作品データ : 原題 MISS PEREGRINE'S HOME FOR PECULIAR CHILDREN 製作年 2016年 製作国 アメリカ 配給 20世紀フォックス映画 上映時間 127分 米国公開 2016年9月30日 日本公開 2017年2月3日
『チャーリーとチョコレート工場』『アリス・イン・ワンダーランド』のティム・バートン監督が、ランサム・リグズ(Ransom Riggs)による全米ベストセラー小説“Miss Peregrine's Home for Peculiar Children”(2011)[東京創元社版:山田順子訳『ハヤブサが守る家』2013年、潮出版社版:金原瑞人・大谷真弓訳『ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち』2016年]を映画化したミステリアス・ファンタジー。亡くなった祖父の遺言に導かれ、ハヤブサに変身できる女主人と奇妙な子どもたちが暮らす屋敷へと辿り着いた少年が経験する不気味で摩訶不思議な冒険を描く。主人公の少年ジェイクを『ヒューゴの不思議な発明』のエイサ・バターフィールドが、屋敷に暮らす少年少女の保護者であるミス・ペレグリンを『007 カジノ・ロワイヤル』『ダーク・シャドウ』のエヴァ・グリーンが演じる。
(【引用者註】ここで『Doctor Strange』と『The Matrix』‐『Inception』を比較対照するための5本の映像「Doctor Strange VS The Matrix」→「Inception VS Doctor Strange」→「The Matrix」→「Inception」→「Doctor Strange」が参考に供されるが、それらについては後掲する。)
※吉祥寺バウスシアターは2014年6月10日をもって閉館。cf. ブログ“「映画」再訪―時間の王国を生きる”〈2016年05月03日(火)〉記事 ※1970年代後半に、私はアーレントの主著“The Origins of Totalitarianism”(1951)の邦訳書『全体主義の起原』(大久保和郎・大島通義・大島かおり訳、みすず書房、1972~74年)を読了した。
この映画は“アイヒマン裁判”の傍聴記を発表し、大きな波紋を呼び起こしたドイツ系ユダヤ人哲学者ハンナ・アーレント(Hannah Arendt、1906~75)の不屈の闘い~希有(けう)な才能と勇気~を描いた歴史ドラマ。主演は『ローザ・ルクセンブルグ』(1985年)のバルバラ・スコヴァ(Barbara Sukowa、1950~)。監督も同じく『ローザ・ルクセンブルグ』のマルガレーテ・フォン・トロッタ(Margarethe von Trotta、1942~)。この映画でアイヒマンが登場する場面は、先行する記録映画『スペシャリスト―自覚なき殺戮者』(エイアル・シヴァン監督、1999年)にも使われた実際の裁判記録映像を編集して構成されている。
●『ハンナ・アーレント』ストーリー : 哲学者ハンナ・アーレント(バルバラ・スコヴァ)は、ドイツに生まれ育ち→1933年、ゲシュタポに短期間拘束された後、フランス・パリに亡命→1940年、親独のヴィシー政権によってグール強制収容所に連行されるが間一髪で脱出→1941年、アメリカに亡命。現在はニューヨークで暮らし、大学教授として学生からの人気も高く、最愛の夫ハインリヒ・ブリュッヒャー(アクセル・ミルベルク)、友人で作家のメアリー・マッカーシー(ジャネット・マクティア)らと穏やかな日々を送っていた。 1960年代初頭、アルゼンチン・ブエノスアイレスで逃亡生活を送っていたナチス大物戦犯アドルフ・アイヒマンがユダヤ人国家イスラエルによって拘束され、同国の法廷で裁かれることとなった。アーレントは雑誌『ニューヨーカー』の特派員として、このアイヒマン裁判を傍聴することを志願する。自らの過去と向き合う苦痛を耐えての傍聴だったが、被告アイヒマンの大量殺人を指揮したとは思えぬ凡庸さ~「普通の、どこにもいるような人物」~に当惑する彼女だった。 帰国した彼女は、膨大な裁判資料と向き合いながら、鬼畜のような怪物と思われていたアイヒマンは、自らの役職を忠実に果たすことを自らに課していたに過ぎない小役人であること、また欧州各地のユダヤ人評議会(Judenrat)指導部がナチスに妥協的でしばしば取引を行なったためにホロコーストの被害が拡大したこと等を『ニューヨーカー』の連載記事として掲載する※。 その衝撃的な内容は、ユダヤ人社会からの激しいバッシングに晒される。「ナチズムを擁護するものだ」と様々な誹謗中傷を受けたアーレント。勤務していた大学から辞職勧告まで受ける。だが、「絶対に辞めません」と拒否した彼女は、学生たちへの特別講義で、誤解を解き、自説を闡明(せんめい)することに腐心する。 「アイヒマンは『自発的に行なったことは何もない。善悪を問わず、自分の意志は介在しない。命令に従っただけなのだ』と弁明した。