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教会の分類

 教会にも分類法があるのか?と疑問をもたれる向きも多い事と思います。何しろ牧師に対しても「神父」さんとローマンカソリックの教職者の呼称で呼ばれる方が大半の日本の事です。当然のことでしょう。また昨日の「聖霊派」等という言葉をみて「身内で他教派批判をするキリスト教は日本の宗派と同じで見苦しい!」とお叱りを頂きそうです。今日は、キリスト教の教派についてお話したいと思います。

  まず教派とは何かを基本的にお話ししなければなりません。「仏教もキリスト教も宗教紛争に何の変わりがあるか!」と言われる向きには「基本的に違います」とお答えしなけれはなりません。
  日本の仏教は日本の国内で同じ宗派の財産や地位を巡っての争いが多いかと思います。仏教教派は開祖とそのお弟子間の権力闘争の結果ではないでしょうか。

この点キリスト教教派は仏教の内部紛争の結果生じた「宗派」とは次元もスケールも違います。キリスト教の教派(宗派)とは基本的に国家(民族=原語)単位です。因みに古い順にキリスト教の主要教派を記しましょう。

これはキリスト教の歴史による分類で同時に、地域=国家=民族=原語によるキリスト教会の分類になります。

★・教会の分類・★ 教派の分類には3種類の指標があります。

★・分類第一・歴史的民族国家による分類
●注意して下さい、いずれの教派教会も自分達がキリストと初代教会の正当な継承者と言っています。問題はそれが歴史的にどういう変遷を辿ったかという客観性とその認識です。

括弧内は現代の中心活動国家名(植民地は除く)、 右の数字は概略活動世紀です。
 1・ 初代ギリシャ教会・公認前地中海世界       1-4世紀 
 2・ ギリシャ正教会・東方教会(公認後、ギリシャ)  4-21世紀 
 3・ 西方教会16世紀に民族毎に独立=宗教改革    2-16世紀 
 4・ 古ローマ教会  497年滅亡              4-5世紀
 5・ コプト教会・カルケドン会議で分離・アフリカ     5-21世紀 
 6・ ロシア正教会980キエフ公の改宗 (ロシア)    10-21世紀
 7・ ルター派(ドイツ国教会)(ドイツ北欧)        16-21世紀 
 8・ カルバン(長老)派(スイス仏北部)         16-21世紀
 9・ バプテスト(会衆)派(オランダ)            16-21世紀
10・ ローマカソリック (イタリア、スペイン)       16-21世紀
11・ 聖公会(英国国教会)(英国南部)          16-21世紀
12・ メソジスト派1737ウエスレー改心(英国)      18-21世紀 
13・ 聖霊派、ペンテコステ、カリスマ派(米国)      20-21世紀  

おわかりでしょうか? キリスト教の主要教派は教会が分裂して出来たのではないのです。宣教が進むにつれて宣教先の民族国家毎に集団が形成されそれぞれが教派となったのです。そして、それぞれの国毎の公用語に聖書が翻訳されています。もちろん無理をして言葉の異なった国家が共通語を定めて一つであった時代が在りました。2世紀から16世紀まで続いたラテン語を公用語とする西方教会です。しかし、所詮ラテン語が母国語であるイタリアや同言語系列のスペイン、仏蘭西南部以外は負担が大きく結局ルッターの宗教改革によって経済的にも組織的にもそれぞれの民族毎に分離する結果と成りました。

  さて、その様な時代の流れの中のキリスト教に一大異変が起きます。それは米国のキリスト教なのです。
  お判りでしょう。米国=合衆国にはこれら全ての国家から移民が押し寄せたのです。特に自国の信仰的に堕落して為政者と結託した国教会からの自由を求めて米国に宗教移民した人々は、最初はそれぞれの国の言葉で礼拝をしていましたが移民2世から3世の時代(100年後)になると移民達の教会も英語が公用語になります。そしてこの英語を話す多様な背景を持つ合衆国の教会から送り出された宣教師が明治維新と第二次世界大戦後に大挙して日本にやって来たのです。彼らは米国の英語を話す教会からサポートを受け、同時に彼らの祖国の教会からもサポートを受け、更に複雑な事に祖国から直接日本に遣わされた少数の宣教師と宣教協力をして日本のキリスト教化を進めたのです。

