先日、知り合いの教員と話をしていて、思わず唸ってしまった。
彼は、教員として今年度の仕事を走り終えると、来年の三月末で、60歳に達するのを機に、教員を辞するとのこと。
仕組みとしては、彼は64歳でいわゆる定年を迎えるそうだが、それを前にして、来春で職を退くらしい。
というのも、60歳を境に、給与面での待遇が著しく落ちることに、思うところがあるようで。
わたしとたがい、大学卒業と同時に教職の道をずっと歩んでらっしゃった彼は、すでに60歳を超えてそれでも教職に邁進?している友人たちの話も聞いているそうで、そんな話を聞くにつれ、(辞めてやる)と決意されたとか。
そんな話というのが「どんな話」なのか、ひとつだけ話して下さった。
その、知り合いの友人(教員)は、60歳オーバーをして、「教務主任」「体育主任」そして「安全主任」を兼ねて、今年度働いてらっしゃるそう。
さきのふたつを兼ねている時点で、「うわっ、」って話ではある。
そして、念のため記すが、その方は、60歳オーバーゆえ、いわゆる月給が数割減った状態で、それでも、そんなヘヴィーな役割を担ってらっしゃる、とのこと。
彼曰く、「月に十数万円減ったよ」、と。(いわゆる「また聞き」だが)
でも、その分なにか定量的な(例えば勤務時間とか)ウェイトが減るとかではなく、にもかかわらず、重責を任されている、と…。
正直、低規模校ならば、「教務主任」と「体育主任」を兼ねる、くらい、あり得る。
しかし、ここで問題なのは、『それをover 60の先生が、低賃金で(あえてそう記す)託されている』事実。
それぞれの学校による事情というものはあるわけだが、ちなみにその話を聞いたわたしは、「特殊例だな」、と解釈せずに、「ふつうにあり得る話だよな~」と思ってしまった、そこに、問題がある。
基本的構造として「それ」が許される(ありえる)ところだ。
スキルの豊富な先生たちを手放したくないのならば、むしろ勤務時間を逓減して、それでもお給料をキープする、それが、ひととして「在るべき姿」、とすら思える。
しかし今の制度は、むしろその真逆。
きっとこんな話、現役の教員ならば、先輩教員の愚痴として、聞かされることは珍しくない。わかってる。
ただ、いよいよわたしも今年度中に55歳になることもあり、そして、身近な知り合いから聞かされた話に、そろそろ「先の現実」を直視しなくては、みたいな感慨も覚えてしまった。その個人的な憤りをなにかの形で残すために、ある意味、いま睡眠時間を削って記録をしているようなものだ。
さきに記した「知り合いの教員」が、もしもお給料が現状維持ならば、今年度末で職を辞すという判断は、されていなかったかもしれない。あるいは、わたしはその知り合いを存じていることもあり、お給料に関係なく、いちどここで、『子どもたちから離れてみたい』という動機があっても、それはちぃとも否定できるものではない。
今日も、がんばって働いてらっしゃった、オーバー60のパイセンたちが、
『もう辞めた、ばかばかしい』
と言って、皆で示し合わせて就業をボイコットする、そんな過激なことをしない限り、世間にも、我々を司るトップにも、わからない、のだろうか。




