映画『運命は踊る』 | 普通人の映画体験―虚心な出会い

普通人の映画体験―虚心な出会い

私という普通の生活人は、ある一本の映画 とたまたま巡り合い、一回性の出会いを生きる。暗がりの中、ひととき何事かをその一本の映画作品と共有する。何事かを胸の内に響かせ、ひとときを終えて、明るい街に出、現実の暮らしに帰っていく…。

2019年1月22日(火)下高井戸シネマ(東京都世田谷区松原3-27-26、京王線・東急世田谷線下高井戸駅から徒歩2、3分)で、17:25~鑑賞。

Foxtrot

作品データ
原題 FOXTROT
[「フォックストロット(FOXTROT)」は、1913年にボードビルのコメディアン、ハリー・フォックス(Harry Fox、1882~1959)が自らの名を冠して披露したダンス。後にアメリカで人気を博し、現在もスタンダードなアメリカンスタイル社交ダンスの1種目として踊られている。多くのバリエーションがあるダンスであるが、そのステップは全て「前へ、前へ、右へ、ストップ。後ろ、後ろ、左へ、ストップ」という具合に、スタート地点に戻って来る。ミハエル&ダフナ夫妻、そして息子ヨナタンを待ち受ける運命は…。「人は運命を避けようとしてとった道で、しばしば運命に出会う」(ラ・フォンテーヌ)]
製作年 2017年
製作国 イスラエル/ドイツ/フランス/スイス
配給 ビターズ・エンド
上映時間 113分


第74回ベネチア国際映画祭で銀獅子賞(審査員グランプリ)に輝いたヒューマンドラマ。息子が戦死したという誤報を受けた夫婦と、前哨基地で戦闘のない日々を送る息子の運命を描く。メガホンを取るのは、デビュー作『レバノン』で第66回ベネチア国際映画祭金獅子賞を受賞したイスラエルの名匠サミュエル・マオズ。『オオカミは嘘をつく』のリオル・アシュケナージ、『ジェリーフィッシュ』のサラ・アドラーらが出演する。

ストーリー
イスラエルのテルアビブ。ミハエル(リオル・アシュケナージ)とダフナ(サラ・アドラー)夫妻には、息子のヨナタン(ヨナタン・シライ)がいた。ヨナタンは軍役に就いており、イスラエルの軍事当局はヨナタンが戦死したことを伝える。
だが、その数日後、ヨナタンの死は誤報であり、戦死したのは同姓同名の別人であるとミハエルたちは知らされる。ミハエルは軍への不信感から激昂し、早急に息子を帰還させるよう要求する。「もう一日たりとも息子を危険な戦地には置いておけない」 彼は自身のコネを使い、すぐにでもヨナタンを呼び戻すことにする。
イスラエル北部国境付近。何もない土地にぽつんとある補給路の検問所を、駱駝(らくだ)が通過する。ヨナタンはこの戦場の緊迫感からは程遠い配置先で、同僚の兵士3人と共に、警備・監視を担当していた。来る日も来る日も同じ単調な任務の繰り返しだった。
ある日、検問所に若い男女4人を乗せた車がやって来る。いつも通りの簡単な取り調べが終わって、兵士の一人が間延びした表情で、「ドアからスカートが…」と助手席に座る女に話しかける。女のスカートが車のドアに挟まれていたのだ。女が慌ててドアを開けた瞬間、何かが兵士の足元に転がり落ちる。兵士が叫ぶ、「手榴弾だ!」 条件反射的に銃を連射するヨナタン。冷静になって仲間の足元に目を向けると、そこには空き缶(ジュースorビール?)が。車内から白煙と血が静かに流れ出てくる。4人全員が死亡。
大型レッカーがその現場に到着し、車ごと彼ら4人を土の中に葬り去る。ヨナタンたちに向かって、上官は言う。「我々は紛れもなくここで戦争をしている。戦場では何でもありうる。起きたことは仕方ない。この一件は、最初からなかったことにする」
その後、帰還命令が出て、軍用車で帰路に就くヨナタン。テルアビブへと向かう途中、一本道を走る車は、駱駝を避けようとして横転し、崖下に転落、ヨナタンは死亡してしまう…。
息子の実際の死に直面し、父親は悲しみのあまり自分を罰しようと熱湯を左手の甲にかけて火傷し、母親も食器洗い中に無意識にタワシで左手を異様に擦(こす)って手の甲をひどく傷つける。ミハエルとダフナは仲が冷え切って別居に及ぶ。
ミハエルが荷物をとりに自宅に戻ったとき、母であり妻であるダフナの本音が露(あら)わになる。人前では立派に“頼れる男”を演出しても、その本質的弱さは見え見えだったと、ミハエルを責め立てる。息子の訃報は誤報だった。ヨナタンは生きていたのだ。それで十分だったのに、即時帰還を要求した夫のエゴ!その結果、何が起きたか?「あなたが強硬に“今すぐ連れ戻せ”と。息子を殺すことになるとは知らなかったとしても、もうあなたとは寝られないし、生きられない」「子供が生まれる喜びは、やがて薄れてしまうけれど、失った悲しみは、永久に消えないわ」
ヨナタンの死後から半年ばかり…、ミハエル&ダフナ夫妻と娘のアルマ(シラ・ハース)は3人で一緒に暮らしている。アルマは「ふたりとも、一緒が一番似合っているわ」と言う。娘がその場を去った後、無神論者と嘯(うそぶ)いていた夫が、フォックストロットのリズムを妻に踊ってみせる。「知ってるかい、こんなダンスを」「前へ前へ…」「分かるか?どこへ行こうと、必ず同じ場所へ戻って来る」 それが、運命というものなのか?そのステップを何度も繰り返してみせるミハエルをそっと抱きしめるダフナ。互いの左手の傷を、重ね合わせる(結婚指輪を嵌めているのはミハエルのみ!)…。

