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SELF SUPPORT STUDY

Hello,everybody!
There are my self support study’s notes.
I rescue myself.I support my fellow.

「リカバリー」という言葉が最近よく、精神的困難を経てきた方々についての話で出てきます。また、当事者研究の概念に「自分の専門家」という考え方があります。この二つには交錯する点があるような気がしている私の感じ方についてお話しします。

リカバリーとは回復と訳されたりもしています。
でも、その翻訳は完全に一致しているわけでは無いと思います。
私が理解しているリカバリーのあり方は、一言で言うと、空気を吸っていること自体がリカバリーの姿だということです。
リカバリーに際限はないと、海外の、困難を経験した当事者は、言います。
私がさらに思うことは、そして、はじまりもないのだということです。リカバリーは優劣で比べるものではなく、一人の人間の生き続ける姿を現したものです。
だから、回復とは違って、度合いを比べることができません。回復とはリハビリテーションの考え方を強く反映した言葉で、元の状態を取り戻すことが意味に含まれていると思います。
同じような、Reを含んだ単語ですが、発展して来た概念には違いが出て来ていると思います。

例として挙げたい私の出会った仲間の話をします。
彼女はとても苦労人で、病気の苦労だけでなくそのもがき苦しみ方も大変な方でした。
リストカットや男性依存などの(嫌われ松子の一生という映画からとった苦労のタイプを表した表現の)「松子系」苦労には事欠かない方でした。
当事者研究の場にお母様に連れられて現れたとき、私は、彼女に言いました。
「この場で一番の専門家はAさん自身ですよ。」
と。
Aさんはびっくりしたと言っていました。
自分の価値を認められずに過ごして来たそうです。
一番の専門家でありエキスパートはAさんだと私は伝えました。
後日、私の携帯メールにAさんから、自分の腕に自分の名前を刻んだリストカットしたての写真を添付したメールが届きました。
私は、「芸術的だね!」と感嘆の一言を返信しました。
昼夜逆転していたAさんでしたが、その直後にソバ屋さんで日中のアルバイトを見つけて働きはじめました。

Aさんの当事者研究ミーティングを経た変化は、Aさんが本当に生きたい自分の人生をただ唯一の自分として生きている、その道程であるというだけだと思います。

この例は、当事者研究によって好転したという意味で挙げたものでもありません。言えることは、誰でも常にリカバリーの途上だということを改めて私は感じたということです。その途上の航海を誰もが自ら舵をきるということを当事者研究は信じているのです。
私は、「自分の専門家」という当事者研究の考え方は「リカバリー」の考え方に共通していると思っています。

(katsuko.)

タイトル「自分の人生を引き受けること」

私の病気さんを紹介します。15歳の頃から統合失調症と呼ばれる病気を私は持っています。特に、罪業妄想、自分が世界中の悪いことの原因だという妄想、のため、前科一億犯と表現出来る程の罪の意識を背負っていました。今でも私は病気さんと付き合って暮らしています。
病気さんの苦しみが辛かった頃、周囲の誰もが聞く耳を持たない中、藁にもすがる思いで職場の上司に勧められていた精神科病院を受診しました。しばらくして入院しましたが、任意入院です。私を死刑にしようとする暗殺集団に追われてると思い、入院してかくまってもらおうとして、自ら進んで入院しました。
利用した制度は、高額療養費制度や自立支援医療などですが、私には心の余裕がなく、父が手配してくれていました。
北海道浦河町にある、べてるの家に退院し、私は回復していきました。一面的に報道で知る方々はユートピアだと思い込んでいると思います。しかし、べてるでも、みんなが幸せな訳ではありません。
TBSテレビプロデューサーの斉藤道雄さんの著作にもあるように、べてるの家でも、殺人はあります。幻覚妄想状態での事件でしたが、この事件については詳しくは斉藤道雄さんの著作をご覧ください。事件の加害者、被害者両面から描いたドキュメントで、その後の支援者の対応についても、示唆が深い独特の対応が臨場感のある文章で書かれています。
その後も、放火もありましたし、万引きもありました。
ここからは、親しくしていた仲間が法に触れる行いをしたという体験をしている私の個人的な意見を述べさせていただきます。

もし、あなたの親しい友達がある日犯罪を犯して支離滅裂な供述をしている、と分かったら、どう思いますか?