 それゆえに現代の日本には120を越える様々なキリスト教会の教派が活動しています。北米からの宣教師の活動がどのような物であったかを推測するには現代ある多くの著名なミンション立の有名諸大学をみればおおよその見当がつくかと思います。それらの詳細をこのブログにアップしょうとしましたが全て「使用が禁止される文字列」に該当しましたので残念ながら削除しました。

  さて、その様なキリスト教の教派の存在を認識頂いてその上でこれらの教派の分類をしたいのです。

★・第二は教会政治による分類です。政治とは端的にいうと、教会における権力の所在です。教会の財政、教職員の人事、信徒や牧師の信仰生活に関しての決定権です。
●注意してください、いずれの教派教会も自分達は神様に全ての権限を帰していると言っている事です。問題は実際に誰がその権威を制定し具体的にどの様にしてその権威が継承されているかと言う事なのです。
古いものが監督政治、その対局が会衆政治、その折衷が長老政治と思ってください。
(括弧内は典型的な教派と思われるもの)

1・監督政治は・監督・教職者丈が権力を行使します。その理由は、教職者丈が教育があり聖書知識を持っているので配下の事に対して神聖冒されざる権限を持つのです。
(ローマンカソリック、英国国教会(聖公会)メソジスト、ホーリネス)
2・会衆政治は・信徒(総会)が権限を行使します。その理由は教職者が信徒の無知を良い事に私利私欲を肥やすし不道徳極まりないので任せられないと言うものです。
(バプテスト、メノナイト、)
3・長老政治は・教職者の代表と信徒の代表で構成した(長老会)が権力を行使します。
(改革派、長老教会)

★・第三は神学による分類です。上記は組織としての見える形での権力の所在ですが、こちらは見えない理性や心の中に存在する本質的な権力の所在です。 (括弧内は典型的な教派と思われるもの)
●注意してください。いずれの教派教会も神に霊感された聖書に最高の権威を置いていると主張しています。問題は言っている事と実際がどの程度整合しているかと言う客観性なのです。


1・聖書主義・聖書の原文を歴史的文法的に解釈しそこに唯一絶対の権威を起きます。
(福音長老、改革派、保守バプテスト、同盟基督教団、インマヌエル、ホーリネス)
2・自由主義・人間理性に絶対権限を起き、理性で理解できな物を信仰から排除します。
(聖公会、日本基督教団、バプテスト連盟)
3・神秘主義・人間の理性を停止し、聖書の記述からも遊離し超自然現象や恍惚状態を追求します。
(アッセンブリー、ペンテコステ、カリスマ派 )

以上の3つが非常に大まかなキリスト教会の分類方法です。もちろんこれらの一つ一つは子細に枝分かれし複雑に絡み合い単純に認識理解するのは不可能に近いほど複雑多岐に渡る枝葉が存在します。

  しかし、現実の諸教会はこれらの3つの基本的な分類項目(1・歴史国家、2・教会政治=権力構造 、3・神学傾向)によって大まかその特徴を理解することができます。

さて、その様な教会の分類法ですが、もう一つ大切な事を最後に記さなければ成りません。キリスト教会の教派教団で最も大切なのは言われている教会当事者達の自己認識とその客観性の整合です。簡単に言えば「教会の自己イメージの理想と現実」と言う事です。そこには必ず大きなギャップが存在します。そこでそのギャップの程度も見なければ教会を正しく分類したことには成りません。以下にその実際を記します。