世界最大の悪は、平凡な人間が行なう悪なのだ。そんな人には動機もなく、信念も邪推も悪魔的な意図もない。(彼のような犯罪者は)人間であることを拒絶した者なのだ。」「アイヒマンは人間の大切な質を放棄した。思考する能力だ。その結果、モラルまで判断不能となった。思考ができなくなると、平凡な人間は残虐な行為に走る。〝思考の嵐〟がもたらすのは、善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力である。私が望むのは、考えることで人間が強くなることだ。危機的状況にあっても、考え抜くことで破滅に至らぬように―」。 (In refusing a person, Eichmann utterly surrendered that single most defining human quality:that of being able to think. And consequently, he was no longer capable of making moral judgements.This inability of think created the possibility for many ordinary men to commit evil deeds on a gigantic scale,the likes of which one had never seen before. The manifestation of the wind of thought is not knowledge, but ability to tell right from wrong,beautiful from ugly. And I hope that thinking gives people the strength to prevent catastrophes in these rare moments when the chips are down.) 学生たちは大きな拍手を送り、好意に満ちた反応で彼女の講義を受け入れる。アーレントを放逐しようとした同僚たちは、不利を悟った面持ちで教室を後にする。しかし、講義を傍聴していた友人のハンス・ヨナス(ウルリッヒ・ノエテン)は、アーレントの発言を理解できない様子…。友人としての関係は終わりだと告げて帰っていくのだった。
※アーレントはアイヒマン裁判の記録を、1963年2~3月に『ザ・ニューヨーカー』(The New Yorker)誌に5回に分けて連載後、追記・改訂などし同年5月に単行本化⇒“Eichmann in Jerusalem:A Report on the Banality of Evil”(大久保和郎訳『イェルサレムのアイヒマン─悪の陳腐さについての報告』みすず書房、1969年)。彼女は1961年4月11日にエルサレムで始まった公開裁判を欠かさず傍聴し、アイヒマンの死刑が執行されるまでを記録。裁判の様子を描いただけではなく、アルゼンチンで潜伏生活を送っていたアイヒマンの暮らしぶりとイスラエルの諜報機関によるアイヒマン強制連行の様子、更にはヨーロッパ各地域で如何なる方法でユダヤ人が国籍を剥奪され、収容所に集められ、殺害されたかを詳しく綴っている。
・インタビュー③ (CinemaTribune:『アイヒマンを追え! ナチスがもっとも畏れた男』ラース・クラウメ監督インタビュー) Q:フリッツ・バウアーという人物は、ドイツでもこれまであまり注目されていなかったそうですね。 A:歴史学者や政治家、ユダヤ人コミュニティなど、一部のインテリ層は知っていましたが、私も含め多くのドイツ人には知られていませんでした。私自身は共同脚本家のオリヴィエ・グエズの著書(『Heimkehr der Unerwünschten: Eine Geschichte der Juden in Deutschland nach 1945』2011年)の中の第1章で、フリッツ・バウアーとアウシュヴィッツ裁判について触れられていて初めて知りました。 何故、彼の功績が忘れ去られていたのか、答えは難しいです。多くのドイツ人が沈黙していた時代に、バウアーがドイツの暗い過去に言及することによって、その事実と直面しなければいけない。バウアーの存在は、過去と直面したがらない人々を苛立たせたのでしょう。バウアーが1968年に亡くなった時は、“居心地の悪い質問をする人物がいなくなった”と喜ぶ傾向もあったようです。 バウアーの死後、60年代後半から70年代にかけて学生運動が盛り上がり、イスラエルの政策に反対する人々を中心に反ユダヤ主義が台頭し、テロリズムに繋がっていきました。その時代の中でバウアーに関する記憶が失われていったのかもしれません。最近になって、私たちの作品や『顔のないヒトラー』が発表され、バウアーの生涯に関する展覧会の開催、伝記も出版されるなど、少しずつ知られるようになりました。
