

作品データ :
原題 DER STAAT GEGEN FRITZ BAUER
製作年 2015年
製作国 ドイツ
配給 クロックワークス=アルバトロス・フィルム
上映時間 105分
ナチスの最重要戦犯アドルフ・アイヒマンは、1960年に潜伏先のアルゼンチンでイスラエル諜報特務庁(モサド)に連行され、翌61年にエルサレムで歴史的な裁判にかけられた。本作は、このアイヒマン追跡に大きな役割を果たしたドイツ人検事長フリッツ・バウアーの知られざる孤高の闘いを描いた歴史サスペンス・ドラマ。上質なミステリー映画さながらのスリルと知的好奇心をかき立てるとともに、人間の尊厳や正義といった普遍的なテーマを力強く伝える。主演は『パリよ、永遠に』『ヒトラー暗殺、13分の誤算』のブルクハルト・クラウスナー、共演には『東ベルリンから来た女』『あの日のように抱きしめて』のロナルト・ツェアフェルトらが名を連ねる。監督はTVを中心に活躍するラース・クラウメ。
なお、ドイツ人の歴史認識を変えたといわれるアウシュヴィッツ裁判までの道程を描いた『顔のないヒトラーたち』(2014年)は、この作品の後日談に当たる(cf. 本ブログ〈February 07,2016〉記事「映画『顔のないヒトラーたち』」)。
<スタッフ>・〈監督/脚本〉 ラース・クラウメ(Lars Kraume) :1973年2月24日、イタリアのキエーリ生まれ。ドイツのフランクフルトで育つ。高校卒業後、写真家助手に。92年、初短編『3:21』を撮り、ドイツ映画TVアカデミー(DFFB)への入学願書に添える。在学中の短編『Life Is Too Short to Dance with Ugly W0men』(96)でトリノ国際映画祭短編賞、卒業制作のTVドラマ「Dunckel」(98)でアドルフ・グリンメ賞を受賞。
2001年に『コマーシャル★マン』で長編映画監督デビュー。セミドキュメンタリー『Kismet–Würfel Dein Leben!』『Keine Lieder über Liebe』(05)を経て、学校を舞台にしたTVドラマ「Guten Morgen, Herr Grothe」(06)でドイツTV賞監督賞、アドルフ・グリンメ賞を受賞。秀作ドラマ「KDD – Kriminaldauerdienst」の4話(07)、警察ドラマ「Tatort」の8話(03~14)などTVシリーズも手がけている。2007年にマティアス・グラスナ―らと製作会社バッドランズ・フィルムを設立、『Die kommenden Tage』(10)で監督・製作を兼ねるが、創作に専念するため12年に同社を離れた。
・〈脚本〉 オリヴィエ・グエズ(Olivier Guez) :1974年、フランスのストラスブール生まれ。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスとベルギーのブルッヘにある欧州大学院大学で政治学と国際関係学などを学ぶ。2005年から2009年まではベルリンで暮らした。パリにて、作家・ジャーナリストとして活動し、今まで執筆した著書6冊は9か国語で出版されている。ジャーナリストとしては、フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング、ニューヨーク・タイムズ、ル・モンドに寄稿。本作が初の脚本。
ストーリー :
1950年代後半の西ドイツ・フランクフルト。ヘッセン州検事長のフリッツ・バウアー(ブルクハルト・クラウスナー)は、ナチス戦犯の告発に執念を燃やしていた。そんな彼のもとに、逃亡中のナチス親衛隊中佐アドルフ・アイヒマンがアルゼンチンに潜伏しているという重大な情報を記した手紙が届く。バウアーはアイヒマンの罪をドイツの法廷で裁くため、国家反逆罪に問われかねない危険も顧みず、イスラエルの諜報機関モサドにコンタクトをとりアイヒマンを追い詰める。しかし、ドイツ国内に巣食うナチス残党の妨害や圧力にさらされた彼は、孤立無援の苦闘を強いられていく。彼自身、思わず「執務室を一歩出れば敵だらけ」と本音を漏らすのだった…。