●注意してください。書面や口頭では何とでも主張できます。

・そうなので。教会や教派教団の分類で最も難しいのはこの点なのです。

  教会の分類で、一番の問題は現実の実際が果たしてそれらの文書や口頭の主張と合致しているかなのです。それらの欺瞞を見抜くのは実は簡単です。「言う事、書いた事」をしっかり記憶し、「やっている事」と比較するのです。そうすればその教会や教派がどの様な存在であるかが判明します。たとえば、伝道する事を熱心に解き、熱心に伝道している教会があります。問題はそれが本当に人々を神様の救い導く為なのか、それともぼろぼろと脱落する入信者を補い莫大な教会の運営経費を捻出する為だけの偽善であるのか?しっかりと目を開いてやっている事を見てください。

  大抵の商品や団体の宣伝文句と同様に教会の能書きも理想と現実には大きな相違がある物なのです。

  その最たる例はローマンカソリック教会に見ることができます。何でも、「キリストから天国の鍵を与ったキリストの使徒の代表者ペテロが初代ローマ教皇でその後絶えることなく世界教会の首位にある」というのです。いちいち全てに反論するのも愚かしいのですが全て嘘です。
  「天国の鍵」の件ですがこの時のキリストがペテロを名指ししたと言う言葉はギリシャ語の原文では女性形なのです。明確な事は女性形のペトラは「岩」と言う意味でペテロ個人を指すのではなく、彼がイエスをキリストと告白したその「告白」その物を指します。そして、聖書のどこにもペテロが弟子の代表とは記していません。口先三寸でいい加減なお調子者として聖書はペテロの欠点を明白に記述し、そのペテロはローマ人の手によって犯罪人として処刑されています。その処刑者の末裔を名乗るローマ教会が自分達の先祖が処刑したペテロを崇めまつり、ローマ教会の首位性の根拠として担ぎ出すのはお粗末の限りです。
 それだけではありません、323年のミラノ勅令(寛容令)によって公認されたキリスト教会ですがその本部はコンスタンチノープル(現在のイスタンブール)に遷都してしまいす。西方ローマは東方ギリシャ教会の一地方に低落し、497年の西ローマ帝国の滅亡と共にガリヤやイスパニヤを除いたローマ市の教会は解散状態になり歴史からその存在が消えてしまいます。
   西ローマに教会が復興するのはコンスタンチノープルが陥落する1453年頃です。そしてこのころに、コンスタンチノープルを回教徒との戦争に援軍を出してやるから「ローマ教会の首位性を認める捏造文書の信憑性を認めろ」と脅迫する悪質な教団と堕落していました。そして、その要求を拒否したコンスタンチノープルに対して援軍を送るとした十字軍は、事も在ろうにコンスタンチノープルに攻め入り、貴重な聖書写本や、巻物、などの諸教会の宝物を略奪し、聖職者を皆殺しにし挙げ句に、美しく教養あるギリシャ貴婦人達を凌辱し、妾や奴隷や売春婦として売り飛ばしたのです。ローマ教会の戦利品となったギリシャの多種多様な文物が後に研究され文芸復興を未開国家イタリヤにもたらしたのです。
   歴史の事実を通して、言われている事と現実の整合性を見なければ本当の教会の真実は見えて来ない物なのです。 

  大変面倒かも知れませんが「記されている事、言われている事」を事実と照合すれば簡単に何が真実で何が嘘なのかは自明となります。

以上が大まかな教会の分類法です。

翻訳と誤訳

  昨日は「翻訳と解釈」と言う題でお話しました。今日は「翻訳と採算」とでも題したらより正確な題になるのでしょうがあえて「翻訳と誤訳」としておきました。

  何故、聖書翻訳に「解釈という名の誤訳」が入り込むのかを考えたいのです。そのために大変有名な聖書箇所を取り上げましょう。それは 新約聖書使徒の働きの2章にあるペンテコステの日の記録です。

  「ペンテコステ」などという一般の方には随分の馴染みの無い言葉を出しました。しかし、その言葉の意味は何と言う事はありません。ギリシャ語では単に「第50」という序数詞なのです。旧約聖書では「ハグ シャボット」で文字通りの意味は「7週の祭り」とか「五旬節」(7日×7週で49日の次の日にあたる第50日)と翻訳されています。これは古代イスラエルの民が出エジプト記やモーセの十戒でお馴染みの紅海が二つに割れた「エジプト出発日」(=過越の祭りの日)から数えて丁度50日目を意味しています。じつはこの日はユダヤ教では最も大切な日なのです。この日にシナイ山と言うところでモーセが神様から十戒を授かった記念のお祭りの日なのです。

