普通人の映画体験―虚心な出会い -2ページ目

普通人の映画体験―虚心な出会い

私という普通の生活人は、ある一本の映画 とたまたま巡り合い、一回性の出会いを生きる。暗がりの中、ひととき何事かをその一本の映画作品と共有する。何事かを胸の内に響かせ、ひとときを終えて、明るい街に出、現実の暮らしに帰っていく…。

2020年1月29日(水)ラピュタ阿佐ヶ谷(東京都杉並区阿佐ヶ谷北2-12-21、JR阿佐ヶ谷駅北口より徒歩2分)~特集「映画の中の子供―ちいさな主人公たちの、おおきな、おおきな物語」~で、18:30~ 鑑賞。

「風の又三郎」(2)「風の又三郎」(1)

作品データ
製作年 1940年
上映時間 97分
製作国 日本
配給 日活

日本初公開 1940年10月10日

「風の又三郎」⑶

俳優として活躍していた島耕二(1901~86)が、監督に転身して初めて制作した、1940年公開の作品。原作は宮沢賢治(1896~1933)の不朽の名作であり、その後も何度か映画化されているが(1957年・村山新治監督リメイク版/1989年・伊藤俊也監督リメイク版)、この作品が原作の雰囲気を最も良く映像化していると評された。詩情豊かにユニークな〈童心〉の世界を繰り広げる本作は、「本格的な児童映画の誕生」として高く評価され、当時の日本「内地」各地、さらに「外地」の京城、満州、樺太、台湾で上映された。出演:片山明彦・中田弘二・北竜二・風見章子・大泉滉・林寛・見明凡太郎ほか。

ストーリー
東北の山間の小さな部落、谷川の岸に小さな学校がある。風の強い9月1日、北海道から転校してきたという5年生の少年が突然教室に現われる。彼の名は高田三郎(片山明彦)だったが、その日がちょうど二百十日であったため、4年生の嘉助(星野和正)は彼を「風の又三郎」と呼んだ。転校翌日、三郎は4年生の佐太郎(中島利夫)にきれいな鉛筆をあげた。また国語の本を読み上げ、みんなの関心を集めた。新参者に興味を示し、一緒に遊んだりしながらも一定の距離を置く子供たち。ある日、川原でガキ大将の6年生・一郎(大泉滉)に相撲を挑まれ、投げ飛ばされる三郎。そして、調子に乗った一郎に、「ワーイ、又三郎、悔しいか!悔しかったら風を吹かしてみろ」とからかわれてしまう。直後、三郎は雲行きを見ながら、意を決して「どっどど どどうど…」で始まる“風の歌”を口ずさむ。

どっどど どどうど どどうど どどう
どっどど どどうど どどうど どどう
あまいリンゴも吹きとばせ
すっぱいリンゴも吹きとばせ
どっどど どどうど どどうど どどう
どっどど どどうど どどうど どどう

どっどど どどうど どどうど どどう
どっどど どどうど どどうど どどう
あまいザクロも吹きとばせ
すっぱいザクロも吹きとばせ
どっどど どどうど どどうど どどう
どっどど どどうど どどうど どどう

どっどど どどうど どどうど どどう
どっどど どどうど どどうど どどう
甘いクルミも吹きとばせ
すっぱいカリンも吹きとばせ


と、にわかに空に黒雲が湧き立ち、強風が吹き起こり、いきなり雷が鳴り響き、まもなく暴風雨が荒れ狂う…。
翌日、三郎は別の学校へ転校していったため、子供たちは彼こそ本物の「風の又三郎」だったのだと確信する―。

Full Movie



▼ cf. BS朝日 「あらすじ名作劇場」 《銀河の詩人・宮沢賢治風の又三郎」(オリジナルドラマ化)、「雨ニモマケズ」(朗読:平泉成)》(放送日:2016年12月14日) :

2020年1月28日(火)「アップリンク吉祥寺」(東京都武蔵野市吉祥寺本町1丁目5−1 吉祥寺パルコ地下2階、吉祥寺駅北口から徒歩約2分)で、20:45~鑑賞。

Hevi Reissu

作品データ
原題 Hevi reissu
英題 Heavy Trip
製作年 2018年
製作国 フィンランド/ノルウェー
配給 SPACE SHOWER FILMS
上映時間 92分


「ヘヴィ・トリップ」

メタル大国フィンランドを舞台に、地元の田舎で冴えないバンド活動をしていた4人の若者が、偶然掴んだチャンスをきっかけに、隣国ノルウェーで開かれる巨大メタルフェス出演を目指して繰り広げるドタバタ珍道中の行方を、メタル愛あふれる小ネタ満載に描いた音楽青春ロードムービー。『アンノウン・ソルジャー 英雄なき戦場』のヨハンネス・ホロパイネン、『サマー・フレンズ』のミンカ・クーストネンのほか、ヴィッレ・ティーホネン、マックス・オヴァスカ、マッティ・シュルヤらが出演。監督は本作が長編デビューとなるユッカ・ヴィドゥグレンとユーソ・ラーティオ。フィンランドを代表するヘヴィ・メタルバンド「ストラトヴァリウス」のラウリ・ポラーが音楽を担当。

ストーリー
フィンランド北部、何もない田舎の村。退屈な毎日を送る25 歳のトゥロ(ヨハンネス・ホロパイネン)は、“終末シンフォニック・トナカイ粉砕・反キリスト・戦争推進メタル”を標榜する、4人組ヘヴィ・メタルバンドのヴォーカルだ。バンドは結成から12年間、一度もステージに立つことなく、一曲もオリジナル楽曲を作ったことがない、単なるコピーバンドにすぎなかった。だが、ある日、ついに強い意志のもと作曲に取りかかり、試行錯誤の末にとてつもなくキラーな名曲を完成させる。時同じくして、ひょんなことからノルウェーの巨大メタルフェス主催者がメンバーの家にやってきて、千載一遇のチャンスが舞い込む。バンド名を「インペイルド・レクタム(Impaled Rektum/直腸陥没)」に定め、ハイウェイの自動速度取締機を使い初のアーティスト写真を撮影。ところが、いざ地元のライブハウスで初の前座を務めたとき、緊張したトゥロが“大嘔吐”するという前代未聞の失態をさらす。ノルウェーのフェス参戦も水の泡と化し、バンドはあえなく解散。さらにはドラマーのユンキ(アンティ・ヘイッキネン)がハイウェイを爆走中にトナカイを避けて事故を起こし、死んでしまう。亡き友人を想い涙し、自分の不甲斐なさを噛みしめたトゥロは、ユンキのため、仲間のため、そして自分自身のために、バンドを再結成し、ノルウェーに乗り込む決意を固める。盗んだバンに墓地から掘り起こしたユンキの棺桶を乗せ、精神科病院からドラマーを誘拐し、ノルウェーへと逃亡する一行。フィンランド警察から追われ険しいフィヨルドを駆けながら、夢のフェスを目指す。だが、国境では彼らの前にノルウェーの “デルタ部隊”が立ちはだかる。どうなる!?インペイルド・レクタム、果たして巨大フェスの舞台に立てるのか…。

▼予告編

2020年1月28日(火)「アップリンク吉祥寺」(東京都武蔵野市吉祥寺本町1丁目5−1 吉祥寺パルコ地下2階、吉祥寺駅北口から徒歩約2分)で、18:20~鑑賞。

「ポゼッション」

作品データ
原題 Possession
製作年 1981年
製作国 フランス/西ドイツ
上映時間 124分

日本初公開 1988年9月17日

ドイツの近郊都市に住む美しい人妻が妄想に悩まされ狂気に陥っていく姿を映し出す不条理スリラー。出演は『アデルの恋の物語』のイザベル・アジャーニ(1981年・第34回カンヌ国際映画祭主演女優賞受賞)、『ピアノ・レッスン』のサム・ニールほか。監督・脚本は『私生活のない女』など、狂熱的な愛をスキャンダラスに描く、ポーランドのアンジェイ・ズラウスキー。2020年1月、製作40周年を記念してHDリマスター版でリバイバル公開。

ストーリー
西ドイツ、ベルリン郊外。数年間の単身赴任を終え、妻子の待つ自宅へ帰ったマルク(サム・ニール)は、妻アンナ(イザベル・アジャーニ)の態度がどこかよそよそしいことに気づく。やがて夜な夜な家を後にするようになったアンナは、結婚生活や母親業から逃れたいこと、そして愛人の存在を夫に告げるのだった。ハインリッヒ(ハインツ・ベネント)という男の存在を知ったマルクは、彼のもとを訪ねるが、実はアンナにはハインリッヒの他にも“第3の男”がいるらしかった。思い余ったマルクは、私立探偵を雇い妻を尾行させるが、いつしか彼は連絡を断ってしまう。一方、アンナは日々ヒステリックに狂気の度を増していく。ある日、息子のボブ(ミシェル・ホーベン)を学校に送ったマルクは、そこで妻とそっくりの教師ヘレン(I・アジャーニ=二役)と出会う。アンナとの生活に疲れ切った彼は、妻とよく似たヘレンに甘えるように身体を重ねるのだった。ますます不可解な行動をとるようになっていくアンナ。現実を歪める妄想に取り憑かれた彼女を救い出すため、マルクは彼女に憑依(ひょうい)した“魔物”と対峙する決意を抱くのだが…。

