アルケミスト―夢を旅した少年/パウロ コエーリョ
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アルケミストは、私の誕生日に友人がプレゼントしてくれた大切な本です。
読んでみてその内容の深さに驚いた一方で、こんな本があったのかと心から感動している自分がいました。

羊飼いの少年サンチャゴは、アンダルシアの平原からエジプトのピラミッドに向けて旅に出ますヒツジ

そこには彼を待つ宝物が隠されているという夢を信じて...。 宝石ブルー
旅の途中の様々な出会いと出来事から、サンチャゴは“自分のまわりで起きるすべてが、偶然のように見えて、実は必然である”ということ、“何かを強く望めば宇宙のすべてが協力して実現するように助けてくれる”ことなど、自然哲学ともいえる人生論に辿り着きます。 それはやみくもに何かを求め、生まれた場所を遠く離れる旅人を唸らせる結末にもなっていて、足元を固めることの大切さをも教えてくれました。

本来の目的とは違った収穫を得たと言う逸話、「セレンディップの三人の王子」にもとてもよく似たストーリーです。


著者のパウロ・コエーリョは自身も3年間、世界中を旅し、その後母国のブラジルに戻り、ロックミュージックの作詞家として成功を収めたのだそう。

しかし本来の自分を求めて再度ヨーロッパに旅立ち、スペインで巡礼をし、作家活動に取りかかったのだそうです。

そんな彼の他の著書、『ピエドラ川のほとりで私は泣いた』や、『ベロニカは死ぬことにした』という本も、人が生きていくうえでの法則や、ゆるぎない哲学が、上手くストーリーにブレンドされています。

ですがやはり、その中でも『アルケミスト』が私の中のベスト・ブックです。

ドイツ表現主義〈2〉表現主義の小説 (1971年)  

「小市民の死」が読みたくて図書館で借りたのが、“ドイツ表現主義(2)表現主義の小説(1972年)”でした。

ヨーロッパというのは悲惨な歴史も多く、人間の究極の悲哀や侘しさが蓄積された歴史が少なくありません。

そんな環境の中で生まれた小説というものが、心に飛び込んでくるような迫力を持ち、尚且つ幻想的な世界にこれほど引き込んでくれるものなのかと、読んでいる最中も、読後も感動していました。 

まるで幻想的な絵画の中を漂っているようなのです。


オーストリアで暮らす小市民であるフィアラ氏は64歳にして病に伏せます。 世の中は戦争と飢餓で人々の心も荒れて落ち込んでいます。 智恵遅れの息子と従順な妻、そしていつも苛立ち堕落の生活を送る義理の妹と4人で暮らす彼の最後の望みは生命保険金を家族が受け取る資格を得る65歳まで生き延びること。  どんなに意識がもうろうとしようとも、幻想を見て絶望を感じようとも、そのことだけに執着して人生を終えていく彼の姿が書かれています。 

それぞれの家族の描写や本人の心情が読んでいて物悲しくなりました。 

とても「人間」の姿を抉り出している小説だと思いました。


人間とは何でしょう? 

お金は富を与えてくれる一方で人の気持ちをかき乱す恐ろしい魔物ではないでしょうか。 

愛情のカタチは時に物悲しいものですね。


私事ですが、2日前に実家の両親が経営する呉服店が閉店セールを終えて店じまいしました。

80年続いた店が、3代目の父の代で終えることを決意するまでに両親は2年かかりましたが、赤字を続けていく意味の無さと精神的な負担を考えると、それ以外に方法はありませんでした。

もともと片足が悪く、びっこを引いて歩く母と、窓に張った何枚ものチラシをはがす父の背中を見ていたら涙が止まらなくなりました。  小さな店のシャッターを下ろした父も目に涙をため、暫く外から店構えを眺めていました。


小さな商店・小売店には生き辛い世の中になりました。

でも愚痴は言いません。  

父母をこれからもっともっと大事にしていきたいと思いました。


こういう気持ちと、この本の主人公達の気持ちとはリンクしているように思いました。

「退化」の進化学/犬塚 則久
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「退化」というと「進化」の対称を成すようなマイナスなイメージを持ちやすいのですが、太古の大昔に生きた生物と現在生き残っている生物とを比較すると、不必要な部位が欠けて縮小し、やがては無くなっていった部位の過程であり、「退化」は「進化」と同意語になります。


この本では微生物から始まって魚類、両生類、爬虫類に哺乳類、そして類人猿から人間へと、環境に合わせてその形態と機能を変えてきた生物の実態を興味深い例をいくつも挙げて教えてくれます。

例えば、脊椎動物の眼はもともと二対四個あり、頭の上に光覚器官があったのだそう。 イグアナやヤツメウナギなどにも頭頂眼がありますが、ほとんどの魚類では退化してしまうのだそうです。 意外にも、人間の脳の“松果体”という部位は、15世紀に哲学者のデカルトによって“意識の座”として定義されもしましたが、この部位こそが頭頂眼であり、進化の過程で眼としての機能を失い、光に反応する内分泌器官となったのだそうです。


また耳の穴は、もともとは魚類のエラ蓋が外れた後に鼓膜がはった末の進化であり、かっては新鮮な水を取り込む呼吸孔だったものが、音の取り入れ口と変貌したものだということです。


