映画『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』 | 普通人の映画体験―虚心な出会い

普通人の映画体験―虚心な出会い

私という普通の生活人は、ある一本の映画 とたまたま巡り合い、一回性の出会いを生きる。暗がりの中、ひととき何事かをその一本の映画作品と共有する。何事かを胸の内に響かせ、ひとときを終えて、明るい街に出、現実の暮らしに帰っていく…。

2019年10月23日(木)TOHOシネマズシャンテ(東京都千代田区有楽町1-2-2、JR有楽町駅・日比谷口徒歩5分)で、15:40~ 鑑賞。

「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」

作品データ
原題  Once Upon a Time... in Hollywood
製作年 2019年
製作国 アメリカ
配給 ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント
上映時間 161分


『パルプ・フィクション』『イングロリアス・バスターズ』のクエンティン・タランティーノ監督が、1969年のハリウッドを舞台に、古き良き60年代アメリカへの“愛”を描いたノスタルジック・エンタテインメント。ハリウッド史上最大の悲劇といわれる“シャロン・テート殺害事件”を背景に、復活を期す落ち目のTV俳優と、長年彼のスタントマンを務めてきた男の友情の行方を、虚実を織り交ぜつつ“郷愁”あふれる筆致で描き出す。主演はこれが初共演となるレオナルド・ディカプリオとブラッド・ピット。共演にマーゴット・ロビー、アル・パチーノ、ダコタ・ファニング。

ドンッドクロ シャロン・テート殺害事件とは :
シャロン・テート(Sharon Tate、1943/01/24~69/08/09)は、1960年代にテレビの人気シリーズに出演し、18歳のときにイタリア映画『バラバ』(原題:Barabbas、リチャード・フライシャー監督、1961年)でスクリーンデビュー。現在も活躍中の映画監督ロマン・ポランスキー(Roman Polanski、1933~)と、彼の監督作『吸血鬼』(1967年)に出演した縁で、1968年1月20日に結婚する。同年にはブルース・リー監修のもとでアクションにトライした『サイレンサー第4弾/破壊部隊』(原題:The Wrecking Crew、フィル・カールソン監督)が公開。ポランスキーとの第1子妊娠も分かり、私生活、女優としてのキャリアともに順風満帆だった。1969年8月8~9日までは…。
その8月8日の深夜、ロサンゼルス・ハリウッドのシエロ・ドライブ10050番地にあるポランスキー邸の敷地内に、4人の若い男女テックス・ワトソン(Tex Watson、1945~)/スーザン・アトキンス(Susan Atkins、1948~2009)/パトリシア・クレンウィンケル(Patricia Krenwinkel、1947~)/リンダ・カサビアン(Linda Kasabian、1949~)】の影があった。彼らはチャールズ・マンソン(Charles Manson、1934~2017)率いるヒッピーのカルト集団「マンソン・ファミリー」のメンバー。当時ポランスキー監督は仕事でロンドンに出張中で、家(母屋)には妊娠8ヵ月の妻シャロンのほか、夫婦の友人3人【コーヒー財閥フォルガー家の跡取り令嬢アビゲイル・フォルガー(Abigail Folger、1943~69)/アビゲイルの恋人でポーランド人作家ヴォイテク・フライコウスキー(Wojciech Frykowski、1936~69)/映画『シャンプー』のモデルにもなった有名ヘア・スタイリスト、ジェイ・シブリング(Jay Sebring、1933~69)】がいた。
マンソンの命を受けた信者4人は、悪逆無道の限りを尽くす。日付変わって9日未明、まずワトソンがゲストハウスの管理人をたまたま訪ねて来ていた18歳の青年スティーブン・ペアレント(Steven Parent、1951~69)をナイフで傷つけ、22口径の拳銃で射殺。そして、見張り役としてカサビアンを残してワトソン、アトキンス、クレンウィンケルの3人が母屋内へ。やがてシブリング、フォルガー、フライコウスキーの3人を次々に惨殺していった。逃げ惑う彼らを追いかけ回し、ナイフや拳銃で命を奪う。ナイフに刺されることシブリング7回、フォルガー28回、フライコウスキーは51回に及んだ。最後に残ったシャロンは、「赤ちゃんだけは助けて」と涙ながらに哀願したが、アトキンス~Atkins or Watson or both?~に胎児ともども16回刺され、絶命する。アトキンスはシャロンの血を使って壁に「Pig(豚)」と書き殴った。
この猟奇的な惨殺事件の直後、マンソンは今度は自らが指揮に当たった。翌10日未明、先の4人にクレム・グローガン(Clem Grogan、1951~)とレスリー・ヴァン・ホーテン(Leslie Van Houten、1949~)を加えた6人を引き連れて、スーパーマーケット経営者であるレノ・ラビアンカ(Leno LaBianca、1925~69)の邸宅(Location:3301 Waverly Drive, Los Angeles, California)を襲撃。マンソンの殺害命令のもと、ワトソン、クレンウィンケル、ヴァン・ホーテンの3人がレノとその妻ローズマリー・ラビアンカ(Rosemary LaBianca、1929~69)をナイフやフォークなどで滅多刺しにして殺害(ローズマリーの刺し傷は41か所に及ぶ)。クレンウィンケルは夫妻の血で、壁に「Rise(決起せよ)」「Death To Pigs(豚に死を)」、冷蔵庫の扉に「Healter Skelter」※と書き殴った。

