映画『東京裁判』(1) | 普通人の映画体験―虚心な出会い

普通人の映画体験―虚心な出会い

私という普通の生活人は、ある一本の映画 とたまたま巡り合い、一回性の出会いを生きる。暗がりの中、ひととき何事かをその一本の映画作品と共有する。何事かを胸の内に響かせ、ひとときを終えて、明るい街に出、現実の暮らしに帰っていく…。

2019年9月3日(火)有楽町スバル座(東京都千代田区有楽町1-10-1 有楽町ビル2階、JR有楽町駅・日比谷口正面)で、16:15~鑑賞。

「東京裁判」⑶

作品データ
製作年 1983年
製作国 日本
配給 東宝東和
上映時間 277分

日本初公開 1983年6月4日

「東京裁判」⑴
 (公判中の法廷内)

「東京裁判」⑹
 (法廷内の被告人席)

“東京裁判”と呼ばれ、戦後日本の進路を運命づけた極東国際軍事裁判(The International Military Tribunal for the Far East)。太平洋戦争敗戦後の1946~48年、市ヶ谷の旧陸軍省参謀本部にて開廷された裁判の模様を、裁判から25年後(1973年)に公開されたアメリカ国防総省(ペンタゴン)の50万フィートに及ぶ長大なフィルムをもとに、5年の歳月と4億円の費用をかけて製作した記録映画(4時間37分に亘る歴史的ドキュメンタリー)。生々しい当時の映像をもとに、戦前のニュース映画や諸外国のフィルムも交え、戦争責任の所在、国家と個人の関係、あるいは勝者が敗者を裁くことの限界といった様々な問題を浮き彫りにした渾身の力作。監督は『人間の條件』『切腹』の名匠・小林正樹(1916~96)。音楽を武満徹(1930~96)、ナレーターを俳優の佐藤慶(1928~2010)が担当。第35回ベルリン国際映画祭国際批評家連盟賞を受賞。2019年8月3日より監督補佐・脚本の小笠原清(1936~)らの監修のもとで修復された4Kデジタルリマスター版が公開(配給:太秦)。

「東京裁判」⑷
「東京裁判」⑸

ストーリー
1945(昭和20)年7月26日、連合国のアメリカ、イギリス、中華民国による日本への降伏要求“ポツダム宣言(Potsdam Declaration)”が発表された。対応に窮した日本がこれを「黙殺」しているうちに、アメリカは8月6日・広島、9日・長崎に原子爆弾を投下。さらにソ連が9日、日ソ中立条約を破って満州と樺太に侵攻。ついに日本はポツダム宣言を受諾し、8月15日に全面降伏の旨を天皇自身の声で国民に公表した。
戦後の日本を統治することになった連合国軍最高司令官マッカーサー元帥は、「軍事力の粉砕」「戦争犯罪人の処罰」「代表制に基づく政治形態の確立」といった三大政策の中で、特に「戦争犯罪人の処罰」を早急に実施することを命じた。それは彼らを裁くことによって、日本人へ敗戦の事実とそれに伴う価値観の転換を示唆することに繋がると確信していたからである。

1946年1月19日、極東国際軍事裁判所条例(Charter of the International Military Tribunal for the Far East)が布告され、戦争そのものに責任のある主要戦犯を審理することが決定された。同年4月29日、それまで(満州事変→「支那事変」→太平洋戦争)日本を支配した指導者100名以上の戦犯容疑者の中から、太平洋戦争開戦時の首相・東條英機を始めとする28名が被告人に指定された。一方、国の内外から問われ、重要な争点となった天皇の戦争責任については、世界が東西両陣営に分かれつつあるなか米国政府の強い意志により回避の方向へと導かれていく
法廷は東京・市ヶ谷の旧陸軍士官学校の大講堂(戦時中の旧陸軍省参謀本部、現在の自衛隊市ヶ谷駐屯地)に用意された。裁判官及び検事は、降伏文書に署名した9か国(アメリカ、イギリス、ソ連、中華民国、フランス、カナダ、オランダ、オーストラリア、ニュージーランド)と、インド、フィリピンの計11か国代表で構成され、裁判長にはオーストラリア代表、ウイリアム・ウェッブ(William Webb、1887~1972)が、主席検察官にはアメリカ代表、ジョセフ・キーナン(Joseph Keenan、1888~1954)が選ばれる。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)内には、キーナン主席検察官を長とする500人近くのスタッフを擁する国際検事局が設置された。一方、弁護側は鵜沢総明(1872~1955)を団長、清瀬一郎(1884~1967)を副団長とする日本人弁護団(「極東国際軍事裁判日本弁護団」)が結成されたほか、ベン・ブルース・ブレイクニー(Ben Bruce Blakeney、1908~63)らアメリカ人弁護団25名も参加し、日米双方の弁護人が100名を超えていた。