▼予告編



私感
アンナ/ヘレンを演じたイザベル・アジャーニ(Isabelle Adjani、1955~)は、なかなか魅力的。
しかし、物語内容はホラーともミステリーともつかない奇妙な不条理劇そのもの。この半分オカルト映画のような異様な作品は、いたずらに何か取っ付きにくい冷え冷えとした印象を私の目の底に残す。共産主義への不信、離婚問題、善と悪のせめぎ合い、女性の理解不能さ等のテーマが何となく見当たるものの、不可解な出来事が連続する、非常に混乱し、混沌としている映画だ。愛に憑かれて妄想の魔物とファックまでするアンナ⇒アジャーニにいたっては、いささか辟易!
2020年1月21日(火)新文芸坐(東京都豊島区東池袋1-43-5 マルハン池袋ビル3F、JR池袋駅東口下車徒歩3分)―特集「没後10年 高峰秀子が愛した12本の映画 ~名女優自ら選んだ、名匠たちとの仕事~」―で、17:20~ 鑑賞。『』15:25~と2本立て上映。

「二十四の瞳」⑴「雁」「二十四の瞳」

作品データ
英題 Twenty-Four Eyes
製作年 1954年
製作国 日本
配給 松竹
上映時間 154分


「二十四の瞳」⑸「二十四の瞳」(3)

壺井栄(1899~1967)の同名小説(1952年)を木下惠介(1912~98)が脚色・監督した日本映画の名作。1928(昭和3)年から敗戦の翌1946年までの激動の時代、女性教師と12人の教え子たちの師弟愛、幾歳月を経ても変わらぬ美しい小豆島の自然と、貧しさや古い家族制度、戦争によってもたらされる悲劇とを対照的に映し出した心温まる感動作。主演は高峰秀子、20代から50代までに扮して熱演。共演に笠智衆、夏川静江、田村高廣、天本英世、小林トシ子、浪花千栄子、月丘夢路、浦辺粂子、清川虹子ほか。
子役には、1年生役と、その後の成長した6年生役を選ぶに際し、全国からよく似た実際の兄弟・姉妹を募集。3600組7200人の子供たちの中から、12組24人が選ばれた。また、大人になってからの役者も、その子供たちとよく似た役者が選ばれた。これにより、1年生から6年生へ、そして大人へと、子役たちの自然な成長ぶりを演出している。
1987年には朝間義隆監督・田中裕子主演でリメイクされた(脚色:木下惠介)。また2007年にはデジタルリマスター版が制作されDVD発売と劇場公開がなされた。

「二十四の瞳」(2)「二十四の瞳」(4)
「二十四の瞳」⑺「二十四の瞳」⑹

ストーリー
昭和3年4月、大石久子(高峰秀子)は新任のおなご先生として、瀬戸内海小豆島の分校へ赴任した。一年生12人~男子5人(磯吉、吉次、竹一、仁太、正)、女子7人(松江、早苗、小ツル、コトエ、マスノ、ミサ子、富士子)~の“二十四の瞳” (にじゅうしのひとみ)が、初めて教壇に立つ久子には特に愛らしく思えた。二十四の瞳は足を挫いて学校を休んでいる久子を、2里も歩いて訪れてきてくれた。しかし、久子は自転車に乗れなくなり、近くの本校へ転任せねばならなかった。5年生になって二十四の瞳は本校へ通うようになった。久子は結婚していた。貧しい村の子供たちにも人生の荒波が押し寄せ、母親の急死した松江は奉公に出された。修学旅行先の金毘羅(こんぴら)で偶然にも彼女を見かける久子。そして、子供たちの卒業とともに久子は教壇を去った。その頃台頭した軍国主義の影が教室を覆い始めていたことに嫌気がさしてのことだった。8年後。大東亜戦争は久子の夫(天本英世)を殺した。島の男の子は、次々と前線へ送られ、竹一、正、仁太の3人が戦死し、ミサ子は結婚し、早苗は教師に、小ツルは産婆に、そしてコトエは肺病で死んだ。久子には既に子供が3人いたが、2歳になる末っ子(長女)八津は空腹に耐えかねた末に柿の実をもごうとして落下し死んだ。敗戦の翌年、久子は再び岬の分教場におなご先生として就任した。教え子の中には、松江やミサ子の子供もいた。一夜、ミサ子、早苗、松江、マスノ、磯吉、吉次、小ツルが久子を囲んで歓迎会を開いてくれた。二十四の瞳は揃わなかったけれど、想い出だけは今も彼らの胸に残っていた。数日後、岬の道には教え子たちに贈ってもらった自転車に乗り、元気にペダルを踏む久子の姿があった―。

▼予告編






Music



▼「マッちゃん!元気でね 手紙頂戴ね  先生も書くから…さようなら」 :
【6年生を引率した修学旅行で「金刀比羅宮(ことひらぐう)」を訪れた大石先生⇒高峰秀子。図らずも“マッちゃん”こと川本松江(演:草野貞子)と再会する。家が貧しく、母親が亡くなった後、養子に出された松江は、“こんぴらさん”の参道わきの飯屋で働いていた―。】


Full Movie



私感
自分史上、本作の映画館での鑑賞は、今回が3度目に当たる。
遠い記憶をたどれば、最初に出会ったのが、1950年代、北海道・岩見沢市の映画館で、私が小学生の時だった。ただし、それが公開直後の54年9月のことだったか、また私自身の単独行動によるものだったかは、はっきりとしない。当時しばしば連れ立って出かけた姉と一緒に観たような気もするし、あるいは文部省特選映画ということで教師に引率されて観たのかもしれない…。
2度目はデジタルリマスター版が劇場公開された2007年3月、東京(新宿?)の映画館で。そして、約13年ぶりの再々見。

本作は私にとって無性に懐かしく忘れがたい作品だ。再見時はもとより、今回もまた、“女教師とその12人の受け持ちの生徒たちとの愛情の物語”に魅入られっぱなし。少年少女たちのあどけない純朴な表情と全編を流れる美しい小学唱歌が切々と胸に迫る。そして、失われた時代の悲しみの全てを受け止め、受け容れ、浄化する役目を果たした高峰秀子の名演にほとほと感服!
2020年1月21日(火)新文芸坐(東京都豊島区東池袋1-43-5 マルハン池袋ビル3F、JR池袋駅東口下車徒歩3分)―特集「没後10年 高峰秀子が愛した12本の映画 ~名女優自ら選んだ、名匠たちとの仕事~」―で、15:25~ 鑑賞。『二十四の瞳』17:20~と2本立て上映。

「雁」⑴

作品データ
製作年 1953年
製作国 日本
配給 大映
上映時間 104分


「雁」⑵

森鷗外(1862~1922)の同名小説を『浅草紅団』の成澤昌茂が脚色し、『わが愛は山の彼方に』の豊田四郎監督が映画化。美しい下町娘と、ある大学生との間に芽生えた、儚い恋の姿が描かれる。主演(お玉役)は高峰秀子、人生の不遇に耐えながらも心(しん)の強い女を好演。共演に芥川比呂志(岡田役)、宇野重吉(木村役)、東野英治郎(末造役)、浦辺粂子(お常役)、飯田蝶子(おさん役)、小田切みき(女中・お梅役)、三宅邦子(お貞役)、田中栄三(お玉の父・善吉役)ほか。1966年には池広一夫監督・若尾文子主演でリメイクされた(脚色:成澤昌茂)。