  ですからギリシャ語の「ペンテコステ」とは 「律法授与記念日」を意味しているのです。

  新約聖書には、丁度この律法授与記念日にキリストのお弟子達がエルサレムの神殿近くに集まっていた所、突然に天から風が吹いてきて(ギリシャ語でもへブル語では風と霊は同語ですから「霊した」とも訳せる)、分かれた炎のような舌がキリストのお弟子達に留まり、一同が 「聖霊=プネウマ=風」に満たされたと言うのです。その結果、無教養な使徒団が外国語で話し出し、エルサレムに来ていた外国在住のユダヤ人たちが自分の住む国の言葉で語られる教えを聞いて驚愕したと聖書に記されているのです。

 問題なのは、そのあとの使徒ペテロの言葉なのです。新約聖書、使徒の働きの2章38節の訳文を引用します。

1・新共同訳「賜物として聖霊を受けます。」
2・新改訳「賜物として聖霊を受けるでしょう。」

以上の二つの訳は明確な誤訳です。正しい翻訳は 

3・口語訳「聖霊の賜物を受けるであろう。」
4・岩波訳の「聖霊の賜物をうけるであろう」

です。もうこれは明確です。なぜなら原文のギリシャ語では聖霊は属格(=所有格=の)、賜物は対格(=目的格=を)ですから逆立ちをしても「聖霊の賜物」なのであり反対の「賜物の聖霊」とは訳せないのです。

正しい翻訳は「聖霊の賜物を受ける」なのです。
  
 なぜ、比較的新しい「1」と「2」が間違って訳出し。より古い口語訳「3」が正しく訳しているのでしょうか。そして、なにかと批判されやすい「4」の岩波訳も正しく訳しています。

  じつはこれは誤訳では無いのです。

  その理由を説明しましょう。聖書を翻訳し出版するには、莫大な資金が必要な事は皆さまご存じでしょう。 何しろ分量が厖大で翻訳費用も校正費用も、それに紙代や印刷代に加えて保管する倉庫代も馬鹿になりません。聖書を出版するには誰かがその費用が回収出来るまで立て替えなければならないのです。そしてもし、出版された聖書が売れなかったらどうなるでしょうか。
  誰がその負債の責任を取るのでしょうか? 教会? 教団? 出版社? 印刷会社? 翻訳者? 聖書協会? 宣教団体?
  誰もそんな莫大な損失を取る事は出来ません。ですから出版される聖書は必ず全ての教派教団、を越えて広く諸教会に受け入れられなければならないのです。しかも、出版される前に、確実に。

  と言う事は始めに結論が在るのです。その結論に向かって様々な教団教派がその翻訳を受け入れられる為に、それぞれの教派から翻訳委員会の委員が選出され、翻訳の方針や翻訳者の選定がなされます。 そして訳されてきた原稿が翻訳委員会で審議されるのです。その段階で自分の教派に都合の悪い言葉があったら密かに申し出て削除や変更が求められます。そして都合のいい様に=その教派が歓迎される様に翻訳が覆されてしまうのです。

  上記の「使徒の働きの2章38節」もその様にして改竄された翻訳箇所の一つなのです。そして、この相違には看過出来ない重大な問題が隠されているのです。この二つは、よく似た翻訳ですが意味は全く違います。神様を信じる人が神様から頂くのが「聖霊」か 「聖霊の賜物」かの違いです。別の相応しい言葉に置き換えると「全地球を含めた全宇宙を受ける」とするか「信仰」を頂くと言う以上の大きな相違が在るのです。何故なら聖書の教える神の霊=聖霊は神様ご自身と同質で天地創造の主体であり全宇宙よりも大きい存在だからです。