▼ “運命のステップ”シーン→予告編



クリップ cf. “生々しく流れる人間の感情”(「京都新聞(夕刊)」2018年10月6日) :
「運命は踊る」

◆◇ サミュエル・マオズ監督(שמואל מעוז‎、1962年5月23日イスラエル・テルアビブ生まれ) インタビュー
インタビュー①クリスチャン新聞オンライン-2018年9月13日
――本作『運命は踊る』の原題は『FOXTROT』ですね。1910年代はじめにアメリカで流行した、4分の4拍子、2分の2拍子の社交ダンスステップで、“前へ、前へ、右へ、ストップ。後ろ、後ろ、左へ、ストップ”と元の場所に戻って来る。どうあがいても、いくら動いても同じところへと還って来ることを暗示しているような本作を撮った動機は何ですか。
マオズ監督 私と長女の経験が一つのきっかけでした。長女には遅刻癖があって、いつも学校に遅刻しそうだと言ってタクシー代をねだりました。ある朝、私は叱って強引にバス通学させました。30分後、ニュースサイトで彼女が乗車したであろうバスが市内で爆破テロに遭ったと報じました。いくら携帯に掛けても連絡が取れません。ところが、1時間後に帰ってきたのです。なんと、そのバスにも乗り遅れたと言ってね。私にとっては人生最悪の1時間でしたが、彼女の遅刻癖はその経験をしても直りませんでした(笑)。私はその経験を掘り下げてみたかった。自分でコントロールできるものと、できないものがありますが、その細事とどう対峙していくか。アルベルト・アインシュタインがいった「偶然は匿名の神の御業である」などいろいろ哲学的なことも考えました。それが、この映画の核にあります。たくさんのヴァリエーションがあってもすべて出発点に戻るフォックストロットは、人間が運命と踊るダンスのように思えたのです。

――前作「レバノン」、そして本作でも共通して反戦へのメッセージを感じさせられますが、そのような意図はありますか
マオズ監督 はい、勿論です。ただ“戦争映画”という括り方とは違うだろうなと思っています。戦争というモチーフを使って極限状態に置き、そこから“生命とは”とか“正義とは”“自由とは”など人間が持つ基本的な価値観を試す映画になっていると思います。私が描く戦争は、善人と悪人に分かれるということはありません。みんなが戦争の犠牲者であり、みんなが負けるということを描いています。

