普通人の映画体験―虚心な出会い -8ページ目

普通人の映画体験―虚心な出会い

私という普通の生活人は、ある一本の映画 とたまたま巡り合い、一回性の出会いを生きる。暗がりの中、ひととき何事かをその一本の映画作品と共有する。何事かを胸の内に響かせ、ひとときを終えて、明るい街に出、現実の暮らしに帰っていく…。

2019年9月10日(火)TOHOシネマズシャンテ(東京都千代田区有楽町1-2-2、JR有楽町駅・日比谷口徒歩5分)で、14:15~ 鑑賞。

guernsey-literary-society

作品データ
原題 THE GUERNSEY LITERARY AND POTATO PEEL PIE SOCIETY
製作年 2018年
製作国 フランス/イギリス
配給 キノフィルムズ
上映時間 124分


メアリー・アン・シェイファー(Mary Ann Shaffer、1934~2008)&アニー・バロウズ(Annie Barrows、1962~)のベストセラー小説“The Guernsey Literary and Potato Peel Pie Society”(2008)(木村博江訳『ガーンジー島の読書会』イースト・プレス、2013年)を、『シンデレラ』『ベイビー・ドライバー』のリリー・ジェームズ主演で映画化したヒューマン・ミステリー。第二次世界大戦直後の英国ガーンジー島を舞台に、現地の読書会を取材するため島を訪れた作家が、読書会に秘められた島の数奇な歴史に触れていく中で、自らの人生を見つめ直し、本の素晴らしさを再確認していく姿を描く。共演はミキール・ハースマン、ジェシカ・ブラウン・フィンドレイ、マシュー・グード、トム・コートネイ、ペネロープ・ウィルトン。監督は『フォー・ウェディング』のマイク・ニューウェル

ストーリー
「僕はドーシー・アダムズ。ガーンジー島の住人です。」 そんな自己紹介から書き出された1通の手紙が、すべての始まりだった。
1946年ロンドン、受け取ったのは、作家のジュリエット・アシュトン(リリー・ジェームズ)。彼女がかつて古書店に売ったチャールズ・ラムの随筆集を手にしたドーシーが、そこに書かれていたジュリエットの住所に送ったのだ。
手紙には第二次大戦が終わり、ナチの占領から解放されたが島の本屋は復活しないままなので、ロンドンの住所を教えてほしいと書かれていた。ジュリエットは「僕の所属する“読書とポテトピールパイの会”」は「ドイツ軍から豚肉を隠すために誕生しました」という件(くだり)にたちまち好奇心をそそられ、彼の欲しい本を進呈する代わりに、読書会について教えてほしいと返事を出す。まもなく届いた返事に、ジュリエットはさらに夢中になる。
時は1941年、イギリス海峡に浮かぶガーンジー島に暮らす人々は、ドイツ軍に家畜を没収され、郵便や電信網も止められ、完全な孤立状態の中、恐怖と空腹に震えていた。ある日、ドーシー(ミキール・ハースマン)は“秘密のパーティー”への招待を受ける。主催者はエリザベス(ジェシカ・ブラウン・フィンドレイ)、会場はアメリア(ペネロープ・ウィルトン)の家。アメリアが隠していた豚を、近所に暮らす友人たちで楽しもうというのだ。アイソラ(キャサリン・パーキンソン)が自家製のジンを、郵便局長のエベン(トム・コートネイ)がポテトとその皮だけで作ったポテトピールパイをお土産に駆けつける。温かな料理を囲んで、笑い合い、語り合い、5人は人間らしい時間を取り戻すのだった。
だが、運悪く帰り道でドイツ軍に見つかり、エリザベスが咄嗟(とっさ)に「読書会です」と口走る。占領軍は統治のモデルケースとして、文化活動を推奨していた。翌日、5人は急いで読書会の体裁を整え、ドイツ軍に届けを出す。成り立ちはカモフラージュだが、やがて5人は本を読んで仲間と感動を共有することに夢中になっていく。
「読書会は僕らの避難所でした」という一文に感銘を受けたジュリエットは、「皆さんにお会いしたい」と綴った手紙を、自分の著書を添えて送るのだった。
折しも、担当編集者で長年の友人でもあるシドニー(マシュー・グード)から与えられた「タイムズ」の原稿のテーマは、“読書”。ガーンジー島の読書会について書こうと決めたジュリエットは、ドーシーの返事を待たずに旅立つ。そして、ウェイマス港まで見送ってくれたアメリカ人の裕福な恋人マーク(グレン・パウエル)からのプロポーズを受けることで、彼女は恋にも仕事にも、これから始まる冒険を夢見てワクワクと胸を躍らせていた。
だが、歓迎されるとばかり思っていたジュリエットの予想は外れる。アメリアが警戒するような素振りを見せ、創設者のエリザベスに会いたいと言うジュリエットの願いを即座に、「それはムリ」と却下する。それでも、ジュリエットの朗読と討論は「合格」だと褒められ、ポテトピールパイをジンで流し込む儀式を終えた時には、すっかり打ち解けていた。ところが、「タイムズ」に書きたいと口にした途端、再びアメリアの表情は険しくなり、「お断り」と撥(は)ねつけられてしまう。その時、奥の部屋からエリザベスのまだ幼い娘キット(フローレンス・キーン)が出てきて、会はお開きとなった。
翌日、エベンから島の歴史を聞き、ドーシーに島を案内してもらうジュリエット。二人は本土とは全く異なる戦時中の様子を詳しく教えてくれるが、エリザベスの話になると固く口を閉ざす。
読書会のメンバーが抱えた秘密に魅せられ、滞在を延ばしたジュリエットは、やがてエリザベスが不在の理由にたどり着く。それは、作家にとって「書かずにはいられない物語」だった…。

▼予告編



マイク・ニューウェル監督(Mike Newell、1942~) インタビュー映像



リリー・ジェームズ(Lily James、1989~) インタビュー映像

2019年9月6日(金)「アップリンク吉祥寺」(東京都武蔵野市吉祥寺本町1丁目5−1 吉祥寺パルコ地下2階、吉祥寺駅北口から徒歩約2分)で、15:10~鑑賞。

「ゴールデン・リバー」

作品データ
原題 THE SISTERS BROTHERS
製作年 2018年
製作国 フランス/スペイン/ルーマニア/ベルギー/アメリカ
配給 ギャガ
上映時間 122分


イギリスの文学賞の一つである“ブッカー賞”の最終候補作にもなったパトリック・デウィット(Patrick deWitt、1975~)の“The Sisters Brothers”(2011) (茂木健訳『シスターズ・ブラザーズ』東京創元社、2013年)を映画化した異色の西部劇ロード・ムービー。ゴールド・ラッシュに沸き立つアメリカの西部を舞台に、黄金に魅せられた男4人の理想と欲望がぶつかり合う人間模様がリアルなタッチで綴られる。個性的な4人の登場人物を演じるのは、ハリウッドきっての実力派俳優陣。殺し屋・シスターズ兄弟の兄で、武骨で優しいイーライ役は、『シカゴ』のジョン・クリストファー・ライリー。裏世界でのし上がりたい好戦的な弟・チャーリーには、『ザ・マスター』主演のホアキン・フェニックスが抜擢された。また、黄金を見分ける化学式を見つけた化学者ウォームをマーベル映画『ヴェノム』に出演したリズ・アーメッドが、標的の居場所を殺し屋に報告する連絡係のモリスを『ブロークバック・マウンテン』『ナイトクローラー』で主演を務めたジェイク・ギレンホールが演じる。『真夜中のピアニスト』『君と歩く世界』『ディーパンの闘い』などで知られるフランスの名匠ジャック・オーディアール監督が初めて手がけた英語劇で、第75回ベネチア国際映画祭で銀熊賞(監督賞)を受賞。

ストーリー
「俺たちはシスターズ兄弟だ」 ― その言葉に誰もが震え上がる、最強の殺し屋兄弟がいる。1851年、オレゴン。兄の名前はイーライ(ジョン・C・ライリー)、弟はチャーリー(ホアキン・フェニックス)、雇い主は辺り一帯を取り仕切る提督(ルトガー・ハウアー)だ。度胸があり提督からの信頼も得ているチャーリーが、リーダーとして仕事を仕切り、兄はそんな弟のワガママをぼやきながらも、身の回りの世話を引き受けていた。
彼らに与えられた新たな仕事は、連絡係のモリス(ジェイク・ギレンホール)が捜し出すウォーム(リズ・アーメッド)という男を始末すること。取り留めのないバカ話をしながら、サンフランシスコへ南下する。兄弟が馬で山を越えていた頃、モリスは南へ数キロ先のマートル・クリークで、ウォームを見つける。時はゴールド・ラッシュ、金脈を求めて群れをなす採掘者の中に、ウォームの姿もあったのだ。
2日後、次の町ウルフ・クリークで、モリスはいきなりウォームから「前に会った?」と声を掛けられ、慌てて「人違いだ」と答える。だが、屈託なくモリスの笑顔を褒める人懐こいウォームに、作戦を変えて昼食を奢(おご)ると誘う。うまい具合に話は進み、ウォームと一緒にジャクソンビルへ砂金を採りに行くことになったモリスは、シスターズ兄弟に「急がれたし」と手紙を残す。
旅の途中でウォームはモリスに、にわかに信じがたい話を打ち明ける。自分は化学者で、金を見分ける“予言者の薬”を作る化学式を発見したというのだ。だが、ジャクソンビルに到着し、モリスの動きに不信を抱いたウォームが、彼のカバンを探ったことから、モリスの正体と目的がバレてしまう。モリスはウォームを拘束するが、提督の目的が問題の“薬”の作り方を聞き出すことで、ウォームが化学式を教えるまで兄弟に拷問されるだろうと知って動揺する。
翌朝、モリスはウォームと逃げ出すことを選び、連れ立って出発する二人。道中、ウォームはモリスに、手に入れた金で「野蛮な世界を終わらせ、理想郷を作る計画」について滔々と語る。初めは半信半疑で聞いていたモリスだが、次第に彼の話に引き込まれ、その思想に心酔していく。やがてモリスは亡き父の遺産を資金に、ウォームの夢に加わることにする。
モリスを信じてメイフィールドまで来たシスターズ兄弟は、その町を牛耳る女傑のメイフィールド(レベッカ・ルート)が、ウォームの化学式を奪うべく部下を放ったと聞き、初めてモリスの裏切りを知る。普通の暮らしに憧れていたイーライは、これを機会に引退しようと持ちかける。だが、裏社会でトップに立つ野望を抱くチャーリーには論外だった。
サンフランシスコに到着した兄弟は、二人の居所を突き止めるが、追っ手を予測していた彼らに捕らえられる。やがてメイフィールドの部下も現われ、二人はやむなく兄弟の力を借りて、彼らを撃退するのだった。
ウォームからの提案で、黄金を採るために、手を組むことになる4人。初めは互いに疑心暗鬼だった2組だが、兄弟もまたモリスと同じようにウォームのカリスマ性に魅せられ、奇妙な友情と絆が生まれていく。
いよいよ金の採掘開始。4人はウォームのリードで、木を切って堰き止めた川の中に、“薬”を流し入れる。すると透き通った水の底で、化学反応を起こした金があちこちで輝き始める。一心に金を盥(たらい)に入れ始める4人。それは、薬が皮膚を焼くほどの高アルカリ性を秘めているので、水に長く浸からないよう時々川から上がって手足を洗いながらの作業である。しばらくして薬が薄まり、金の輝きが鈍くなる。焦ったチャーリーは、薬が足りないとして、勝手に大型容器内の大量の薬を川に流し込んでしまう。止めようとしたモリスが川の深みに嵌(は)まって沈み、助けようとしたウォームが水に潜る。薬の原液を腕に零(こぼ)したチャーリーが叫び声を上げ、イーライが駆け寄った。翌朝、死んだ沢山の魚が川に浮いている。チャーリーは右腕に重傷の火傷を負い、瀕死のモリスはあまりの苦しさでチャーリーから銃を受け取って自決し、ウォームはジョンの後を追うように静かに息を引き取った。
イーライはチャーリーを連れて町へ移動。医者に診てもらったチャーリーは、右腕の切断を余儀なくされた。そこへ、兄弟の裏切りを察知した提督が差し向けた刺客が襲いかかる。動けないチャーリーを庇いながら、イーライは1人で何とか撃退した。
提督を殺す以外助かる道はないと悟った二は、再びオレゴンを目指す。道中提督の追っ手を躱(かわ)しながら、やっと到着したオレゴンだったが、提督はすでに死亡し、葬式が執り行なわれている最中だった。イーライは棺に眠る提督を見つめ、突然遺体を殴る。止めに入った付添人に、「念のため」と言い残し、イーライはチャーリーと共に町を後にする。
晴れて自由を手に入れたシスターズ兄弟は、母(キャロル・ケイン)が住む故郷へ戻る。豪胆な母親はショットガンをぶっ放し二人を追い返そうとするも、最後には温かく迎え入れてくれた。懐かしい家庭料理を頬張り、チャーリーが母にお風呂の世話をしてもらう間、イーライは幼少時代に寝ていた、綺麗にベッドメイクされた小さなベッドに横たわる。窓からの木漏れ日とそよ風を受けながら、イーライは穏やかな表情で眠りに落ちた―。