  このような改竄を要求した教団や教派がどこなのかは私は全く存じません。

  しかし、この聖書箇所はどんなに研究しても

1・新共同訳「賜物として聖霊を受けます。」
2・新改訳「賜物として聖霊を受けるでしょう。」

 とは出来ないし、してはならないのです。これは単に私の推測ですが、このような翻訳を歓迎する神学が在る事は知っています。一般的にウエスレー派とかメソジスト、そしてそれらの教派を批判した人々が創出した発展的教派であるペンテコステ派とかカリスマムーブメントと呼ばれる教派です。 

  それらの教派は互いに相手を否定しているのですが同じ考え方をしています。その特徴は、いずれも信仰体験を大切にする事です。その体験は 「聖め体験」とか、「聖霊体験」とか様々に言われている体験を教派の基本教理に据えているのです。歴史上で唯一「体験」を教理にした所に、この教派最大の問題があります。神様を体験するわけですが、それが神様の体験である事を誰が認証するのかと言う問題が惹起されるのです。人間の体験を神学の対象にしそれが神様の直接介入によって個人になされた神的体験であると誰が認証できるでしょう。またその体験が真実かあるいは口から出まかせの嘘かはたまた夢かなどいう人間の感情や心の変化を誰が客観的に判別できるでしょう。はたまたその様な体験が事実であったとして、その体験が一体その人の人生やまた周囲の人にどれだけの意味を持っているのでしょうか。端的に言って自己満足以外の何物でもありません。

  その様な体験を総称して、「聖霊のバプテスマ」と言っています。しかしその体験が神から来る聖霊の体験か、あるいは単なる感情の昂りか、あるいは精神異常か、はたまた悪霊に因る物であるのかはご当人にもまた教会も判別できないのが実際なのです。また「聖霊のバプテスマ」と言う言い方も誤解を与えるものです。本来ギリシャ語で「バプテスマ」と言う言葉は「浸す」と言ういみです。と言う事は自分の中に聖霊が来るのではないのです。聖霊の中に自分が行くのです。聖霊を太平洋に置き換えると良く意味が理解できます。私の中に太平洋が入る事は出来ません。私の中に来る(飲む)ことの出来る太平洋の水はせいぜいコップ一杯の180ccの塩水で太平洋の一部分でそれは決して太平洋と同じではありません。
聖霊のバプテスマと言う表現の正しい意味は聖霊の中に自分が浸されて消えてしまう、あるいは見えなくなってしまうと言う事なのです。

   実際これらの聖霊体験と言われている事柄を冷静に分析すると、それらの4種類(神霊体験、感情の昂り、精神異常、悪霊原因物)が判別不可能なほど斑にそれらの教派に見かけられます。

 その結果、聖霊体験なる神秘主義を受容する教会はいずれも信仰体験の真贋論争が原因となって分裂に分裂を重ねる宿命に在ります。 あまり具体的にすぎるので問題ですが、英国メソジスト教会の分裂、旧日本ホーリネス教団の分裂、旧フリーメソジスト教団の分裂、カリスマムーブメントのヘンテコステ系諸派の際限の無い分裂等の例を上げるまでもない衆知の現実です。
  多種多様な教派の中に混乱は増大しているのです。因みに、今日社会問題いや犯罪となっているキリスト教カルト集団は殆どこの流れの教会です。その代表例としては昨日も言及した京都の「聖神中央教会」や「摂理」の牧師にる犯罪が上げられます。そして、それはカルトと言う範疇の問題ではありません。この教派全体に共通する問題なのです。あまりに事件が多いので上げきれませんが新聞紙面を賑わした物の一部だけをご紹介しましょう。30年程前にの牧師による信徒殺害事件が起きたのは福島県のI市のT教会はメ●●●●系教会でした、更に今から15年前日本のキリスト教界を失望さした著名な伝道者とピアニストの姦通事件もホ●●●系の教会の牧師です。最近では、●の子供達のK.E.牧師による児童強姦事件もやはりホ●●●系のなのです。確かに伝道熱心で良い働きも在るのですがそれ以上にこの教派は重大な犯罪の温床ともなっている事は否定できません。