▼予告編
フリッツ・バウアーとは何者か :本作には、アドルフ・アイヒマン(Adolf Eichmann、1906~62)がアルゼンチンでインタビューを受けるシーンが出てくる。彼はそこで「1030万人のユダヤ人を抹殺できていたら、私は言ってたはず。『よかった、これで敵は全滅した』。それができていたら血と民と自由を守れたのだが、私の罪はそれを完遂できなかったことだ」と(cf. 本ブログ〈May 26, 2016〉記事「映画『アイヒマン・ショー/歴史を映した男たち』」 本ブログ〈November 29, 2016〉記事「映画『手紙は憶えている』」)。
一方、本作のオープニングには、記録映画『アイヒマンと第三帝国』(Eichmann und das Dritte Reich/Director:Erwin Leiser、1961年スイス・西独)に収められている実際のフリッツ・バウアー(Fritz Bauer、1903~68)の映像が流される。そこで彼は「ドイツ人の誇りは奇跡的な経済復興とゲーテやベートーベンを生んだ国であるということ」と述べると、「一方でドイツはヒトラーやアイヒマンやそのお仲間を生んだ国でもある」と続ける。
フリッツ・バウアーは戦後ドイツにおける最も重要な法律家の一人に数えられている。ユダヤ系だったバウアーは、1936年から49年までデンマークとスウェーデンで亡命生活を送った後、ナチスの犯罪を法廷で裁くことを目指し、それを社会全体で議論すべきテーマとして取り上げた数少ない人間の一人だった。当時の西ドイツは、国全体が敗戦からの経済復興に傾斜し、戦争の記憶の風化が進みつつあった。1949年に発足したアデナウアー政権は、戦争犯罪の追及よりも経済復興を優先させ、ニュルンベルク法の制定(1935年)に関わった極悪人ハンス・グロプケを官房長官に登用している。元ナチス高官や元親衛隊員の中には、バウアーの部下であるウルリヒ・クライトラー上席検事や連邦刑事局のパウル・ゲープハルトのように、政府や捜査機関の要職に就いている者がたくさんいた。
バウアーは政府がナチ戦犯アドルフ・アイヒマンを裁くことに乗り気でないことを知り、アイヒマンの所在に関する極秘情報をイスラエルに流す。これがアルゼンチンでのアイヒマンの身柄拘束と、エルサレムでの裁判につながった。
また、バウアーは1963年以降、ドイツ人によるアウシュヴィッツ裁判(1963年12月20日~65年8月10日)を実現させる。ニュルンベルク裁判(1945年11月20日~46年10月1日)

は戦勝国による裁判だったが、ドイツ人自身が過去から目を背けずに戦争犯罪を裁く姿勢を内外に示した。「ドイツで、ドイツ人によって、ドイツ人を裁くことによって、我々の犯した罪と向き合える」(バウアー)。ドイツ国民はもとより、周辺諸国の人々も、この裁判を通してアウシュヴィッツの実態に触れ、改めてナチズムの非道さを実感することになった。フリッツ・バウアーの名前は今や、フランクフルトで行なわれた「アウシュヴィッツ裁判」とともに戦後ドイツ史に刻み込まれ、ドイツにおける過去の克服の代名詞となっている。フリッツ・バウアーは、まさしく歴史の集団的忘却と闘った真の英傑だった!
21世紀の現在に生きる私たちが、フリッツ・バウアーその人から謙虚に学び取るべき思想的姿勢は、次の点である。
・過去と真摯に向き合い、過去から誠実に学ぶ!
・民主主義を発展させるために、次世代に過去の過ちを正しく伝えなければならない!若い世代が歴史の真実を知ることによってはじめて、親世代には困難だった負の歴史を克服することができる―。
・民族の歴史の陽も陰もきちんと受け止めることにより、正義の問題として国家と向き合い、正しい未来へとつなぐ!
・いかなる抵抗があろうと、信念のために身を捧げて粘り強くゴールを目指す勇気を持つ!