▼予告編

2019年9月5日(木)「アップリンク吉祥寺」(東京都武蔵野市吉祥寺本町1丁目5−1 吉祥寺パルコ地下2階、吉祥寺駅北口から徒歩約2分)で、15:00~鑑賞。

「アマンダと僕」

作品データ
原題 AMANDA
製作年 2018年
製作国 フランス
配給 ビターズ・エンド
上映時間 107分


第31回東京国際映画祭で東京グランプリと最優秀脚本賞をダブル受賞したフランス製ヒューマンドラマ。突然の悲劇で共に愛する人(肉親)を失った2人~姉を亡くした青年ダヴィッドと母を亡くした少女アマンダ(ダヴィッドの姪)~の再生と成長が描かれた、じんわりと心に染みる感動作。監督・脚本はこれが長編3作目のミカエル・アース。主人公ダヴィッド役はフランスの若手俳優ヴァンサン・ラコスト。アマンダ役のイゾール・ミュルトリエは、ミカエル・アース監督に見出され、本作でスクリーンデビュー。

ストーリー
夏の日差し溢れるパリ。便利屋業として働く24歳の青年ダヴィッド(ヴァンサン・ラコスト)は、パリにやってきた美しい女性レナ(ステイシー・マーティン)と出会い、恋に落ちる。穏やかで幸せな生活を送っていたが、ある日、ダヴィッドの大切な姉、シングルマザーのサンドリーヌ(オフェリア・コルブ)が無差別テロに巻き込まれ、亡くなってしまう。悲しみに暮れるダヴィッドは、身寄りがなく独りぼっちになってしまった7歳の姪アマンダ(イゾール・ミュルトリエ)の世話を引き受けることに…。親代わりとして接しようとするが、まだ若いダヴィッドには荷が重く、戸惑いを隠せない。アマンダも、母親を失ったことをなかなか受け入れられずにいた。互いに不器用で、その姿は見ていてもどかしく、しかし愛おしい。幼いながらも懸命に逞しく生きようとするアマンダ。彼女と共に過ごすことで、次第に自分を取り戻していくダヴィッド。それぞれに深い悲しみを抱えながらも、二人は互いに少しずつ距離を縮めながら成長していく。「I need you」 ⇔ 「I love you」…!

▼予告編

【以下は、同名映画(1)〔本ブログ〈September 06, 2019〉〕の続き…】

▼アメリカ人弁護人【ジョージ・ファーネス(重光葵担当)→ベン・ブルース・ブレイクニー(東郷茂徳・梅津美治郎担当)】の補足動議 - 1946年5月14日(法廷第5日):



▼ cf. 「帝國遂に起つ」/「大本営陸海軍部発表 十二月八日午前六時」/「全國直ちに決戦体制へ」 :



▼ cf. 學徒出陣 - 「出陣学徒壮行会」(1943年10月21日開催) :
(「秋雨煙る明治神宮外苑競技場。全日本学徒が多年…、武技を練り、…技を競ったこの聖域に、10月21日朝まだき、出陣学徒壮行の式典、厳かに挙行…」)


小笠原清~亡き小林正樹監督と共に脚本を担った監督補佐で、今回のデジタルリマスター版の監修者~のコメントCINEMA CLASSICS -2019/08/1 ):
   
平成世代の方へ》 日本は民主主義の国ですか?日本は平和国家ですか?それは、いつからのことか知っていますか?
昭和世代の方へ》 「大東亜戦争」と「アジア・太平洋戦争」を知っていますか?日本が敗戦国として裁かれ、その後平和社会の中で自立してきた過去を記憶していますか?
映画『東京裁判』について》 この作品は、日本が帝国主義軍事国家から民主国家へ180度の大転換を果たした近現代史動乱時代を、「極東国際軍事裁判」、通称「東京裁判」を通じて凝縮した、1983年公開のドキュメンタリー映画です。それはまた、第2次世界大戦で敗北した大日本帝国の、戦争責任と犯罪を問う法廷記録をベースとして、その時代の戦争の実態と世界の情勢、及び裁判の背景となる戦後の日本と世界の動向を組み合わせ、当時のナマの社会状況を収録したタイムカプセルでもあります。それから36年後の今、それはデジタルリマスター化による迫真的な画像と音声で甦りました。ここに収めれた圧倒的な事実と課題は、不安定化が進む今日の日本と国際社会にも底辺でつながっています。
1983年公開当時の観客の感想の一部です》 「戦争体験者として体が震える思いで見ました。娘や孫に伝えたい」(70代女性)、「大東亜戦争と称して開戦した意味も、それが太平洋戦争と言い換えられて敗戦となったことも、新憲法が成立した事情や真意もよく解る映画です」(80代男性)、「自分自身は深く知ろうとせず、型通り学んできた歴史の深い真実を知った」(20代男性)、「事実を知ることが何より大切。戦争を避けるための努力とは何か、大人の責任は重い」(60代男性)、「防衛問題は人それぞれの議論だが、改めて戦争だけは絶対にしてはならぬと決意を固めた」(50代男性)、「世界中に平和が訪れる日まで、この映画にエンドマークがあろうはずはありません」(30代女性)

この作品は公開の度に「今、なぜ東京裁判か」と、問われ続けてきた。法廷で明るみに出された第2次世界大戦の実態と、責任追求の現実を映像に収めた映画『東京裁判』は、常に「今こそ見るべき映画」として存在し、回答の任を果たしてきた。
そして今日、劣化の影響が著しかった歴史映像や音声が、デジタルリマスター版により鮮やかに回復された。 臨場感に満ちた完成品としてこれが公開されることは、製作スタッフ一同の本懐でもある。

小笠原清 インタビュー「東京裁判は、まだ終わっていない」( BuzzFeed News -2019/08/10 ) :

――そもそも『東京裁判』が制作された背景と、今夏にデジタルリマスター版が公開されることになった経緯とは。
この映画は、米軍の撮影班が法廷で東京裁判を撮影したフィルムが元になっています。国防総省の機密文書として秘匿されていましたが、1973年に法令で公開されました。時間にして計170時間、フィルムケース1100缶分、長さ50万フィート超に及ぶ膨大なフィルムから、私たちは裁判の基本的な流れ、法廷内のやりとりをまとめ、1つのストーリーにまとめました。「東京裁判」を追体験してもらえるようにしたわけです。企画自体は、講談社の創立70周年の事業として進められました。

――小林正樹監督は一兵卒として従軍経験があり、捕虜生活も体験していました。日中戦争を人間の視点から描いた『人間の条件』も含め、「アジア・太平洋戦争」を考えるこの映画には最適の人材だった。
小林監督は、三つの素材を軸にして構成を考えていました。法廷の記録を基本として、裁判で起訴されている問題の戦争や社会状況を伝える映像、そして裁判の背景となっている戦後の日本と世界の社会情勢の映像資料です。裁判が成り立っている社会環境が見えてこないと、当時の世界の立体的理解にはならない。そう考えて、国内外で集めた戦中・戦後のニュース映画、記録映画などの映像を活用しました。
あの裁判を観客の皆さん自身が検証できるように、こうした素材を可能な限り集め、編集することで映画は完成した。法廷以外の映像はかなり雑多なフィルムの寄せ集めなんです。米軍撮影のフィルムも、状態が良いのも悪いのもある。外国のニュース映画の画質も劣化や痛みで、そのまま使えないものも多い。それを全て再生し、複製しました。
これらの画調を整え、つなぎ合わせ、「何とかこの調子なら、1本の映画として見られるだろう」となるまで、フィルムは4回ぐらいデュープ(複製)を余儀なくされました。しかし、デュープするたびに画像の鮮明度が落ちていく。そのギリギリの妥協の果てに出来たのが1983年の『東京裁判』でした。

――なるほど。当時の映画は物理的にフィルムを切って、貼って、編集しなければならなかった。技術的には綱渡りだったんですね。
そうなんです。我々としては「機会があれば、何とか鮮明な画像にしたい。臨場感あふれる画面にして、説得力のある記録映像として残したい」という気持ちがありました。その可能性を未来に残すために、調整は不完全ながら最もシャープな画像のネガだけは別ロールにして残しておいたんです。
幸い今の時代にデジタル化の技術が確立されたので「これはイケるかも」と。そこで講談社にデジタル化をしませんかと要望を出したんです。折しも、講談社側も上映貸し出し用のフィルムも傷みが進み、劣化の問題を抱えていた。あれだけ長尺なものですからね、このままではトラブルも多くなるでしょう。ちょうど講談社側の動きと、私からの要望の時期が一致した。すごくタイミングがよかったんです。

――映画の元になった米軍撮影のフィルムとはどういうものだったのですか。
米軍の撮影フィルムを見て、最も驚いたのは全て映像と音声を同時録音で撮影していたことでした。当時の日本のレベルから見れば大変な技術なんですよ。日本の劇映画でも技術的にはできましたが、常態化していなかった。当時のアメリカ映画では同時録音は当然のことでした。米軍もその水準で同録撮影をしていたんです。また同録されている音声は、当然のことですが基本的な対話のやりとりは英語です。したがって英語音声は全て翻訳しなければいけない。それだけでも分量的に大作業です。
その次に記録された映像の登場人物たちが誰で、裁判のどの部分にあたり、どういう内容なのかについて、確認しなければならない。そのため裁判の過程を記録した全10巻の速記録をひも解いて、全てのフィルムをその内容と照合し、確認ながら使用可能な素材の選択をするわけです。予想をはるかに上回る難作業となりました。その作業だけで1年半以上が飛んじゃいました。

――そんなにかかったんですか。当初は1年ぐらいでつくる予定だったと。
結局その時点で予算も制作体制も組み直しとなりましたが、その結果、その素材の内容がよくわかってきました。湯水のごとくフィルムを回し、全編を記録していたかに見えましたが、そうではなかった。(米軍内でも)フィルムの支給には制限があり、東条英機とか有名人中心に、やっぱりスター主義でカメラを回しているんですよ。その中から大事なテーマを中心に取り上げました。

――政治的な内容かつ歴史的な内容ゆえに気を遣ったところもあったのでは。
講談社からは特に、脚本や制作内容について規制を受けるということは一切ありませんでした。左右のイデオロギーに傾かず、客観的な立場で、退屈しないものを作ってもらえれば、あとは何も言いませんと。フリーハンドで預けられ、予断や偏見なく作れる環境が保証されていたことは幸せでした。素材選択についても、全く自由裁量で進められました。例えば、連合国側のアメリカ人弁護士の発言で速記録から消された部分がありますが、映像では残っていた。歴史的な史料というか「証拠物件」としても貴重でした。アメリカにとって都合の悪い部分でも、フィルムにはちゃんと残されていた。後世の人間が検証できるよう、決して捨て去られてなかったということですね。資料の保存のアメリカの優れたシステムだと思います。