  その原因は自明です。牧師は「本物の聖霊のバプテスマ」を受けた聖人だから「間違いを犯すはずが無い」という当のご本人と、周囲の人々の間違った信頼が、無防備で悪質な誘惑に陥らせ、誘惑に負けた牧師とその周囲が執拗にそれを認め無いと言う周囲の無知によって問題の深刻化を引き起こしているだけのことなのです。

  初めから、『「牧師も人間」気をつけないといけないわよ』と回りの信徒が注意すれば、いくら牧師が私は「聖霊に満たされた」などと言っても意に介さないで事件が未然に防げるのです。 

  それゆえに「聖霊を受ける」という考え方その物が間違いなのです。その様な間違った人間の思考に合わせて聖書を改竄するから当然の報いがそれらの教派に呪いや災いをもたらすのです。その結果他のまじめな多くのキリスト教会の宣教をぶち壊しにする悪質な大事件が引き起こされるのです。「ボタンのかけちがい」が始めに存在するのです。間違っ考えに聖書を合わせようとする所から混乱が生じます。それゆえにこの「聖霊のバプテスマ」あるいは「聖霊の賜物」の真贋老論争がこの教派の宿命となってしまいました。そして、この教派の開祖アルミニウスとその信奉者であるジョンウエスレーの影響下に在る英国メヌソジスト教会は、この聖霊の賜物の真贋論争で分裂を繰り返し混乱を世界のキリスト教会に提供しています。
  考えてみればその間違いは明白なのですが、どうもこの教派に属する人々は理性よりも感情(気持ち)や体験を重要視する為思考する事が罪悪とされる傾向があります。

  「聖霊のバプテスマ」と言うのは、このウエスレアン教会に源流を発する全ての教派の体験を教理化した物なのです。 
  
 そしてこの冒頭の聖書翻訳はこの教派に対する聖書翻訳委員会のスタンドプレーなのです。ですからこれは誤訳ではありません。聖書の販売実績を上げる為に、ウエスレー神学に立つ教会や、カリスマムーブメントの教会の教えに出版された聖書が受け入れられる為に間違いとわかったう上で翻訳事業の採算の為にこう訳しておられるのです。ご存じの通り「キヨメ」うんぬんの神学の立場では「聖霊は神様の賜物」なのです。」この間違った訳を原典通り 「聖霊の賜物」と訳すとどうなるでしょうか。当然その立場の教会は翻訳を受け入れず、販売実績が落ちてしまい利益が減るだけではなく採算が取れなるなる危険が生じるのです。

 そしてこの教派は宣教熱心で信者の入れ代わりも激しく、従ってこの教派に聖書翻訳が受け入れられるか否か聖書翻訳の採算の可否を握っているのです。

  もし、聖書翻訳を改竄しなければ存在できない様な神学があるならその様な神学や教派は所詮神様から来た物ではありません。アルミニウスと対立したベザが神学論争に勝利したと言う故事を学ぶまでもなく間違いです。そして改竄までして採算を重視する聖書翻訳のあり方は改められなければ成りません。