「雁」⑶「雁」⑷

ストーリー
下谷練塀町(したやねりべいちょう)の裏長屋に住む善吉(田中栄三)、お玉(高峰秀子)の親娘は、子供相手の飴細工を売って、侘しく暮らしていた。お玉は妻子ある男とも知らず一緒になり、騙された過去があった。今度は独り身で呉服商だという末造(東野英治郎)の世話を受けることになったが、それは嘘で末造は大学の小使いから成り上った高利貸しで世話女房もいる男だった。お玉は大学裏の無縁坂(むえんざか)の小さな妾宅に囲われた。末造に欺かれたことを知って口惜しく思ったが、生活力のない父親がようやく平穏な日々にありついた様子をみると、思うに任せず「籠の鳥」に身を委ねるより仕方がなかった。
その頃、毎日無縁坂を散歩する医科大学生たちがいた。偶然その中の一人岡田(芥川比呂志)を知ったお玉は、いつか激しい思慕の情を募らせていった。末造が留守をした冬の或る日、お玉は今日こそ岡田に心を告げようと決心する。しかし、岡田はドイツへ留学する試験に合格、丁度その日送別会が催されようとしていた。勘づいた末造に厭味を浴びせられたお玉は、明瞭に自分の意志を、ついに一つの叫びに替える。
「放して!私もう、縛られたくないんです!…卑怯です、あなた!お金でばかり私を縛ろうとする!もう、沢山!イヤ!」
男を確信的に振り切るようにして、彼女は表に飛び出た。走り続けて止まったところで、馬車の音が近づいてきて、その中で楽しそうに談笑する岡田の顔が、一瞬見えた。ただ呆然と、思いを内側に深々と封印した目で、その馬車の先を追い続けるお玉。まもなく不忍池(しのばずのいけ)の畔に立って、そこに水草を求める雁の群れに眼をやる。群れの中の一匹の雁が夜空に高々と飛び立って、やがて見えなくなった―。

▼ cf. 高峰秀子(たかみね ひでこ、1924~2010) :



▼ cf. 10 Things You Should Know About Hideko Takamine



私感
本作は今回が初鑑賞。
私は幼稚園から高校にかけての“映画少年”時代に、『二十四の瞳』(1954年)と出会って以来、高峰秀子の出演作を、手当たり次第に~旧作・新作を満遍なく~観続けた。今なお、その映像が何らかの形で脳裏に思い浮かぶ作品は、例えば『銀座カンカン娘』(1949年)、『女の園』(1954年)、『浮雲』(1955年)、『新・平家物語 義仲をめぐる三人の女』(1956年)、『流れる』(1956年)、『喜びも悲しみも幾歳月』(1957年)、『張込み』(1958年)、『無法松の一生』(1958年)、『笛吹川』(1960年)、『名もなく貧しく美しく』(1961年) 本ブログ〈February 26, 2019〉、『人間の條件 第5・6部』(1961年)等々…。
そんな私がこれまでに見逃してきた作品の一つが、本作『雁』であった。

私は森鷗外の同名原作~文芸雑誌『スバル』に1911年から1913年にかけて連載された小説『雁』~を、既に小学生時代に読んでいた。映画と共に小説を愛好した当時の私が、(学校教師だった父親の影響もあって)日本の作家で最も強く惹かれたのが鷗外。最初に接した小説が『高瀬舟』で、以来小学から中学にかけて、『雁』、『山椒大夫』、『舞姫』、『ヰタ・セクスアリス』、『青年』、『普請中』、『興津弥五右衛門の遺書』、『阿部一族』、『佐橋甚五郎』、『大塩平八郎』などを一心に読み続けたものだった。
『雁』は少年の私の心を揺り動かす作品だった。…貧窮のうちに無邪気に育ったお玉は、結婚に失敗して自殺を図るが果たさず、高利貸しの末造に望まれてその妾になる。女中と二人暮らしのお玉は、大学生の岡田を知り次第に心を奪われていくが、偶然の重なりから二人は結ばれずに終わる…。極めて市井的な一女性の自我の目覚めとその挫折~しょせん叶わぬ恋!~を一種のくすんだ哀愁味の中に描くこの作品は、私の文芸作品・読書史上、永く心に残って忘れがたい名作にほかならない。

高峰秀子はお玉という“薄幸”そのものを背負って生きる女性を生き生きと演じて素晴らしい。所作も表情も胸元も全てが美しい!高峰秀子という非凡な女優は、もともと日本の女が職業的な自立と精神的な自己の確立を目指す役どころを真骨頂としているが、本作では比較的に抑えた演技で、薫り高い鷗外の原作に籠る人生の哀感を見事に体現している。

※本作に付された高峰秀子自身の解説:
「この時の芥川さんのことはよく覚えてる。坂道を歩いていくシーンを撮ってる時、芥川さんが私に聞くんですよ、『どうやって歩けばいいんでしょう?』って。何でそんなこと聞くんだろうって不思議だったけど、『普通に歩けばいいんじゃないの』って言ったら、『僕は普段、坂の上(舞台)ばっかり歩いてるから、こんな石ころだらけの坂道を下駄履いて歩けないんです』って。芥川さんは帝大生の役で、ホウバの下駄を履いてたから、慣れてなかったのね。東野英治郎さんが上手かったねぇ。私の役のお玉を囲う、質屋の主人」(斎藤明美監修『高峰秀子 高峰秀子自薦十三作/高峰秀子が語る自作解説』キネマ旬報社、2010年〈第3刷〉、65頁)。
2020年1月20日(月)「アップリンク吉祥寺」(東京都武蔵野市吉祥寺本町1丁目5−1 吉祥寺パルコ地下2階、吉祥寺駅北口から徒歩約2分)で、15:30~鑑賞。

「イントゥ・ザ・スカイ」⑴

作品データ
原題 THE AERONAUTS
製作年 2019年
製作国 イギリス/アメリカ
配給 ギャガ
上映時間 101分


The Aeronauts

『博士と彼女のセオリー』で夫婦役を演じたエディ・レッドメインとフェリシティ・ジョーンズが再共演し、気球で前人未到の高度到達に挑んだ実在の気象学者をモデルに描く冒険アドベンチャー。高度11000m、気温マイナス50℃、酸素もほとんどない世界を、最先端の映像とドルビーアトモスの録音技術を駆使し、臨場感たっぷりに映し出す。『博士と彼女のセオリー』で夫婦役を演じたエディ・レッドメインとフェリシティ・ジョーンズが再共演する。『イエスタデイ』のヒメーシュ・パテル、『さざなみ』のトム・コートネイが出演。メガホンを取るのは、『ウーマン・イン・ブラック2 死の天使』のトム・ハーパー。

※ cf. 『ウィキペディア日本語版』「イントゥ・ザ・スカイ 気球で未来を変えたふたり」/アメリア・レンに 関して「ジェームズ・グレーシャー」(2020年1月22日閲覧) :
≪本作の最大の見せ場となるガス気球飛行はジェームズ・グレーシャー(James Glaisher、1809~1903)とヘンリー・コックスウェル(Henry Coxwell、1819~1900)が1862年9月5日に行ったフライトである。そのフライトで、2人が乗ったガス気球は高度3万7千フィート(11278メートル)に達し、当時の最高高度到達記録を更新した。しかし、本作にはグレーシャーこそ登場するものの、コックスウェルは女性パイロットのアメリア・レンに置き換えられている。アメリアはコックスウェルやソフィー・ブランシャール(Sophie Blanchard、1778~1819、プロのガス気球飛行士になった初めての女性)などの実在する飛行士を手引きに創作された架空のキャラクターである。ロイヤル・ソサエティの図書館長を務めるキース・ムーアは「ヘンリー・コックスウェルが描写されないというのは恥ずべき事態である。コックスウェルの業績は顕著なものであり、彼がいたからこそ、グレーシャーは生きて地上に帰ってくることができたのだから。」と批判している。≫

「イントゥ・ザ・スカイ」 (3)
「イントゥ・ザ・スカイ」 (2)

ストーリー
1862年、ヴィクトリア朝時代のロンドン。“天気を予測することができる”と唱える気象学者のジェームズ・グレーシャーエディ・レッドメイン)は、学界からは荒唐無稽とバカにされ、調査飛行の資金も集められずにいた。諦めきれないジェームズは、気球操縦士のアメリア・レンフェリシティ・ジョーンズ)に「空に連れていってほしい」と頼み込む。2年前に最愛の夫を亡くしてから、生きる気力さえ失っていたアメリアだが、ためらいつつも悲しみから立ち直るための飛行を決意する。ようやくスポンサーも現われ、アメリアのショーとして、高度の世界記録に挑戦することになる。観客の熱い声援に送られ飛び立った二人だが、立場と目的の違いから狭いバスケットに険悪な空気が流れる。だが、それまでの高度2万4千フィート(7315メートル)の世界記録を破った後、想像を絶する自然の脅威に次々と襲われた二人は、互いに命を預けて助け合うしかなかった。果たして、前人未到の高度11000mで、彼らを待ち受けていたものとは?上空に行けば行くほど空気が薄くなり、そのために判断力や気力が鈍る中、二人は何とか生還するために必死で知恵を絞るのだった…。

