を言っているのです。それを曲解釈して個人解釈禁止問題に発展させる翻訳のあり方は我田引水で、言っている翻訳委員会その物が、自らが犯している曲解釈の正当化をしているに過ぎません。

  聖書がここで言っている事は、「預言者自身が神様から啓示された言葉を解明(解釈)しないでそのまま記した」という意味なのです。そのことは同じペテロによって記された第一ペテロの1章10節には「預言ている預言者自身が自分の預言を理解する為に調べた」という内容が明白に記されています。

  と言う事で、この箇所は、聖書を翻訳する時に気をつけなければならない大切な事を示しているのです。すなわち、「聖書を書いた当人(預言者自身)が理解、あるいは了解出来ない内容の物をそのままに聖書に記したもの」が聖書なのです。と言う事はそれを、「誰かの第三者の個人や団体(所詮他人)がいくら注意したとしても聖書を正しく解釈するのは困難である」と言う事です。いやどちら道、「正しい解釈だと言える物は存在しえない」と言った方が正確なのでは無いでしょうか。

  と言う事で「著者(正確には筆記者)が理解していない事をさも理解できたかの様にまことしやかに翻訳する事には当然無理がある」と言う事なのです。まして、理解していない、いや聖書には預言者達が自分の目で見、自分の耳で聞いた超自然的な理解しえない神の言葉や神のなされた不思議が克明に書かれているのです。

  その人間に理解できえない事を、時代背景もまたその場にも居合わせなかった第三者(読者)に分かる様に、美しい文章で分かったかの様に翻訳するのは、かなりの無理があると言わなけれはならないのでは無いででしょうか。

と言う事で、何故こんなふうに原典の主張を曲げて翻訳=解釈して無理な翻訳にしなければならなかったかという信徒に知られたくない聖書翻訳の暗部が見え隠れしている聖書箇所がこの箇所なのです。

その様な曲解釈が長い期間、世界中で繰り返してなされてきた目的は明白です。

この様な翻訳を生み出しておけば、真剣に聖書を学び原典を読んだ人がほんやくされた聖書の間違いに気づき、意義を唱え、教会の都合に合わせて翻訳している悪事を指摘されても、その様な★指摘を★私的と★指摘して自分達のしてきた悪行の数々に対する批判をかわし、指摘したものを公的な場に出れない様に異端者の烙印を押して、ご都合解釈以外に一般の信徒が耳を貸す事が無い様にすることが可能になると言うことなのです。
 
  と言う事は、とりもなおさず 「聖書翻訳には問題が多く、教会には随分と後ろめたい事がある」と言う事なのです。

  今日は聖書翻訳や解釈というものの難しさを少しはご理解頂けたでしょうか。 と言う分けで直訳なる物を現在進めています。以下のリンクを参照ください。

聖書直訳へのリンク http://bible.co.jp/bible/

霊の乞食

  今日はまた聖書の有名な箇所を取り上げましょう。山上の垂訓というのをご存じでしょうか?イエスキリストがお弟子達に教えられた教えの中で一番良く知られているものです。山(丘)の上で教えられたので山上垂訓と言われています。随分と長い教えなのですが今日はその冒頭の言葉を見てみたいのです。

  新約聖書のマタイの福音書5章3節です。一般の翻訳は以下の様になっています。

新共同訳・「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
口語訳・「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
新改訳・「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。

  一体どのような人が神様に祝福されているのを宣言した言葉なのです。宣言ですから詳しい説明はなされていません。翻訳はまあとりあえずおいておいて、ギリシャ語の原典を語順そのままに日本語に意味を置き換えて直訳してみましょう。

マタイの福音書5章3節原典直訳

・祝福されているらは その 乞食らは その 霊に、それは 彼らの 彼が在り続けている その 王国 その 不可視らの。

  とりあえず、これをすこし日本語にしてみましょう。原文はもちろん話言葉なので会話調になります。

「祝福されているのは 乞食たちだよ 霊における。その理由は 彼らだけが 神様の国にいるのだよ。」

となります。パラフレーズ(意訳)してみます。
「神様が祝福された人は、自分には聖書の言う善や徳が何も出来ていないと思っている人さ。そういう自覚のある人は神様に祝福された人で天国に入れるのだよ。」となります。

さて鍵となる言葉が「乞食」です。

  原文では πτωχοι(プトーコイ)乞食 と言う言葉です。 この言葉の同意語には πενηs(ペネース) 日雇い=貧乏人 と χρεια(クレイヤ)窮乏 困窮 があります。これを豊かな順番?に並べてみると問題が分かります。
    一番豊かなのは 1・πενηs(ペネース) 日雇い=貧乏人
    次の真ん中が 2・χρεια(クレイヤ)窮乏 困窮
    そして一番下が 3・πτωχοι(プトーコイ)乞食