――83年に公開された当時は、どんな反響がありましたか。
爆発的な反応という印象でした。当時の日本人の大半は、東京裁判について、歴史の授業や報道、何かしらの論評でかいつまんだ知識はもってはいたでしょう。しかしその実態を、映像を通じて脈絡づけて見る機会は全くありませんでした。

――確かに。東京裁判を徹頭徹尾、最初から見ていく機会はなかったでしょう。
公開された1983年といえば戦後38年にあたります。当時の社会には、まだ戦争経験者がたくさんいた時代でした。戦後復興は成し遂げたけど、心の奥底には「結局、あの裁判は一体何だったのか?」という疑問は多くの人が抱いていた。だからと飛びつくように見てくれました。試写会の後で出会ったある初老の男性の感想が記憶に残っています。「私はこの戦争で海軍士官として一生懸命に戦っておりましたけれど、あの時代の世の中はこうなっていたんですか。よくわかりました。ありがとうございました」
戦時中はみんな閉鎖的な、まわりが見えない世界で戦っていたわけです。そうさせられていたんだなと改めて実感したたことを今でも覚えています。それから当時の試写には、三木武夫前首相、後の中曽根康弘首相の姿も見えましたし、他にも何人かの国会議員も見ていましたね。

――どちらも自民党の政治家ですよね。中曽根氏は海軍経理学校出身の海軍士官でした。三木氏も戦時中の帝国議会で大政翼賛会からの推薦を受けずに衆院議員として活躍していた。
三木さんは激賞してくれたと秘書の方から聞きましたし、中曽根さんは試写室を出たあと、興奮の面持ちだったとも聞いています。
今の政治家の皆さんにも見ていただきたいですよね。歴史的な事実、史実を的確に示している資料や文献をきちんと踏まえた上での判断が大事です。実態の伴わない歴史観や思い込みで予断的な議論になるようなことは、避けたいですね。

――「東京裁判」そのものは、いまなお議論が続く裁判です。
裁判自体が抱える課題も多いわけです。勝者が敗者を裁いた不公平さを取り上げて、いまなお声高に「東京裁判は無効だ」という人もいます。
映画にも登場するインド代表のパール判事の指摘は、法の公平性という点で当時から注目され、「日本無罪論」が話題にもなりました。パール判事は、事後的に定めた法律で被告を裁く「東京裁判」は、法的には明らかに不当だと指摘します。
その一方で、28名の被告人の行為を「正当化する必要はない」と明言しています。映画でも、この点はきちんと伝えました。一部の人たちが声高に叫ぶ「パール判事が無罪と言った」だけが、一人歩きするようなことにならないように注意したつもりです。
この映画には、見る人によって様々な課題、問題を見いだすことができます。私は個人的によく思うのですが、例えば、仮にもし日本が戦勝国だった場合、日本は「東京裁判」よりも開明的で、より公平な裁判を開く能力があったのか。また、戦争犯罪人の裁判において、戦勝国が自国の裁判権を放棄して、第三者に公正な裁判させることは、政治的な現実としてあり得るのか。その当時そんな事例があったのか。
よく言われるように「東京裁判」は、裁判という形式をとった政治決着だ、という風に見た方が実態を理解しやすい。私は必然的な政治劇だったと理解しています。政治劇として見ることによって、我々は勝者敗者双方まとめて、より深く、広く矛盾点や歴史的課題を見出すことができるように思います。
「東京裁判」は開放的な情報公開体制の中で裁判ができた一方、誤謬を持ちつつ、様々な矛盾をさらけ出しながら開かれた裁判だった。だからこそその中に大きな含蓄があるように思います。

――裁判に対して、当時から矛盾の指摘や批判があった点に触れています。観客は、この裁判について時に混乱し、深く考えざるを得なくなる。
そこですね。今おっしゃったように、これだけの問題を前にすれば誰だって混乱せざるを得ません。世界大戦の責任を裁く国際軍事裁判において、正義か不正義か、不公平とか不当だとする議論が法廷において出てくる、こんな世界を、混乱なしに、明快な答えが出せるはずはありません。裁判所自体がその矛盾を抱えながら、この裁判に決着をつけなければならない、そういう実態が見えてきたわけです。
同時に、あれだけ悲惨な戦争があったのだから、その責任問題について、日本人一人一人が自分たちのこととして苦しみ、考えなければ、本当の答えに近づけないのではないかと思うんです。世間的には憎き戦犯と見られていた東条英機を、小林監督は映画の中では一人の人間として捉えて、その答弁や発言をきちんと紹介しています。世評にまかせて「こいつはけしからん奴だ」と初めから裁判の結果を追認し断罪してしまったら、観客はその存在や責任行為について考えることしなくなってしまう。

――小林監督も、そこにいた「人間」を描くことにこだわった。
あの戦争を、全て「軍部の暴走」として罪を押し付け、自分たちは無罪であったかのように思い込んだとしても、そんなことで済むはずはありません。当時の日本人は、戦争の加担者でもあり、被害者でもあった。否応無しにその両面的な立場に立っている。その自覚は必要だろうと思うわけです。国家の中枢で戦争を遂行する決定を下し、日本を引きずっていった人たちの生身の姿にきちんと向き合い、もう一度自分自身が「あの時代は何であったのか」と考えて見る必要がある。自分としての裁きはどうなのか、それをみんなで考えていかないといけない。映画『東京裁判』はそういう思考を促し、素材を提供することにもなると思います。

――被告の生身の姿、人間らしさは、文字情報では得られない感覚でした。大川周明が東条英機の頭を後ろからパチンと叩くシーンや、証言台では被告人同士が開戦責任問題で非難の応酬になったり…。
開戦時に外務大臣だった東郷茂徳と、海軍大臣だった嶋田繁太郎が対立したシーンですね。戦前の国民にとって、被告人たちは天上びとのような存在だった。それが、あの法廷で利害を争う生身の姿をさらした。それを一般の国民が目にして「あの偉い人たちもこんなものだったのか」と感じる。
大川が後ろの席からいきなり乗り出して、東条被告の頭をピシャッと叩く、これがかつて日本の進路を誤らせた有力者の姿なのか、喜劇なのか悲劇なのか、そういう実態をズバリとみせる。これも記録の力ですね。

――是が非でも天皇を訴追したいウェッブ裁判長が、東条英機の証言を聞いて、我が意を得たりと畳み掛けるシーンも印象的でした。
結論から言えば、この裁判を通して天皇を救ったのは実はアメリカだったとも言えるでしょう。仮に「東京裁判は勝者による裁判でけしからん」「不当である」「無効にすべきだ」と強調すれば、天皇の免責はなかったことになる可能性もあるわけです。一面だけを切りとって否定しても、あまり意味がない。矛盾を背負い込むだけでしょう。

――「東京裁判」を顧みるための構成には、苦労があったと思います。戦争が終結する直前のポツダム会談の映像から始まり、玉音放送、歌人の土岐善麿が詠んだ敗戦の和歌~「あなたは勝つものと思つてゐましたかと老いたる妻のさびしげにいふ」~や戦勝に熱狂する欧米の街頭の市民の様子も。市井の声と社会の流れをうまく合わせていました。 
こうした構成や編集は、やはり小林監督とメインスタッフたちが、終戦前後の社会に生きていた人たちが関わったからだと思います。その時代を体験していない今の人たちがつくったとしたら、同じ素材でもまた全然違うものになると思いますね。特に玉音放送の完全字幕化は、監督の意図でもありました。ルビつき字幕を入れたからすんなり理解できるわけでもないですが、それでも終戦当時の雰囲気というか、あの独特の言葉からは時代性が共有される、そういう感覚的影響は非常に大きいと思います。
映画『東京裁判』は、あの時代の証言の一つであり、戦争の時代を生きた我々から今の世代へ、そしてさらに次世代への伝言・遺言です。未来へのタイムカプセルですね。その内容が、古きよき時代のメルヘンや回顧談ではなく、これをひもとくことで常に現代と繋がっている、近現代史の原点じゃないかという実感を持ってもらえたら、理想的な役割を果たしたことになると思います。

――新しい世代の人々が見ても、現代に重なる意味をくみとれると。
そうですね。先日もある大学で試写会をやりましたが、多くの方々に今の時代とつながっているんだという実感を持ってもらえたようです。裁かれた時代、つまり戦時中と違って、今は世の中で何が起こっているかという情報もすぐに手に入る。矛盾だらけの世界情報に日常的に接している分、今の学生さんたちは肌感覚として理解しやすいのかもしれません。

――ラストシーンも印象的でした。「東京裁判」なのに、戦犯の処刑で終わらせず、その後の世界情勢を映像で紹介しています。東西冷戦、中東のスエズ危機、欧州のハンガリー動乱、米ソのキューバ危機と…。
私も当初は、戦犯が処刑され、あの戦争に対する識者の評価やメッセージを引用してみようかとは思いました。ところがどんな名言をもってしても、この映画のラストを締めくくることにならなかった。映画の現実がいかに強烈だったのかということです。小林監督も「やっぱり、映像で終わることが一番いいですね」と言う。

――そして最後はベトナム戦争。ナパーム弾から逃げる裸の少女の写真(題名「戦争の恐怖」)で終わる。
戦争で最も被害を受けるのは、無辜の民。庶民ですよ。ですから、その視点がきちんと見える映像がいい。そこで咄嗟に思い出されたのがピュリッツァー賞を受賞した、ベトナム戦争でナパーム弾を浴びて逃げ惑う裸の少女の写真でした。ただ、太平洋戦争の写真じゃないので、ストレートにつながりにくい。とりあえず通信社から写真を送ってもらいました。それを見るなり、小林監督は「これでいいんじゃない」と一言。その時点で、この写真を最後のシーンにしようと直感で決めたようです。
私は私で、どうすれば映画のラストがこの写真につながるだろうかと、思案させられました。問題は、そもそも「東京裁判」は何を目指していたのかということ。その目的は、世界の戦争を終わらせ、世界を平和にすることを目標として連合国が日本を裁いたわけです。したがって、連合国は当然、世界の平和を維持する責任と義務を持っているはずです。ところが、そんなことはお構いなしに、世界のあっちこっちでドンパチが始まった。
「こういう現実を、一体どう考えるのか」と。世界の恒久平和を願う「東京裁判」も日本国憲法も、アメリカをはじめ連合国が残した平和保証の担保物件ではないのか。そのことをアメリカや連合諸国に問い続けるべき立場にあるのが、日本ではないのか。そう考えているうちに、その後の国際紛争の年表が流れ出し、ごく自然体でラストカットのベトナム戦争の無防備な少女の写真につながったわけです。

――ベトナム戦争に介入したアメリカに、理想と現実のズレを突きつけた。エンドロール後にも「完」や「終」などエンドマークがなかったことも驚きました。
脚本を書き上げた時、最後に「終」とか「完」を書き入れると、何ともぎこちない。浮いてしまうんですよね。「終」って、「何が終わりなんだ」と。映画は終わりとしても、ここに提起された現実は、何も終わっていないのではないか。そう問われている。結局「終」は書かずに小林さんに脚本を見せ、監督の裁量に預けた。
決まったのは最後の製作関係者の総合試写段階でした。みんなが集まったところで、小林監督が「この映画には、エンドマークは入れないことにします」と宣言した。映画は終わっても、そもそも「東京裁判とは何だったのか」という整理が、日本人の中では終わっていない。「東京裁判」と、その後の世界の矛盾と向き合う覚悟を持っことで、その課題を見据えることができると思うんです。だから「終」は見た人が考えてください、と観客に預けているわけです。

