冷淡か沸騰
昔からキリスト教会というのは「温かく居心地の良い所」と相場が決まっている様です。しかし、聖書を原典で読んでいると聖書が教えている理想の教会は現実の教会と随分と異なっていると感じる事がしばしばです。
もちろん、聖書を原文で読んでいなければ、そんな事は感じないで過ごしてしまったことでしょう。
今日は、キリスト教会が神様の言葉である聖書の要求から、如何にかけ離れているのかを考えさせられる聖書の箇所をご紹介しましょう。
考えさせられる言葉は、新約聖書黙示録第3章15節と16節に書かれている、「生ぬるい教会ではなく熱いか冷たいかであって欲しい」と言う言葉なのです。そして一般にこの聖書の言葉から「キリスト教会は温かく在るべきだ」というふうに思われている様なのです。
良い教会は「熱心で神様の愛で温かく居心地の良い教会」であると考えられやすいのですが聖書のギリシャ語の原文から示される、理想の教会のあり方は随分と極端なのです。
すこしこの事を説明してみましょう。黙示録で問題にさている教会は、今から2千年前の小アジア半島にあったラオデキヤと言う町にあった教会なのです。注目しなければならないのは、この教会に対する「生ぬるい」というキリストの叱責の言葉です。
そしてあるべき教会の姿として「熱いか冷たい教会」である事が教えられています。しかし、この箇所を原文のギリシャ語で読んでみると随分と様子が違うのです。
「生ぬるい」と訳されているのは「クリアロス」というギリシャ語なのです。この「クリアロス」というギリシャ語は「生ぬるい」と言う意味はありません。『暖かい』あるいは『温める』と言う事を意味しているのです。文脈からみてわかる様に「心地の良い温かさ」を指しています。これを「なまぬるい」などと訳するのは原文の意味を損ね、誤解を生み出すものだと私は認識しています。参考の為に一般の邦訳の訳語を記します。新共同訳→なまぬるい、口語訳→なまぬるい、新改訳→なまぬるい、岩波→生暖かい。
この箇所の原文が言っている、「神様が嫌われている教会の状態」は「生ぬるい教会」ではありません、「クリアロス」と言うギリシャ語で示されている唾棄すべき教会の状態は「暖かい」教会なのです。
聖書の原文はどう見てもその様にしか読めません。人間が理想とする「温かい教会」こそが聖書がここで唾棄すべき「悪しき教会」のあり方なの。そして聖書があるべき教会の姿として明示されている教会のあり方は「冷たい」か「熱い」教会なのです。
そして、この「熱い」と訳されているギリシャ語の原文は「ゼストス」でこれは「熱い」と言う意味では決してありません。それ以上の言葉で「沸騰している」という言葉なのです。「手もつけられない熱さ」を意味します。もう一つの神様の期待されている教会のあり方は「冷たい」です。これはギリシャ語の「プスコイ」で「冷え切った状態」や「冷淡である事」を意味します。
と言う事で、人間が期待している教会のあり方と、神様が聖書の中であるべき姿として教えられている教会のありかたは、文字通り天と地ほどかけ離れているのです。
温かい教会を期待しているのは単に人間でしかありません。神様が期待されている教会のあり方は「冷淡であるか、手もつけられない火傷する程の熱く沸騰した教会」だと聖書は教えているのです。
もちろん、聖書を原文で読んでいなければ、そんな事は感じないで過ごしてしまったことでしょう。
今日は、キリスト教会が神様の言葉である聖書の要求から、如何にかけ離れているのかを考えさせられる聖書の箇所をご紹介しましょう。
考えさせられる言葉は、新約聖書黙示録第3章15節と16節に書かれている、「生ぬるい教会ではなく熱いか冷たいかであって欲しい」と言う言葉なのです。そして一般にこの聖書の言葉から「キリスト教会は温かく在るべきだ」というふうに思われている様なのです。