マンソンには、歪んだ“ビートルズ”愛が顕著である。「ビートルズよりもビッグになる」という夢を持つ彼は、「ザ・ビートルズ(The Beatles)」と題された2枚組のアルバム、通称「ホワイト・アルバム」の中に“ハルマゲドン”(Armageddon/最終戦争)に向けた予言を読み取ってしまう。このアルバムはビートルズ末期の1968年11月22日にリリースされたオリジナル・アルバム(30曲入り、総収録時間約94分)で、レゲエ、フォークソング、子守歌など、果ては前衛音楽に至るまで多種多様な楽曲が収録されている。中でもマンソンが最も注目したのが、ポール・マッカートニー作詞・作曲の「ヘルター・スケルター」。この楽曲から啓示を受けた彼は、白人と黒人のハルマゲドンを“ヘルター・スケルター”と呼び、砂漠に疑似生活共同体「ファミリー」だけで隠れ住むよう信者に説いていた。ちなみに、ラビアンカ邸に書かれた血文字「Healter Skelter」の綴りは間違いで、正しくは「Helter Skelter」。

一連の事件~Sharon Tate–LaBianca murders~は、あまりの凄惨さに大きな注目を集め、世界中を震撼させた ガーン
若者たちを凶行に走らせたチャールズ・マンソンとは、一体何者なのか。彼は米オハイオ州シンシナティで娼婦の私生児として生まれ、孤児院で育った後に犯罪に手を染め、人生の大半を服役していた。34歳のとき、そのカリスマ性と幻覚剤LSDを用い、若い男女を洗脳。自らをキリストの復活、悪魔とも称してカルト・クレイジー集団を結成していく…。マンソンは1969年12月にシャロン殺害の実行犯と共に、殺人を教唆したとして逮捕され、71年4月に死刑判決を受けた。しかし、72年にカリフォルニア州が死刑を一時廃止したために終身刑に減刑となり、以来州内の刑務所などに服役し、2017年11月19日に同州ベイカーズフィールドの病院で死去した(83歳没)。
なぜ、シャロンが標的になったのか。動機は諸説ある。誇大妄想に囚われたマンソンは、まもなく黒人と白人の“人種間の最終戦争”が起こると信じており、ブラック・パンサー党などの黒人過激派の仕業に見せかけた無差別殺人を行なうことで、そのプロセスを加速させようと考えた。事実、ラビアンカ夫妻殺人の際には、現場に黒人の過激派的ポーズを取り繕う痕跡があった。一方、マンソン一味にとって用事があったのは、シャロンが移り住む前にそこに住んでいた音楽プロデューサーのテリー・メルチャー(Terry Melcher、1942~2008)だったという説もある。いずれにせよ、犯行はシャロンとは全く関係ない身勝手な妄想に駆り立てられたものだった―。