精神障害者であっても、自分の行いの責任は取らせてもらいたい、と私は思っています。
それには理由があります。
最近は、医療観察法など法律が変わってきていますが、大きくは現状は変わっていないのではないかと感じます。
触法精神障害者は、閉鎖病棟で終わりの見えない入院を続けていることが多くあると思います。
法の裁きを受けるなら、あなたは懲役何年です、罪を償って下さい。と裁判官に言われますが、精神障害者には司法の目の届かない精神科病院での終わりのない時間だけがあります。
それは判決のない無期懲役や死刑のようなものです。
判決ではないのに、誰が決めているのでしょうか?
触法精神障害者を、何がそうさせたのかも、誰も注目してくれないのでしょうか?
これからのことも考えてはいけないのでしょうか?
もし私が犯罪を犯したら、私は、責任を取る権利を剥奪して欲しくないと思います。
責任を持たせて欲しいです。
また、責任というと、重く聞こえますが、私は責任というものの姿は、自分の人生を生きる誇り、だと考えています。自分の人生を生きる誇りだからこそ、引き受けたいものなのです。
人間としての責任を持つ権利を剥奪されない環境で、初めて回復やリカバリーはあるのだと思います。それには個人の中の回復だけではなく、社会との関係性の回復の意味もこもっています。
これは、触法精神障害者に限らず、入院や外来患者にも言えることにつながっています。
人間として権利を認められる環境にいて、誰もがリカバリーして行くのだと考えています。
自分の人生を生きる誇りを引き受けて行く過程が回復だと私は感じています。

私がみなさんに話していられるのも、私が退院して現在があるからです。今もまだ入院している仲間のことを考えて私は生きています。ただし、私が退院出来たことはラッキーだっただけだというのが、日本の現状だと思います。自分の人生を引き受ける権利は精神障害者には完全には復権されていない現状だと感じています。
最後に、私たちを自分の人生を引き受けている個人として、耳を傾けて頂きたいと、皆さんに対して伝えたいと思います。

(katsuko.)
「無力のちから」

病気を持っていない健常者の支援者と、当事者研究を通してつながる仲間とは、どのように違う役立ち方をするのだろう。本人にとって。当事者たちにとって。ひいては社会にとって。世界にとって。宇宙にとって。

最近は私も精神保健福祉士実務三年目ともあって、病気が出なくなっていることもあって、つまらない健常な支援者になっているような瞬間もあって、自戒すること多々あります。そんな自分に気づいたときは、ヒヤリとします。やばい、やばい、と思いますが、なかなか今更コツを忘れた病気は出て来ず、当事者研究的な立ち位置が病気のコツを忘れた私には重要な羅針盤になっています。

自分が無知ではないことが、国家資格を有する専門職のあたりまえな立ち方ですが、それを超えて、自分が無知であることを知っている必要が、支援者にはかならず必要です。健常者の支援者もピアサポーターも、どんな生まれ育ちでも。無知の知は、人間と人間が出会うことにおいて、とても大切な智慧です。仏教用語らしいですね、「智慧」って。ありのままを把握して真理を見極めて認識するちから、ですってね。ざっくりとした解説でごめんなさい。これって、アノニマスグループ(当事者による自助グループ)が言う「ありのままを認める」ってことと同じような悟り方ですかね。私はそうなのかなと思ったりしています。それで、私は「智慧」は「無知の知」だと思っているのです。だって、「ありのままを認める」ことなのだから、そういう心境ではないでしょうか。

自分がどんな出自であっても、誰もが、無力であることに変わりはないのだと思います。自分の無力を認めているというわきまえが、当事者研究の進め方の核心でもあります。ですから、当事者研究的思考を続けていることは、私にとって、ただの支援者におちいらないために、洋上のブイであるわけです。
かといって、日常の業務という感覚に染まると、洋上のブイも視るのを忘れてしまいますね。でもそれでは私にとって、遭難、というものなので、必死こいて洋上のブイを視ています。

無力は何故大事なのでしょう。「無力のちから」が、先ほど説明した「無知の知」と同じ経路で発露されるからだと考えています。力強い者のちからが、パワーであると言えます。それとは違うちからが最近はストレングスと表現されています。私は、新しいこの外来語は、「無力のちから」ではないかと、ひそかに考えているのです。
ストレングスは、人が既に持っているものだと云います。支援者は当事者のストレングスを信じなさ過ぎて、ちからを削いでいたのだと自戒されるようになってきました。だからこのちからは、有ると信じたら発揮されてくるとも言えます。私はそこで、「ありのままを認める」という作業をそのストレングス理論に発見したりします。
このストレングスって「無力のちから」なのではないかな。
支援者であっても自身の無力を認めること。うちのめされている当事者も自身の無力を認めること。どちらも、洋上のブイや仲間のつながりが無ければ、苦しい試みのように感じています。
私と言う存在がひいては宇宙とつながっているという壮大な存在感と共に、無力を目の前の誰かと分かち合うことが、出来たらいいなと、思っています。これまでのようにこれからも、まだまだ修行が必要ですね。
誰もがその道の途上であるから、無力を認めて分かち合えるのですから、人生と言うものが万人にあることに感銘をうけます。
(katsuko.)