良い教会は「熱心で神様の愛で温かく居心地の良い教会」であると考えられやすいのですが聖書のギリシャ語の原文から示される、理想の教会のあり方は随分と極端なのです。
すこしこの事を説明してみましょう。黙示録で問題にさている教会は、今から2千年前の小アジア半島にあったラオデキヤと言う町にあった教会なのです。注目しなければならないのは、この教会に対する「生ぬるい」というキリストの叱責の言葉です。
そしてあるべき教会の姿として「熱いか冷たい教会」である事が教えられています。しかし、この箇所を原文のギリシャ語で読んでみると随分と様子が違うのです。
「生ぬるい」と訳されているのは「クリアロス」というギリシャ語なのです。この「クリアロス」というギリシャ語は「生ぬるい」と言う意味はありません。『暖かい』あるいは『温める』と言う事を意味しているのです。文脈からみてわかる様に「心地の良い温かさ」を指しています。これを「なまぬるい」などと訳するのは原文の意味を損ね、誤解を生み出すものだと私は認識しています。参考の為に一般の邦訳の訳語を記します。新共同訳→なまぬるい、口語訳→なまぬるい、新改訳→なまぬるい、岩波→生暖かい。
この箇所の原文が言っている、「神様が嫌われている教会の状態」は「生ぬるい教会」ではありません、「クリアロス」と言うギリシャ語で示されている唾棄すべき教会の状態は「暖かい」教会なのです。
聖書の原文はどう見てもその様にしか読めません。人間が理想とする「温かい教会」こそが聖書がここで唾棄すべき「悪しき教会」のあり方なの。そして聖書があるべき教会の姿として明示されている教会のあり方は「冷たい」か「熱い」教会なのです。
そして、この「熱い」と訳されているギリシャ語の原文は「ゼストス」でこれは「熱い」と言う意味では決してありません。それ以上の言葉で「沸騰している」という言葉なのです。「手もつけられない熱さ」を意味します。もう一つの神様の期待されている教会のあり方は「冷たい」です。これはギリシャ語の「プスコイ」で「冷え切った状態」や「冷淡である事」を意味します。
と言う事で、人間が期待している教会のあり方と、神様が聖書の中であるべき姿として教えられている教会のありかたは、文字通り天と地ほどかけ離れているのです。
温かい教会を期待しているのは単に人間でしかありません。神様が期待されている教会のあり方は「冷淡であるか、手もつけられない火傷する程の熱く沸騰した教会」だと聖書は教えているのです。
捏造された聖書
最近「捏造された聖書」という翻訳本を読みました。「原典 ユダの福音書」の編著者の一人B.D.アーマン氏が著者です。元の英文の書名は「イエスの誤引用」ということで、その筆頭がマルコ2章23節から28節の「イエスの弟子達が安息日に麦畑で空腹を癒す為に麦の穂をむしり食い、ユダヤ律法の禁じている安息日の禁を犯した時の問答」を上げています。
問題点は、ユダヤ人指導者の違法指摘に対して、キリストが「旧約聖書の第一サムエル記21章1節から6節を誤引用した」と著者のアーマン氏は言うのです。
アーマン氏の指摘する、キリストの誤引用は「大祭司アビアタル」となっているが旧約聖書は、その時の大祭司はアビアタルの父「アヒメレク」であったと言うのです。(注アビアタルはある翻訳ではエブヤタル)
ところで一体誰が間違っているのでしょうか? アーマン氏の指摘通りキリストが間違えたのでしょうか? まあ明確に分かる事を見ていきましょう。注意して聖書を見ると、サムエル記のどこにもアーマン氏ご指摘の『アビアタルの父「アヒメレク」が大祭司』であったとは記してありません。では誰が一体大祭司であったのでしょうか?