叫び cf. 5人(妊娠8か月の胎児を含めば6人)の犠牲者が出た“事件”直後のポランスキー邸
ポランスキー邸

流れ星 cf. Sharon Tate - Forever Young


ストーリー
1969年2月8日、ハリウッド。かつてテレビ西部劇「賞金稼ぎの掟」で名を馳せた中堅俳優リック・ダルトン(レオナルド・ディカプリオ)は、今ではドラマの悪役やゲスト出演といった単発の仕事で食いつないでいた。相棒のクリフ・ブース(ブラッド・ピット)は、長年リックのスタントマンを務めてきた親友だが、今や彼にスタントの仕事を回してやる余裕もない。映画プロデューサーのシュワーズ(アル・パチーノ)からは「イタリア製の西部劇に出てみないか?」と誘いを受けるも、リックは都落ちのような仕事はしたくないと渋る。そんな友人を黙って見守るクリフ。彼もまたTVドラマ「グリーン・ホーネット」の撮影現場で出演者のブルース・リー(マイク・モー)と揉め事を起こして以来、仕事を干され気味だった。
シエロ・ドライブにあるリックの自宅の隣には、先頃『ローズマリーの赤ちゃん』を大ヒットさせた売れっ子監督ロマン・ポランスキー(ラファル・ザビエルチャ)と、その妻である女優シャロン・テート(マーゴット・ロビー)が住んでいる。シャロンは愛する夫と友人たちに恵まれ、まさに幸福の絶頂。夫が仕事でいないときは、元恋人で美容師のジェイ・シブリング(エミール・ハーシュ)がいつも付き添っていてくれる。映画と音楽とファッションに囲まれた、華やかで穏やかな日々。少し前までは、リックもそんな暮らしを享受するセレブの一人だったのだが…。
翌朝、リックはクリフの運転で撮影所に向かう。若手俳優ジェームズ・ステイシー(ティモシー・オリファント)が主演するTV西部劇「対決ランサー牧場」のパイロット版で、悪役に起用されたのだ。準備万端、セリフもしっかり暗記したはずなのに、前夜に酒を飲みすぎたおかげでコンディションは最悪。自己嫌悪に苛まれながら、セットで出会った利発そうな子役の少女トル―ディ(ジュリア・バターズ)に話しかけたリックは、そこで思わず感情が堰を切って溢れてしまう。芝居への情熱と将来性に溢れた若き才能と、すべてのチャンスを棒に振った落ち目の中年俳優。もはや彼には、あとがなかった。
その頃、暇を持て余して町をドライブしていたクリフは、以前見かけたヒッチハイカーのヒッピー少女、プッシーキャット(マーガレット・クアリー)と再会。彼女が仲間と暮らしているというスパーン映画牧場まで送り届けることに。そこはクリフにとっても馴染み深い撮影地の一つだった。怪しい予感を覚えながら牧場に辿り着くと、そこにはチャーリーことチャールズ・マンソン(デイモン・ヘリマン)という男を信奉するヒッピーの集団がいた…。
一方、シャロンはひとり気ままに休日を過ごしていた。ウエストウッドの映画館で、たまたま自分の出演作『サイレンサー第4弾/破壊部隊』が上映されているのを目にした彼女は、思わず劇場の受付係に申し出る。「わたし、この映画に出ているんだけど、観ていっていいかしら?」
シエロ・ドライブに運命の日【1969年8月8日夜~9日未明】が訪れるまで、あと6か月…。