――本作が公開されたとき、イスラエルのスポーツ・文化大臣が「イスラエルにとって有害な映画である」と批判し、右翼寄りからも非難されたと聞いています。どのようなシークエンスが問題視され。何が問題だったのでしょう。
マオズ監督 端的に言えば、イスラエル軍を批判するようなシークエンスがあるからです。イスラエルでは軍部への批判はタブーなのです。しかし、どのような人間社会であれ、より良いものを目指さなければいけないし、そういう“あがき”は大事だと思っています。その“あがき”の必要最低条件は、自己批判能力を持つことだと思います。本作では、兵士宿舎のコンテナが一日1ミリずつ傾いていきますが、社会批判した人を社会の裏切り者としてしまうのは、真実が沼にずぶずぶと引き込まれていくようなもので、いつしか自分たちも埋められたものなってしまいます。私がイスラエル政府を批判するのだとしたら、私に限らず芸術家はそうだと思いますが、そのように埋もれていくことが心配だからであり、社会が心配であり愛しているからなのだと思います。
ただ、映画作家として思うのは、ドキュメンタリーを撮っているわけではないので、客観的な事実を淡々と述べるのが私の仕事だと思っています。真実はドラマの中にあり、そこにある真実を描く、芸術の中から映し出されてくる真実というものを描くのがアーティストとしての仕事だと思っています。そもそも映画の役割というのは人々を挑発することだと思うのです。映画で社会を変えるのは難しいことであるかもしれないと分かってはいますが、少なくとも最初の一歩は踏み出したいですよね。そうするためには、みんなを刺激して言論とか論争とかに火を点けなければならないのです。まさに挑発する、そして映画を観る者の感情を揺さぶるということをしなければならないのだと思います。だから、怒らせ、喜ばせ、エキサイトさせるという、観る方に衝動を作らなければならないと思っています。

――父親が、母親からホロコーストを生き延びてきた家に代々伝わる聖書を「絶対に売ってはいけない」と言っていたのに、書店でアメリカのポルノ雑誌と交換してしまっい、その雑誌を息子のヨナタンに引き継がせたシークエンスが挿入されていますが、どのような意図があったのでしょうか。
マオズ監督 映画ですのでいろいろな解釈がなされてよいと思います。私自身の意図について話しますと、あの小話は、宗教というものは文化の領域に属するべきものであって政治色を帯びさせてはならないということの象徴なのです。本来、宗教は敬意の念をもって愛すべきものですが、いまは人々に拒絶されているように思います。それははなぜかというと、精神世界である文化・宗教が、政治色を帯びると、政治家の利益追及や目的達成のために宗教本来のメッセージを捻じ曲げて悪用しているからだと思うのです。ですから、拒否反応のようなものが出てくる。そういうことの象徴なのです。
聖書は何世代もの間、家族をつないできましたが、その間、ユダヤ人は実存的な脅威にさらされてきました。でも今は、イスラエルという国があり、国情も安定してきています。ですから、聖書は聖書でリスペクトして文化的な何かとして捉え、解釈も教条として誰かに植え付けられるのではなく、自分自身の答えを導き出せるものして付き合い、生かされていけばよいと思います。ただ、いまはそれが捻じ曲げられているように思います。そのようなアレゴリーなのです。

――息子ヨナタン戦死の誤報を受けて従軍ラビが軍の葬儀を家族に説明するシークエンスがあります。イスラエル軍は、国民をユダヤ教徒と見做しているのでしょうか。
マオズ監督 イスラエルは、れっきとした宗教立国ですからね。私が気になるのは、様々な律法学者や宗教家たちに宗教の真実が捻じ曲げられているということです。
軍部に関して言うと、イスラエル軍は自らを長い歴史のなかで実存的な脅威にさらされてきたユダヤ民族だが、国が建国され、自国のイスラエル軍はそのような実存的脅威からユダヤの民を救済した天使たちであるとする見方が軍部にはあった。そのような軍部を私は批判してしまったわけですから、とんでもない批判を浴びたわけです。でも、批判の声が届かない人たちというのは、やはり腐敗していくし信条が揺らいでいくのでしょうね。今のイスラエルを見ていてそう思います。