東京裁判は1946年5月3日に開廷した。まず起訴状の朗読が行なわれ、55項目に及ぶ罪状(「訴因」=検察側により認定された具体的犯罪事実)が挙げられた。それは、第1類「平和に対する罪」(訴因1~36)、第2類「殺人罪」(訴因37~52)、第3類「通例の戦争犯罪及び人道に対する罪」(訴因53~55)の3部に大別されていた。そのうち、訴因1(1928~45年における「東アジア・太平洋・インド洋内及びこれに隣接する全ての国家及び島嶼に対する軍事・政治・経済的支配を目的とする戦争計画・遂行に関する共同謀議」)が総論的訴因の位置を占めており、訴因2~5において満州事変、支那事変、大東亜戦争、日独伊三国同盟の各段階における共同謀議を扱っている。その第1日目午後、被告人の超国家主義者・大川周明(1886~1957)がいきなり前に座る東条英機の頭を掌で叩くという珍事も起きた―。
同月6日の罪状認否で被告人は全員無罪を主張。また、13日、清瀬一郎弁護人はポツダム宣言後に制定した「平和に対する罪」と「人道に対する罪」は罪刑法定主義(法律がなければ犯罪はなし)と法律不遡及(刑罰不遡及)の原則に違反しているから、当法廷に被告人たちを裁く権利はないと異議を申し立てた。
同月14日、アメリカ人弁護人のジョージ・ファーネス(George Furness、1896~1985)は、真に公正な裁判を行なうのなら、戦争に関係ない中立国の代表によって行なわれるべきと訴え、同じくブレイクニー弁護人は国家行為である戦争の個人責任を問うことは法律的に誤りであると主張。さらに「キッド提督の死が真珠湾攻撃による殺人罪に当たるならば、我々はヒロシマに原爆を投下した者の名を挙げることができる」と訴えた。こうした日米弁護人の裁判管轄権への異議を、ウェッブ裁判長は「個人を罰しなければ、国際犯罪を実効的に阻止できない」として却下した。
同年6月4日、キーナン主席検察官の冒頭陳述が行なわれ、以後「満州事変段階」→「支那事変段階」→「日独伊三国同盟段階」→「北部仏印段階」→「ソ連段階」→「太平洋戦争段階」→「残虐段階」など、約17年8か月(1928年1月1日~45年9月2日)にわたる日本および日本軍の“行為”が、検事団の定めた各段階に応じて告発されていく。そして、ここからはあらゆる階層の人々が歴史の証人※として法廷に立ち、検察と弁護両者の訊問にさらされていく。

出廷した証人には、ドナルド・ニュージェント(Donald Nugent、GHQ民間情報教育局〈CIE〉局長)、海後宗臣、大内兵衛、瀧川幸辰、前田多門、伊藤述史、緒方竹虎、鈴木東民、幣原喜重郎、清水行之助、徳川義親、犬養健、宇垣一成、若槻礼次郎、田中隆吉、ジョン・マギー(John Magee、1884~1956、アメリカ聖公会牧師)、愛新覚羅溥儀(あいしんかくら・ふぎ/アイシンギョロ・プーイー、1906~67、前満州国皇帝)らがいた。

1945年11月20日に始まったドイツの戦争犯罪を裁く“ニュルンベルク裁判”が、46年10月1日に終結。その審判に対する東京裁判の被告人たちの受け止め方は種々様々であった。
1946年11月3日、日本国憲法が公布。これによって天皇は、普遍的な民主主義と人権の理想を誓った「国民の象徴」という形で新しい生命を得るとともに、時代を超えた国際協調と平和主義の理念を謳う「戦争と軍備の放棄」が第9条に記された。被告人らはその理想主義に、自分らが経験してきた国際政治の現実との大きなギャップを感じた。
1947年1月27日からは弁護団の反論が進められることになり、9月10日より「個人反証段階」が始まり、被告人が証言台に上っていくが、廣田弘毅ら8名はそれを拒否した。
同年11月7日、ウェッブは突如、自国の裁判のために帰国すると発言し、法廷内は混乱。もともと彼は天皇の戦争責任を追及したがっていたが、マッカーサーやキーナンの思惑で封じ込められたことに対する忸怩たる思いがあった。
12月26日、東條英機が証言台に立ち、この戦争は自衛であり、国際法には違反しないとして勝者が敗者を裁くことの非を訴えつつ、敗戦そのものの責任は開戦時の総理大臣だった自分にあるとしたが、31日に「日本国の臣民が陛下のご意志に反して、かれこれすることはありえない。いわんや、日本の高官においておや」という趣旨の話をする。この発言内容が事実ならば、戦争を始めたのも天皇の意志ということになるではないか!昭和天皇の戦争責任に通じる、重要な証言だった。ウェッブは得たりや応とばかりに、「今の発言がどのようなことを示唆するのか、分かりますね」と述べる。天皇免責の方針を固めていたアメリカの意向と著しく異なる話に慌てふためいたキーナン。彼は元日と、3日、4日の土、日曜の休廷中にあらゆる人脈を使って工作を施した。