▼予告編



ENDING SCENES




≪クリフが愛犬のブランディの散歩に出た後、リックがフローズン・マルガリータを作ろうとキッチンに立った頃、4人の男女~ワトソン(オースティン・バトラー)/アトキンス(マイキー・マディソン)/クレンウィンケル(マディセン・ベイティ)/カサビアン(マヤ・ホーク)~を乗せた1台の車がシエロ・ドライブ(Cielo Drive)に現われた。自邸の前に停車した車のエンジン音に苛立ったリックは4人を恫喝し、その勢いに気圧された4人は足早にその場を後にした。マンソンからの命令により旧テリー・メルチャー邸に住む人物(即ちシャロンら)の殺害を企てていた4人だったが、自分たちを恫喝した人物がリック・ダルトンであることに気づくと、「リック・ダルトンのような殺人を演じた西部劇スターこそが自分たちに殺人を教え込んだ張本人である」、「殺しを教えた野郎を殺そう」と標的をリックに変更する。この後、運転手と見張り役を任されたカサビアンが犯行途中で恐れをなして逃亡するも、ワトソン、アトキンス、クレンウィンケルの3人がリック邸に押し入ると、ちょうど散歩から帰宅したクリフとブランディが彼らを迎えた。ファミリーのリーダー格の男ワトソンはクリフに銃を向け、奥の部屋で寝入っていたリックの妻フランチェスカ・カプッチ(ロレンツァ・イッツォ)もナイフを突きつけられる。しかし、クリフがブランディに対して食事の合図を出すと、ブランディはワトソンの腕に噛みつき、クリフも怯んだファミリーの3人を容赦なく袋叩きにする。一人プールでマルガリータと音楽を楽しんでいたリックは、クリフとブランディから攻撃を受け半狂乱になったアトキンスが突如プールに飛び込んできて一瞬怯むが、過去の出演作で使用した小道具の火炎放射器(flamethrower)でプール一面を焼き払った。やがて警察と救急隊が駆けつけ、ファミリーの遺体3体と負傷したクリフを搬送、リックとフランチェスカは事情聴取を受ける。クリフを見送り、その場に佇むリック。そこへ(隣するポランスキー邸から)、騒ぎを聞きつけたジェイ・シブリングがリックに声をかける。シャロンもインターフォンを通し、リックの身を案じ、お酒でくつろぐよう自宅へ招待する。出迎えたフライコウスキー(コスタ・ローニン)、フォルガー(サマンサ・ロビンソン)、そしてお腹の大きなシャロンは、リックを温かく招き入れるのであった。≫

▼ Roundtable:Quentin Tarantino, Margot Robbie, Leonardo DiCaprio and Brad Pitt



私感
結論を言えば、唖然とさせる映画である。ある意味で、バカバカしくも愚かしい映画だ。
そこでは、“シャロン・テート殺害事件”の歴史的実在性もヘッタクレもあるものか、といった案配!クエンティン・タランティーノ(Quentin Tarantino、1963~)の極めてパーソナルな~主観的な思い・独断・妄想に満ちた~作品だ。
タランティーノは1990年代前半、入り組んだプロットと犯罪と暴力の姿を描いた作品で一躍脚光を浴びた。私はこれまでに、彼の監督作全てを鑑賞してきた。
1992年『レザボア・ドッグス』→94年『パルプ・フィクション』→97年『ジャッキー・ブラウン』→2003年『キル・ビル Vol.1』→04年『キル・ビル Vol.2』→07年『デス・プルーフ in グラインドハウス』→09年『イングロリアス・バスターズ』→12年『ジャンゴ 繋がれざる者』→15年『ヘイトフル・エイト』、そして9本目の映画となる本作(cf. 本ブログ〈June 30, 2016〉)。
彼は以前から、「10作品撮ったら引退する」と公言しているが、これは自らの映画の賞味期限性を篤と弁えた上での発言なのだろう―。
そもそも“破調”をもってする彼の映画作りは、常識破りの過剰にして過大な表現が特徴的。地道に歴史的・社会的な現実に肉薄し、その、あるがままの現実を総体的に再構成する想像力がからきし弱い。そこでは、とかく奇抜な趣向を凝らした極私的グラフィティーが勝手気ままに描かれる~ex.「どうでも良い話なのに、聞いていてマア何やらオモシロイ」という絶妙な“無駄話”の演出に定評あり!~。