同じ旧約聖書の、サムエル記第一の14章18節をご覧いただくと正解が分かります。当時の大祭司はキリストが引用されたアビヤタルでもなく、アーマン氏が主張されるアビアタルの父「アヒメレク」でもありません。 当時の大祭司は大祭司の装束エポデを着てウリムとトンミムを使えたアヒヤだったのです。(サムエル記第一14章18節)
当時の大祭司アヒヤが住んでいたのは、アビアタルとその父アヒメレクが住んでいたノブでは無く、シロと言う町でした。(サムエル記第一14章3節)
当時、イスラエルは初代サウル王が支配していました。しかし、旧勢力の祭司達との権力の確執があり、サウル王朝は衰退します。その後に、ダビデが王朝を築くのです。この間、祭司団とサウル王家とダビデ王家の間には、複雑な権力闘争が展開します。ここで問題にしているのは 「大祭司が誰か」という事なので、大祭司が何処にいたかを見ましょう。ヨシュアの時代以後は、シロにあった神殿(当時は幕屋)は、サウル王朝の衰退に伴って、安全なユダ部族の町バアラ(第二サムエル記6章2節)に疎開していました。
当然、大祭司はその場所にいた事になります。問題のアビアタルはダビデに協力し共に王朝を建て上げてようとしますが残念な事に旧勢力の祭司団の協力は得られません。当然、大祭司には成れません。
彼はダビデと協力して幾度かダビデの町(エルサレムの前進)を首都とするため幕屋の中心にあった契約の箱をエルサレムに移そうとします。しかし、旧勢力(=祭司たち)の抵抗があって、なかなか実現しません。(歴代誌13章1節から14節 )漸くの事でアビアタルが同族の祭司達の協力を取り付け、大祭司ツアドクを中心にした(歴代誌15章11節)ダビデ王朝と祭司集団の連合が実現します。(歴代誌15章1節から16章43節)
そして、その後アビアタルの実子の「アヒメレク」(=アビアタルの父の名と同じ)が大祭司となるのです。(第二サムエル記8章17節)
と言う事で、残念な事にアーマン氏の言われている様に『アビアタルの父「アヒメレク」が大祭司』であったとは聖書は記していないのです。
確かにキリストが引用された言葉にある「アビアタルが大祭司のころ」は旧約聖書に言及の無い言葉です。同時にアーマン氏の言われる『アビヤタルの父「アヒメレク」が大祭司』も聖書の誤引用なのです。
さて、こうなるとキリストの引用された言葉が「誤引用」云々以前に、誤引用だと主張される当のご本人、アーマン氏の引用された言葉こそ「誤引用」で、「足もとをしっかり固めてから聖書を批判なり批評して頂きたい」と言いたくなります。
きょうは、大変お粗末なお話でした。 余分ですが、以上のダビデ王朝形成期の聖書の複雑な記述から分かる事ですが、メシヤのプロトタイプとされるダビデ王朝の本当の立役者は、アーマン氏が大祭司では無いと主張される「祭司アビアタル」である事は自明です。おそらく、アロンの子孫で祭司となった多くの祭司達の中で、「最も大きな業績をイスラエルの歴史に残した祭司」であったと言えるでしょう。
そして聖書の「大祭司」と言うへブル語は 「ハコヘーン ハガドール」です。その意味は 「その祭司 その大きい」です。おそらくイエスキリストが アビアタルを 「大きな祭司=大祭司」と言われたのは実に適切な引用であった事が分かります。そして、大祭司でない『アビアタルの父「アヒメレク」』を大祭司であると誤引用されたアーマン氏こそ「捏造された聖書」ならぬ「聖書を捏造」された事になります。
そうなのです。一番の間違いは、アーマン氏ご自身が聖書もろくに読まないで、思い込みで本を書いておられるという点に在るのではないでしょうか?