インタビュー②映画ログプラス-2018/9/28
Q.家族の不慮の死に向かい合うことが、最も耐え難い苦痛だと思いますが、映画は、主人公に息子の戦死の報せが告げられるシーンから始まりますね。加えて、空き缶が落ちたり、名前を間違えたり、ほんの些細なことが死に繋がる印象を受けました。無益な争いをすることに意味があるのかという監督からのメッセージに感じました。
その通りです。細部に拘って描くタイプです。ディテールの積み重ねが大事で、どのシーンにも意味があります。息子の訃報を聞いたあと、主人公の兄がノートパソコンで葬儀の式次第を見ているようなシーンがありますが、その隣にはボールに入ったオレンジが置かれています。これはイスラエルをひと言で表現したフレームなんです。イスラエルは4つの単語で表現でき、“Dead soldiers and Oranges”つまり、イスラエルは死んだ兵士とオレンジの国であると言われています。見事にシンボライズさせているシーンです。
そういうものを積み重ねて映画を作っているのです。そもそも自分がアイディアを思い浮かべる時はたいていビジュアルです。言葉ではなく映像なんです。例えば、息子の死を知らされ、母親が倒れるシーンで後ろ側に絵画が映し出されています。これは父親ミハエルの心を表している絵なのです。幾何学模様の抽象画ですが、妙に整理整頓されたカオスが、ブラックホールの中に誘うという絵です。
そのように表現するのは、私の映画が事実をありのままナチュラルに描くのではなく、観客にとって体験であって欲しいと思うからです。そのためにビジュアルで語ることが、私の映画作りの大切な柱となっています。

Q.空に鳥が舞うシーンも不吉な感情を抱きましたが、これも観客に体験して欲しいと?
はい、その通りですね。そんなに複雑なメッセージを伝えているわけではないですが、きちんと効果的に伝わっていますね(笑)。
要するにパズルなんです。“運命とは?”という非常に抽象的なコンセプトを探ろうとしている映画だから(ビジュアルにこだわっている)。この作品は、父と息子の物語でお互いに物理的には遠く離れているのに、お互いの運命を左右してしまうということを描いています。

Q.『運命は踊る』という邦題ですが、人間が楽しんで踊るわけではなく、無益な争いに踊らされているというメッセージにも感じます。監督にとって“戦争”とは、“争い”とは何なのでしょうか。
結論から言うと、残酷なトリックだと思います。自分自身の体験ですが、私はレバノン戦争(1982年6月に始まるイスラエルのレバノン侵攻ー引用者註)で従軍していました。それは前作『レバノン』に描かれているわけですが、私も砲撃手としてまさにあのようなビジュアルを体験しました。照準を合わせながら、スコープを通して戦地を見ていたビジュアル、同時に二十歳そこそこの私の精神状態も描きました。それまで全く暴力とは無縁に生きてきたのに、ある日突然戦地へ行き人を殺めているわけです。殺すか殺されるかの状況で、「お前は死にたいのか」と追い込まれた中で、殺しを行う。それでも人間なので戦地から帰ってこれても変な責任感や罪悪感に苛まれました。一種のトラウマというか、トラウマというほどの病理ではないものの、静かな罪悪感を抱えたまま生活していく状態が続いていました。
確実に言えるのは、戦争というのは人を殺す場であるということ。これはまがいもない事実です。そしてなぜ人を殺すのかと言えば、理念があるからとか指令が下ったからとかいうものではなく、戦地では体と直感と衝動が人間をそうさせるのです。
戦地に送り込まれて24時間あるいは48時間が経てば、生き残りたいという衝動が働きます。それが自分の体と判断を司るようになるので、殺し合いをするようになるんです。だからこそためらったり、モラルが介在するような余地はなくて、究極の集中力を持って戦っているので、体中の全細胞が生き返ってくるような感覚になるのです。戦地に48時間もいればそうなってしまいます。戦争とは一種のドラッグなんです。中には戦地から帰ってきて、もう一度戦地に行きたいという人間もいて、これは完全にアディクト(中毒状態)されているのです。体が直感により、究極的にコントロールされている状態なんだと思います。
私自身レバノンで経験しましたが、街中の住宅はシャッターを閉じていますが、シャッターの裏には武器を持ったテロリストが控えていて、2軒に1軒はテロリストだと刷り込まれるわけです。すると2軒に1軒は普通の家族でも、いちいち調べることはできませんから、撃つしかない。そういう変身が起きるんです。平時においては軍人が民間人を助けることはありますが、有事の時にはモラルが介在する余地なんてゼロなんです。これが僕の戦争観です。
もう一つ加えるとすると、善悪などなく、みんな戦争の犠牲者なんです。恐怖とかではなく、衝動がアクティベート(活性化)されてしまうのが戦地で、問題はそこから還ってきたときで、色々な問題が浮上するんです。自分がしてきたことを振り返って、なんてことをしてしまったんだという想いに苛まれるのです。