▼予告編



Featurette:A Journey To The Skies

2020年1月17日(金)吉祥寺オデヲン(東京都武蔵野市吉祥寺南町2-3-16、JR吉祥寺駅東口徒歩1分)で、20:25~鑑賞。

「ジョジョ・ラビット」⑴

作品データ
原題 Jojo Rabbit
製作年 2019年
製作国 アメリカ
配給 ディズニー
上映時間 109分


「ジョジョ・ラビット」(3)
「ジョジョ・ラビット」⑷

『ドクター・ストレンジ』『マイティ・ソー バトルロイヤル』のタイカ・ワイティティ監督がメガホンを取り、第44回トロント国際映画祭で最高賞の観客賞を受賞した人間ドラマ。第二次世界大戦下のドイツを舞台に、ヒトラーユーゲント(ナチス青少年団)の立派な隊員に憧れる10歳の愛国少年が、自宅にユダヤ人少女が匿われていることを知ってしまい、少女との思いがけない秘密の交流を通して真実に目覚めていく姿を、戦争への辛辣な眼差しとともにユーモラスに描き出す。出演は主人公の少年役にオーディションで選ばれた新星ローマン・グリフィン・デイヴィス、ユダヤ人少女に『キング』のトーマシン・マッケンジー。『マリッジ・ストーリー』のスカーレット・ヨハンソン、『スリー・ビルボード』のサム・ロックウェル、『ピッチ・パーフェクト』シリーズのレベル・ウィルソンらが脇を固める。またワイティティ監督自ら、主人公の憧れの結晶とも言うべき「脳内フレンド」であるアドルフ・ヒトラー役を熱演。

「ジョジョ・ラビット」(2)

ストーリー
10歳のジョジョ(ローマン・グリフィン・デイヴィス)は、ひどく緊張していた。今日から青少年集団ヒトラーユーゲントの合宿に参加するのだが、“空想上の友達”アドルフ・ヒトラー(タイカ・ワイティティ)に、「僕にはムリかも」と弱音を吐いてしまう。アドルフから「お前はひ弱で人気もない。だが、ナチスへの忠誠心はピカイチだ」と励まされたジョジョは、気を取り直して家を出る。
時は第二次世界大戦下、ドイツ。ジョジョたち青少年を待っていたのは、戦いで片目を失ったクレンツェンドルフ大尉(サム・ロックウェル)や、教官のフロイライン・ラーム(レベル・ウィルソン)らの指導によるハードな戦闘訓練だった。何とか1日目を終えたもののヘトヘトになったジョジョは、唯一の“実在の友達”で気のいいヨーキー(アーチー・イェーツ)とテントで眠りにつくのだった。
ところが、2日目に命令通りウサギを殺せなかったジョジョは、教官から父親と同じ臆病者だとバカにされる。2年間も音信不通のジョジョの父親を、ナチスの党員たちは脱走したと決めつけていた。さらに、“ジョジョ・ラビット”という不名誉な綽名(あだな)をつけられ、森の奥へと逃げ出し泣いていたジョジョは、またしてもアドルフから「ウサギは勇敢でずる賢く強い」と激励される。元気を取り戻したジョジョは、張り切って手榴弾の投擲訓練に飛び込むのだが、失敗して大ケガを負ってしまう。
ジョジョのたった一人の家族で勇敢な母親ロージー(スカーレット・ヨハンソン)がユーゲントの事務局へ抗議に行き、ジョジョはケガが完治するまでクレンツェンドルフ大尉の指導の下、身体に無理のない奉仕活動を行なうことになる。
その日、帰宅したジョジョは、亡くなった姉のインゲの部屋で隠し扉を発見する。恐る恐る開くと、中にはユダヤ人の少女が匿われていた。ロージーに招かれたという彼女の名は、エルサ(トーマシン・マッケンジー)。驚くジョジョに向かって、彼女は「通報すれば?あんたもお母さんも協力者だと言うわ。全員死刑よ」と脅すのだった。
最大の敵が同じ屋根の下に!予測不能の事態にパニックに陥るジョジョだったが、考え抜いた末にエルサに「ユダヤ人の秘密を全部話す」という“条件”を呑めば住んでいいと持ちかける。エルサをリサーチして、ユダヤ人を壊滅するための本を書くことを思いついたのだ。その日から、エルサによるジョジョへの“ユダヤ人講義”が始まった。エルサは聡明で教養とユーモアに溢れ機転も利き、母に内緒で彼女と交流を続けていたジョジョは、次第にエルサの話と彼女自身に惹かれていく。さらには、ユダヤ人は下等な悪魔だというヒトラーユーゲントの教えが、事実と異なることにも気づき始める。
そんな中、秘密警察のディエルツ大尉(ステファン・マーチャント)が部下を引き連れて、突然、ジョジョの家の“家宅捜索”に訪れる。ロージーの反ナチス運動が知られたのか、それともエルサの存在が何者かに通報されたのか─。緊迫した空気の中、エルサが堂々と現われて、ジョジョの亡き姉インゲになりすます。その場は何とか成功するが、事態は思わぬ方向へ。大戦が最終局面を迎える中、新たに生まれたジョジョとエルサの“絆”の行方は…?

▼予告編



Opening Scene



Hitlerjugend Activities Scene



▼ “KILL THE RABBIT” :



Gestapo Scene (Heil Hitler)



Mother Death Scene


▼ “FINAL BATTLE” :



Hitler's Death Scene



Ending Scene



▼〈監督&ヒトラー役〉タイカ・ワイティティ(Taika Waititi、1975~)が本作の魅力を語る!



私感
これは私のとても好きなタイプの映画だ。
戦争への辛口なユーモアを利かせながら、いかなる困難の中にあっても輝く希望と生きる喜びを描くヒューマン・コメディー。
主人公ジョジョは、ナチスが支配する、古風で趣のある町フォルケンハイムに暮らす10歳の少年。経験の足りなさゆえ、妄想と思い込みの中に棲息するマジメな生き物だ。無知で愚かで純粋で無垢、そういう愛すべき男児の生き生きしたリアリティーを通して、“戦争”の非道さがクッキリと浮かび上がる。
不気味な“明るさ”を保つ戦時下の日常を送るなか、やがて母親ロージーの死(首吊り死体)にバッタリ出くわし、その宙ぶらりんになった両足を泣きながら抱き締めるジョジョ。ロージーは戦時下でも、お洒落を楽しみ、ダンスを踊り、豊かで人間らしい暮らしが戻ってくることを切に願う女性だった。ジョジョを大きな愛で包み込み、ユダヤ人少女のエルサをナチスの迫害から守り、暗い時代を明るく照らし続けた…。
優しく勇敢なママを喪い、悲しみの底に突き落とされたジョジョ。10歳くらいの男の子というのは、とかく外部からの影響を受けやすく、間違いやすく、パニックに陥りがちだ。しかし一方、彼はいつの間にか気づき、成長し、失い、そして愛を知り正しさを追い求めようとする。アホで、健気(けなげ)で、滑稽で、可愛い男児は成熟し、“大人”の男に近づく。
ジョジョはアドルフが手渡すナチスの腕章を床に叩きつけ、彼を力まかせに窓から蹴落とす。“イマジナリー・フレンド”アドルフ・ヒトラーと決別した瞬間だった。
ナチスの崩壊した街で、アーリア人の少年とユダヤ人の少女はダンスを踊りながら、エンディングを迎える。エンドロール直前に引用される、エルサが好きな詩人ライナー・マリア・リルケ(Rainer Maria Rilke、1875~1926)の詩の一節がわが胸に嫋々と響く。
すべてを経験せよ。美も恐怖も生き続けよ。絶望が最後ではない
 Let everything happen to you
 Beauty and terror
 Just keep going
 No feeling is final.
2020年1月17日(金)吉祥寺オデヲン(東京都武蔵野市吉祥寺南町2-3-16、JR吉祥寺駅東口徒歩1分)で、17:25~鑑賞。

「パラサイト  半地下の家族」 (3)

作品データ
原題 기생충(キセンチュン/寄生虫)
英題 Parasite
製作年 2019年
製作国 韓国
配給 ビターズ・エンド
上映時間 132分


「パラサイト  半地下の家族」 (2)parasite

『殺人の追憶』『グエムル 漢江の怪物』のポン・ジュノ監督が、豪邸に暮らす裕福な家族と出会った極貧家族が繰り広げる過激な生き残り計画の行方を描き、第72回カンヌ国際映画祭で最高賞のパルムドールに輝いたエンターテイメント・ブラック・コメディー。偶然舞い込んだ千載一遇のチャンスを活かすべく、徐々に豪邸に浸食していく一家の必死にして滑稽な姿を、ユーモラスかつ予測不能の展開で描き出していく。主演はポン・ジュノ監督とは4度目のタッグとなる『タクシー運転手~約束は海を越えて~』のソン・ガンホ。共演に『最後まで行く』のイ・ソンギュン、『後宮の秘密』のチョ・ヨジョン、『新感染 ファイナル・エクスプレス』のチェ・ウシク、『プリースト 悪魔を葬る者』のパク・ソダム、『わたしたち』のチャン・ヘジン。