1948年1月6日の訊問再開
キーナンが訊ねる。「先日、あなたは、日本臣民たる者は何人たりとも天皇の命令に従わぬ者はいないと言われましたが、正しいですか」
東條が答弁する。「それは国民感情を申し上げたのです。天皇の御責任問題とは別です」
キーナン「しかし、あなたは実際に米、英、オランダに戦争をしたではありませんか」
東條「私の内閣において戦争を決意しました」
キーナン「その戦争を行なえというのは、裕仁天皇の意思ですか」
東條「私の進言…統師部その他責任者の進言によって、しぶしぶ御同意になったというのが事実です。平和愛好の陛下は、平和への御希望は持っておられました。昭和16年12月8日の御詔勅の中に、明確にその御意思の文言がつけ加えられています。しかも、それは陛下の御希望によって、政府の責任において入れた言葉です。まことにやむを得ざるものあり、朕の意思にあらずという意味の御言葉であります」

1月8日、マッカーサーは総司令部にウェッブとキーナンを招き、東條証言の経過を聞いた後で、天皇の不起訴を決定した。   
4月16日、すべての審理は終了。そして結審約7か月後の11月4日午前9時30分、ウェッブ裁判長は「ジャッジメント」~判決文(判決内容)~の朗読を開始する。判決文は次の10章と付属書A・Bから成り、英文で1212ページに及ぶ膨大なものだった。

第1章 本裁判所の設立および審理
第2章 法 
 1 本裁判所の管轄権
 2 捕虜に関する戦争犯罪の責任
 3 起訴状
第3章 日本の権利と義務
第4章 軍部による日本の支配と準備
第5章 中国に対する侵略
第6章 ソ連に対する侵略
第7章 太平洋戦争 
第8章 通例の戦争犯罪
第9章 起訴状の訴因についての認定
第10章 判定

全判決文の読み上げには1週間を要した。第1日目の11月4日に第4章途中まで、5日にその続き、(6日・7日は土・日曜日で休廷)8日・9日に第5章、10日に第6章・第7章、11日に第8章の途中まで、そして12日、最終日に第8章の残りの部分と、第9章「起訴状の訴因についての認定」が、それぞれ読まれた。第9章では、当初提起された55項目の訴因が整理されて最終的に10項目の訴因についてのみ罪状の認定が行なわれた。それは、次の「平和に対する罪」の8訴因、「通例の戦争犯罪及び人道に対する罪」の2訴因である。

• 訴因1 ‐ 1928~45年における侵略戦争の共同謀議
• 訴因27 ‐ 満州事変以後の中華民国に対する戦争の遂行
• 訴因29 ‐ 米国に対する戦争の遂行
• 訴因31 ‐ 英国に対する戦争の遂行
• 訴因32 ‐ オランダに対する戦争の遂行
• 訴因33 ‐ 北部仏印(フランス領インドシナ)進駐以後のフランスに対する戦争の遂行
• 訴因35 ‐ ソ連に対する張鼓峰事件の遂行
• 訴因36 ‐ ソ連及びモンゴルに対するノモンハン事件の遂行
• 訴因54 ‐ 満州事変以後の中華民国の、また真珠湾攻撃以後の米国・英国・フランス・オランダ・フィリピン・ポルトガル・ソ連の、軍隊や俘虜及び一般人に対する戦争法規慣例違反の命令・援護・許可
• 訴因55 ‐ 満州事変以後の中華民国の、また真珠湾攻撃以後の米国・英国・フランス・オランダ・フィリピン・ポルトガル・ソ連の、軍隊や俘虜及び一般人に対する戦争法規慣例違反の防止義務の無視[不作為(omission/nonfeasance/neglect)]※