スペード “シャロン・テート殺害事件”とは、どのような歴史的・社会的な事件なのか。
1960年代後半のアメリカは端的に言って、“カオス”だった。終結の見えない泥沼化したベトナム戦争(1955~75年)、公民権運動、ウーマンリブ運動など…物情騒然として様々なことが引きも切らず起こっていた。
そんな中、ベトナム反戦運動は盛んになっていき、それとともにヒッピー文化が若者たちの中で急速に浸透。この波はサンフランシスコのヘイト・アシュベリー地区(Haight Ashbury)を中心に全米中に広がっていく。大麻やLSDは街に溢れかえり、グレイトフル・デッド(Grateful Dead)、ジェファーソン・エアプレイン(Jefferson Airplane)などサイケデリック・ロックバンドのコンサートには一文無しの若きヒッピーたちが押し寄せ踊り狂っていた。彼らは安心してセックスとドラッグを堪能できるコミューンと大規模なロックコンサートを求めてヒッチハイクで街から街へ、そして社会を嘲笑することに夢中になっていた。
その頃、何度目かの刑務所生活を終えた身長157センチの小柄な男が、ギターだけを手にヒッピーだらけのヘイト・アシュベリーに降り立った。チャールズ・ミルズ・マンソン(Charles Milles Manson)その人である。
愛に恵まれない出自の彼マンソンは、幼い頃からチンケな犯罪を繰り返し、施設を出たり入ったり。1967年の仮釈放の時点で人生の半分以上を施設、あるいは刑務所で過ごしてきた。それなりに凄みや神秘性を漂わせていたのだろうか!?長く伸ばしまくった髪と髭、それから刑務所で習ったギターで、モノホンのヒッピー・ミュージシャン降臨!といった風情で路上に立った。そして、自らをキリストの生まれ変わりと称し、パッチワーク的なアシッド・フォークとドラッグ&フリーセックスで、すぐさま若い奔放な家出少女たちをモノにする。また、その取り巻きの女性たちを使って男たちをも魅了する。結局、青年男女のコンプレックスに付け入る驚くほどイージーな説教で信奉者を集め、「ファミリー」~いわゆる「マンソン・ファミリー」というヒッピーカルト集団(コミューン)~を主導するにいたった―。

マンソンは当時大人気だったビートルズを超える偉大なミュージシャンとなり、世界に自分のメッセージを伝えようと目論んでいたが、その夢が叶わず、ハリウッドの高級住宅地に住むエンタメ業界の勝ち組たちに歪んだ憎悪を抱くように。そして、「スパーン映画牧場」というさびれたロケ地に居を構えていたマンソン・ファミリーは、1969年8月9日、事件を起こす。女優シャロン・テートがそこに住んでいると知らず、「犠牲者(金持ち)なら誰でもいい」と彼女の自宅に侵入したファミリーのメンバー4人は、妊娠8か月だった26歳のシャロンやその場にいた人物計5名を、残虐な手口で殺害したのだった―。

クラブ シャロン・テート惨殺事件は私の自分史上、リアルに思い浮かぶ事件の一つである。当時の私は、長期化・深刻化するベトナム戦争に対する学生の反戦運動の渦中に身を置いていた。ベトナム戦争が激化した1960年代の後半になってアメリカを始め、世界各国で反戦運動が高揚していくが、日本でもその反戦運動の波が全国の大学に押し寄せる中、大学改革⇒社会改革を求める「スチューデント・パワー」~「怒れる若者たち」の「異議申し立て」~の嵐が吹き荒れた。ベトナム戦争/反戦状況下の“カオス”を端的に物語る社会的事件として、シャロン・テート事件を、今なお私は忘れられない※。