問題点は、ユダヤ人指導者の違法指摘に対して、キリストが「旧約聖書の第一サムエル記21章1節から6節を誤引用した」と著者のアーマン氏は言うのです。
アーマン氏の指摘する、キリストの誤引用は「大祭司アビアタル」となっているが旧約聖書は、その時の大祭司はアビアタルの父「アヒメレク」であったと言うのです。(注アビアタルはある翻訳ではエブヤタル)
ところで一体誰が間違っているのでしょうか? アーマン氏の指摘通りキリストが間違えたのでしょうか? まあ明確に分かる事を見ていきましょう。注意して聖書を見ると、サムエル記のどこにもアーマン氏ご指摘の『アビアタルの父「アヒメレク」が大祭司』であったとは記してありません。では誰が一体大祭司であったのでしょうか?
同じ旧約聖書の、サムエル記第一の14章18節をご覧いただくと正解が分かります。当時の大祭司はキリストが引用されたアビヤタルでもなく、アーマン氏が主張されるアビアタルの父「アヒメレク」でもありません。 当時の大祭司は大祭司の装束エポデを着てウリムとトンミムを使えたアヒヤだったのです。(サムエル記第一14章18節)
当時の大祭司アヒヤが住んでいたのは、アビアタルとその父アヒメレクが住んでいたノブでは無く、シロと言う町でした。(サムエル記第一14章3節)
当時、イスラエルは初代サウル王が支配していました。しかし、旧勢力の祭司達との権力の確執があり、サウル王朝は衰退します。その後に、ダビデが王朝を築くのです。この間、祭司団とサウル王家とダビデ王家の間には、複雑な権力闘争が展開します。ここで問題にしているのは 「大祭司が誰か」という事なので、大祭司が何処にいたかを見ましょう。ヨシュアの時代以後は、シロにあった神殿(当時は幕屋)は、サウル王朝の衰退に伴って、安全なユダ部族の町バアラ(第二サムエル記6章2節)に疎開していました。
当然、大祭司はその場所にいた事になります。問題のアビアタルはダビデに協力し共に王朝を建て上げてようとしますが残念な事に旧勢力の祭司団の協力は得られません。当然、大祭司には成れません。
彼はダビデと協力して幾度かダビデの町(エルサレムの前進)を首都とするため幕屋の中心にあった契約の箱をエルサレムに移そうとします。しかし、旧勢力(=祭司たち)の抵抗があって、なかなか実現しません。(歴代誌13章1節から14節 )漸くの事でアビアタルが同族の祭司達の協力を取り付け、大祭司ツアドクを中心にした(歴代誌15章11節)ダビデ王朝と祭司集団の連合が実現します。(歴代誌15章1節から16章43節)
そして、その後アビアタルの実子の「アヒメレク」(=アビアタルの父の名と同じ)が大祭司となるのです。(第二サムエル記8章17節)
と言う事で、残念な事にアーマン氏の言われている様に『アビアタルの父「アヒメレク」が大祭司』であったとは聖書は記していないのです。
確かにキリストが引用された言葉にある「アビアタルが大祭司のころ」は旧約聖書に言及の無い言葉です。同時にアーマン氏の言われる『アビヤタルの父「アヒメレク」が大祭司』も聖書の誤引用なのです。
さて、こうなるとキリストの引用された言葉が「誤引用」云々以前に、誤引用だと主張される当のご本人、アーマン氏の引用された言葉こそ「誤引用」で、「足もとをしっかり固めてから聖書を批判なり批評して頂きたい」と言いたくなります。
きょうは、大変お粗末なお話でした。 余分ですが、以上のダビデ王朝形成期の聖書の複雑な記述から分かる事ですが、メシヤのプロトタイプとされるダビデ王朝の本当の立役者は、アーマン氏が大祭司では無いと主張される「祭司アビアタル」である事は自明です。おそらく、アロンの子孫で祭司となった多くの祭司達の中で、「最も大きな業績をイスラエルの歴史に残した祭司」であったと言えるでしょう。
そして聖書の「大祭司」と言うへブル語は 「ハコヘーン ハガドール」です。その意味は 「その祭司 その大きい」です。おそらくイエスキリストが アビアタルを 「大きな祭司=大祭司」と言われたのは実に適切な引用であった事が分かります。そして、大祭司でない『アビアタルの父「アヒメレク」』を大祭司であると誤引用されたアーマン氏こそ「捏造された聖書」ならぬ「聖書を捏造」された事になります。
そうなのです。一番の間違いは、アーマン氏ご自身が聖書もろくに読まないで、思い込みで本を書いておられるという点に在るのではないでしょうか?