通例の戦争犯罪との関連で指摘されている問題点は、部下の戦争犯罪に関する軍指揮官の「不作為責任」という概念である。軍指揮官(上官)の部下に対する監督義務違反の可罰性は「上官責任(Command Responsibility)」という概念として形成され、いわゆるBC級戦犯(一般戦争法規違反受刑者)裁判において大きな争点となっており、東京裁判においても重要な意義を有していた。

なお、法廷で朗読された判決文は、英国の判事ウィリアム・パトリックを中心とする多数派(英国、米国、中華民国、ソ連、カナダ、ニュージーランド、フィリピンの7か国)が作成したもので、ウエップ裁判長も多数派に押し切られて容認せざるをえない格好となった。この判事団の多数判決(多数派意見)に対して、五つの個別意見書が提出された。フィリピンのデルフィン・ハラニーリャ判事の「同意」意見書、オーストラリアのウエップ裁判長の「別個」意見書、インドのラダビノード・パル判事、フランスのアンリ・ベルナール判事、オランダのベルト・レーリンク判事それぞれの「反対」意見書である。
ウエップ裁判長は被告人に対する「刑の宣告」の前に、次のように陳述している。
「本官が朗読した判決は、裁判所条例に基づき、本裁判所の判決である。インド代表判事は、多数意見による判決に反対し、この反対に対する理由書を提出した。フランス及びオランダ代表判事は、多数意見による判決の一部について反対し、この反対に対する理由書を提出した。フィリッピン代表判事は、多数意見に同意して、別個の意見を提出した。大体において、事実については、本官は多数と意見を共にする。しかし、反対意見を表明することなく、裁判所条例と本裁判所の管轄権を支持する理由と、刑を決定するに当たって本官に影響を与えたいくらかの一般的な考慮とを簡単に述べたものを提出した。これらの文書は記録に止め、また最高司令官、弁護人及びその他の関係者に配付される。弁護人はこれらの別個の意見を法廷で朗読することを申請した。しかし、本裁判所はこの問題をすでに考慮し、法廷では朗読しないことに決定していた。本裁判所はこの決定を変更しない。」(東京裁判判決-2015年01月27日
英領インド帝国の法学者・裁判官ラダビノード・パル(Radhabinod Pal、1886~1967)による、いわゆる「パル判決書」~英文で判決文より長い1275頁もの意見書~は、法廷で未発表のまま関係者だけに配布された。パルは事後法で何人(なんぴと)も裁くことはできないとし、「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」「戦争の勝敗は腕力の強弱であり、正義とは関係ない」などと裁判そのものを批判し、全被告人の無罪~個人としての被告は全員、起訴事実すべてに「無罪」~を主張した。現在、これは世界裁判史上でも無類のものとして高く評価される観点であるが、その意見書には「被告人たち及び日本国の行動を正当化する必要はない」との点も明記されている。パルはあくまでも国際法専門家としての純然たる法的な訴えを基調としており、日本の戦争責任自体が存在しないという立場に立つわけではない。事実、「パル判決書」は戦争法規違反の“民間人や捕虜に対する残虐行為”などについても、敗戦国の日本やドイツ、戦勝国のアメリカに分け隔てなく批判的見解を表明し、一方の政策への個人的見解を前提とした恣意を強く戒めている。例えば、訴追理由となった、アジア各地における日本軍兵士の残虐行為についても、多くは実際に行なわれていたであろうと判定している。

主要な訴因数が10に絞られたあと、引き続き被告人25人に対して~荒木貞夫からアルファベット順に~、訴因ごとの有罪・無罪の判定が読み下された。そして、15分間の休憩の後、ウエップ裁判長は被告人一人一人を呼び出して「刑の宣告」を言い渡した。

被告人は当初28名。その内、元外相・松岡洋右(1880~1946/06/27)と元帥海軍大将・永野修身(1880~1947/01/05)は公判中に病没し、大川周明(1886~1957)は「精神障害」と認定されて入院、1947年4月9日に訴追免除。残る25名全員に対して有罪判決が下った。絞首刑7名、終身禁錮刑16名、有期刑2名であった。判決における被告人別の訴因(該当番号)と量刑は、次の通りである。