それから、人間の乳頭は2つだというのも実は思い込みで、進化の経緯を辿るともともとはもっと多くの乳頭があったのです。

生物は本来、一腹に産む子の数に対応した乳頭数になります。 イヌには8つの乳頭があり、オポッサムの一種には25個の乳頭があるそうです。  人間でも19世紀のベルリンに21年間で17回妊娠をし、2組の双子を含む12人の子を授かった女性がいたそうですが、彼女は通常の乳頭のほかに、腕のつけ根にも1対の乳房を持っていたそうです。  このような乳房を副乳と呼ぶそうですが、思いのほか副乳を持つ人間は男女問わずに多数いるのだと記されています。 『先祖返り』と呼ばれるようなはっきりとした形状の乳房の場合もあるし、ホクロと見分けがつかない場合も多いそうですが、こういった生物学的な経緯は読んでいて驚くことも多く興味深かったです。


以前テレビでトルコに暮らす兄弟姉妹6人のうち4人が生まれつき4つ足(手足)で動物のようにしか歩けずに生活しているという番組を流していたけど、こういったことも何か解明されていない理由で起こりえる『先祖返り』なのだと思えます。


読んでいるうちには、少なからず驚くべき発見があり、自分の身体やまだ赤ちゃんの甥の形状をあらためて確認してみたくなる本でした。

また、“それでは魚類より人間が進化した結果なのか?”ということではなく、陸上での生活を営む生物として最適化しているだけなのだなと再認識もしました。  なぜなら私達はサバンナで生き抜く力も俊敏さも無くしているし、ミミズやトカゲのように失った身体の部位を再生することもできないし、魚のようにスイスイと水中生活ができるわけでもなくクマノミ、鳥のように飛ぶ羽もないのですから...。

今日は読書日記ではなく、テレビ日記です。パソコン

今さっき見たNHKの番組が衝撃的だったからです。

『爆笑問題のニッポンの教養』という新番組なのですが、今日は

東京大学教育学部部長でもある浅島誠氏が登場していました。


浅島氏は発生生物学の権威で、大学を卒業してからとかげ(イモリ)やカエル(カエル)を研究・観察し続けた人です。

生物学的にイモリやカエルというのは面白く、イモリなどは肉体のどこを切っても再生する機能を持つし、カエルも卵で誕生してオタマジャクシの時期には魚類であるのに成長すると両生類になる、生物のなかでも珍しい種だといえます。


博士はイモリの受精卵の中から、“未分化細胞”を取り出します。

“未分化細胞”というのは、受精卵の中でも未だ身体のどの機能になるかが決定していない準備段階の部分で、黒い皮のような部分でした。 そこに何か“器官の素”のような物質を混入することによって、身体の特定の器官に分化していくのだと信じて地道な実験を積み重ねていったのです。 つまり、チチンプイプイと、呪文をかけて何かを混ぜれば、それが心臓となって動き出すのか、肝臓の部分に形を変えるのか、あるいは筋肉の部位になるのかが分化されると信じたのです。


そして、その魔法のような物質を遂には発見し、世界中の科学者が後を追って実験し証明されたのです。

それは「アクチビン」という名のタンパク質でした。 そして各部位に分かれる決め手はその濃度によってでした。  


遂には、人の手によって心臓という命の中心を成す器官やあらゆる部位の筋肉などが創れてしまう時を迎えていたということなのです。 動かなかったものが、自発的に動き出すのです。

元々備わっていた体細胞を採取して人工授精を施して誕生したクローン羊 ドリーの時とはまた違った衝撃がありますおひつじ座  


人は全てを解明してしまったのでしょうか?

いえ、それでも、「アクチビン」というタンパク質を創ることのできない人間は、謙虚さを忘れてはいけないのだと思います。椅子

世界がもし100人の村だったら
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最近、仕事が忙しくて読書が進みませんガーン  

週末は3ヶ月の甥にかまけてあっビックリマークという間に過ぎ去ってしまうのです恋の矢

恵まれた日々ですね...。


今日は私がこれまで手にした本の中で一番衝撃を受けた本をご紹介します。

『世界がもし100人の村だったら』 です。

これはテレビでも各国のドキュメンタリー映像が放送されたりして、ご存知の方も多いかと思いますが、世界中に生きる人々の中で、私という人間が如何に恵まれた環境の元で暮らしていたのかを思い知らされる内容なのです。


当たり前だと思っている日常が、実は全く当たり前ではなく、世の中の光や恵みを独り占めしているのと同じなんだと気がつきます。 こちらが明るく、満腹で清潔な分だけ、対極に暮らす人々の日常は暗く、空腹で不衛生なのです。

そして、そのどちらのサイドに暮らすのかについて、正当な理由など何もないのです。


今、現在、私は折に触れ “このまま、のほほんと生きていくだけでいいのかなぁ”と、自問自答をするに留まる一人間ですが、もうそろそろ何か行動に移す日を迎えなくてはいけないと焦ってもいます。


素晴らしい動画もありました。 是非ご覧ください。 

世界がもし100人の村だったら


それから、『世界を見る』時に、こんなサイトも面白いです。 

地球の姿