アップ cf. 本作ラストシーンに登場する~上掲インタビューに指摘された~「戦争の恐怖(Fear of War)」と題する“ベトナム戦争でナパーム弾を浴びて逃げ惑う子供たちの写真” :
「戦争の恐怖」
これは、1972年6月8日に当時21歳のAP通信ベトナム人カメラマン、ニック・ウット(Nick Ut、1951~)が撮影した、ベトナム戦争の惨状・悲劇を如実に伝える、あまりにも有名な1枚の写真である。南ベトナム軍機によるナパーム弾投下で、タイニン省(西寧省)チャンバンの燃え盛る村から、火傷を負って泣き叫びながら逃げ惑う無防備な子供たちを捉えた報道写真「戦争の恐怖」は、全世界に配信され、世界中の人々の心に深く印象づけられた。そして、日本、ロンドン、パリ…ワシントンD.C.のホワイトハウス前でも、激しい反戦運動を巻き起こす一大契機となった。
この世界に衝撃を与えた写真は、別名「ナパーム弾の少女」として知られている。写真中、格別に世界の注目を浴びたのが、中央に位置する9歳の丸裸の少女ファン・ティー・キムフック(Phan Thị Kim Phúc、1963~)。ニック・ウットは後に、「少女は左腕に火傷を負い、背中の皮膚がめくれているのが見え、この子は助からないとすぐに思いました。…彼女はずっと泣き叫び続けていて、私は『ああ、神様』と思うばかりでした」と回想している。世界中が「我が子」のように共感するにいたった「ナパーム弾の少女」⇒「戦争の恐怖」は、翌1973年、ピューリッツァー賞(「ニュース速報写真部門」)を受賞している。ちなみに、負傷したキムフックは、一命は取り留めたものの、その後17回にも及ぶ手術を受けていた―。

「戦争の恐怖」は、かつてベトナム反戦デモンストレーションに参加した私にとって、いまだに夢寐(むび)にも忘れがたい写真の一枚である。なお、この写真中に見える人物として私個人が少女キムフック以上に、なぜか気になったのは、彼女の直前を、泣き叫びながら走る少年だった。彼はその後、どういう人生をたどっただろうか、現在も存命中なのだろうか…。

私感
本作の鑑賞は、最初が1983年の公開時、今回が2度目となる。 
36年ぶりの再見で、今改めて次のような諸点を教わった(参照:前掲「小笠原清 インタビュー」)。

・“東京裁判”はまだ終わっていない。それは、いわば日本近現代史の“原点”である。戦後74年を経て、歴史は今なお、「あの戦争は何だったのか」と、私たち日本人に問いかけてくる。映画『東京裁判』は、あの時代の証言の一つであり、戦争を生きた世代から今の世代へ、そしてさらに次世代への伝言・遺言にほかならない。

・もし日本が戦勝国だったなら、当の日本が果たして、この「東京裁判」よりも“開明的で、より公平な”裁判を開くことができただろうか。そもそも戦争犯罪人の裁判において、戦勝国が自国の裁判権を放棄して、第三者に公正な裁判させることが、政治的な現実としてあり得る事態なのか。アメリカ・連合国と日本の立場が仮に逆であったとすれば、日本の法廷が《反/非》民主主義体制下、連合国側の被告人に少なくとも《自己》弁護の機会など与えないことは、火を見るよりも明らかなり。

・この「東京裁判」を通して天皇を救ったのは、実状に即して言えば、アメリカにほかならなかった。多くの論者~特に「右派」~が思い知るべきは、東京裁判が「勝者による敗者の裁判でけしからん」/「不当である」/「無効にすべきだ」と論断するほどに、天皇の“免責”が許されない可能性が強まるということ。“正義”の士よろしく、「真に公正な裁判を行なうのなら、戦争に関係ない中立国の代表によって行なわれるべきだ」と強調するほどに、「戦争犯罪人としての起訴から天皇を免除する」ことがおよそ覚束(おぼつか)なくなる―。一面だけを切りとって偏見・謬見を押しつけたところで、全体として論理矛盾を背負い込むのが落ちだ。

・「東京裁判」は裁判という形式をとった政治決着である。私たちは同裁判を必然的な政治劇と理解して初めて、その戦勝国・戦敗国双方まとめて全体的に、より深く、広く矛盾点や歴史的課題を見出すことができる。

・「東京裁判」の被告人たちは、戦前の多くの国民にとって、「天上びと」のような存在だった。その「偉い人たち」が、法廷で利害を争う生身の姿を晒(さら)した。対米開戦時に外務大臣だった東郷茂徳(1882~1950)と、海軍大臣だった嶋田繁太郎(1883~1976)が対立したシーン:東郷は裁判の個人反証で開戦前に海軍が無通告攻撃を主張していたことを告げ、嶋田らを憤慨させた―。また、右翼国粋主義運動の理論的指導者・大川周明(1886~1957)が後ろの席からいきなり乗り出して、前席の東条英機の禿頭を平手でピシャッと叩くシーン。この奇行ぶりが真の「発狂」であったかor「演技」(詐病)であったかは、いまだに議論の分かれるところであるが…。
これがかつて日本の進路を誤らせた有力者の姿なのか、喜劇なのか悲劇なのか、そういう実態をまざまざと見せつけてやまない数々の記録映像。それにしても、私は画面にジッと見入りながら、つくづく思ったものだ。法廷内の悩ましい憂鬱な状況下だったにせよ、日本人被告人は揃いも揃って、どうしてこうも風采の上がらない、キャラが立たない、しょぼくれたオッサンばかりなのだろう…と。

・「東京裁判」時の大方の日本人は、自分たちを苦しめた戦犯たち、とりわけ東條英機が処刑されたことで、この裁判の帰趨に納得し、多大な犠牲を強いた戦争の原因→責任を自ら追及することを忘れていった。だが、その悲惨極まりない戦争の責任問題について、日本人一人一人が“我がこと”として受け止め苦しみ、考え抜かなければ、本当の答えに近づくことはできない。自覚すべきは、当時の日本人が戦争の加担者として、また被害者として否応なしにその両面的な立場に立っていたということ。私たち各人は、国家の中枢で戦争を遂行する決定を下し、日本全体を引き摺(ず)っていった人たちの生身の姿にきちんと向き合い、もう一度自ら「あの時代は何であったのか」と思考を巡らさなければならない。

・「東京裁判」は本来、世界の戦争を終わらせ、世界を平和にすることを目的としてアメリカを主とする連合国(United Nations)が日本を裁いたものだ。したがって当然、連合国は世界の平和を維持する責任と義務を負う。ところが、どうだろう、戦争はその後も世界のあちこちで続き、さらに今世紀に入って、その形を変えながら頻発している。世界の恒久平和を願う「東京裁判」も、さらに「日本国憲法」も、アメリカを始めとする連合国諸国が残した平和保証の担保物件ではないのか。その歴史的事実を端的に問い続けるべき立場にあるのがほかでもない、この日本なのだ―。

[※追記(2019/10/21):2019年10月15日(火)、本作を有楽町スバル座―「スバル座の輝き~メモリアル上映~」―で、13:00~再見。
この10月20日に閉館した同館では(cf. 本ブログ〈September 05, 2019〉)、幕を閉じる前の10月5~20日の16日間、「スバル座の輝き」と題して、過去の上映作品などをラインアップした「メモリアル上映」が催された。]
2019年9月3日(火)有楽町スバル座(東京都千代田区有楽町1-10-1 有楽町ビル2階、JR有楽町駅・日比谷口正面)で、16:15~鑑賞。

「東京裁判」⑶

作品データ
製作年 1983年
製作国 日本
配給 東宝東和
上映時間 277分

日本初公開 1983年6月4日

「東京裁判」⑴
 (公判中の法廷内)

「東京裁判」⑹
 (法廷内の被告人席)

“東京裁判”と呼ばれ、戦後日本の進路を運命づけた極東国際軍事裁判(The International Military Tribunal for the Far East)。太平洋戦争敗戦後の1946~48年、市ヶ谷の旧陸軍省参謀本部にて開廷された裁判の模様を、裁判から25年後(1973年)に公開されたアメリカ国防総省(ペンタゴン)の50万フィートに及ぶ長大なフィルムをもとに、5年の歳月と4億円の費用をかけて製作した記録映画(4時間37分に亘る歴史的ドキュメンタリー)。生々しい当時の映像をもとに、戦前のニュース映画や諸外国のフィルムも交え、戦争責任の所在、国家と個人の関係、あるいは勝者が敗者を裁くことの限界といった様々な問題を浮き彫りにした渾身の力作。監督は『人間の條件』『切腹』の名匠・小林正樹(1916~96)。音楽を武満徹(1930~96)、ナレーターを俳優の佐藤慶(1928~2010)が担当。第35回ベルリン国際映画祭国際批評家連盟賞を受賞。2019年8月3日より監督補佐・脚本の小笠原清(1936~)らの監修のもとで修復された4Kデジタルリマスター版が公開(配給:太秦)。

「東京裁判」⑷
「東京裁判」⑸

ストーリー
1945(昭和20)年7月26日、連合国のアメリカ、イギリス、中華民国による日本への降伏要求“ポツダム宣言(Potsdam Declaration)”が発表された。対応に窮した日本がこれを「黙殺」しているうちに、アメリカは8月6日・広島、9日・長崎に原子爆弾を投下。さらにソ連が9日、日ソ中立条約を破って満州と樺太に侵攻。ついに日本はポツダム宣言を受諾し、8月15日に全面降伏の旨を天皇自身の声で国民に公表した。
戦後の日本を統治することになった連合国軍最高司令官マッカーサー元帥は、「軍事力の粉砕」「戦争犯罪人の処罰」「代表制に基づく政治形態の確立」といった三大政策の中で、特に「戦争犯罪人の処罰」を早急に実施することを命じた。それは彼らを裁くことによって、日本人へ敗戦の事実とそれに伴う価値観の転換を示唆することに繋がると確信していたからである。

1946年1月19日、極東国際軍事裁判所条例(Charter of the International Military Tribunal for the Far East)が布告され、戦争そのものに責任のある主要戦犯を審理することが決定された。同年4月29日、それまで(満州事変→「支那事変」→太平洋戦争)日本を支配した指導者100名以上の戦犯容疑者の中から、太平洋戦争開戦時の首相・東條英機を始めとする28名が被告人に指定された。一方、国の内外から問われ、重要な争点となった天皇の戦争責任については、世界が東西両陣営に分かれつつあるなか米国政府の強い意志により回避の方向へと導かれていく
法廷は東京・市ヶ谷の旧陸軍士官学校の大講堂(戦時中の旧陸軍省参謀本部、現在の自衛隊市ヶ谷駐屯地)に用意された。裁判官及び検事は、降伏文書に署名した9か国(アメリカ、イギリス、ソ連、中華民国、フランス、カナダ、オランダ、オーストラリア、ニュージーランド)と、インド、フィリピンの計11か国代表で構成され、裁判長にはオーストラリア代表、ウイリアム・ウェッブ(William Webb、1887~1972)が、主席検察官にはアメリカ代表、ジョセフ・キーナン(Joseph Keenan、1888~1954)が選ばれる。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)内には、キーナン主席検察官を長とする500人近くのスタッフを擁する国際検事局が設置された。一方、弁護側は鵜沢総明(1872~1955)を団長、清瀬一郎(1884~1967)を副団長とする日本人弁護団(「極東国際軍事裁判日本弁護団」)が結成されたほか、ベン・ブルース・ブレイクニー(Ben Bruce Blakeney、1908~63)らアメリカ人弁護団25名も参加し、日米双方の弁護人が100名を超えていた。