被告人/該当訴因番号/量刑
荒木貞夫/1、27/終身禁錮刑
土肥原賢二/1、27、29、31、32、35、36、54/死刑
橋本欣五郎/1、27/終身禁錮刑
畑俊六/1、27、29、31、32、55/終身禁錮刑
平沼騏一郎/1、27、29、31、32、36/終身禁錮刑
廣田弘毅/1、27、55/死刑
星野直樹/1、27、29、31、32/終身禁錮刑
板垣征四郎/1、27、29、31、32、35、36、54/死刑
賀屋興宣/1、27、29、31、32/終身禁錮刑
木戸幸一/1、27、29、31、32/終身禁錮刑
木村兵太郎/1、27、29、31、32、54、55/死刑
小磯國昭/1、27、29、31、32、55/終身禁錮刑
松井石根/55/死刑
南次郎/1、27/終身禁錮刑
武藤章/1、27、29、31、32、54、55/死刑
岡敬純/1、27、29、31、32/終身禁錮刑
大島浩/1/終身禁錮刑
佐藤賢了/1、27、29、31、32/終身禁錮刑
重光葵/27、29、31、32、33、55/禁錮刑7年
嶋田繁太郎/1、27、29、31、32/終身禁錮刑
白鳥敏夫/1/終身禁錮刑
鈴木貞一/1、27、29、31、32/終身禁錮刑
東郷茂徳/1、27、29、31、32/禁錮刑20年
東條英機/1、27、29、31、32、33、54/死刑
梅津美治郎/1、27、29、31、32/終身禁錮刑

絞首刑は土肥原賢二大将、廣田弘毅元首相、坂垣征四郎大将、木村兵太郎大将、松井石根大将、武藤章中将、東條英機大将の7名。首相や外相などを歴任した文官の廣田以外、6人全員が陸軍の軍人。7名の極刑は、11人の判事の票決(多数決)で、廣田弘毅が6対5であった以外7対4の票数で決定された。4票の反対は、全員を無罪としたインドのパル判事、国内法が死刑を認めていなかったソ連とオーストラリア2国の各判事ザリヤノフとウェッブ(裁判長)、そしてフランスのベルナール判事であったと推定される。後三者は天皇を除外したことに批判的であり、それも作用したと考えられる。また、死刑一般に反対した4名に加えて、オランダのレーリンク判事が廣田個人の極刑に反対した。

終身刑16人の内訳は、次の通り。〈陸軍〉荒木貞夫、橋本欣五郎、畑俊六、小磯國昭、南次郎、大島浩、佐藤賢了、鈴木貞一、梅津美治郎/〈海軍〉岡敬純、嶋田繁太郎/〈文官〉平沼騏一郎、賀屋興宣、星野直樹、木戸幸一、白鳥敏夫。有期刑は重光葵(7年)、東郷茂徳(20年)の外務省の2名。なお、賀屋興宣、白鳥敏夫、梅津美次郎の被告人3人(共に終身刑)は11月12日当日、病気のため出廷できず、 出廷被告の刑の宣告が終わった後に、欠席のまま刑の宣告を受けた(=各担当弁護人が自席で受けた)。

11月12日、ウエップ裁判長による「刑の宣告」をもって、午後4時12分に東京裁判は終結した。極東国際軍事裁判は結局、2年6か月(1946/05/03~1948/11/12)の歳月と27億円(当時)の巨費を費やし、開廷が423回、法廷証人が12か国419人、証拠採用された書類が4336通(779通の宣誓口供書を含む)、英文で書かれた裁判「速記録」が49858頁に及んだ。

7名の処刑は、判決から約1か月半後の1948年12月23日早暁(午前零時1分30秒~同35分)、巣鴨プリズン(Sugamo Prison)で実施された。死刑台の数の関係で、土肥原、松井、東條、武藤が第1組、板垣、廣田、木村が第2組に分けられて、次々と絞首刑に処せられた―。

…その後、冷戦下の東西緊張は双方に自衛と軍備拡大の主張を募らせ、世界平和は武力均衡の上に成立するという考えを定着させていく。世界の惨害から将来の世代を救うという国際連合の理念から、連合国の現実はすでに大きく後退していた。
1950年の朝鮮戦争以降も、世界中で愚かな戦争の惨禍は繰り返し続けられている…。

(※この映画にENDマーク〈「終」ないし「完」〉はない⇒真の世界平和が訪れる時まで、それを入れることができない⇒「東京裁判」の課題は今日にもそのままつながっている!)

 アップ ダウン
「東京裁判」⑵

戦犯判決

▼予告編



Arraignment(罪状認否) :



Judgment(判決) :



【「映画『東京裁判』(2)」[本ブログ〈September 08, 2019〉]へ続く…】