「パラサイト 半地下の家族」⑴

ストーリー
韓国の貧困地区にある狭く汚い“半地下住宅”で暮らすキム一家。父のキム・ギテクソン・ガンホ)は、過去に度々事業に失敗しており、計画性も仕事もないが楽天的。元ハンマー投げ選手の母キム・チュンスクチャン・ヘジン)は、そんな甲斐性なしの夫に強く当たっている。息子のキム・ギウチェ・ウシク)は、大学受験に落ち続け、若さも能力も持て余している。娘のキム・ギジョンパク・ソダム)は、美術大学を目指すが上手くいかず、予備校に通うお金もなし…。
“半地下”の家は、暮らしにくい。窓を開ければ、路上で散布される消毒剤が入ってくる。電波が悪い。Wi-Fiも弱い。水圧が低いからトイレが家の一番高い位置に鎮座している。全員失業中で、近所のピザ屋の宅配ピザの箱を組み立てる内職で何とか日々を食いつなぐ貧しい4人家族にとって、たっての願いは、ただただ“普通の暮らし”がしたいということ。
ある日、受験を勝ち抜いた名門大学生の友人ミニョク(パク・ソジュン)が、ギウを訪ねてくる。「僕の代わりに家庭教師をしないか?」 教え子の女子高校生に気がある彼は、「お前なら信じられる」と、受験経験は豊富だが学歴のないギウに留学中の代打を頼む。
ギウが向かったのは、高台に佇むモダンな建築の大豪邸。IT企業の社長パク・ドンイクイ・ソンギュン)の自宅だ。この家を設計したのは高名な建築家で、以前は彼自身がここに住んでいたとのこと。昼下がり、家政婦のムングァン(イ・ジョンウン)に案内されて広々としたリビングを進む。「初めての授業を見せていただけますか?」 偽造した大学在学証明書にさほど目を通す様子もなく、若く美しい夫人パク・ヨンギョチョ・ヨジョン)が娘パク・ダへチョン・ジソ)の部屋へと案内する。束の間の授業を経て、“受験のプロ”のギウは母と娘の心をすっかり掴んでしまい、ダヘの英語の家庭教師に採用されることになった。
思いもよらぬ高給の“就職先”にありついた彼は続けて、ヨンギョが感度の高い11歳の息子パク・ダソンチョン・ヒョンジュン)の美術の家庭教師を探していることを知って、美大を目指す妹ギジョンに「イリノイ州の大学で学んだ芸術療法士」だと身分を偽らせてパク家に潜り込ませる。ギジョンはダソンの描いた絵を適当に褒めちぎり、インターネットで集めた知識を披露して能天気なヨンギョを上手く騙し、こちらもお気に入りの家庭教師として雇われることに。
ある夜、仕事を終えたパク家の主人ドンイクが帰宅してきた。彼は夜道を女性ひとりで歩かせるわけにはいかないと、自家用車の運転手にギジョンを送るよう命じる。その車中、運転手はしつこく家まで送ると言うが、自分の身元がバレることを恐れてギジョンは断わる。彼女は一計を案じ、こっそりとパンティーを脱ぎ、助手席の下に押し込み、最寄りの駅前で降りた。後日、そのパンティーを発見したドンイクは、自身の車がカーセックスの場に使われたと思い込み、ヨンギョに相談して、問題の運転手を解雇する。新しい運転手を雇おうという段で、ギジョンが親戚に良い運転手がいると提言。こうしてキム一家の父ギテクが、パク家の運転手として雇われた。
ギテク、ギウ、ギジョンは次に、パク一家を仕切っている家政婦ムングァンの存在を目障りに感じ、母のチュンスクに取って代わらせることを画策する。先代の建築家の時からこの家に仕えるムングァンは、家のことは誰よりも熟知し、一家から全幅の信頼を寄せられており、食事を二人前食べる以外に欠点らしい欠点が見当たらない。ところが、そのムングァンが重度の桃アレルギーだと知ったギテクたちは、彼女に桃の表皮の粉末を浴びせて発作を起こさせるとともに、韓国で結核が流行しているという話、ムングァン本人を病院で見かけたという話を、まことしやかにヨンギョに吹き込む。又しても奸計に騙されたヨンギョは、ムングァンがアレルギー症状で咳き込む様子を見て本当に結核を患っていると思い込み、彼女を解雇する。そして、早急に信頼できる家政婦が必要ということで、ギテクがパク家に架空の高級人材派遣会社を紹介し、まんまとチュンスクを新しい家政婦として雇用させることに成功。
かくてキム家の4人は、全員が家族であることを隠しながら、パク家に雇われる(パラサイトする/寄生する)こととなった。ただ一人、内向的な息子ダソンだけが、同時期に就職してきた4人が同じ“臭い”をしている~「体臭が同じ」~ことに気づいていたが…。

カビ臭い“半地下”に住む貧しいキム一家4人と、“高台の大豪邸”に住む裕福なパク一家4人。この何もかも対照的な二つの家族が複雑に交差した先に、想像を遥かに超える衝撃の光景が広がっていく…。

▼予告編



メイキング映像



ポン・ジュノ監督(韓:봉준호、漢字:奉俊昊、英:Bong Joon-Ho、1969~)インタビュー⑴(【GINZA】 INTERVIEW-09 Jan 2020) :
──『パラサイト 半地下の家族』(以下、『パラサイト』)はたくさん笑い、ドキドキさせられ、後半はボクシングのストレート・パンチを受けたあとに、柔道で背負い投げをされたような衝撃を受けました。
ジュウドー?素敵な比喩ですね(笑)。アリガトウゴザイマス。

──富める者と貧しい者、住む世界は違っても共存できるものと頭で理解しているはずなのに、無意識下、肉体レベルでは受け入れられないものなのだろうか、と鑑賞後は忸怩たる思いにかられました。
それはこの映画の主題でもあると思います。この物語にはわかりやすい悪人や悪魔は登場しません。誰一人、悪い人はいない。けれど、複雑に入り組む関係のなかで、予期せぬ悲劇が起きてしまいます。悪意を抱いているわけではないのになぜ、このような悲劇になるのか。資本主義社会のなかで、共に生きていくことの難しさを考えさせられるストーリーなのだと思います。

──現実には交わるはずのない2つの階級の人々が、息を感じられるほどの距離まで近づいたら?というところから着想されたと伺いました。脚本に4年かけたそうですが、次々に起きるエピソードを繋げて紡いでいったのですか?それとも登場人物を追いかけるうちにこのような物語に広がったのでしょうか。
2013年に最初のアイデアが浮かび、4年近く構想しましたが、実際にパソコンでシナリオを書いたのは4ヶ月くらいなんです。貧しい家族が一人ずつ裕福な家に侵入するという、物語の前半部分がまず浮かびました。そのあとに何が起きるのか、明確な答えは出ず、曖昧なままアイデアを持ち続けていたんです。それが最後の4ヶ月で、渦のように後半に巻き起こる騒動、エンディングのクライマックスが、あるとき、まさに降って湧いてきました。
ですから、ほかの作品に比べて、『パラサイト』の執筆期間は短かったと思います。これまで8本の作品を撮りましたが、シナリオを書くアプローチは毎回違います。『パラサイト』の場合は設定が先に生まれて、どのような人物かというのは、あとから入れ込んでいきました。その都度、人物のとる行動をみながら、なぜ、このようなことになったのかを追いかけていったような形です。

──『パラサイト』を執筆中もほかの作品を手がけておられたと思います。いつもどのくらい同時進行で制作されているのですか?
複数の作品が絶えず重なり合っています。『殺人の追憶』(03)を撮りながら『グエムルー漢江の怪物―』(06)を構想していましたし、『グエムル』を撮影中には『母なる証明』(09)のシナリオを共同脚本のパク・ウンギョさんが書いていました。『グエムル』を撮る直前に『スノーピアサー』(13)の原作のフランスの漫画を読んでいましたから、『グエムル』と『母なる証明』を撮っているときには、すでに『スノーピアサー』の物語が頭のなかで進行していました。また、『スノーピアサー』を撮影しながら、『パラサイト』の構想を練っていました。いまも新作を2本準備していますが、その物語は『オクジャ/okja』(17)を撮っているときから頭のなかにありました。

──混乱しないのでしょうか?
アハハ。別の作品が混じり合ったり、混乱するということはありません。頭のなかに仕切りがあるのです。お弁当箱の仕切りのようなものです(笑)。お弁当箱の中のおかずは混じり合わないでしょう?

