原作と似て非なるラストに思うこと③ | 世界一難しい恋の話

世界一難しい恋の話

2016年04月13日スタート
日本テレビ系列水曜22時
連続ドラマ「世界一難しい恋」の応援・感想ブログです。

ついに! ついにこの日が来ましたよー!!!

 

 

 

ついに、鳥取県に応援上映がキタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!

日吉津? ってどこ? としばらく考え込んだことは秘密で!!!

これにて、47都道府県、応援上映制覇です!!!

恐らくアニメ発祥? の応援上映ですが、昨今はいろんな映画で行われていますよね。

この夏だけでも、「忍びの国」以外にポケモンや銀魂などで実施されています。

しかし、どうも47都道府県全てで応援上映が企画された映画館は史上初? なのでは? 応援上映の全てを知っているわけではないので断言できませんが、偉大な記録なのは確か!!

もうすぐ夏休みも終わりです。終了前に、大ヒット御礼舞台挨拶が企画されたりしないものでしょうか……

 

さて、今日の話題。以下、「忍びの国」の映画と原作のラストに触れています。見たくない! と言う方はUターンでお願いします!

 

 

 

「忍びの国」は基本的に原作と忠実に、けれどところどころ大胆に原作をアレンジしている映画です。

特に大きく印象が違うのがエンディングなのですが、何故こうまで印象が変わったのかを好き勝手に考えてみような記事です。

 

前回の記事にて、映画では原作の重要な登場人物がカットされているが、それぞれの役割が別の登場人物に引き継がれている、と書きました。

具体的に書くとこんな感じになってます。

 

原作―映画

文吾(後の石川五右衛門)-伝吾、利助、文蔵

原作の場合

年は十代前半。金にこだわる忍びの中では少し異質な、金より戦いが好きで何より殺しが好き。争いを好み織田軍との戦いも歓迎していた。

無門とは同じ百地家の下忍同士なので気安く話す関係だが仲間という意識はない。

 

映画の場合

文吾(の役割を担った下忍達)は当時の忍びの象徴。戦いが好きなわけではなく、金のためなら殺しも厭わない存在。

忍び仲間の無門とは必要とあれば共闘するし仲が悪いわけではないが金のためなら仲間も裏切る当時の忍びをそのまま体現している。

 

柘植三郎左衛門―林豊前守

原作の場合

元・十二家評定衆で現在は織田信雄の側近。伊賀に息子を殺され北畠具教に妻と娘を殺されるという過去あり。

織田軍からの信頼は厚かったが、元北畠家の家臣である日置大膳や長野左京亮からは元伊賀の忍びということで信頼されていなかった

 

映画の場合

原作の暗い過去をばっさりカット。発言から、恐らく織田信長の若い頃(織田信雄が子供の頃?)から仕えていた重臣と思われる。

共通点は天正伊賀の乱で最期を迎えることくらい?

 

鉄―ねずみ

原作の場合

恐らく十代前半? 伊賀の生まれではなく、父親と共に伊賀に流れ着いたところを百地三太夫に拾われる。基本的に信じられるのは銭だけ! な伊賀メンバーの中では珍しく、百地三太夫に感謝していると言い切るこの作品の良心。

戦いには参加せず、鍛冶職人として働いていて忍び達の武器を作って生計を立てていた。

銭を稼げなくてお国に家を追い出された無門は鉄の家で居候をしていた。

 

映画の場合

他国から伊賀に買われて来た忍び候補。訓練風景を見るにあまり将来有望な存在ではなさげ。

無門とは訓練の最中にただ一度すれ違ったくらいでほぼ交流はなかったが。

 

こうして書き出してみると、本当に「原作のキャラの役割を担った」と言っても本当に設定は全然違うんだなあ、と感心です。

それでも、スムーズにストーリーが成り立っているのは、原作者が脚本を手掛けているがゆえでしょうか。

 

で、話を戻して。

 

原作と映画でもう一つ大きく違うのは、伊賀における無門の立ち位置です。

原作では、無門はお国と一緒になりたいがために危険な任務を嫌がるようになり、そのせいで仕事に慣れていない忍びが何人も命を落としたと恨まれています。

また、本来は上忍である百地三太夫からの命令は下忍の無門に断る権利はないはずなんですが、そのすさまじい実力を傘に百地から銭をせびるようになり、何故あいつだけが特別扱いなんだ……と妬まれてもいます。

無門がそんな風になったのはお国のせいだ、と、夫婦そろって伊賀の嫌われ者になっちゃってます。

映画ではその辺の設定もばっさりカットで、百地三太夫に銭をせびってるのは変わらないのですが、それで過剰に妬まれたり恨まれたりしている様子はなく、お国さんも忍び達からは無視はされているけど嫌われている様子はなかったです。

 

――そんな原作の無門が、お国とは別に唯一心を許していたのが鉄でした。上にも書いたように、鉄は伊賀に住んでいるけど忍びではなく鍛冶職人であり、またもともと伊賀で育ったわけでもないので人でなし集団の伊賀の中では本当にほぼ唯一の良心です。

 

一方、映画のネズミは、無門との関わりはほぼゼロです。

お国とたまたま訓練の場に居合わせただけで、2人の間に個人的な交流はなかったし、映画の中で会話を交わしたことは一度もなかったはずです。

ただ、お国はネズミをとても気にかけていました。

厳しい忍びの訓練を受けているネズミの姿に無門の子どもの頃を重ね合わせ、親がいない、買われて来た存在であるということ、一人で逃げる才覚もなく、勝てる見込みのない戦に残されていると聞いて、自分も戦に参加すると言い出すくらい、ネズミのことを大切に思っていました。

 

原作と映画のラスト。言葉に直せば、無門の行動は同じです。

一度は伊賀から姿を消したのに、織田軍に伊賀が滅ぼされようとしていると聞き、鉄(ねずみ)を助けに戻って来た。

 

だけど、この動機が多分、大きく違う気がするのです。

 

原作の無門が鉄を助けたのは、鉄が忍びではないから。お世話になったから。つまり、無門自身の感情で、助けに戻ったと思われるのです。

対して、映画の無門がねずみを助けたのは――

お国がねずみを助けようとしていたから。

お国が、ねずみのために戦に戻るとまで言っていたから。

 

石原さとみさんは、「忍びの国」のことを究極のラブストーリーだ、と評していました。それについて、「ラブ要素そんなにある?」と原作既読組は疑問に感じたものですが。

映画のエンディングを細かく考察していくと、なるほど確かに――と頷けますね。

 

もう既に十分長くなってますが、もう少し続きます。