  という順番に並ぶのです。当然一番下は家もお金も仕事も無い乞食を指しています。こんなあたりまえの事を長々と記していると、「何をやっているのか」とお叱りを受けそうですがもう少し我慢してお聞き下さい。
「1・」の貧乏人は職業をもち借家か自分の家で一応の生活の自立が出来て物をもらえばお返しも可能であんまり感謝したくありません。
「2・」の困窮者は今の生活が維持できず衣食住に困って生活の為に必要な物が満たされない状態ですが無理をすれば何らかのお返しや感謝が出来ますが繰り返して哀れまれるのを好みません。
「3・」のこじきは全く仕事がなくその上家も無く衣食住も無く当然お恵みを施されてもお返しすることは無理ですから繰り返して人一倍の感謝を言葉だけで言います。

と言う事で神様の祝福とは「霊」に関する事では、全て誰かに施してもらわないと生活も生存もままならない文字通りの乞食のような道徳あるいは精神状態の困窮いや生存や将来の展望における絶望を指しています。

ですから一般の翻訳の様に「貧しい者」と訳すのはあまり良い訳とは言えません。この箇所でキリストが使われたのは「3・」ですから 「1・」πενηs(ペネース) 日雇い=貧乏人や「 2・」χρεια(クレイヤ)窮乏 困窮の状態をさす日本語に訳すのは間違いと言わなければならないでしょう。

「3・」の言葉は「乞食」という意味以外の何物でも無いのですから。

さてもうもう一つの重要な単語にも目を向けましょ。一体何の乞食なのでしょうか。心ですか、違います 原文は 昨日学んだ 5・πνευμα(プネウマ) という言葉です。新約中に385回登場していて、訳語の内訳は次の様な物でした。聖or神霊(120回)、霊(111回)、人霊(52回)、悪霊(81回) その他(3回)で合計が先述の385回となります。参考 URL http://blogs.yahoo.co.jp/semidalion/1294750.html

  と言う事は一般の日本語訳の「心」と訳出されてるのはここだけですのでかなり無理な、いや強引な原典を無視した訳文と言わなければ成りません。これ以外の箇所ではいずれの場合でも「心」とはしないで、殆どが「霊」と言うふうに訳されているのですから。

 と言う事で、山上の垂訓で語られた言葉の意味は翻訳とはかなり、いや相当異なっていると言わなけれ派成りません。何故なら 重要な単語が二つともかなり違う意味に訳されてしまっているのですから。

 と言う事は、今日のキリスト教会にはイエスキリストが言われた言葉はそのまま受け入れる事には相当困難があると言う事になります。重要なのはこの教えがキリスト教の最重要な教えであるという点に在ります。

 聖書があるべき人間の姿、本来の宗教に帰依する人の心の状態、正確には「霊」の健全な状態とは明確です。豊かな心 、豊かな霊性と言う普通の感性と、キリストの教えは相違していると言う事です。 

  「貧しい心」では無く「霊(性)の乞食」こそ神様に祝福された人なのです。それは人と比較して自己の序列を定め安堵(割り引かれた翻訳聖書の妥結に満足)する生き方ではありません。聖書に記された峻厳な神の基準(=原典に記されている言葉)に自己を依拠させようと切磋した者のみが到達できる本当の神様の祝福と恵みの境地なのです。

最後に参考の為にかなり努力して一番良い訳と思われる岩波訳を記します。

・「幸いだ、乞食の心を持つものたち、

  この箇所の教えをはっきりと明確に記すならば、神様の前に自分の霊的な惨めさを悟り、キリストの十字架の贖罪で示された神様の一方的な罪の赦しと言う哀れみにより頼む以外に自分の罪性と言う悲惨な状態から救出される術は無く、その後も、地上にある限りはいつまでも霊の状態は乞食であって神にお返しの善行や慈善どころではなく、常に自分は神の哀れみを受けつづけなければ成らず、いつまでも罪の惨めな状態は改善され得ない事を認める事の出来る人が神様に祝福されていると言う意味なのです。 まさしくキリストの十字架の贖いを受けるのは霊の乞食だけであって、人間が神様にお返しが何か出来ると思い上がる事を戒めていると言うことなのです。

王権神授説

  今日は、多くの方にとって耳慣れない表題です。しかし、全ての人に重大な意味を持っている聖書箇所を取り上げます。それは、表記の 「王権神授説」の最も重要な根拠とされている聖書箇所なのです。

  そう、ローマ帝国時代から中世、近代はもちろん、現代に至るまでキリスト教国丈ではなく多くの国家がその依拠する正当な国家権力の動因とする思潮の根拠とされている聖書の言葉なのです。 

  結論を先に言うと、 王権神授説などと言う考えは聖書の何処からも出で来ない考えで「王権人造説」すなわち「悪い人間ほど、自分が得た既得権益をあたかも神様の祝福と選びに起因る物で当然の権威だと人々を思い込ませ自己の既得権益の安泰を弄する詭弁にすぎない。」という事なのです。

 「王権神授説」の根拠となっている聖書箇所の最も重要なのは以下の聖書の言葉です。 
新約聖書 ローマ人への手紙13章1節(以下は代表的な邦訳=英訳も全てほぼ同じ)

  新共同訳・人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。

口語訳・すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである。

新改訳・人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。

  この節の翻訳文には随分と問題があるのですがあまり長く複雑になるといけないので今日は最も重大な問題点だけを取り上げる事にしましょう。 

 ★そう、この言葉が言われている対象は誰かと言う一番大切な問題なのです。 

  いずれの翻訳も「人は皆」とあたかも全ての人がこの言葉= 「王権神授説」の対象の様な印象を与える書き出しですが実のところ実際はどうなのでしょうか。 

★ みなさまは一体この箇所の「人」に原文のギリシャ語はどの単語を用いていると思います。?