「言葉」という言葉
昨日は聖書に使われている信仰と言う訳語が不適切だと言うお話をしました。ギリシャ語ではピステウオー 、へブル語はアマンと言う言葉でした。今日はもう一つ別の大切な言葉についてお話ししましょう。それは「言葉」という言葉についてです。
★旧約聖書において「言葉」の代表的同義語(シノニムス)には、「アマール」 「ダバール」 「ミラー」のという3種類の「言葉」と訳される言葉があります。
●同じように新約聖書には言葉の代表的同義語として、「レーマ」 「ロゴス」 「ムソス」と3種類の「言葉」と訳される「言葉」があるのです。
ややこしいですね。一つ一つ説明しましょう。
1・ 最初のへブル語(旧約)の「アマール」は「言った」で新約では レーマ(話された言葉)に該当します。
2・次のへブル語の「ダバール」は「実言」と言う意味でで新約では「ロゴス」に該当します。
3・そして最後のへブル語「ミラー」は「虚言」という意味で新約では「ムソス」に該当します。
これらは、英語や日本語に訳された聖書では、いずれの言葉もほとんどの場合に「言葉」と全く同じ訳語が当てはめられています。しかし、訳された聖書では、同じ「言葉」であっても原文では明確に違う「言葉」が使われているのです。
これらの言葉を単に辞書(古語の場合はレキシコンと言う)で調べると大抵「言葉」と同じ訳語になっています。しかし原文が違う言葉ですから当然異なった意味の単語のはずです。それを調べるのは結構面倒です。その言葉の意味を特定するのはその言葉がどのような文脈で使われているかを調べます。
実際にはそれらの「言葉」をコンコルダンス(語句索引)という道具を使って「文脈でどの様な意味を持っているのか」=(言葉の用例)を分析するのです。するとそれらの言葉は明確に区分されている事が分かります。
以前紹介した、私の大好きなイソップ寓話で「寓話」と訳されている言葉はギリシャ語の「ムソス」と言う言葉なのです。この「寓話」とされている「ムソス」と言う言葉は「虚言」という意味、イソップ寓話には対応する事実は存在しないことを明示しているのです。
そのことを踏まえて、大切な事を知らなければ成りません。それは聖書が最も多く用いている「ダバール」と「ロゴス」と言う言葉に関してなのです。これらの 旧約聖書の「ダバール」や新約聖書の「ロゴス」はいま紹介した「虚言」の反対の「実言」と言う意味です。と言う事はこの言葉「ロゴス」と言う単語が使われている限り、聖書に記されている「言葉」その物には、必ずその言葉に対応する「出来事」が史実として存在しなければなりません。
もし、歴史上にその事実が存在しないと結論されるなら、そのダバール又はロゴスを用いて聖書に記されてある以上、その聖書その物の信憑性が疑われる事になります。聖書がその歴史的事実の目撃証言(ヘブル語エド、ギリシャ語マルテュリオーと言う言葉でいつかこの言葉も紹介したいと思います。)というスタンスは瓦解してしまうのです。
聖書で「実言」と言う意味の用語が使われていたら、その言葉で記されている聖書の記述には、その記述に符合する史実がなければならないのです。
もし歴史の事実に符合しない記載が「ダバール」や「ロゴス」という用語で記されていたらどうなるでしょうか。聖書はほとんどの場合に「ダバール」または「ロゴス」と言う言葉を使っていますので。聖書には「でたらめ」が書いてあると言う事にならないでしょうか。そこにもし、人間の創作や想像による記述がなされていたとしたなら「聖書なんて全く信用出来ない」と言う結論を導き出してしまうのです。
聖書が「ダバール」や「ロゴス」を用いて記している部分は、史実でなけれはならないのです。