東京裁判は1946年5月3日に開廷した。まず起訴状の朗読が行なわれ、55項目に及ぶ罪状(「訴因」=検察側により認定された具体的犯罪事実)が挙げられた。それは、第1類「平和に対する罪」(訴因1~36)、第2類「殺人罪」(訴因37~52)、第3類「通例の戦争犯罪及び人道に対する罪」(訴因53~55)の3部に大別されていた。そのうち、訴因1(1928~45年における「東アジア・太平洋・インド洋内及びこれに隣接する全ての国家及び島嶼に対する軍事・政治・経済的支配を目的とする戦争計画・遂行に関する共同謀議」)が総論的訴因の位置を占めており、訴因2~5において満州事変、支那事変、大東亜戦争、日独伊三国同盟の各段階における共同謀議を扱っている。その第1日目午後、被告人の超国家主義者・大川周明(1886~1957)がいきなり前に座る東条英機の頭を掌で叩くという珍事も起きた―。
同月6日の罪状認否で被告人は全員無罪を主張。また、13日、清瀬一郎弁護人はポツダム宣言後に制定した「平和に対する罪」と「人道に対する罪」は罪刑法定主義(法律がなければ犯罪はなし)と法律不遡及(刑罰不遡及)の原則に違反しているから、当法廷に被告人たちを裁く権利はないと異議を申し立てた。
同月14日、アメリカ人弁護人のジョージ・ファーネス(George Furness、1896~1985)は、真に公正な裁判を行なうのなら、戦争に関係ない中立国の代表によって行なわれるべきと訴え、同じくブレイクニー弁護人は国家行為である戦争の個人責任を問うことは法律的に誤りであると主張。さらに「キッド提督の死が真珠湾攻撃による殺人罪に当たるならば、我々はヒロシマに原爆を投下した者の名を挙げることができる」と訴えた。こうした日米弁護人の裁判管轄権への異議を、ウェッブ裁判長は「個人を罰しなければ、国際犯罪を実効的に阻止できない」として却下した。
同年6月4日、キーナン主席検察官の冒頭陳述が行なわれ、以後「満州事変段階」→「支那事変段階」→「日独伊三国同盟段階」→「北部仏印段階」→「ソ連段階」→「太平洋戦争段階」→「残虐段階」など、約17年8か月(1928年1月1日~45年9月2日)にわたる日本および日本軍の“行為”が、検事団の定めた各段階に応じて告発されていく。そして、ここからはあらゆる階層の人々が歴史の証人※として法廷に立ち、検察と弁護両者の訊問にさらされていく。

出廷した証人には、ドナルド・ニュージェント(Donald Nugent、GHQ民間情報教育局〈CIE〉局長)、海後宗臣、大内兵衛、瀧川幸辰、前田多門、伊藤述史、緒方竹虎、鈴木東民、幣原喜重郎、清水行之助、徳川義親、犬養健、宇垣一成、若槻礼次郎、田中隆吉、ジョン・マギー(John Magee、1884~1956、アメリカ聖公会牧師)、愛新覚羅溥儀(あいしんかくら・ふぎ/アイシンギョロ・プーイー、1906~67、前満州国皇帝)らがいた。

1945年11月20日に始まったドイツの戦争犯罪を裁く“ニュルンベルク裁判”が、46年10月1日に終結。その審判に対する東京裁判の被告人たちの受け止め方は種々様々であった。
1946年11月3日、日本国憲法が公布。これによって天皇は、普遍的な民主主義と人権の理想を誓った「国民の象徴」という形で新しい生命を得るとともに、時代を超えた国際協調と平和主義の理念を謳う「戦争と軍備の放棄」が第9条に記された。被告人らはその理想主義に、自分らが経験してきた国際政治の現実との大きなギャップを感じた。
1947年1月27日からは弁護団の反論が進められることになり、9月10日より「個人反証段階」が始まり、被告人が証言台に上っていくが、廣田弘毅ら8名はそれを拒否した。
同年11月7日、ウェッブは突如、自国の裁判のために帰国すると発言し、法廷内は混乱。もともと彼は天皇の戦争責任を追及したがっていたが、マッカーサーやキーナンの思惑で封じ込められたことに対する忸怩たる思いがあった。
12月26日、東條英機が証言台に立ち、この戦争は自衛であり、国際法には違反しないとして勝者が敗者を裁くことの非を訴えつつ、敗戦そのものの責任は開戦時の総理大臣だった自分にあるとしたが、31日に「日本国の臣民が陛下のご意志に反して、かれこれすることはありえない。いわんや、日本の高官においておや」という趣旨の話をする。この発言内容が事実ならば、戦争を始めたのも天皇の意志ということになるではないか!昭和天皇の戦争責任に通じる、重要な証言だった。ウェッブは得たりや応とばかりに、「今の発言がどのようなことを示唆するのか、分かりますね」と述べる。天皇免責の方針を固めていたアメリカの意向と著しく異なる話に慌てふためいたキーナン。彼は元日と、3日、4日の土、日曜の休廷中にあらゆる人脈を使って工作を施した。

1948年1月6日の訊問再開
キーナンが訊ねる。「先日、あなたは、日本臣民たる者は何人たりとも天皇の命令に従わぬ者はいないと言われましたが、正しいですか」
東條が答弁する。「それは国民感情を申し上げたのです。天皇の御責任問題とは別です」
キーナン「しかし、あなたは実際に米、英、オランダに戦争をしたではありませんか」
東條「私の内閣において戦争を決意しました」
キーナン「その戦争を行なえというのは、裕仁天皇の意思ですか」
東條「私の進言…統師部その他責任者の進言によって、しぶしぶ御同意になったというのが事実です。平和愛好の陛下は、平和への御希望は持っておられました。昭和16年12月8日の御詔勅の中に、明確にその御意思の文言がつけ加えられています。しかも、それは陛下の御希望によって、政府の責任において入れた言葉です。まことにやむを得ざるものあり、朕の意思にあらずという意味の御言葉であります」

1月8日、マッカーサーは総司令部にウェッブとキーナンを招き、東條証言の経過を聞いた後で、天皇の不起訴を決定した。   
4月16日、すべての審理は終了。そして結審約7か月後の11月4日午前9時30分、ウェッブ裁判長は「ジャッジメント」~判決文(判決内容)~の朗読を開始する。判決文は次の10章と付属書A・Bから成り、英文で1212ページに及ぶ膨大なものだった。

第1章 本裁判所の設立および審理
第2章 法 
 1 本裁判所の管轄権
 2 捕虜に関する戦争犯罪の責任
 3 起訴状
第3章 日本の権利と義務
第4章 軍部による日本の支配と準備
第5章 中国に対する侵略
第6章 ソ連に対する侵略
第7章 太平洋戦争 
第8章 通例の戦争犯罪
第9章 起訴状の訴因についての認定
第10章 判定

全判決文の読み上げには1週間を要した。第1日目の11月4日に第4章途中まで、5日にその続き、(6日・7日は土・日曜日で休廷)8日・9日に第5章、10日に第6章・第7章、11日に第8章の途中まで、そして12日、最終日に第8章の残りの部分と、第9章「起訴状の訴因についての認定」が、それぞれ読まれた。第9章では、当初提起された55項目の訴因が整理されて最終的に10項目の訴因についてのみ罪状の認定が行なわれた。それは、次の「平和に対する罪」の8訴因、「通例の戦争犯罪及び人道に対する罪」の2訴因である。

• 訴因1 ‐ 1928~45年における侵略戦争の共同謀議
• 訴因27 ‐ 満州事変以後の中華民国に対する戦争の遂行
• 訴因29 ‐ 米国に対する戦争の遂行
• 訴因31 ‐ 英国に対する戦争の遂行
• 訴因32 ‐ オランダに対する戦争の遂行
• 訴因33 ‐ 北部仏印(フランス領インドシナ)進駐以後のフランスに対する戦争の遂行
• 訴因35 ‐ ソ連に対する張鼓峰事件の遂行
• 訴因36 ‐ ソ連及びモンゴルに対するノモンハン事件の遂行
• 訴因54 ‐ 満州事変以後の中華民国の、また真珠湾攻撃以後の米国・英国・フランス・オランダ・フィリピン・ポルトガル・ソ連の、軍隊や俘虜及び一般人に対する戦争法規慣例違反の命令・援護・許可
• 訴因55 ‐ 満州事変以後の中華民国の、また真珠湾攻撃以後の米国・英国・フランス・オランダ・フィリピン・ポルトガル・ソ連の、軍隊や俘虜及び一般人に対する戦争法規慣例違反の防止義務の無視[不作為(omission/nonfeasance/neglect)]※

通例の戦争犯罪との関連で指摘されている問題点は、部下の戦争犯罪に関する軍指揮官の「不作為責任」という概念である。軍指揮官(上官)の部下に対する監督義務違反の可罰性は「上官責任(Command Responsibility)」という概念として形成され、いわゆるBC級戦犯(一般戦争法規違反受刑者)裁判において大きな争点となっており、東京裁判においても重要な意義を有していた。

なお、法廷で朗読された判決文は、英国の判事ウィリアム・パトリックを中心とする多数派(英国、米国、中華民国、ソ連、カナダ、ニュージーランド、フィリピンの7か国)が作成したもので、ウエップ裁判長も多数派に押し切られて容認せざるをえない格好となった。この判事団の多数判決(多数派意見)に対して、五つの個別意見書が提出された。フィリピンのデルフィン・ハラニーリャ判事の「同意」意見書、オーストラリアのウエップ裁判長の「別個」意見書、インドのラダビノード・パル判事、フランスのアンリ・ベルナール判事、オランダのベルト・レーリンク判事それぞれの「反対」意見書である。
ウエップ裁判長は被告人に対する「刑の宣告」の前に、次のように陳述している。
「本官が朗読した判決は、裁判所条例に基づき、本裁判所の判決である。インド代表判事は、多数意見による判決に反対し、この反対に対する理由書を提出した。フランス及びオランダ代表判事は、多数意見による判決の一部について反対し、この反対に対する理由書を提出した。フィリッピン代表判事は、多数意見に同意して、別個の意見を提出した。大体において、事実については、本官は多数と意見を共にする。しかし、反対意見を表明することなく、裁判所条例と本裁判所の管轄権を支持する理由と、刑を決定するに当たって本官に影響を与えたいくらかの一般的な考慮とを簡単に述べたものを提出した。これらの文書は記録に止め、また最高司令官、弁護人及びその他の関係者に配付される。弁護人はこれらの別個の意見を法廷で朗読することを申請した。しかし、本裁判所はこの問題をすでに考慮し、法廷では朗読しないことに決定していた。本裁判所はこの決定を変更しない。」(東京裁判判決-2015年01月27日
英領インド帝国の法学者・裁判官ラダビノード・パル(Radhabinod Pal、1886~1967)による、いわゆる「パル判決書」~英文で判決文より長い1275頁もの意見書~は、法廷で未発表のまま関係者だけに配布された。パルは事後法で何人(なんぴと)も裁くことはできないとし、「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」「戦争の勝敗は腕力の強弱であり、正義とは関係ない」などと裁判そのものを批判し、全被告人の無罪~個人としての被告は全員、起訴事実すべてに「無罪」~を主張した。現在、これは世界裁判史上でも無類のものとして高く評価される観点であるが、その意見書には「被告人たち及び日本国の行動を正当化する必要はない」との点も明記されている。パルはあくまでも国際法専門家としての純然たる法的な訴えを基調としており、日本の戦争責任自体が存在しないという立場に立つわけではない。事実、「パル判決書」は戦争法規違反の“民間人や捕虜に対する残虐行為”などについても、敗戦国の日本やドイツ、戦勝国のアメリカに分け隔てなく批判的見解を表明し、一方の政策への個人的見解を前提とした恣意を強く戒めている。例えば、訴追理由となった、アジア各地における日本軍兵士の残虐行為についても、多くは実際に行なわれていたであろうと判定している。