Q:本作では、実際にアイヒマンがどんなことをしたのか、ホロコーストの時代を視覚的に見せるなど回想シーンがありませんでしたね。 A:ハンサムな俳優にナチスのスマートな軍服を着せたり、エキストラに収容所の囚人のふりをさせたり、ホロコーストの怖ろしい映像を使うのは容易です。しかし、ドラマティックになりすぎたり作為的になったりすることもあり、ちょっと躊躇しました。もちろん成功している作品もあります。ドイツで1947年に製作された『Murderers Among Us(原題/直訳:我々の中の殺人者)』も重要な作品ですし、ハンガリーの作品『サウルの息子』(2015年)も傑作だと思います(cf. 本ブログ〈February 08, 2016〉記事「映画『サウルの息子』」)。今回私たちはそういったものを使わず、サブテキストとして描きたいと思いました。ポスターではハーケンクロイツが使われていますが、映画の中では一か所しか出てきません。 アイヒマンについても、彼はユダヤ人を強制収容所へ移送するにあたっての責任者であり、その恐ろしさは皆が知っていることです。アウシュヴィッツはポーランドにある小さな村ですが、皆、アウシュヴィッツと聞いただけで収容所を思い浮かべるでしょう。収容所の入り口のロゴ、鉄道…そういったものが我々の記憶の中に深く刻まれているはずです。少なくともアイヒマンを描く上では、回想や記録映像も不要だと考えました。
Q:原題の”DER STAAT GEGEN FRITZ BAUER”の指し示す意味は何ですか。(※Staatは国、gegenは対を示し、裁判名として使われる言い方) A:このタイトルはかなりもめてね、脚本家と一緒に製作者を一生懸命説得したんだ(苦笑)。裁判劇であることを示したかった。ドイツ社会を反映したもので、西ドイツは戦後、連合軍から民主主義国家になりなさいと言われて民主化されたのです。人に言われたからそうなったわけで、その体質は昔のナチ支配時の精神風土と変わらない。社会を構成するすべての個人が、自分がそうありたいと思う状況を作っていけるということをフリッツ・バウアーは体現したわけで、過去と向き合うことは大事なことなのです。
<スタッフ> ・〈監督/脚本〉 ラース・クラウメ(Lars Kraume) :1973年2月24日、イタリアのキエーリ生まれ。ドイツのフランクフルトで育つ。高校卒業後、写真家助手に。92年、初短編『3:21』を撮り、ドイツ映画TVアカデミー(DFFB)への入学願書に添える。在学中の短編『Life Is Too Short to Dance with Ugly W0men』(96)でトリノ国際映画祭短編賞、卒業制作のTVドラマ「Dunckel」(98)でアドルフ・グリンメ賞を受賞。 2001年に『コマーシャル★マン』で長編映画監督デビュー。セミドキュメンタリー『Kismet–Würfel Dein Leben!』『Keine Lieder über Liebe』(05)を経て、学校を舞台にしたTVドラマ「Guten Morgen, Herr Grothe」(06)でドイツTV賞監督賞、アドルフ・グリンメ賞を受賞。秀作ドラマ「KDD – Kriminaldauerdienst」の4話(07)、警察ドラマ「Tatort」の8話(03~14)などTVシリーズも手がけている。2007年にマティアス・グラスナ―らと製作会社バッドランズ・フィルムを設立、『Die kommenden Tage』(10)で監督・製作を兼ねるが、創作に専念するため12年に同社を離れた。 ・〈脚本〉 オリヴィエ・グエズ(Olivier Guez) :1974年、フランスのストラスブール生まれ。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスとベルギーのブルッヘにある欧州大学院大学で政治学と国際関係学などを学ぶ。2005年から2009年まではベルリンで暮らした。パリにて、作家・ジャーナリストとして活動し、今まで執筆した著書6冊は9か国語で出版されている。ジャーナリストとしては、フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング、ニューヨーク・タイムズ、ル・モンドに寄稿。本作が初の脚本。
{参照Ⅰ} イルムトゥルード・ヴォヤークの論文「フリッツ・バウアーと1945年以降のナチ犯罪の克服」(Dr. Irmtrud Wojak, Fritz Bauer und die Aufarbeitung der NS-Verbrechen nach 1945, in : Blickpunkt Hessen Nr. 2/2003)は、“フリッツ・バウアー”について、次のように叙述している(本田稔・朴普錫〈共訳〉『立命館法學』2011年第3号掲載)。
