「無力のちから」
病気を持っていない健常者の支援者と、当事者研究を通してつながる仲間とは、どのように違う役立ち方をするのだろう。本人にとって。当事者たちにとって。ひいては社会にとって。世界にとって。宇宙にとって。
最近は私も精神保健福祉士実務三年目ともあって、病気が出なくなっていることもあって、つまらない健常な支援者になっているような瞬間もあって、自戒すること多々あります。そんな自分に気づいたときは、ヒヤリとします。やばい、やばい、と思いますが、なかなか今更コツを忘れた病気は出て来ず、当事者研究的な立ち位置が病気のコツを忘れた私には重要な羅針盤になっています。
自分が無知ではないことが、国家資格を有する専門職のあたりまえな立ち方ですが、それを超えて、自分が無知であることを知っている必要が、支援者にはかならず必要です。健常者の支援者もピアサポーターも、どんな生まれ育ちでも。無知の知は、人間と人間が出会うことにおいて、とても大切な智慧です。仏教用語らしいですね、「智慧」って。ありのままを把握して真理を見極めて認識するちから、ですってね。ざっくりとした解説でごめんなさい。これって、アノニマスグループ(当事者による自助グループ)が言う「ありのままを認める」ってことと同じような悟り方ですかね。私はそうなのかなと思ったりしています。それで、私は「智慧」は「無知の知」だと思っているのです。だって、「ありのままを認める」ことなのだから、そういう心境ではないでしょうか。
自分がどんな出自であっても、誰もが、無力であることに変わりはないのだと思います。自分の無力を認めているというわきまえが、当事者研究の進め方の核心でもあります。ですから、当事者研究的思考を続けていることは、私にとって、ただの支援者におちいらないために、洋上のブイであるわけです。
かといって、日常の業務という感覚に染まると、洋上のブイも視るのを忘れてしまいますね。でもそれでは私にとって、遭難、というものなので、必死こいて洋上のブイを視ています。
無力は何故大事なのでしょう。「無力のちから」が、先ほど説明した「無知の知」と同じ経路で発露されるからだと考えています。力強い者のちからが、パワーであると言えます。それとは違うちからが最近はストレングスと表現されています。私は、新しいこの外来語は、「無力のちから」ではないかと、ひそかに考えているのです。
ストレングスは、人が既に持っているものだと云います。支援者は当事者のストレングスを信じなさ過ぎて、ちからを削いでいたのだと自戒されるようになってきました。だからこのちからは、有ると信じたら発揮されてくるとも言えます。私はそこで、「ありのままを認める」という作業をそのストレングス理論に発見したりします。
このストレングスって「無力のちから」なのではないかな。
支援者であっても自身の無力を認めること。うちのめされている当事者も自身の無力を認めること。どちらも、洋上のブイや仲間のつながりが無ければ、苦しい試みのように感じています。
私と言う存在がひいては宇宙とつながっているという壮大な存在感と共に、無力を目の前の誰かと分かち合うことが、出来たらいいなと、思っています。これまでのようにこれからも、まだまだ修行が必要ですね。
誰もがその道の途上であるから、無力を認めて分かち合えるのですから、人生と言うものが万人にあることに感銘をうけます。
(katsuko.)