  以下に人間と訳出されうる単語を6つ用意しました。この箇所の「人」には原文のギリシャ語はどの単語が使われていると思いますか。

・人と訳される言葉(発音)新訳聖書中頻度 訳語と(数)
1・ανθρωποs(アンソローポス)559  人(々)552   非訳出(7)
2・ανηρ   (アネール)  215  男(156)    夫(50)  その他(8)
3・λαοs   (ラオス)    143 民(人々)(143) 
4・ψυχη   (プスケー)  105  人霊(58)    生活(40) 意志(3) 心(1)非訳出(5)  
5・πνευμα  プネウマ    385  聖or神霊(120) 霊(111) 人霊(52) 悪霊(81)その他(3)  
6・καλδια  カルデイア   160  心(160) 
 
  正解はなんと 4番のψυχη(プスケー)なのです。そして人間と訳出されているのは新旧(70人訳)両約聖書中私の調べた範囲内ではここだけでした。

何故、ここだけ全ての翻訳が無理をして生活または精神(=人霊)という意味の単語を「人」と翻訳したのでしょうか? 異例中の特例? しかし、誰が見ても分かる事ですがこれはどう見ても不自然、いや間違いです。

  念のためローマ人への手紙の中に原典のギリシャ語で登場するψυχη(プスケー)の登場箇所を全て(4箇所)調べ直訳したものを以下に記します。

ローマ2章9節  人の生活の上に下る
   11章3節 私の生活を捜している 
   13章1節 全ての生活は権限らに従い続けろ 
   16章4節 この人たちは私の生活の為に 

  誤解の無い様に2章の9節は「1・」の ανθρωποs(アンソローポス)で 16章の4節の「この人達」は 不定関係代名詞で「かかる所のものは誰でも」という全く別の単語です。

分かりますね! こプスーケ(精神や生活という意味の言葉)を全く違う意味の「人間は」という変なな翻訳をした方の心の中が見えてきますね。

そう 、昨日見た様に王様や中世の諸公や現代の為政者達が自分の持っている支配権力を無知で愚かな国民や植民地の無教養な人たちを恭順させて自分の生活と地位を安定させる為に、自分の地位を利用して翻訳に口出ししてこんなふうに権力者=翻訳を依頼する側に都合良く「全ての人間=人民」と思わせるために無理に言葉を曲げて解釈して聖書の翻訳が出来ているのです。

さて、では一体この聖書箇所でパウロは本当は何を言っているのでしょうか?

  もう一度この箇所の直訳を記すと ローマ 13章1節「全ての生活は権限らに従い続けろ」と言う事ですか聖書=パウロがここでローマの教会の信徒に命じている事は以下の様になります。

  「生活の事は権威に従い続けなさい」ということです。もっと詳しく訳すとこうなります。「地上の生活に関する事は権威に従っておきなさい。」と言う事になります。

   と言う事は「為政者や王様の権威や方策に逆らわずトラブルを起こさないで長い物には巻かれて生活しろ」と言う事でそのことが意味しているのは

「所詮高い地位や身分のある人は神様にかかわりの無い人たちなのだから好き好んで争う様な愚かな事は止めておきなさい。」

  という世俗権力にたいする消極的服従を信仰者の生活の知恵=方便として教えているのです。

だいたい、考えてみてください。パウロが産まれたのはキリキヤのタルソスと言う都市でした。あのシーザーの子シーザリオンのローマ皇帝就任を画策するクレオパトラは後継者アントニウスと密約をする為に向かったのがこのタルススの町でした。エジプトの女王クレオパトラが28歳の時です。黄金の豪華船に美女と美酒を満載して、タルススの川にかがり火で煌々川面を照らして夜な夜な饗宴を開いて奸計によってローマと同盟しエジプトの再興を画策した町でした。しかしアントニウスは懐妊したクレオパトラを見捨て宿敵オクタビアヌスと政略結婚の道を選びやがてオクタビアヌスとアントニウスのアクチウムの決戦の為に再びクレオパトラとアントニウスは協力します。しかしオクタビアヌスに破れ敗走し、その後をおったオクタビアヌスによってエジプト王朝は武装解除されて衰退していくのです。

その様な凄まじい権力闘争と不道徳極まる政略の渦中のこのタルススの町に産まれ育ち、為政者の不徳の限りを知り尽くしたパウロが、事も在ろうに「神によって立てられた為政者に従え」などとたわけた妄言をローマのキリスト者に語るなどあり得ない事なのです。

  以上。今日は「王権神授説」は間違いで、「王権人造説」すなわち「悪い物のみがこの地上では出世し、権力を得、豊かになるのであってそれは悪魔の呪いではあっても決して神様の祝福である事はあり得ない。」と言うお話でした。