「小市民の死」が読みたくて図書館で借りたのが、“ドイツ表現主義(2)表現主義の小説(1972年)”でした。
ヨーロッパというのは悲惨な歴史も多く、人間の究極の悲哀や侘しさが蓄積された歴史が少なくありません。
そんな環境の中で生まれた小説というものが、心に飛び込んでくるような迫力を持ち、尚且つ幻想的な世界にこれほど引き込んでくれるものなのかと、読んでいる最中も、読後も感動していました。
まるで幻想的な絵画の中を漂っているようなのです。
オーストリアで暮らす小市民であるフィアラ氏は64歳にして病に伏せます。 世の中は戦争と飢餓で人々の心も荒れて落ち込んでいます。 智恵遅れの息子と従順な妻、そしていつも苛立ち堕落の生活を送る義理の妹と4人で暮らす彼の最後の望みは生命保険金を家族が受け取る資格を得る65歳まで生き延びること。 どんなに意識がもうろうとしようとも、幻想を見て絶望を感じようとも、そのことだけに執着して人生を終えていく彼の姿が書かれています。
それぞれの家族の描写や本人の心情が読んでいて物悲しくなりました。
とても「人間」の姿を抉り出している小説だと思いました。
人間とは何でしょう?
お金は富を与えてくれる一方で人の気持ちをかき乱す恐ろしい魔物ではないでしょうか。
愛情のカタチは時に物悲しいものですね。
私事ですが、2日前に実家の両親が経営する呉服店が閉店セールを終えて店じまいしました。
80年続いた店が、3代目の父の代で終えることを決意するまでに両親は2年かかりましたが、赤字を続けていく意味の無さと精神的な負担を考えると、それ以外に方法はありませんでした。
もともと片足が悪く、びっこを引いて歩く母と、窓に張った何枚ものチラシをはがす父の背中を見ていたら涙が止まらなくなりました。 小さな店のシャッターを下ろした父も目に涙をため、暫く外から店構えを眺めていました。
小さな商店・小売店には生き辛い世の中になりました。
でも愚痴は言いません。
父母をこれからもっともっと大事にしていきたいと思いました。
こういう気持ちと、この本の主人公達の気持ちとはリンクしているように思いました。