──脚本はどんなふうに執筆されているのですか?
主にカフェで書いています。コンドミニアムやホテルにこもって書く方もいらっしゃいますが、僕は自分ひとりしかいない場所では、つい横になってしまうんですね(笑)。カフェでは横になれないので、適度な緊張感を維持することができます。お客さんのいる席には背を向けて、店の隅でノートパソコンで書いています。『パラサイト』もよく行く3軒くらいのカフェを回って書いていました。

──カフェに行けば、執筆中の監督にお会いできるかもしれないのですね!
(笑)。僕はいつも空いているコーヒーショップに行きます。『母なる証明』を書いていた店に、映画が公開されたあとに行ってみたら、なんと潰れてなくなっていました。僕が好きなのは静かなカフェ。静かということは、お客さんがあまりいないということですから、僕が店に現れたら、店の主人にとっては不吉な兆しかもしれません(笑)。

──『パラサイト』に出てくる裕福なキム社長の豪邸や、『スノーピアサー』の雪原を走る列車の長く連なる車両。『吠える犬は噛まない』(00)の団地、『TOKYO!〈シェイキング東京〉』(08)の香川照之さんが演じた引きこもりの家など、監督の作品には、病的なまでに美しい「垂直」や「水平」の構図が出てきますね。
僕は間違いなく、空間フェチです(笑)。自分の気に入る空間を発見すると、必要以上に興奮してしまいます。『パラサイト』では、裕福な家、貧しい家、貧しい街並みは、すべてセットで撮りました。物語の9割が裕福な家と貧しい家の2つで展開するので、家の構造は精巧に準備をしました。ここで話している様子は、あちらからは見えないなど、ストーリーテーリングに関わる構図がいくつも出てくるので、家のなかで起きるできごと、人物の動線はシナリオ段階から決め込み、書き終えてすぐに美術監督とそれが実現できる家の設計を相談しました。

──それは大変な作業です。監督はもともと漫画家になりたかったそうで、『殺人の追憶』のパンフレットに掲載されている絵コンテも非常に綿密で驚きました。漫画ならば、思いついた物語を自由に、思い通りに描けると思うのですが、映画だからこその醍醐味は何でしょうか。
僕は以前、短編漫画を描いたことがあります。大学生のときには新聞に風刺漫画の連載もしていました。また、人形アニメーションの短編を作ったこともあります。どれもとても面白く、楽しい作業でした。でも、実写映画の場合は、ソン・ガンホさん(『パラサイト』ほかポン監督の4作品に出演)やティルダ・スウィントンさん(『スノーピアサー』『オクジャ/okja』)といった名優に出会えます。シナリオ段階で、自分が思い描いていたものとは違う、想像以上の表現、俳優の醸し出すエネルギーに遭遇したときには本当にゾクゾクします。これは漫画やアニメでは得られない快感。実写映画にしかない魅力ですよね。
『パラサイト』のストーリーボード(絵コンテ)はiPadで描いていたのですが、これが本になり韓国とアメリカで出版されたんです。ちょっと漫画家になったような気分になれて、とても嬉しかったです(笑)。絵はイマイチですけど。

──ポン・ジュノ監督の作品の魅力のひとつに、人間を多面的に描いている点があると思います。あえて一言で言うとしたら、人間は哀しいもの、残酷なもの、滑稽なもの…どういうものと捉えていらっしゃいますか?
人間は“愚かなもの”だと思います。わかっていても過ちを繰り返します。

──最後に。『GINZA』はファッション誌なのですが、ファッションお好きですか?
僕は“ファッションテロリスト”なので、雑誌の完成度をおとしめてはいけないと心配になります…(*ファッションテロリストとは、韓国では服のセンスの残念な人のこと)。太ってしまって、上着のボタンが留められません(笑)。

──食べることが好きなんですか?
はい。1日のほとんどの時間を食べもののことを考えながら過ごしています。火曜日の朝に金曜日の夜は何を食べようかなと考えているくらいです(笑)。妻と一緒にいろんな店のシェフを訪ね歩いているのです。昨日行った、「渋谷 三心」という店もすごく美味しかったですよ!

ポン・ジュノ監督インタビュー⑵(Fan’s Voice-Column インタビュー/2020.01.14 ) :
──改めてカンヌ国際映画祭パルムドール受賞、おめでとうございます。韓国映画では初の快挙でしたね。カンヌで授賞式の少し前にお会いした時には、下馬評では確実と言われていたにも関わらず、「まったく確信はもっていない」と謙遜されていましたね。
ありがとうございます。本当に確信がなかったんです。でも、嬉しい驚きでした。

──貧富の差のある家族が対照的に描かれる『パラサイト』への評価が高い理由のひとつは、脚本の素晴らしさがあると思います。日本から見ても、韓国は階級社会が厳しいという印象を受けますが、この作品を作る際、なにかきっかけとなったアイディアやニュースなどはあったのでしょうか。
2013年頃から書き始めたのですが、なにが具体的な出発点だったのかは覚えていないんです。当時は、『スノーピアサー』のポストプロダクションをしていた頃ですが、ご存知のように、『スノーピアサー』も富裕層と貧困層がひとつの列車に乗っているというSF映画です。貧困層の車両に押し込めらていた主人公たちが、富裕層の頂点である先頭車両を目指すという物語ですね。“格差”についてはいろいろ考えていた頃だと思います。
映画史においても、これまで貧富の格差は頻繁に取り上げられてきたテーマです。アイディアという以前に、私たちの周りを見渡しても、お金持ちと、お金がない人ではすぐに見分けがつきますよね。友達や親戚を見ても、お金持ちとそうでない人たちがいます。しかも、身なりや乗っている車などでそれが一目瞭然でわかってしまう。なので、現代に生きる私たちが、“貧富の格差”について考えるのはとても自然なことなのではないかと思います。

──ご自身の経験も反映されているのですか?
私の父はグラフィック・デザインの教師で、私は極めて伝統的な中流家庭に育ちました。何不自由なく育ったといえるでしょう。まさに富裕層でもなく貧困層でもない、この映画の登場人物の真ん中くらいの生活水準でした。

──貧富の格差を描いた作品は世界的にも多くみられますが、今、多くの映画監督がこのテーマを取り上げるのはやはり社会情勢が大きく影響していると思いますか。
ショーン・ベイカー監督の『フロリダ・プロジェクト』や是枝裕和監督の『万引き家族』など、貧困層を描いた作品は確かに多いと思います。資本主義における二極化の不平等は、日常的に感じることです。今日の映画監督にとっては無視できないテーマであり、大事なことです。
もちろん、先程も言ったように、貧富の格差は100年以上前から描かれている普遍的なテーマです。では何が違うかといえば、“恐怖心”なのです。韓国、日本、世界においても、こうした不安や恐怖心はどこにでも見られます。未来もこのまま良くならないかもしれない。悲観的な話になりますが、そういったシンプルな不安や恐怖が、多くの作品に現れていると思います。

──ホラー、スリラー、サスペンスなど、ジャンル映画と社会問題のテーマを見事にブレンドした作品を撮り続けていらっしゃいますが、『パラサイト』でもダークコメディ的なアプローチを取り入れています。あなたにとってジャンル映画という手法はどれほど重要なことなのでしょうか?
私はポリティカルな映画を撮るつもりはありません。強いメッセージを提唱する社会派の作品を撮る監督もいらっしゃって、それはそれで尊敬しますが、私自身は、ジャンル映画の監督だと思っています。観客に映画を楽しんでもらいたい、というのが作り手として最大の目的なんです。その中で社会問題を描くことで、ひねりのある作品を作りたいと思っています。

──ジャンル映画といえば、『パラサイト』を観て、ジョーダン・ピールの『アス』というアメリカのホラー映画との類似を感じました。“地下に押し込められた人々”、つまり、あたかもいないかのように忘れ去られた人々の反撃です。
『アス』は観ましたよ。『パラサイト』以上に強烈な作品だと思いました。監督のジョーダン・ピールは、野心的であるとともに視覚的な表現に優れている監督です。地下にクローンが閉じ込められているという設定は、とてもラディカルなものですが、それも視覚的にセンス良く見せてくれました。ホラーというジャンル映画としても、説得力をもって作られていると思います。『アス』の予告編を最初に観たとき驚いたのは、デカルコマニーの描写があったことです。実は、2013年に私が(本作の)脚本を書いていたときのワーキングタイトル(仮タイトル)は、『デカルコマニー』だったんです。『パラサイト』とつけたのは、それからずっと後でした。デカルコマニーとは、紙に絵の具とかインクを垂らして左右対処になる表現方法ですが、『アス』では、地下と地上のクローンの対比を象徴しているのでしょう。私のこの作品とも通じるものがあると思いますよ。