主要な訴因数が10に絞られたあと、引き続き被告人25人に対して~荒木貞夫からアルファベット順に~、訴因ごとの有罪・無罪の判定が読み下された。そして、15分間の休憩の後、ウエップ裁判長は被告人一人一人を呼び出して「刑の宣告」を言い渡した。

被告人は当初28名。その内、元外相・松岡洋右(1880~1946/06/27)と元帥海軍大将・永野修身(1880~1947/01/05)は公判中に病没し、大川周明(1886~1957)は「精神障害」と認定されて入院、1947年4月9日に訴追免除。残る25名全員に対して有罪判決が下った。絞首刑7名、終身禁錮刑16名、有期刑2名であった。判決における被告人別の訴因(該当番号)と量刑は、次の通りである。

被告人/該当訴因番号/量刑
荒木貞夫/1、27/終身禁錮刑
土肥原賢二/1、27、29、31、32、35、36、54/死刑
橋本欣五郎/1、27/終身禁錮刑
畑俊六/1、27、29、31、32、55/終身禁錮刑
平沼騏一郎/1、27、29、31、32、36/終身禁錮刑
廣田弘毅/1、27、55/死刑
星野直樹/1、27、29、31、32/終身禁錮刑
板垣征四郎/1、27、29、31、32、35、36、54/死刑
賀屋興宣/1、27、29、31、32/終身禁錮刑
木戸幸一/1、27、29、31、32/終身禁錮刑
木村兵太郎/1、27、29、31、32、54、55/死刑
小磯國昭/1、27、29、31、32、55/終身禁錮刑
松井石根/55/死刑
南次郎/1、27/終身禁錮刑
武藤章/1、27、29、31、32、54、55/死刑
岡敬純/1、27、29、31、32/終身禁錮刑
大島浩/1/終身禁錮刑
佐藤賢了/1、27、29、31、32/終身禁錮刑
重光葵/27、29、31、32、33、55/禁錮刑7年
嶋田繁太郎/1、27、29、31、32/終身禁錮刑
白鳥敏夫/1/終身禁錮刑
鈴木貞一/1、27、29、31、32/終身禁錮刑
東郷茂徳/1、27、29、31、32/禁錮刑20年
東條英機/1、27、29、31、32、33、54/死刑
梅津美治郎/1、27、29、31、32/終身禁錮刑

絞首刑は土肥原賢二大将、廣田弘毅元首相、坂垣征四郎大将、木村兵太郎大将、松井石根大将、武藤章中将、東條英機大将の7名。首相や外相などを歴任した文官の廣田以外、6人全員が陸軍の軍人。7名の極刑は、11人の判事の票決(多数決)で、廣田弘毅が6対5であった以外7対4の票数で決定された。4票の反対は、全員を無罪としたインドのパル判事、国内法が死刑を認めていなかったソ連とオーストラリア2国の各判事ザリヤノフとウェッブ(裁判長)、そしてフランスのベルナール判事であったと推定される。後三者は天皇を除外したことに批判的であり、それも作用したと考えられる。また、死刑一般に反対した4名に加えて、オランダのレーリンク判事が廣田個人の極刑に反対した。

終身刑16人の内訳は、次の通り。〈陸軍〉荒木貞夫、橋本欣五郎、畑俊六、小磯國昭、南次郎、大島浩、佐藤賢了、鈴木貞一、梅津美治郎/〈海軍〉岡敬純、嶋田繁太郎/〈文官〉平沼騏一郎、賀屋興宣、星野直樹、木戸幸一、白鳥敏夫。有期刑は重光葵(7年)、東郷茂徳(20年)の外務省の2名。なお、賀屋興宣、白鳥敏夫、梅津美次郎の被告人3人(共に終身刑)は11月12日当日、病気のため出廷できず、 出廷被告の刑の宣告が終わった後に、欠席のまま刑の宣告を受けた(=各担当弁護人が自席で受けた)。

11月12日、ウエップ裁判長による「刑の宣告」をもって、午後4時12分に東京裁判は終結した。極東国際軍事裁判は結局、2年6か月(1946/05/03~1948/11/12)の歳月と27億円(当時)の巨費を費やし、開廷が423回、法廷証人が12か国419人、証拠採用された書類が4336通(779通の宣誓口供書を含む)、英文で書かれた裁判「速記録」が49858頁に及んだ。

7名の処刑は、判決から約1か月半後の1948年12月23日早暁(午前零時1分30秒~同35分)、巣鴨プリズン(Sugamo Prison)で実施された。死刑台の数の関係で、土肥原、松井、東條、武藤が第1組、板垣、廣田、木村が第2組に分けられて、次々と絞首刑に処せられた―。

…その後、冷戦下の東西緊張は双方に自衛と軍備拡大の主張を募らせ、世界平和は武力均衡の上に成立するという考えを定着させていく。世界の惨害から将来の世代を救うという国際連合の理念から、連合国の現実はすでに大きく後退していた。
1950年の朝鮮戦争以降も、世界中で愚かな戦争の惨禍は繰り返し続けられている…。

(※この映画にENDマーク〈「終」ないし「完」〉はない⇒真の世界平和が訪れる時まで、それを入れることができない⇒「東京裁判」の課題は今日にもそのままつながっている!)

 アップ ダウン
「東京裁判」⑵

戦犯判決

▼予告編



Arraignment(罪状認否) :



Judgment(判決) :



【「映画『東京裁判』(2)」[本ブログ〈September 08, 2019〉]へ続く…】
2019年9月3日(火)有楽町スバル座(東京都千代田区有楽町1-10-1 有楽町ビル2階、JR有楽町駅・日比谷口正面)で、13:30~鑑賞。

「有楽町スバル座」がこの10月20日に閉館する―。私自身は今回約1年ぶりに入館して初めて知ったのだが(前回入館2018年9月11日:本ブログ〈September 14, 2018〉)、既に3月15日に同館を運営するスバル興業から「10月中旬頃」に閉館する旨が発表されていたとのこと。
有楽町スバル座と言えば、1946年 12 月31日に 開館した、「 日本初の洋画ロードショー劇場 」 だった「丸の内スバル座」を継承し、53年9月6日の“スバル座火災”を経て、66年 4 月27日に有楽町ビルの竣工とともに 「有楽町スバル座」として再オープンした、文字通り“戦後日本社会”の映画風景をくっきりと照らしてきた老舗映画館。北海道から上京して以来五十数年、私が同館で映画鑑賞にいたった回数は何回だろうか?記憶が朦朧としているものの、少なくとも200回は超えるだろう。そのスバル座が無くなる…寂しい限りだ。


「マイ・エンジェル」

作品データ
原題 Gueule d'ange
英題 Angel Face
製作年 2018年
製作国 フランス
配給 ブロードメディア・スタジオ
上映時間 108分


『エディット・ピアフ~愛の讃歌~』『サンドラの週末』のマリオン・コティヤールが我が子を想いながらも愛し方の分からないシングルマザーを演じるヒューマン・ドラマ。南仏のコート・ダジュールを舞台に、母親の育児放棄という非情な現実に直面した8歳の少女の過酷な運命と成長をエモーショナルに綴る。娘役には新人のエイリーヌ・アクソイ=エテックス。監督は本作が長編デビューとなるヴァネッサ・フィロ(Vanessa Filho、1980~)。

ストーリー
南仏、地中海沿岸のコート・ダジュール。シングルマザーのマルレーヌ(マリオン・コティヤール)は、浜辺に程近い近いアパートで “エンジェル・フェイス”と呼ぶ8歳の愛らしい娘エリー(エイリーヌ・アクソイ=エテックス)と共に暮らしていた。そんなマルレーヌが純白のウェディングドレスに身を包み、人生で最も晴れやかな日を迎える。不器用だが誠実でハンサムな男性ジャン(ステファン・リドー)と恋に落ち、迷うことなく結婚式を挙げたのだ。ところが、いつもの悪癖で酒を呷(あお)り、気が高ぶって我を見失ったマルレーヌは、結婚披露パーティーの真っ最中、ジャンに“不適切な現場”~行きずりの男に身を許す!~を目撃され、ようやく掴(つか)んだ幸せは幻のように消え失せてしまう。エリーはその日、美しい母親が無様に壊れゆく姿を、ずっと黙りこくって見つめていた。
定職に就かず、何事にも気まぐれで突発的に行動するマルレーヌの生活は、すでに行き詰まっていた。ソーシャルワーカーが調査にやってきた際には賢いエリーの機転によって切り抜けたが、スーパーマーケットへ買い物に行くとクレジットカードが使用不能になっていた。バカンス・シーズンが過ぎ去った夏の終わり、新学期が始まった学校にエリーを送り届けると、扇情的なファッションで他の親たちの好奇の目に晒(さら)される。それでも何とか生活を立て直そうと職業安定所に足を向けるが、未練がましくジャンに電話をかけても彼はもう応答してくれない。
自宅のベッドで無気力に塞ぎ込むようになったマルレーヌは、土曜の夜、気晴らしにエリーを連れてナイトクラブに繰り出した。そして、そこで出会った新しい男と意気投合し、「これからどこへ行くの?」と問いかけるエリーをタクシーで帰宅させ、そのまま忽然と姿を晦(くら)ましてしまう。
マルレーヌは男と消えたまま、帰ってこなかった。アパートに置き去りにされたエリーは、独りで寝起きして学校に通うようになる。学校では万聖節に上演する演劇の配役が発表され、エリーは人魚の役を演じることになるが、クラスメートの子供たちから異端視されている彼女は、「エリーは変な子。酒クサいんだ」と爪弾きにされる破目に。
学校を無断欠席するようになったエリーは、街で不良どもに揶揄(からか)われているところをフリオ(アルバン・ルノワール)に助けられる。フリオは海辺のトレーラーハウスで暮らしている青年で、エリーとマルレーヌの部屋の向かいに住むアルベルトの息子だ。エリーは心臓を病んで高飛び込み競技を断念し、訳あって家族と断絶したフリオに親しみを覚え、フリオもまた「パパは知らない。ママはいなくなった」というエリーの言葉に耳を傾けていく。それはこの世界で孤立し、心に傷を抱えた者同士の魂の共鳴だった。ある日、酔い潰れて溺死した何者かの遺体が浜辺に打ち上げられ、エリーはマルレーヌの存在を葬るかのように、唯一の友達である同級生のアリス(Rosaline Gohy)に「ママは死んだ」と告げるのだった。
やがてマルレーヌが無人のアパートに帰ってきた。エリーこそは掛け替えのない心の拠り所だと思い知ったマルレーヌは、「…エンジェル・フェイス!」と叫び、必死にあちこちを捜し回る。その頃、行き場を失ってさ迷っていたエリーは、危ういところをフリオに救われ、マルレーヌは愛する娘との再会を果たす。
しかし、自分を捨てた無責任な母親との絆を断ち切ることを決意したエリーは、頑なにマルレーヌを拒絶する。そして、万聖節の演劇が催される当日、人魚のコスチュームを纏(まと)ったエリーは、衝撃的な行動に出るのだった…。

▼予告編

2019年8月31日(土)ラピュタ阿佐ヶ谷(東京都杉並区阿佐ヶ谷北2-12-21、JR阿佐ヶ谷駅北口より徒歩2分)~特集「戦後独立プロ映画のあゆみ PARTⅡ」~で、20:00~ 鑑賞。

「裸の島」⑷「裸の島」⑵

作品データ
英題 The Naked Island
仏題 L'ile nue
製作年 1960年
製作国 日本
上映時間 96分(モノクロ、シネマスコープ)