翻訳と解釈

  「翻訳と解釈」とは、また随分と大上段に構えた題です。今日は、そのことを考えてみましょう。この題で一番最初に頭に浮かぶのは、新約聖書ローマ人への手紙の16章です。
  ギリシャ語の原文でこの箇所を読んでみると、ασπασαθε(アスパサスセ)と言う単語が連続しているのです。3節、5節、6節、7節、8節、9節、10節(2回)、11節(2回)、12節(2回)、13節、14節、15節、16節にあり5節以外は節の冒頭に位置しています。同じ単語が16回も連続するのは異例中の異例です。しかも、ギリシャ語には英語の様な語順は無い為冒頭にある単語は強調を意味しているのです。 
  この、ギリシャ語 アスパサスセ の基本原形 は ασπαζω=私は挨拶する(安否を問う)と言う意味で、全く解釈不要のごく一般的な単語なのです。そして問題は何かと言うと、これらの16回が全て二人称複数の命令形なのです。しかも、アオリスト(不定過去)と言う時制なのです。この語を日本語に訳すと「あなた方は挨拶しろ」となるのです。しかも、ギリシャ語のアオリスト時制は非常に強い意味があり、その上に命令形で冒頭ですから三重に強調されています。
  ローマの教会のメッセージを記した手紙の最後に最も大切な事として著者パウロが非常に重要な、言葉として、16回も連続して使用しているのです。考え得る限りの非常に重要な意味をパウロがこの語に置いている事は否めません。
  強い語調で幾度も繰り返して、大きな声で強く「あなた方は挨拶しろ」と言うこの言葉には、重大なメッセージが間違いようも無く、明白に記されているのです。
 最近は日本でも職場や学校、地域などで挨拶の励行が奨励されていますが、「挨拶しろ」などと言う命令をしたなんて話はあまり聞きません。
  しかし、聖書のこの箇所は明確に強い命令形です。当然この部分を英語や日本語に訳した翻訳は命令形になっているだろうと思って調べてみると、いずれも原文とは全く異なった文章に訳しています。全ての翻訳が「よろしく」なのです。しかも、パウロがそのようにローマの人々に依頼しているかのように訳出しています。

  原文からはどんなに複雑で高度なギリシャ語の高等文法を適用しても不可能な訳文になっています。

  何故でしょうか? 原因は明白です。以下の様な物でしょう。

  全世界そして、ヨーロッパキリスト教世界そして、ローマンカソリック教会の源流たる初代ローマ教会において、キリストの使徒にして初代ローマ宣教者であるパウロが、「挨拶しろ」などという人間の基本的素養に関して命令される様な失態は存在してはならない。

 と言う事ではないでしょうか。そうして、このような「よろしく」と訳している全世界の殆どのキリスト教会も同様の意見なのです。

  キリストとその使徒達によって形成された初代教会は神の愛とキリストの聖なる贖いによって、地上に出現した理想郷であり、完全無欠でなければならない。その様なキリスト者の理想たる初代教会に、使徒パウロが事もあろうに、「お前らは挨拶しろ」などと「どぎつい命令」をしなければならない様な不和や無視が教会内に存在するはずが無い。故に、これはアオリスト形の二人称の命令形ではあるが、そのまま訳すのは適切ではない。「よろしく」と意訳する以外に解釈の可能性は存在しえない。
  以上が、パウロが記したこのローマ教会の手紙の末尾のασπασαθε(アスパサスセ)という厳しいパウロの命令をそのまま訳出しない根拠です。

  それで、良いのでしょうか? 

  判断は、ローマ教会の信徒が「挨拶する様に命令されている対象の名前」を詳しく見てみると、真実が見えてきます。そうなのです。「挨拶しろ」と言われている人々の名はいずれも「奴隷名」「黒人名」「貧困者名」などて殆どがローマ人ではなく敗戦国のギリシャ人や被支配民族名なのです。

  とすれば素直に、ローマ教会では最初から「貧民や民族に対する根深い差別があり、キリスト教会内で挨拶もされない被差別階級が存在していた」と言えるのではないでしょうか。しかも、その差別され挨拶されていない人々はパウロの息のかかった、信仰的に優れた人たちでした。彼らには残念な事に世の人々が評価する様な家柄や地位に加えて教養や財産というローマの人々から評価(認められ=挨拶)される為に必要な資質を持ち合わせていなかったのです。
  そのことを考慮して、「世界の首都に集まるエリート集団やローマ貴族の富裕層にありがちな根深い差別がローマ教会内に根深く存在した」と認めれば、なにも無理して厳しい命令を「よろしく」などとでたらめに訳出する必要は無いのです。

  それに、他の聖書の箇所を見てもこの箇所の異常性は顕著です。新約聖書にはこの「ασπαζω=私は挨拶する(安否を問う)」という言葉は60回使われています。そのうち命令形はローマ人への手紙の末尾の16回以外ではパウロ書簡などに6回を散見するのみです。
  それらの書簡も内容と比較するとローマ人への手紙と同様の問題=「差別あるいは無視」がローマ教会外の初代教会内に存在していたと見られます。