{参照Ⅰ} イルムトゥルード・ヴォヤークの論文「フリッツ・バウアーと1945年以降のナチ犯罪の克服」(Dr. Irmtrud Wojak, Fritz Bauer und die Aufarbeitung der NS-Verbrechen nach 1945, in : Blickpunkt Hessen Nr. 2/2003)は、“フリッツ・バウアー”について、次のように叙述している(本田稔・朴普錫〈共訳〉『立命館法學』2011年第3号掲載)。
※著者のイルムトゥルード・ヴォヤーク(1963~)は、「第2次世界大戦後のナチ犯罪の司法による克服」をテーマに研究活動に取り組む、ドイツの社会史学者。彼女は前掲論文をもとにフリッツ・バウアーの全生涯を記録した『フリッツ・バウアー 1903~1968年』(Fritz Bauer 1903-1968, C. H. Beck, 2009)を出版。同書の内容は、ドイツ国内外において高い評価を得ている。
≪ヘッセン州の首席検事フリッツ・バウアーは、連邦共和国の建国後の20年において最も偉大な法律家であり、かつ司法改革者の1人であった。彼は、1903年7月16 日にドイツのシュトゥットガルトのユダヤ商人の子どもとして生まれ、ハイデルベルク、ミュンヘン、チュービンゲンで学び、1925年にハイデルベルク大学のカール・ガイラーのもとで「トラストの法的構造」に関する論文を執筆して、法学博士の学位を取得した。1928年に第2次国家試験に合格し、1930年にはシュトゥットガルト区裁判所で、ドイツ最年少の区裁判所判事になった。フリッツ・バウアーは、ヴュルテンベルクの共和主義裁判官同盟の共同設立者であり、1930年以降は社会民主党の防衛部隊である「黒赤金の帝国旗」のシュトゥットガルト地方組織の議長でもあった。
彼は法律家としての仕事、また裁判官としての仕事を政治的な活動に結びつけたが、それが国家社会主義者に対してまったく対立するものでなかったにもかかわらず、国家社会主義者は権力掌握後すぐに、この若き法律家の身柄を拘束し、残虐な刑罰的措置で悪名の高いホイベルクの強制収容所に数ヶ月のあいだ収容した。それ以降、自由権と人権の擁護のために尽くしてきた共和主義的な法律家にとって、さらに生き続けることができる場所はシュトゥットガルトにはなかった。彼は1936年、ゲシュタポが彼を再び身柄拘束する前にデンマークに亡命したが、そこで ナチの手先に捉えられてしまった。
バウアーは、釈放後もコペンハーゲンの社会民主主義の亡命グループで活動に従事し、ゲシュタポの逮捕を恐れながら引き続き暮らしていた。1943年の秋にデンマークのユダヤ人がアウシュヴィッツ強制的に移送されたとき、彼はまずは地下に潜むことに成功した。デンマークの漁師が迫害されたユダヤ人に支援活動をしてくれたおかげで、エーレ海峡からスウェーデンへの逃亡が可能になり、彼と彼の家族の命は助けられた。1949年、バウアーはドイツに帰国し、ブラウンシュヴァイクの州裁判所長になり、その翌年に首席検事になった。この職に就いていた1956年、彼はヘッセン州の首相ゲオルク・アウグスト・ツィンによってフランクフルトに招かれた。
バウアーは、新しい共和国の司法と改革された刑法がいかにあるべきかに関して、大きな期待と様々な思いを抱きながらドイツに戻ってきた。彼自身、あるインタービューにおいて次のように述べた。「…私は、国家の不法との闘争において、ワ イマール共和国の若い民主主義者の楽観論と信念から、そして亡命者の抵抗精神と抵抗意思から、何かを引き出すことが出来ると信じているからである。…民主主義の擁護が求められていたとき、司法はすでにその権力を濫用したが、国家による犯罪は、1933年から1945年までの不法国家だけでは終わらなかった。私は誓った。 法律と法に、人間性と平和に口先で忠誠を誓うだけの法律家にはならないことを誓った」。1944年、彼はすでに一冊の著書『法廷に立たされる戦争犯罪人』をスウェーデンにおいて出版し、1945年にはドイツ語とデンマーク語で出し、ある課題を定式化した。それは、連合国によって計画された戦争犯人訴訟が提起した課題であった。≫(太字-引用者)
なお、ヴォヤークの前掲論文には、訳者による、次のような注目すべき~バウアーの思想的姿勢の何たるかを明らかにする~「解説」が付されている。
≪本稿では、戦後ドイツにおけるナチ犯罪の刑法による克服の過程が非常にリアルに再現されている。まず重要な点として挙げておかなければならないことは、戦後ドイツにおいてナチ犯罪の克服に取り組んだフリッツ・バウアー自身がユダヤ教徒であり、かつナチスの政権掌握以降、ドイツ国内はもちろん、亡命先のデンマークとスウェーデンにおいて弾圧と迫害を受けた被害者であったことである。バウアーは、ナチ犯罪を克服するために、アウシュヴィッツ強制収容所の関係者の行為を裁くアウシュヴィッツ裁判に取り組んだが、その目的は「被害者」が「加害者」に対して復讐するためではなく、戦後ドイツにおいて人間的な法秩序を再建するためであった。その当時の世論のなかには、バウアーがアウシュヴィッツ裁判に取り組んだのは、彼がユダヤ教徒としてドイツ人に復讐するためであったと非難する意見もあったようである。それが事実を無視した誤解であることはいうまでもないが、戦後のドイツにおいてナチ犯罪の刑法による克服が、それを推進する世論とそれを阻む世論の拮抗と対立のなかで取り組まれ、バウアーが失望と挫折を繰り返しながら、一歩一歩前進を勝ち取ってきたことを、我々は記憶にとめなければならないであろう。≫(太字-引用者)