今日は聖書に使われている「言葉」という意味の旧約と新約のそれぞれ対応する3種類の言葉についてでした。
★旧約聖書において「言葉」の代表的同義語(シノニムス)には、「アマール」 「ダバール」 「ミラー」のという3種類の「言葉」と訳される言葉があります。
●同じように新約聖書には言葉の代表的同義語として、「レーマ」 「ロゴス」 「ムソス」と3種類の「言葉」と訳される「言葉」があるのです。
ややこしいですね。一つ一つ説明しましょう。
1・ 最初のへブル語(旧約)の「アマール」は「言った」で新約では レーマ(話された言葉)に該当します。
2・次のへブル語の「ダバール」は「実言」と言う意味でで新約では「ロゴス」に該当します。
3・そして最後のへブル語「ミラー」は「虚言」という意味で新約では「ムソス」に該当します。
これらは、英語や日本語に訳された聖書では、いずれの言葉もほとんどの場合に「言葉」と全く同じ訳語が当てはめられています。しかし、訳された聖書では、同じ「言葉」であっても原文では明確に違う「言葉」が使われているのです。
これらの言葉を単に辞書(古語の場合はレキシコンと言う)で調べると大抵「言葉」と同じ訳語になっています。しかし原文が違う言葉ですから当然異なった意味の単語のはずです。それを調べるのは結構面倒です。その言葉の意味を特定するのはその言葉がどのような文脈で使われているかを調べます。
実際にはそれらの「言葉」をコンコルダンス(語句索引)という道具を使って「文脈でどの様な意味を持っているのか」=(言葉の用例)を分析するのです。するとそれらの言葉は明確に区分されている事が分かります。
以前紹介した、私の大好きなイソップ寓話で「寓話」と訳されている言葉はギリシャ語の「ムソス」と言う言葉なのです。この「寓話」とされている「ムソス」と言う言葉は「虚言」という意味、イソップ寓話には対応する事実は存在しないことを明示しているのです。
そのことを踏まえて、大切な事を知らなければ成りません。それは聖書が最も多く用いている「ダバール」と「ロゴス」と言う言葉に関してなのです。これらの 旧約聖書の「ダバール」や新約聖書の「ロゴス」はいま紹介した「虚言」の反対の「実言」と言う意味です。と言う事はこの言葉「ロゴス」と言う単語が使われている限り、聖書に記されている「言葉」その物には、必ずその言葉に対応する「出来事」が史実として存在しなければなりません。
もし、歴史上にその事実が存在しないと結論されるなら、そのダバール又はロゴスを用いて聖書に記されてある以上、その聖書その物の信憑性が疑われる事になります。聖書がその歴史的事実の目撃証言(ヘブル語エド、ギリシャ語マルテュリオーと言う言葉でいつかこの言葉も紹介したいと思います。)というスタンスは瓦解してしまうのです。
聖書で「実言」と言う意味の用語が使われていたら、その言葉で記されている聖書の記述には、その記述に符合する史実がなければならないのです。
もし歴史の事実に符合しない記載が「ダバール」や「ロゴス」という用語で記されていたらどうなるでしょうか。聖書はほとんどの場合に「ダバール」または「ロゴス」と言う言葉を使っていますので。聖書には「でたらめ」が書いてあると言う事にならないでしょうか。そこにもし、人間の創作や想像による記述がなされていたとしたなら「聖書なんて全く信用出来ない」と言う結論を導き出してしまうのです。
聖書が「ダバール」や「ロゴス」を用いて記している部分は、史実でなけれはならないのです。
今日は聖書に使われている「言葉」という意味の旧約と新約のそれぞれ対応する3種類の言葉についてでした。