  たかが挨拶の問題なのですが、これは単に此処だけの問題ではありません。聖書全体を翻訳する時に全く同じ前提 = (完全無欠の理想たる初代教会願望=信仰?)がキリスト教界全体に暗黙の了解として存在しているのです。その結果、聖書が明確に記している初代教会の不祥事やあるまじき堕落の実体が、聖書翻訳の所々で明確に記されているのに、それらが全て曖昧に訳出される結果をもたらしているのです。

  そして、その様な「キリスト教会理想郷願望=信仰」は現実のキリスト教会の内部の腐敗や堕落から目をそらせる結果を招いているのです。その妄信の帰結として、現実の世界の殆どのキリスト教会内部の問題は看過され、潜在化して偽善となり慢性化して末期的な犯罪となって顕在化し醜聞(=摂理や京都聖神中央教会などの不道徳犯罪を蔓延させ、それを筆頭に各個教会内部の欺瞞や教団教派宣教団体に加えて米国ネオコンや韓国与党に見られる宗教と政治の癒着など)を世界中で引き起こしているのです。

   初代教会も現代教会もそこに集うのは人間です。たとい、キリストの救済に与っていたとしても所詮罪人の集団です。世の常識が支配する地上の世界です。唯一の相違点はローマで処刑されたことで著名な使徒ペテロが言う様に「彼(=パウロ)は、どの手紙にもこれらのことを述べている。その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている。(汽撻謄蹌馨16節)」か、初代ローマ教会が成した様に、「この聖書の言葉を曲解せず、また個人的な批判とせず、神の言葉として受け入れ、問題の人に改善か追放の選択を余儀なくさせた」かの相違なのです。
 
  このローマ人への手紙の16章に名が残されている人々が中心となって、堕落した初代ローマ教会を改革しパウロの手紙を神の言葉として後世に伝えたのです。

  今日は翻訳と解釈と言う題でしたが、聖書を原典で読む事は様々な人間の営みを排除して真実を見抜く目を養う事になります。そしてローマ教会の最初から現在の全てのキリスト教会全体の内部に厳然として存在している根深い差別や偽善体質に光を当て、聖書の真実な主張を知る第一歩の学びでした。

  参考の為に、以下に出来るだけ原典に忠実で在ろうと努力している翻訳(WEB)へのリンクと、今日の箇所の英訳部分を参考の為張りつけておきます。

(The World English Bibleはパブリックドメインです。)http://www.ebible.org/bible/web/Romans.htm#C16V1
16:3 Greet Prisca and Aquila, my fellow workers in Christ Jesus, 16:4 who for my life, laid down their own necks; to whom not only I give thanks, but also all the assemblies of the Gentiles. 16:5 Greet the assembly that is in their house. Greet Epaenetus, my beloved, who is the first fruits of Achaia to Christ. 16:6 Greet Mary, who labored much for us. 16:7 Greet Andronicus and Junia, my relatives and my fellow prisoners, who are notable among the apostles, who also were in Christ before me. 16:8 Greet Amplias, my beloved in the Lord. 16:9 Greet Urbanus, our fellow worker in Christ, and Stachys, my beloved. 16:10 Greet Apelles, the approved in Christ. Greet those who are of the household of Aristobulus. 16:11 Greet Herodion, my kinsman. Greet them of the household of Narcissus, who are in the Lord. 16:12 Greet Tryphaena and Tryphosa, who labor in the Lord. Greet Persis, the beloved, who labored much in the Lord. 16:13 Greet Rufus, the chosen in the Lord, and his mother and mine. 16:14 Greet Asyncritus, Phlegon, Hermes, Patrobas, Hermas, and the brothers who are with them. 16:15 Greet Philologus and Julia, Nereus and his sister, and Olympas, and all the saints who are with them. 16:16 Greet one another with a holy kiss. The assemblies of Christ greet you.