ベトナム戦争/反戦状況との絡みで言えば、シャロン・テート事件のほかに、次の二つの事件もまた、学生時代の私の存在を大きく揺さぶった。
⑴ 1967年4月28日、プロボクシングの世界ヘビー級チャンピオンのモハメド・アリ(Muhammad Ali、旧名カシアス・クレイ〈Cassius Clay〉、1942~2016)は、米テキサス州ヒューストン徴兵局による陸軍入隊命令を拒否した。アリいわく、「黒人の徴兵率は30%。白人は10%。なぜだ?何の罪も恨みも憎しみもないべトコン(南ベトナム解放民族戦線)に、銃を向ける理由はない。黒人が戦うべき本当の敵はベトコンじゃない。日本人や中国人でもない。300年以上も黒人を奴隷として虐げ、不当に搾取し続けたお前たち白人だ!」 彼はその“良心的兵役拒否(conscientious objection)”(宗教の信条や政治的、哲学的な背景に基づく兵役拒否)により、まずニューヨーク州のボクシング・コミッションによってライセンスが停止され、それを受けて世界ボクシング協会(WBA)からタイトルも剥奪される。事実上のボクシング界からの追放であった。同年6月にはヒューストン連邦地区裁判所より、「禁固5年、罰金1万ドル」の判決が下された。これを不服とするアリは、以後も裁判闘争を続け、ベトナム反戦や黒人解放運動の象徴的存在となった。イギリスの哲学者バートランド・ラッセルは、「恐怖と弾圧に屈しないと決意したすべての人々の覚醒された意識。君はその象徴である。私は全身全霊を傾けて君を支持する」と激励の手紙を彼に送っている。米最高裁が彼に対する実刑判決を破棄したのは71年6月のこと。毅然として戦争に反対し、国家に勝利したアリ。70年代の彼は、まさに全世界の大衆にとっての「自由の象徴」としてボクシングの枠を超えた「グレイテスト・チャンピオン・オブ・ザ・ワールド/世界で最も偉大な男」となった。
⑵ 1967年11月11日午後5時50分頃、日本のエスペランティストで平和運動家の由比忠之進(ゆい・ちゅうのしん、1894~1967)は、首相官邸前の路上で、ガソリンをかぶって焼身自殺を図った(翌日、死亡)。彼の携行していた鞄の中には、翌12日に訪米する予定の佐藤栄作首相に宛てた「抗議書」(罫紙3枚半=約4000字)があった。それは、世界に先駆けてアメリカの北爆(北ベトナム爆撃)支持を表明し、沖縄・小笠原の施政権返還に弱腰の首相に対する、死をもっての抗議にほかならなかった。由比いわく、「ベトナムの問題については、米国の北爆拡大に対する非難の声が今や革新陣営だけでなく、国連総会においてもスウェーデン、オランダ、カナダからさえ反対意見が出ているにもかかわらず、首相はあえて南ベトナム訪問を強行したのみでなく、オーストラリアでは北爆支持を世界に向かって公言された。毎日毎日、新聞や雑誌に掲載される悲惨きわまる南北ベトナム庶民の姿。いま米軍の使用している新しい兵器の残虐さは原水爆のそれにも劣らない。ダムダム弾は国際条約によって禁止されているが、それよりもはるかに有力で残忍きわまるボール弾を発明し実戦に使用、大量殺戮を強行することはとうてい人間の心を持つ者のなし得るところではないのである。」「ベトナム民衆の困苦を救う道は、北爆を米国がまず無条件に停止するほかない。ジョンソン大統領と米国に圧力をかける力を持っているのはアジアでは日本だけなのに、圧力をかけるどころか北爆を支持する首相に深い憤りを覚える。」「真の世界平和とベトナム問題の早期解決を念願する人々が私の死を無駄にしないことを確信する。」
日本では国家権力に抗議しての焼身自殺は、由比が初めてとされる。その身を殺して伝をなす凄惨な死は、日本中に大きな衝撃を与えたが、彼が絶命した直後、佐藤首相を乗せたジェット機はアメリカへ向けて飛び立った。時の佐藤栄作は、まさに実兄・岸信介の盲目的対米追随路線を受け継いで、ベトナム侵略戦争を全面的に支持し、政治/経済/軍事全ての面で米国を無条件に支えていくことを公言してはばからないのだった(ちなみに、岸信介は現首相・安倍晋三の母方の祖父に当たる人。彼は知る人ぞ知る、東條英機内閣の太平洋戦争開戦時の商工大臣で、極東国際軍事裁判におけるA級戦犯被疑者)。


ダイヤ 本作ラスト13分では、「シャロン・テート事件」の枠組みが一応扱われてはいる。しかし、それは事実~歴史的現実~とは、まるで違っていた。結論を言うと、シャロン⇒マーゴット・ロビーは殺されることなく、また史実にあった他の友人たちも殺されず、カルト集団「マンソン・ファミリー」の3人衆~ワトソン/アトキンス/クレンウィンケル~は、何とクリフ/ブランディ/リック/フランチェスカによって、完膚なきまでにボコボコにされ血祭りにあげられてしまう。
特にアトキンスのやられっぷりの凄まじきこと!クリフにドッグフードの缶詰をどんと顔面にぶつけられ(鼻折れ前歯欠け顔中血だらけ)、ピットブル犬のブランディに全身さんざん噛み付かれる。そして、パニックのあまり窓ガラスを突き破って庭へ飛び出し→プールにざぶんと落下して手にした銃を宙に乱射し→水をバシャバシャ撥(は)ねて、悲鳴に似た叫び声をあげて…。当初、一人プールに浮かぶエアーベッドに仰臥し、優雅にマルガリータを飲みながらヘッドホンを耳に当て音楽を聴いていたリック。アトキンスの狂乱の態(阿波踊り!?)に気がついてビックリ仰天、ひるんで浮き足立つが、すぐに気を奮い立たせて、手早く倉庫から“火炎放射器”を持ち出し、紅蓮の炎を煽って、“狂女”を燃やし尽くす。プールの水面に浮上する黒焦げの死体…。