※著者のイルムトゥルード・ヴォヤーク(1963~)は、「第2次世界大戦後のナチ犯罪の司法による克服」をテーマに研究活動に取り組む、ドイツの社会史学者。彼女は前掲論文をもとにフリッツ・バウアーの全生涯を記録した『フリッツ・バウアー 1903~1968年』(Fritz Bauer 1903-1968, C. H. Beck, 2009)を出版。同書の内容は、ドイツ国内外において高い評価を得ている。
{参照Ⅱ} ドキュメンタリー映画 “Fritz Bauer-Tod auf Raten|Death By Instalments(忍び寄る死)” (Dir: Ilona Ziok(イロナ・ツィオク), Germany 2010, 110 min) Trailer :
同作は“ベルリナーレ(Berlinale、ベルリン国際映画祭)2010”のパノラマ(Panorama)部門プレミア上映作(A film by Ilona Ziok : 《Fritz Bauer was probably the most renowned state prosecutor the Federal Republic has ever had. He saw himself as a ‘lawyer out of a sense of freedom’ and was convinced that the nation’s citizens had the right to resist against state acts of an arbitrary nature. He was prepared to stand up for this right in 1952/53 as Attorney General for Lower Saxony in a spectacular trial regarding the legitimacy of the coup of 20 July, 1944. Bauer succeeded in rehabilitating the executed conspirators. This verdict made him a pioneer of modern ‘civil society’ thought. He applied the same focus to the illumination and avengement of Nazi crimes. As Attorney General for Hesse from 1956 – 68, he was the key initiator in the Frankfurt Auschwitz trials. Bauer also played an important role in the seizure of Adolf Eichmann: he informed Israel’s intelligence agency Mossad of the whereabouts of the ‘architect of the Holocaust’ so that Eichmann could be brought to trial in Jerusalem. Under his watch, Fritz Bauer also pushed for reforms to the penal system, the humanisation of which was he believed integral to a humane society. During the restorative climate of the Adenauer era, Bauer became the ‘agent provocateur of the age’. Essays and talks with titles such as ‘Murderers Among Us’ and ‘At the End Came the Gas Chambers’ provoked criticism not only from right-wing radicals but also middle-class audiences. The life of this Swabian Jew was subject to anti-Semitism and political hostility. Bauer perceived the passing of the German Emergency Acts in May 1968 as a particularly heavy blow and felt that this was an irreparable turning point towards an authoritarian state. He was found dead in his Frankfurt apartment on 30 June 1968. The circumstances of his death have remained unsolved to this day.》