Q.映画の中では家族愛という誰もが感じる感情が描かれていますが、一方で戦地では別世界ですね。ミハエルの言葉にもありましたが、日常の幸せを感じて生きるということが大切だと改めて感じます。
『運命は踊る』が戦争映画と括られることは無理のないことだと思いますが、そうではない。戦争映画というのは勝利を描いたり敗北を描いたりしています。
同じ土台に乗せるのはおこがましいことなのですが、『地獄の黙示録』(1979年)ですとか、ベトナム戦争帰還兵を描いた『ディア・ハンター』(1978年)もそうだと思うのですが、『運命は踊る』にしても、『レバノン』にしても極限状態の中から出てくる人の魂とか心の在り様とか基本的な価値観とか、人間を描いているんだと思います。その視点でみると、いわゆる戦争映画とは違うのかもしれません。
本作は、ミハエルという一個人に焦点を当てたストーリーでありながら、イスラエル社会全体を集合的な社会として描いています。家族が離散し、再び結ばれるヒューマンドラマであり、愛と罪悪感とか、とてつもない苦しみとどう人間が対峙するか、そして愛がどのようにそれを救うのかということを描いているのです。

私感
前掲のインタビュー②で、『地獄の黙示録』と『ディア・ハンター』が引き合いに出されている。本ブログでも以下のごとく、都合4回、この2作が取り扱われた。
本ブログ〈September 16, 2016〉
本ブログ〈December 24, 2018〉
本ブログ〈December 31, 2018〉
本ブログ〈January 01, 2019〉

私がここで自覚的に掘り下げたのが、現実再構成の想像力の観点に立った、具象と抽象の兼ね合い(緊張関係)の問題である。この問題に立脚するとき、私にとって本作『運命は踊る』は優れた作品ではあるものの、少なくとも『ディア・ハンター』のように何度も鑑賞したくなるほどに魅力あふれる作品ではない。

本作は重苦しいテーマ~ホロコーストのトラウマを抱えた国家の、痛々しい運命の悲劇~を三部構成(第1部「ミハエル」→第2部「ヨナタン」→第3部「ダフナ」)で展開する。全体を通して台詞はギリギリまで切り詰められ、終始収まりの悪い不穏な空気が漂っている…。
私は思う。イスラエルという戦争が日常となった国の“闇”を浮き彫りにするためには、大胆なビジュアルによって作り込まれた画面のもと、ギリシャ悲劇を思わせるこの種の三部構成が最適な形式だったのだろう、と。
しかし、本作における物語の展開は抽象に過ぎる難点がある。本作はもともと、戦争の悲惨さや過酷な現実を直接描くのではなく、誰にでも共感できる普通の家族の日常を通して、戦争という得体の知れない巨大な化け物に翻弄される人々の姿を描き出そうとするものではなかったのか。それにしては、映画全体が哲学的パズルと化し、あまりに観念的な押し付けが目立つ。
そもそも問題視すべきは、同じ(ヨナタンを乗せた)軍用車が走るオープニングとエンディング。この両シーンにこそ、本作の全てが集約される。そして、その間に展開する三つの物語…。この観念的な“凝縮”作業は、実に凝った趣向ながら、何とも危なっかしい技巧の成せる業ではないのか!?そこでは果たして、観念と現実に起こる問題がどこまで折衷され、彫琢されたのだろうか。
本作は鑑賞後に、その削ぎ落された要素による緻密な物語構成と画面設計を、頭の中でいろいろ深く考え、自分なりに再生すべき佳作ではある。しかし、私自身が本作をもう一度、映画館で観るかと問われれば、今のところ、その気が起こらないと答えざるをえない―。