要するに、本作では「シャロン・テート殺害事件」は起こらず、シャロンは輝けるスターのままでい続ける。タランティーノ監督があえて史実を曲げてみせたのは、シャロンをフィクション~甘いハッピーエンド~の形で救ってあげたいという思いからなのだろう。これは、タランティーノ自身が幼少期を過ごした1960年代のハリウッド黄金期最後の瞬間に対するノスタルジーに満ちた作品であった。1969年のツァイトガイスト(時代の精神)であるシャロン・テートにもう一度命を与えようとする彼特有のすこぶる個人的な映画であり、そのようなものとして「ワンス・アポン・ア・タイム」つまり「昔むかし…」の御伽噺(おとぎばなし)であった。

作品の出来具合は“現実再構成の想像力”いかんにかかっていると、私は常日頃考えている。この点は本ブログでも度々論及・言及してきた。
cf. 本ブログ〈December 31, 2018〉/本ブログ〈February 15, 2019〉/本ブログ〈February 25, 2017〉/本ブログ〈February 08, 2016〉/本ブログ〈May 27, 2015〉/本ブログ〈February 10, 2018〉
この思想的文脈に即して言えば、本作における「シャロン・テート殺害事件」の扱い方は、典型的な“現実拒否(否定)の空想力”の所産にほかならない。
夜更けにポランスキー邸(旧テリー・メルチャー邸)を襲撃しようとしていたマンソン・ファミリーのメンバーたち。しかし偶然のいたずらか、隣家の主人リック・ダルトン(レオナルド・ディカプリオ)とイザコザ~私道に勝手に車を停めた迷惑なヒッピー野郎/女郎(めろう)に頭に来たリック、「出ていけ。警察を呼ぶぞ!」と怒鳴り散らす~を起こした後、何とターゲットをポランスキー邸のシャロンら住人から、リック邸のリックら住人に切り替えてしまう。リック・ダルトンがTV西部劇の人気俳優であることに気づいた彼らは、<現代に「殺し」が蔓延しているのは、テレビで役者が次々に人を殺すからだ。殺人に対して感覚が麻痺しているからだ。世界から殺人をなくすために、殺人を平気で演じた役者~つまり自分たちに人殺しを教え込んだ奴ら~を殺してしまえ>という“結論”に達するのだった。

殺人カルト集団が狙う標的がご都合主義も露わに、急に変更された!彼らにとっては、犠牲者は誰でもよかった。詭弁を弄して破れかぶれになって「誰か」を殺すことで「何か」を訴える、ただそれだけのこと―。そこでは必然、ドタバタ暴力的コメディーが演じられる。襲来したヴィランを結果的にクリフとリックらが返り討ちにし勝利するとはいえ、〈殺す-殺される〉の関係性が二転三転しシッチャカメッチャカ、訳が分からないまま、銃がぶっ放され、ナイフが振り回され、したたかに殴り、殴られる。手を食い千切らんばかりにワトソンに噛み付くブランディ、パン生地のごとく壁と言う壁にクレンウィンケルの頭をフルフォースで叩き付けるクリフ、もはや原形を全く留めぬまでにアトキンスをガスバーナーで派手やかに“消し炭”に仕上げるリック。一見して目を背けたくなるほどにゴアリーなシーンが続く一方で、(雌犬)ブランディが(男)ワトソンの急所に噛みつくというようなコメディーならではのシーンもある。問題はその全てが、私にとって余りにも滑稽で何ともバカバカしいこと。全くもって“美しくない”このエンディング(⇒クライマックス)シーンに、私は辟易し、目のやり場に困ったものだった―。