──日本語のタイトルには、“半地下の家族”という副題がついていますが、映画を観た後では“半地下”の意味が増してきます。
ええ。韓国では半地下というのは、ありふれた住居スタイルですが、この映画においては、リアルで象徴的なものになっています。そして半地下とは、別の言葉で言い換えると、半地上でもある。半地上ですから、一日のうち何分か、あるいは何時間かは日が差し、“自分たちは地上で暮らしているんだ”、つまり“私たちは忘れ去られていない、大丈夫だ”とも思えるのです。でももし一歩間違えば、地下に落ちてしまうという恐怖にさいなまれるのです。半地下というのは、あいまいな境界線にいるようなものです。
ネタバレになりますが、この作品には“第三の家族”が登場します。地下室に夫婦がいたわけですね。これまでの映画、例えば私の撮った『スノーピアサー』でも貧しい者と富める者の対比が描かれますが、『パラサイト』が新しいのは、第三の家族の存在があるからです。映画のプロモーションの段階では、第三の家族の存在は明かせませんでしたが、第三の家族の存在は、この作品を差別化する最も重要な要素です。
最初、観客はキム一家を貧しい家族と思っていますが、実は、もっと貧しい家族がいたんだと気がつくんです。悲しいことに、富裕層の家族とではなく、その貧しい家族同士が闘いを始めるのです。それは2時間の映画の大部分を占めると言ってもいいでしょう。第三の家族の男性の存在は、ソン・ガンホ演じるキム家の父親にとって恐怖でしかありません。未来は自分もああなるかもしれないという可能性を孕んでいるからです。彼は、半地下ではなく、“完地下”にいます。実際に、完地下に住んでいる男と比べると、ソン・ガンホは恐怖も感じるけれど、まるで自分は中産階級にいるような錯覚に陥ったんですね。第三の家族の男は、「地下に住んでいるのは、僕だけじゃないよ。半地下までみんな合わせたら、相当な数だよ」と言いますが、父親は“一緒にしてくれるな”と思うわけです。恐怖を覚えたと思います。

──素晴らしいアイディアでしたね。それによって私たちは、キム一家を自分とは関係ない家族だと思って見ていたにも関わらず、自分たちも実は“半地下の家族”であることを認識するようになり、心の中に眠っていた恐怖心や不安感も芽生えます。この作品に多くの観客が感情移入するのは、それが原因ではないでしょうか。このアイディアは最初からあったのですか?

“半地下”に関して的確に表現していただき、ありがとうございます。2013年に構想を練り始めたましたが、3年半から4年間は、頭の中で考えを熟成させていました。途中、2015年に14ページくらいのトリートメント(あらすじ)を書いて、製作会社に提出しました。その時には、ある貧しい家族がひとりづつ、金持ちの家に潜入していくという骨格はありましが、結末どころか(最終的なストーリーの)後半部分はまったくありませんでした。元家政婦が“ピンポン!”と戻ってきたことから、後半の大混乱が始まるわけですが、そのあたりからは2017 年の最後の3ヶ月で書きました。

──その最後の3ヶ月では、どんな風に脚本を書き進めていったのですか?
本当に夢中で書いていました。ある日、地下室の部屋に家政婦が夫を隠しているというアイディアが浮かびました。その日はよっぽど嬉しかったのか、今見返してみると、日記のようにiPadに書きなぐっています。アプリを使って書いていたのですが、車を運転しているときに、急にひらめいたアイディアでした。これを思いついてからというもの、それまでの構造などがすべてが回るような気がしました。

──この作品の特徴のひとつは、富裕層を悪、貧困層を善で描くことはせず、グレーゾーンで描いていることにもありますね。その象徴といえるのが、衝撃のラストです。ソン・ガンホ演じる父親は、一線を超えます。
パク社長を殺して、彼は自らを罰するように地下に潜ります。でも、これがラストだと旗を立てて、そこに向かっていくように書いたわけではありません。後半部分を書き進むうちに、出来上がっていきました。『母なる証明』の時の脚本の書き方とは正反対でした。『母なる証明』は撮影の5、6年前、1ぺージほどのシノプシスの段階で、すでにラストを決めていました。真犯人は息子であり、高速バスの中で母が踊るシーンで終わるというラストが明確に見えていたのです。結末ありきで、結末に向かって書いていきました。『パラサイト』に関しては、まったく逆のアプローチで生まれたラストです。

──キム一家が住む半地下の住宅、そしてパク一家が住む高台の豪邸の対比が素晴らしかったですね。このふたつの家の造形は、彼らの社会的な状況や心理的な状態さえも表しています。
キム一家が住んでいた家や路は、すべてセットです。ウォータータンクと呼んでいたプールのようなところに、家や街をつくりました。足場をつくって高さをとって、周辺の家もつくりました。それで、撮影の最後に水を入れて、洪水のシーンを撮影しました。お金持ちの家もすべてセットです。大きな庭園に2階建ての家を建て、木を植えて庭を作りました。2階はブルースクリーンのスタジオになっていました。外から見るシーンはCGです。1階のリビングや2階の内部、地下室、駐車場に降りる階段なども、別途セットを作りました。玄関や塀も別途作ったセットです。豪邸の前の坂道は実際のロケで、城北洞(ソンブクトン)という町です。富裕層の住宅のあるエリアですね。ロケは全体の10%くらいですね。

──パク家の豪邸はガラス張りが印象的ですが、なにを象徴しているのでしょうか?
映画の冒頭は、キム家の半地下の住宅の窓から外を見るところからスタートしており、両者の家も対比になっています。その窓の比率は2.35:1で、映画的です。
でも、窓は窓でも、両者の窓の概念は違います。パク家は、家も造形的で庭の手入れもされている。周りに木が植えられていてプライバシーが保たれ、城壁のように家を守っています。半地下の家は窓はあるけれど、見えるのは人の足や車のタイヤで、消毒ガスが入ってきたり、放尿する人さえいます。まるで外から中を覗かれているかのようで、プライバシーはまったくありません。洪水のときには汚水が入ってきてしまうくらいです。これらの家のセットはとても重要で、シナリオを書いたときに一緒にドローイングを描き、美術監督に渡しました。制作費の中でセットのコストはかなりの割合を占めていますね(笑)。

──この映画のスタイルを作るにあたり影響を受けた人、あるいは作品はありますか?
まず名前を挙げたいのは、師と仰いでいるキム・ギヨン監督ですね。彼の最高傑作のひとつ『下女』(60年※)には、大変インスパイアされました。またクライムムービーでいえば、クロード・シャブロル監督の『野獣死すべし』(69年)ですね。それからもちろん、ヒッチコック。彼らの系譜に連なる作品を残せたなら、本当に幸せだと思っています。

※注)『下女』(60年、キム・ギヨン監督)は、裕福な作曲家の家のメイドとなった若い女性が、一家を次第に支配し始める様を描いたサスペンス。窓や階段の使い方が特徴的で、キム・ギヨン監督の最高傑作ともいわれています。

──先ほど、ジャンル映画の監督とご自分を定義されましたが、これから撮ってみたいジャンルはありますか?
ミュージカル以外なら何でも。西部劇も私はそれほど詳しくなく、資質はないかもしれません。やってみたいのは、『流されて…』(74年、リナ・ウェルトミューラー監督)とか三船敏郎とリー・マーヴィンが共演したジョン・ブアマン監督の『太平洋の地獄』(68年)のような、孤島に漂流するものは撮ってみたいですね。スーパーヒーローものは、息子と一緒に観た『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』はものすごく面白く、才能のある監督だなと感心しましたが、私には向かないジャンルかもしれないですね。

私感
ウーン!わが心におびただしい想念をもたらす作品である。
あらゆるジャンルを見事に融合させながら、いま世界が直面している貧富格差への痛烈な批判をも内包した、超一級のエンターテイメント!
私はかねてから、総体として〈現代〉日本映画を遥かに超える〈現代〉韓国映画の優秀さに気づいていたが、その点が今ここに至って端的に実証された―。
2020年1月10日(金)新宿ピカデリー(東京都新宿区新宿3-15-15、JR新宿駅東口より徒歩5分)で、18:45~鑑賞。

「カイジ ファイナルゲーム」

作品データ
製作年 2020年
製作国 日本
配給 東宝
上映時間 128分


福本伸行の同名人気コミックを藤原竜也主演で実写映画化した『カイジ』シリーズ第3作。前作『カイジ2 人生奪回ゲーム』から9年ぶりの新作となり、原作者自らが考案したオリジナルストーリーで、「バベルの塔」「最後の審判~人間秤~」「ドリームジャンプ」「ゴールドジャンケン」という4つの新しいゲームを描きながら、シリーズのフィナーレを飾る。前2作に続き、佐藤東弥監督がメガホンをとり、天海祐希、松尾スズキ、生瀬勝久らが再登場するほか、福士蒼汰、関水渚、新田真剣佑、吉田鋼太郎らが新たに参戦する。