公開 1960年11月23日

「裸の島」⑴
「裸の島」⑸
「裸の島」⑹
「裸の島」⑶

近代映画協会製作・配給。監督・脚本・製作は新藤兼人(1912~2012)。経営危機にあった近代映画協会の解散記念作品として、キャスト4人(エキストラ含まず)・スタッフ11人で瀬戸内海にある宿禰島(すくねじま)佐木島(さぎしま)でロケを敢行、撮影期間1か月、500万円の低予算で製作された。台詞を排し~歌声・笑い声・泣き声など、また「波の音」/「水の音」/「雨の音」/「舟の櫓を漕ぐ音」/「足音」などは聞こえるが~映像だけで全編を構成した実験的な作品で、孤島の過酷な環境で力強く“自給自足”の生活を送る貧しい4人家族(夫婦と息子2人)の姿を描く映画詩。新藤映画で多数コンビを組んだ乙羽信子(1924~94)と殿山泰司(1915~89)が出演。第2回(1961年)モスクワ国際映画祭でグランプリを受賞し、ベルリン映画祭や英国アカデミー賞などでも高い評価を受け、世界62か国で上映された。興行的にも成功し、近代映画協会は解散を免れた。なお、乙羽信子と新藤兼人が亡くなった際には、遺骨の一部が宿禰島に散骨された。

 「裸の島」⑺
(舞台となった宿禰島。佐木島の北にある周囲約400m/敷地面積約0.74haの小島。お椀状の島で、中央の高さが約20mある。)

ストーリー
「耕して天に至る 乾いた土 限られた土地」―瀬戸内海の一孤島(宿禰島)。電気・ガス・水道がない周囲約400メートルの小島。そこに千太(殿山泰司)と、トヨ(乙羽信子)夫婦、息子の太郎(田中伸二)と次郎(堀本正紀)の4人家族が暮らしている。平地がほとんどない島の頂上辺りのわずかな平地に小屋を建て、ヤギやアヒルと共に住む。急斜面の乾燥した土地に田畑を作り~春はムギを穫(と)り、夏はサツマイモを穫る~自給自足の生活を営む。何よりも水がないため、畑へやる水も飲む水も、遥か向こうに見える隣りの大きな島から櫓漕ぎ舟(伝馬舟)でタゴ(担桶)に入れて運ばなければならない。夫婦の仕事の大半は、この水を運ぶ労力に費やされた。
朝早く水を汲みに舟を出す両親・夫婦。子供たちはヤギとアヒルに餌をやり、湯を沸かし、食卓の準備をし、親の帰りを待つ。天秤棒に吊らされた2つのタゴを担ぎ、急斜面を1歩1歩登り、小屋にたどり着く両親。そして、皆揃ったところでの朝食…。
長男の太郎は、小学2年生で、食事が終わると急斜面を走り降り、隣島の小学校へと向かう。彼を舟で送る母親はその時も、水汲み⇒水運びは欠かさない。島に残った父親は、畑への水遣り。未就学の次男の次郎は、海で魚捕り。母が島に戻ってきた。天秤棒でバランスを取りながら畑まで水を運ぶ。ザッザッザッ。乾いた土を踏みしめる音が響く。足元は砂埃が立ち、夏の乾燥の厳しさを物語っている…。
ある日、トヨは誤って片方のタゴをひっくり返してしまう。水を零(こぼ)して呆然とするトヨに、千太は平手打ちを食らわせる。それほど水は、家族にとって貴重なものだった。日が暮れようとしている。トヨは隣島に舟で太郎を迎えに行き、水汲みも欠かさない。島では、次郎が家畜を小屋に入れ、ドラム缶に湯を沸かし、風呂の準備をする。千太は帰ってきた舟を掃除する。五右衛門風呂に入る子供たち。次は父の千太。皆で夕食を済ませた後、千太は石臼で豆を挽き、トヨは海を眺めながら、ゆっくりと風呂へ。こうして孤島の一日は過ぎていく…。
一日一日の積み重ねが一年に。秋には隣島で祭りが行なわれ、冬は土を耕し、種を蒔く。春には麦を収穫し、地主に収め、また暑い夏がやってくる。
そんな日常の中で、少しの贅沢もある。子供たちが海で一匹の大きな鯛を釣り上げた。家族4人が揃って笑顔を見せる。両親は洗濯仕立ての余所行きに着替え、家族全員で巡航船に乗って尾道の市街へ行き、鯛を売って普段では手に入らない日用品を買い、またカレーライスを食べることもできた。ロープウェイに乗り、自分たちの住む島を見る。キラキラ輝く美しい海が見えた…。
それは、暑い日だった。次郎が小屋を飛び出す。水を汲みに出た両親を迎えに磯に立ち、必死に大きく手を振る。海上で次郎のただならぬ様子に気づいた千太とトヨは、舟を漕ぐスピードを上げ駆けつける。小屋には高熱で倒れ込み、ぐったりと意識のない太郎の姿があった。トヨは太郎を布団に寝かせ、頭を濡れタオルで冷やす。千太は舟で隣島まで医者を呼びに行くが、ようやく医者を連れて戻った時、太郎はすでに息を引き取っていた。夜空には、隣島の花火大会の花火が上がっている。孤島からも綺麗に見えていた―。
翌朝、太郎の通学先の教師および同級生たち、そして僧侶が船でやってきた。太郎の埋葬・葬儀のためだ。毎日、天秤棒で水の入ったタゴを運んでいる夫婦が、今日は息子の棺を担いでいる。島の上の眺めの良い場所に、穴を掘り、棺を収める。僧侶がお経を上げ、子供たちがお花を捧げる。最後に、棺の上に木を乗せ、火を放つ。子供たちを乗せた船が島から遠ざかる。孤島の頂上からは煙が上がっている…。
太郎を失っても、日常の生活は続く。夫婦はいつもと同じように隣島まで水を汲みに行き、急斜面を登り、畑に水を撒く。しかし突然、トヨは自ら水の入ったタゴをひっくり返し、水をぶちまける。そして、まるで狂ったように、畑の作物を引き抜き、大地に突っ伏して声を上げ号泣する。(水汲みで家を留守にしなければ、子供の急変に気づき、死の危険が迫った子供の傍らに居てやることができたのに…!!)
以前、水運びに失敗したトヨの頬を平手打ちした千太も、今回はしばらく黙ってトヨを見守った後、また何事もなかったかのように水遣りに戻る。前と同じように、直接水が苗に当たらないように、やさしく、一つ一つ、水を上げていく。ほどなくトヨは、落ち着きを取り戻し、畑への水遣り(農作業)を再開する…。

何があっても、この孤島の土の上に生きていかねばならないのだ。灼けつく大地へへばりついたようなこの家族は、泣いても叫んでも、今日も明日も、自然が息づく世界と格闘/共生していく―。

Full Movie



音符 波 テーマ曲 [作曲:林光(はやし・ひかる、1931~2012)] :
(コーラス付のエンディング曲。なお、オープニング曲はコーラスなしのバージョン)
2019年8月31日(土)ラピュタ阿佐ヶ谷(東京都杉並区阿佐ヶ谷北2-12-21、JR阿佐ヶ谷駅北口より徒歩2分)~特集「戦後独立プロ映画のあゆみ PARTⅡ」~で、16:50~ 鑑賞。

「松川事件」 (1)「松川事件」⑷
作品データ
製作年 1961年
製作国 日本
配給 新東宝
上映時間 162分

公開 1961年1月27日

「松川事件」⑵「松川事件」 ⑶

1949年に起こった世界的な第一級“でっち上げ事件”といわれる “松川事件”を題材に、新藤兼人・山形雄策が共同で脚本を執筆、『武器なき斗い』の山本薩夫がメガホンを取る。最初に(別件)逮捕された赤間勝美被告の自白供述書、第1審・第2審の公判記録を中心に、事実に忠実にシナリオが書かれ、細部にわたって再現性が追求された。被告と家族、弁護人の氏名、弁護士の所属団体(自由法曹団)が実名であるなど、実録ものとしての体裁を取っている。
製作の中心となったのは、松川事件の被告の無罪を訴え、裁判での全面勝利を求める「松川事件対策協議会」(会長・広津和郎)や労働組合など。松川事件を被告全員無罪の立場から捉えた映画として既に数本の記録映画が製作されていたが、本作は記録フィルムのない密室の取り調べや法廷シーンを再現し、松川事件にあまり関心がない、映画好きの観客向け(労働組合員・一般市民ほか)の劇映画として製作された。
劇映画の製作が決定されたのは、最高裁によって仙台高裁の2審判決(1953年12月22日)が破棄され、仙台高裁に差し戻された日の翌日、1959年8月11日に開催の「松川事件対策協議会」第7回全国代表者会議でのこと。差し戻し公判の事実の取り調べ(1960年3月21日~1961年1月21日)の間に製作が進められ、1961年2月14日からの検察論告を前に完成、同年1月27日に全国公開された。仙台高裁前のラストシーンでは、福島、宮城、東京、新潟、栃木、千葉、神奈川各県から約2000人のエキストラが参加。製作資金4500万円は、すべてカンパによって調達された。

クリップ松川事件(まつかわじけん)》とは―
1949年8月17日に福島県の日本国有鉄道(国鉄)東北本線で起きた列車往来妨害事件。下山事件、三鷹事件と並んで第二次世界大戦後の「国鉄三大ミステリー事件」の一つといわれており、容疑者が逮捕されたものの、その後の裁判で全員が無罪となり、真犯人の特定・逮捕には至らず、未解決事件となった。日本の戦後最大の冤罪事件に挙げられる。

ガーン 《松川事件》の現場~先頭の蒸気機関車が脱線・転覆して車輪が上を向いている~ :
「松川事件」⑸
1949年8月17日午前3時9分頃(※当時はアメリカ軍やイギリス軍を中心とした連合国軍による占領中で夏時間が導入されており、それを考慮しない場合、午前2時9分頃)、福島県信夫郡金谷川村(現・福島市松川町金沢)を通過中だった青森発上野行き上り412旅客列車(C51形蒸気機関車牽引)が、突如脱線転覆した。現場は東北本線金谷川駅 - 松川駅間のカーブ入り口地点(当時は単線〈上下兼用〉。複線化後の現在では下り線)であり、先頭の蒸気機関車が脱線転覆、後続の荷物車2両・郵便車1両・客車2両も脱線。機関車の乗務員3人(48歳の機関士・石田正三、27歳の機関助士・伊藤利市、23歳の機関助士・茂木政市)が死亡した。現場検証の結果、転覆地点付近の線路継目部のボルト・ナットが緩められ、継ぎ目板が外されているのが確認された。さらにレールを枕木上に固定する犬釘も多数抜かれており、長さ25m、重さ925kgのレール1本が外され、ほとんど真っ直ぐなまま13mも移動されていた。周辺を捜索した結果、付近の水田の中からバール1本とスパナ1本が発見された。】

ストーリー
福島の街は、まだ眠りに包まれていた。二つの影が冷たく厳(いか)めしい地区警察署に吸いこまれていった。一人は本間刑事(井上昭文)、一人は元国鉄線路工の19歳の少年・赤間勝美(小沢弘治)。東北本線金谷川駅と松川駅間で、上り旅客列車の脱線転覆事件があってから1か月近くたった1949(昭和24)年9月10日のこと。その日から、傷害罪で別件逮捕された赤間の、松川事件に関する激しい取り調べが始まった。否認を続ける赤間に、組合幹部への憎しみと恐怖心を煽り立てる果てしない拷問。「認めなければ−30℃の網走にぶち込んで一生出られなくする…」。赤間の瞳は、次第に焦点を失っていった。警察官・検察官によってあらかじめ用意されたウソの供述書を筋書通りに作らされた。この“赤間自白”をもとに、赤間を含む計20人(国鉄労組福島支部関係10名、東芝松川工場労組関係10名)が次々と逮捕された。その年の12月5日、福島地方裁判所で第1回公判が開かれた。赤間は冒頭から警察での自白を翻し、無実を主張する。公判は回を重ねるにつれ、この事件をめぐる警察、検査側の陰謀を明らかにしていった。1950(昭和25)年12月6日、死刑5名、無期懲役5名(赤間を含む)、残る10名に長期刑という判決。裁判は被告たちの考えたほど甘いものではなかった。1953(昭和28)年12月22日、仙台高等裁判所における第2審判決の日が来た。3名を除いて全員有罪。判決文というより、検事の最終論告そのものだった。被告たちと弁護人団は怒りに震えた。佐藤一被告(寺島幹夫)がトラックの上に立ち、被告団声明を読み上げた。拍手が鳴り響き、「真実の勝利のために」の歌声が起こった。被告たちは新しい証拠の存在を頼りに、全員無罪を勝ち取ろうと改めて決意を固めるのだった―。