ナチスの戦争犯罪の徹底追及に人生を捧げたフリッツ・バウアー。不屈の精神で邁進したバウアーだが、周囲には敵も多かった。彼は「復讐に燃えるユダヤ人」と見なされて反対に遭い、生涯、強力な敵に囲まれていた。ドイツ当局の誰ひとり彼に協力したがらず、あの手この手で妨害した。反ユダヤ主義がヒトラーとともに決して消え去ったわけではなかった。
バウアーがさらされていた社会的・政治的な圧力は、いかばかりだったか…。
1968年7月1日(一説に6月30日)、バウアーが浴槽で死亡しているのが見つかった。心臓に持病があり、睡眠薬も服用していた。解剖した医師は「自殺」と判断したようだが、その死の真相は今も闇に包まれている…。
{参照Ⅱ} ドキュメンタリー映画 “Fritz Bauer-Tod auf Raten|Death By Instalments(忍び寄る死)” (Dir: Ilona Ziok(イロナ・ツィオク), Germany 2010, 110 min) Trailer :
同作は“ベルリナーレ(Berlinale、ベルリン国際映画祭)2010”のパノラマ(Panorama)部門プレミア上映作(A film by Ilona Ziok :
《Fritz Bauer was probably the most renowned state prosecutor the Federal Republic has ever had. He saw himself as a ‘lawyer out of a sense of freedom’ and was convinced that the nation’s citizens had the right to resist against state acts of an arbitrary nature. He was prepared to stand up for this right in 1952/53 as Attorney General for Lower Saxony in a spectacular trial regarding the legitimacy of the coup of 20 July, 1944. Bauer succeeded in rehabilitating the executed conspirators. This verdict made him a pioneer of modern ‘civil society’ thought.
He applied the same focus to the illumination and avengement of Nazi crimes. As Attorney General for Hesse from 1956 – 68, he was the key initiator in the Frankfurt Auschwitz trials. Bauer also played an important role in the seizure of Adolf Eichmann: he informed Israel’s intelligence agency Mossad of the whereabouts of the ‘architect of the Holocaust’ so that Eichmann could be brought to trial in Jerusalem. Under his watch, Fritz Bauer also pushed for reforms to the penal system, the humanisation of which was he believed integral to a humane society.
During the restorative climate of the Adenauer era, Bauer became the ‘agent provocateur of the age’. Essays and talks with titles such as ‘Murderers Among Us’ and ‘At the End Came the Gas Chambers’ provoked criticism not only from right-wing radicals but also middle-class audiences. The life of this Swabian Jew was subject to anti-Semitism and political hostility.
Bauer perceived the passing of the German Emergency Acts in May 1968 as a particularly heavy blow and felt that this was an irreparable turning point towards an authoritarian state. He was found dead in his Frankfurt apartment on 30 June 1968. The circumstances of his death have remained unsolved to this day.》
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cf. “ ニュルンベルク裁判 ” ― ナチスの戦争犯罪を裁く :+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
【「映画『アイヒマンを追え! ナチスがもっとも畏れた男』(2)」[本ブログ〈February 07, 2017〉]へ続く…】