ストーリー
2020年、国中が熱狂した東京オリンピックの終了を機に、景気が急速に悪化していった日本。今や金を持つ強者だけが生き残り、金のない弱者は簡単に踏みつぶされ、ただ生きていくこともままならない過酷な日々を送っていた―。
派遣会社からバカにされ、薄給で自堕落な生活を送る伊藤カイジ(藤原竜也)。その日暮らしの世過ぎで、一缶千円に値上がりしたビールを買うのも躊躇するほど困窮していた。
「久しぶりだね、カイジくん」 「ハンチョウ?」
声をかけてきたのはスーツに身を包んだ大槻太郎(松尾スズキ)だった。帝愛グループ企業の一つを任される社長に出世したという。
「カイジくん。君もこんなところでくすぶっているタマじゃないだろ?」
「何が言いたいんだ?」 「実はワシと組まないかと思ってね」
大槻が見せたのは一枚のチラシだった。【第5回若者救済イベント開催!バベルの塔】 それは金を持て余した富豪の老人が主催するイベントで、ビルの屋上に立てられた棒のテッペンに貼られたカードを奪い合うという単純なゲーム。勝者には巨額の賞金が約束されていた。一攫千金のチャンスだ。
「こんなもの無理だ!運否天賦のゲームで作戦の立てようもない」
「その通りだよ。だが裏を返せば、カラクリがわかっていれば勝てる可能性があるわけだ…」
ざわ…ざわ…ざわ…ざわ…
運命の歯車は動き出した。カイジを待ち受ける未来は天国か地獄か?日本中を奮い立たせる究極のギャンブルが今始まる…。

▼予告編



私感
取るに足りぬ雑駁な映画!この駄作ぶりは、日本映画界の今日的状況の何たるかを端的に象徴する一例にほかならない―。
2020年1月7日(火)「アップリンク吉祥寺」(東京都武蔵野市吉祥寺本町1丁目5−1 吉祥寺パルコ地下2階、吉祥寺駅北口から徒歩約2分)で、20:40~鑑賞。

「THE GUILTY ギルティ」⑴ 

作品データ
原題 Den skyldige
英題 The Guilty
製作年 2018年
製作国 デンマーク
配給 ファントム・フィルム
上映時間 88分


「THE GUILTY ギルティ」⑵

緊急通報指令室という限られた空間を舞台に、電話から聞こえてくる声と音だけを頼りに誘拐事件の解決に当たるオペレーターの奮闘を、極限の緊迫感と予測不能の展開で描き、第34回サンダンス映画祭観客賞をはじめ各方面から高い評価を受けたデンマーク製サスペンス・スリラー。主演は『光のほうへ』のヤコブ・セーダーグレン。監督は本作が長編デビューとなる新鋭、グスタフ・モーラー。

ストーリー
捜査上のトラブルにより現場を外された警察官のアスガー・ホルム(ヤコブ・セーダーグレン)は、緊急通報司令室のオペレーターとして勤務していた。交通事故による緊急搬送を遠隔手配するなど、電話越しに些細な事件に応対する毎日を送る。元の職場への復帰を目前にしていたある日、一本の通報を受ける。それは今まさに誘拐されている最中の女性からのものだった。彼女の名はイーベン(声:イェシカ・ディナウエ)。走行中の車の中から、携帯電話で掛けていた。事態が切迫していることを察知したアスガーは、その電話の向こうから聞こえてくる声と音~車の走行音やワイパーの音、女性の怯える声、犯人らしき男の息遣い…~だけを手掛かりに、通報者の身元や車の位置情報を確認し、他の部署と連携して“見えない"事件解決~犯人の特定とイーベンの救出~に全力を尽くすが、思いがけない深刻な事態に直面していく…。

▼予告編



グスタフ・モーラー監督(Gustav Moller、1988~) インタビュー公式サイト/INTERVIEW「映画の中で最も力強い映像、最も印象に残る画は、目に見えないものだと私は信じている」
Q:「電話の音と声だけで誘拐事件を解決する」というインスピレーションはどこから得たのですか?
作品のプロットはリサーチをしていて思いついたんだ。最初のアイデアはとてもシンプルなものだった。ワンシチュエーションだけど、音と想像力だけで、デンマーク各地に行った気分になれるような作品。そこから始まり、色々と調べていったんだ。緊急指令室に行き、主人公と同じような経験してきた警官にインタビューさせてもらった。
観終ったあとに、偏見や共感や道徳観について話したくなるような作品を目指していく中で、YOUTUBEで偶然、9.11にかかってきた電話の音声を見つけ、その面白さに虜になったんだ。同じ音声を聞いているのに、聞く人によって思い浮かべるものが異なるという点に惹かれた。

Q:脚本および撮影の段階で、緊急指令室について、どのようなリサーチを行ったのですか?
いくつかのセンターを訪れた。特に夜間にだ。そこで働く警官と話をして、入ってくる電話の内容も聞かせてもらった。警官の何名かが、自らの意思とは反してそこで働いていることを知った。通常の任務から外され、そこに配置されたんだ。
そういう状況の中にいると、脚本家として様々なアイデアが浮かんでくる。“なぜこんなことをしているのか?なぜそんな状況に陥るのか?”と。そうして作品の主人公が次第と形成されていった。アスガーと同じ経験をしてきた警官にもインタビューを行ったよ。トラウマになりそうなほど暴力的な現場と、音だけを通して繋がっている彼らの仕事に惹かれていったんだ。誰かと電話をしている時、特にヘッドセットをつけていると、相手と親密になれる。でも同時に相手が経験している危険な状況からは遠く離れている。彼らは遠くにいながら、プロらしく対応するというのが任務の一つだ。親密だけど暴力的、遠いけどプロらしくという対照的な点が面白いと思った。“このプロ意識を一瞬でも忘れさせるためにはどうすればいいのか?それはどのような人物なのか?”そこを考えてみた。

Q:演出する際に影響を受けた作品はありますか?
最も影響を受けた2作品は『タクシードライバー』と『狼たちの午後』だ。『タクシードライバー』については、ものすごく詳細に話し合った。主人公の目を通してニューヨークを見せていて、その手法を生かして、本作では主人公の耳に入ってくる音だけを通して、周辺の状況を描いた。
『狼たちの午後』は、リアルタイムで感じる精神的ストレスを表現する上で参考にした。様々な意味でワンシチュエーション映画と言えると思う。今回、3台のカメラを使って長回しで撮影したのは、この作品のような真実味のあるリアルタイムの演技を引き出したかったからだ。

Q:本作で音はとても重要なテーマです。その設計はどのように構築していきましたか?
どんな作品でも音はゼロから作り上げなければいけない。でも本作の大きな違いは参考にするべきものがないから、何だって可能だったということ。いろんな音を何度も試したから、その分大変だったけどね。例えば雨の音は何種類も聞いた。誘拐されたバンの音を見つけるのは、特に時間がかかったね。何種類ものバンの音を録音しに行ったんだ。あらゆる方向性を探った。普通の映画なら、ドアが開くときドア自体も家も見えて、薄気味悪い家なのかきれいな家なのか分かるから、ドアの音にそれほどこだわる必要がない。でも足音やドアが開く音など、音しかない場合、ドアの音でその家の印象が違ってきてしまう。つまり視覚的要素を、音を通じて伝える必要があった。
どのシーンも、僕には明確にその場所が思い浮かんでいた。部屋やバーやストリートで、どんな音が聞こえてくるのか、頭の中では分かっていたんだ。だからそれをサウンドデザインは、僕がそれを担当者にいかに伝え、彼らがいかにそれを作り上げてくるかに懸かっていた。この作品の面白いところは、観客によって音から思い浮べるイメージが違うということだ。僕の中にあるイメージには忠実に作ったつもりではいるけどね。

Q:今後、どのような監督を目指していますか?
本作で目指したことを今後も続けていく。観客を惹きつけると同時に、チャレンジングな映画を作っていきたい。ハラハラするけど、道徳的に複雑なストーリー。ゆったり座って分析しながら観るのではなく、前のめりになってしまうような作品だ。常に新しいアングルを探し求めていて、それが僕の原動力となっているのさ。本作でもそうだったし、今後の作品もそれは変わらないだろう。

私感
このデンマーク産の異色サスペンスは、実に傑作そのもの!
終始“密室”を舞台に、ほぼ電話の声と音のみにより、88分間ノンストップで疾走するストーリーテリングに、私は磁石のように惹き付けられっぱなし。
例えば、アスガーとイーベンの家に取り残された6歳の娘マチルデ(声:カティンカ・エヴァース=ヤーンセン)との対話。真っ暗闇の中で受話器を掴み、一生懸命アスガーの質問に答えるマチルデは、いかなる危うい状況に陥っているのか。果たして、その家で何が起こったのか。そういう決して画面には映らない状況を、生々しい戦慄とともに観る者に想像させる本作は、ワン・シチュエーション映画でありながら多様なシーンチェンジを繰り返し、確実にサスペンスのテンションを高めていく…。深い余韻を残すラストの着地点にも唸らせるものがある。
映画の醍醐味を満喫でき、多幸感に浸った私だが、オモシロイことに、鑑賞後に映画館から帰宅の途中、にわかに近来にない心身の疲れを覚える。それは、全神経を聴覚に集約し、細やかに作り込まれた音響体験に没入したがゆえに生じた“反動”だった…。