クリップ松川裁判”の経過 :
・1950年12月6日の福島地裁による第1審判決で、被告20人全員が有罪(うち死刑5人、無期懲役5人)。
・1953年12月22日の仙台高裁による第2審(控訴審)判決で、被告17人が有罪(うち死刑4人、無期懲役2人)、被告3人が無罪。
・1959年8月10日の最高裁による上告審判決で、控訴審判決を破棄し、仙台高裁に差し戻し。
・1961年8月8日の仙台高裁による差し戻し審判決で、被告17人全員が無罪。
・1963年9月12日の最高裁による再上告審判決で、検察側による再上告を棄却、被告17人全員の無罪が確定。
判決当日、NHKは最高裁前からテレビ中継を行ない、報道特別番組「松川事件最高裁判決」として全国に放送した。無罪判決確定後に真犯人追及の捜査が継続された形跡はなく、1964年8月17日午前零時、「汽車転覆等及び同致死罪」の公訴時効を迎えた。被告たちは一連の刑事裁判について国家賠償請求を行ない、1970年8月に裁判所は判決で国に賠償責任を認める判断を下した。

▼ cf. ETV特集 シリーズ1949年夏 〈第2回〉「松川事件~自白はこうしてつくられた~」(1999.7.28) :



▼ cf. 中日映画社「中日ニュース」― ①「松川事件の疑問」(1958年8月)→②日本の断層〈第一集〉「松川事件」(1961年8月)→③「無実を叫んで14年-松川裁判-」(1963年9月) :


2019年8月27日(火)「アップリンク吉祥寺」(東京都武蔵野市吉祥寺本町1丁目5−1 吉祥寺パルコ地下2階、吉祥寺駅北口から徒歩約2分)で、20:45~鑑賞。

「アポロ11」

作品データ
原題 APOLLO 11
製作年 2019年
製作国 アメリカ
配給 東北新社/STAR CHANNEL MOVIES
上映時間 93分


アポロ11号の月面着陸50周年を記念して製作されたドキュメンタリー。アメリカ公文書記録管理局(NARA)とアメリカ航空宇宙局(NASA)で新たに発掘された70㎜フィルムのアーカイブ映像や、1万1000時間以上に及ぶ音声データを基に製作。ナレーションやインタビューは加えず、4Kリマスターによって美しく蘇った圧倒的な映像と音声のみで構成。打ち上げ管制センターの様子や宇宙飛行士たちが宇宙服を着用する姿、そしてミッション完了後の回収船など、当時、全世界で約5億人が見守ったとされる、人類史に刻まれた歴史的な瞬間を追体験することができる。監督をトッド・ダグラス・ミラーが務めた。

ストーリー
1961年。冷戦下の熾烈な米ソ宇宙開発競争の中、アメリカではジョン・F・ケネディ大統領の下、人類の月到達を目的とした“アポロ計画(Apollo program)”が開始される。幾度もの失敗を経て、アポロ11号は1969年7月16日、ニール・アームストロング船長(Neil Armstrong、1930~2012)、バズ・オルドリン(Buzz Aldrin、1930~)、マイケル・コリンズ(Michael Collins、1930~)の3人の宇宙飛行士を乗せ、地球を旅立つ。7月20日に月に到着し、アームストロング船長の有名な「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である(That's one small step for [a] man, one giant leap for mankind.)」という言葉と共に、人類史上初の有人月面着陸を成し遂げた。そして7月24日、地球に無事生還。全世界で約5億人がその人類史上の偉業を見守ったと言われる。本作では、ロケット発射前から月面着陸、そして地球生還までの9日間を詳らかにする。

▼予告編



インタビュー映像 - トッド・ダグラス・ミラー監督(Todd Douglas Miller)/製作に関わった人々 :

2019年8月27日(火)「アップリンク吉祥寺」(東京都武蔵野市吉祥寺本町1丁目5−1 吉祥寺パルコ地下2階、吉祥寺駅北口から徒歩約2分)で、18:30~鑑賞。

「小さな恋のメロディ」

作品データ
原題 Melody
(映画のタイトルは三転した。まず「Melody」 の名で製作されたが、恋愛ものとしての内容を十分伝えていないとして「S.W.A.L.K.」に変更された。これは、Sealed with A Loving Kiss の略である。ところが、米国ではこの略語に馴染みがないという理由で、再度 「Melody」に戻され公開された。)
製作年 1971年
製作国 イギリス
配給 ヘラルド
上映時間 103分

英国公開 1971年4月8日
日本公開 1971年6月26日

子供の視点から少年少女の淡い恋心を描いたラブ・ストーリーの傑作。惹かれ合う11歳のダニエルとメロディが、すぐにでも結婚したい思いから、周囲の大人たちを困らせる事件を起こす…。イギリス本国とアメリカではヒットしなかったが、日本、それにアルゼンチンやチリなどラテンアメリカ諸国では大ヒット!日本での人気は、ビージーズ(Bee Gees)によるテーマ曲「メロディ・フェア(Melody Fair)」と併せて非常に根強く、オリジナル・サウンドトラック盤が定期的に欠かさず生産され続けている。愛くるしい演技で観客を魅了した子役のマーク・レスターとトレイシー・ハイドは、アイドル的存在になった。監督はワリス・フセイン。後に『ミッドナイト・エクスプレス』『ミシシッピー・バーニング』などの監督を手がけるアラン・パーカーが脚本を担当。2019年6月7日よりデジタルリマスター版でリバイバル上映(配給:KADOKAWA)。

※ cf. 『ウィキペディア日本語版』「小さな恋のメロディ」/作品解説(2019年8月30日閲覧) :
≪この映画には「大人社会からの独立戦争」という趣がある。「結婚式」を取り締まるべく現れた教師たちであったが、爆弾マニアの少年が作った初めての成功作によって総崩れになり、少年少女2人が一緒にトロッコを漕いで出発していくラストは、"Don't trust over thirty"(30歳以上は信用するな)の時代の雰囲気を伝えている。また一方で、明らかに中産階級のマダムの一人息子であるダニエルと、労働階級の娘であるメロディの出会い、労働階級出身とみえるオーンショーとの友情という、イギリスの階級格差が少年少女の恋愛というセッティングの中で無視されているという面白さもある。≫

ストーリー
舞台はロンドン。イギリス国教会のコチコチ神父が校長(ジェームズ・コシンズ)のパブリックスクールで、教師と生徒たちの間でささやかな対立がはじまっていた。厳格な教えを説く教師たちや子供に過干渉な親たちと、それらに従うことなく、それぞれの目的や楽しみを見つけようとする子供たち。
典型的な中流家庭に育った気の弱い美少年ダニエル・ラティマー(マーク・レスター)と、貧しいながらもヤンチャなガキ大将トム・オーンショー(ジャック・ワイルド)は、同級生で大の仲良し。2人は学校が終わると、よく連れ立って遊んでいた。ある日の放課後、2人は学校で女子生徒がバレエの練習をしている部屋を見つけ、覗き見をする。ダニエルはその中に素敵な少女を発見し、魅せられてしまう。それ以来、ダニエルは勉強も手につかず…、そして運動会では、彼女の顔を思い浮かべ夢中に走って一等になってしまう。その美少女の名は、メロディ(トレイシー・ハイド)。ダニエルはいつもメロディの後から付いて歩いていき、メロディも友達からダニエルの恋心を知らされ、次第にダニエルの優しさに魅かれていく。
ある日、宿題を忘れたダニエルとトムは、放課後に教師からお尻をしたたか殴られる。泣き顔で教師の部屋から出てきたダニエルをメロディが待っていた。トムは嫉妬を感じて引き止めようとするが、ダニエルとメロディはそのまま駆け出していく。墓地で語りあう2人は、互いに愛を感じて楽しい時を持った。翌日、純粋ゆえに恐れを知らない2人は、学校を休んで海岸へ遊びに行き、夏の太陽と潮風を思い切り浴びた。「結婚してくれるかい?」「いつかね。でも、どうして大人は結婚するとダメになるのかしら?」「きっと、わかりすぎるからだ」「全部わかっちゃうからね」 翌日、学校をサボったことで校長にお説教されるが、二人は宣言する。「ぼくたち結婚します」 教室に戻ったダニエルを、トムを始めとしてクラスメートが、さんざん揶揄(からか)った。怒ったダニエルは、トムと取っ組み合いの喧嘩となったが、教師に引き分けられたとき、トムはダニエルに謝った。そして、ダニエルが本気だと知ったトムは、何とか2人を結婚させてやろうと思った。
ある日、教師が授業を始めようとすると、教室は蛻(もぬけ)の殻だった。昼休みが終わっても、生徒たちは教室に戻らなかった。ダニエルの母親ミセス・ラティマー(シーラ・スティーフェル)から「ダニエルが駆け落ちした」と電話がある。校長が調べてみると、自分たちの手で2人の結婚式を挙げようと、クラスの生徒が集団エスケープしたのだ。教師たちとミセス・ラティマーは、あわてて式の会場の廃線脇の廃墟へ飛んでいった。その「隠れ場所」では、トムが神父を務める厳粛な式が執り行われていた。ダニエルとメロディが誓いの言葉を唱えようとした時、「先生たちが来たぞ!」、生徒たちは散り散りに逃げ出した。生徒をつかまえようとする教師たちと上を下への大騒ぎとなったが、発明狂の男の子が作った自家製爆弾が車を見事に爆破すると、大人たちは恐れをなして一目散に逃げていく。生徒たちは一斉にワアッと歓声を上げる。
その頃、ダニエルとメロディの2人は、トムの助けで追手を振り切り、トロッコに乗って線路のはるか向こうへ、花咲く果てしない草原を駆け抜けていった―。

Trailer



音符 主題歌 - Bee Gees “Melody Fair” [作詞・作曲:バリー・ギブ(Barry Gibb、1946~)、ロビン・ギブ(Robin Gibb、1949~2012)、モーリス・ギブ(Maurice Gibb、1949~2003)] :
(“Melody Fair” is a song by the Bee Gees, written by Barry, Robin & Maurice Gibb in 1968 and released in 1969 on their album Odessa. It was not released as a single, but this song was played on many radio stations, and was a hit in Japan. )



私感
今回初めて観た作品である。
1971年の公開時、ビージーズの名曲とともに日本で一大ブームを巻き起こした珠玉の青春恋愛映画である。私は残念ながら、その時点で鑑賞する機会を逃していた。

本作は子供のナイーブな恋心を瑞々(みずみず)しく、微笑ましく描いている。
メロディを好きになったが打ち明けられないダニエルの繊細な心理描写、そんなダニエルに気づき心穏やかではないが取り澄ますメロディの心情、バレエ教室で踊る彼女の美しさ、その教室で初めて彼女を見るダニエルの心奪われた表情、お墓におけるダニエルとメロディの初デートの初々しさ、金魚を手にしたメロディの何ともあどけない笑顔…等々。

私は画面に見入りながら、ダニエルとメロディを中心とする子供たちの純真無垢な、いじらしい姿に魅せられた。それは、自分自身の失われた青春への郷愁に駆られてのことだろう…。
ところが他方で、どうかすると、ワガママいっぱいのガキどもの不埒な言動が周囲の大人たちをいたずらに戸惑わせ、混乱に陥れているのか…という思いが、私の脳裏を過(よ)ぎるのだった。この思いがけない事態は、私自身の“加齢”に起因する想像力の弱化を物語るのか!?残念なことだ…。