そもそもシャロン・テート殺害事件を映画化するというのは、一体どういうことなのだろうか。映画業界の人間にとっては、“身内”の事件なるがゆえに、宿命的に惹き付けてやまないものがあるのか。だが、マンソン・ファミリーが繰り広げた酸鼻戦慄の状~冷酷を極めるインヒューマン(inhuman)な行為~を描くのは非常に難しい。ここでは、私の主張するところの“現実再構成”の想像力を、いかに駆使することができるだろうか。それが凡俗の輩(やから)の力量に余る難問であることは論を俟(ま)たない。かと言って、現実逃避で、現実拒否の空想力に走り~歴史に縛られた被害者たちの呪いを解くと称して~、惨劇を免れたシャロンらが幸せに生き続ける甘い夢の御伽噺を再現するは、あまりに安易・安直が過ぎよう。

思うに、本作におけるタランティーノの構えの取り方で最大の問題点は、ベトナム戦争という時代ののっぴきならない限界的な政治的・社会的状況を正面切って捉え返すにいたっていないこと―。今でも米政府と米軍のトラウマ、黒歴史になっているベトナム戦争に対する反戦運動から、多くのフォークやロックの名曲や、小説や映画や演劇の名作が誕生したように、この戦争抜きに世界各国のサブカルチャーは語れない。映画の場合、1978年の『ディア・ハンター』(マイケル・チミノ監督)本ブログ〈December 24, 2018〉、79年の『地獄の黙示録』(フランシス・フォード・コッポラ監督)本ブログ〈December 31, 2018〉から2017年の『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』(スティーヴン・スピルバーグ監督)まで多数の傑作が生まれている。本作では、ラジオのアナウンサーが米兵10人に対するベトナム人100人単位の戦死者の数を伝える場面があるにはあったが…。根本的な問題は、ラブ&ピースの理想を訴えるヒッピーというカウンターカルチャー・ムーブメントが、何故に、一人の教祖(チャールズ・マンソン)の指示に従って平然と残虐な殺人をしでかす破壊的なカルト教団(マンソン・ファミリー)などというものを生み出すにいたったのか、である。ベトナム戦争という当時のカオス的な大状況をはっきりと見極めることなしに、その問題の核心に迫ることはできない。

ハート 本作のキャスト陣について触れると、私が素直に感情移入できたのは、大変少なかったように思う。一人の子役と一匹の“俳優犬”だけだったか…。
レオナルド・ディカプリオ演じるリック・ダルトンと共演する「トルーディ・フレイザー役」のジュリア・バターズ(Julia Butters、2009~)。彼女はなかなか演技が上手で、可愛かった!
Once Upon a Time in Hollywood

ブラッド・ピット演じるクリフ・ブースの愛犬ブランディ。第72回カンヌ国際映画祭“パルム・ドッグ”賞(優秀な演技を披露した犬に贈られる賞)を受賞した名優犬だけに、ブラピと見事なコンビネーションを見せていました!


それにしても、ブラピ(Brad Pitt、1963~)もディカプリオ(Leonardo DiCaprio、1974~)も、いささか年を食ったようだ。さすがに寄る年波には勝てないか…。
私がブラピの出演作で初めて出会ったのが『レジェンド・オブ・フォール/果てしなき想い』(エドワード・ズウィック監督、1994年)。遙かなオールド・ウエストを舞台に、愛に素直に生きられない青年と、彼を想い続けた女性の悲しい愛の軌跡を描いた大河ロマン。この快作に惹かれて以来、彼の出演作品のほぼ全作を観続けてきたが、私のブラピへの好感度自体は『リバー・ランズ・スルー・イット』(92年)や『セブン・イヤーズ・イン・チベット』(97年)あたりをピークにして、年々低下する傾向にある。
また、ディカプリオの場合、私の最初の出会いは、『ギルバート・グレイプ』(ラッセ・ハルストレム監督、1993年)。肉体的・精神的に傷つきやすい家族を守って生きる青年の姿を通して、家族の絆、兄弟の愛憎、青春の痛み、そして未来への希望を描いた心優しきヒューマン・ドラマ。ここで重度の知的障害のある少年アーニー役を演じたディカプリオが、本当の知的障害者と間違えられるほどの名演技を披露!以来、『タイタニック』(1997年)、『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』(2002年)を始め、彼の出演作(日本公開作)をすべて観続けて今日にいたっているが、私の印象度は総体的に悪くはないが、『ギルバート・グレイプ』に比して年々ダウンはすれどアップすることはない―。