昨日はレイトショーで「忍びの国」を鑑賞していました。
お初のプレミアスクリーン!! プレミアというのは映画館によってレイアウトいろいろらしいので、わたしが行った映画館と他の映画館が同じという保証はありませんが。
リクライニングシート・ふこふこソファ・思い切り足を伸ばせるくらい前の席と余裕あり、席数はそんなに多くなく、もしここで応援上映ができたらすごく盛り上がるだろうなあ……と思わせる一体感でした!
レイトショーにリクライニングで思い切り足を伸ばせるなんて、これ絶対眠くなるぞ……と覚悟していたのですが、全然眠くならずに最後までがっつり見入ってしまうのが「忍びの国」の力だと思います。
レイトショーにも関わらず、席は半分以上は埋まっていました。
今日から「関ヶ原」も始まり、この映画と入れ替わりに「忍びの国」は終了する映画館が多いのだろう……と予想していましたが、少なくともわたしが行った映画館にまだ終了予定は出ていませんでしたよ!
まだまだ通います。見れる限り!
さて、今日の話題。
「忍びの国」はほぼ原作に忠実に作られていますが、一部原作に無いオリジナルシーンがあります。
特に大きく違うのがラストで、普通だったら原作ファンからブーイングが来るかもしれませんが、そこは脚本を書いたのが原作者である和田竜先生ですから!
原作とは違うけれど、映画は映画で素晴らしい。それが大多数の評価かと思います。
どうして和田先生は、このようにラストを変えたのでしょうか?
2時間の尺に収めるため、登場人物をカットしたから? 原作のラストで重要な役割を勤める人物が映画ではカットされたので、やむなくそのラストに変えたのか……?
は、少なくともないと思っています。
というのも、「登場人物がカットされている」と言いつつ、原作でその人物が担った役割は、ちゃんと他の人物に引き継がれているからです。
ちなみに人物相関図的に書くとこんな感じです。
原作にいるけど映画にいないキャラの詳細はこちらの記事を参照に。
原作―映画
文吾―下忍一同(伝吾、利助、文蔵)
鉄―ねずみ
柘植三郎左衛門―下山平兵衛、林豊前守
後、ちょっと特殊な例は織田信長ですかね。
織田信長はもちろん「忍びの国」の世界に存在しているのですが、ついに映画でその姿を現すことはありませんでした。
ただ、主に織田信雄の口から語られる片鱗だけで、その存在感だけは絶大なものがあります。
中村監督いわく、「織田信長は皆が恐れるようなキャストでなければならないが、あのメンバーに囲まれてふさわしいキャストが思いつかなかった」的なコメントされていましたが、結果的にこれが功を奏した……と、何度も映画を見て思いました。
感想を書いていたとき、「織田信長が出てこないので、主に織田信雄や日置大膳とのシーンが映画ではばっさりカットされている。そのため、信雄が偉大すぎる父に抱いているコンプレックスなどが少し薄まった感がある」と書いた覚えがありますが――その感想は、今も変わっていないのですが。
ただ、生半可なキャストでは、特に絶大な力を持つ武将を完璧に体現していた伊勢谷友介さん演じる日置大膳を見た後だと、「この信長になら大膳勝てるんじゃね?」という感想になってしまったかもしれません。
誰もが恐れる存在である信長は、いわば神や悪魔と同じように「映画を見た人が一番怖いと思う姿を想像できればそれでいい」という存在なんだな、と納得できました。
伊勢谷友介さんが織田信長でも良かったのでは? と少し思いましたが、では誰が日置大膳を演じるのだ――となると考え込んでしまうので、やはり映画のキャストは全員がベストキャスティングだったのだ、と思います。
さて、話を戻して。
原作のラストと映画のラスト。一文で書くと同じです。
伊賀を去った無門が、2年後に伊賀が織田信長に滅ぼされたときに再び戻って来て子どもを助けた。
同じなのに、原作と映画ではどうしてこんなにも終わり方の印象が違うのでしょうか。
原作のラストは、そこに「救い」「希望」はあまりありません。
この後、無門が幸せになれたのか――そんな未来は浮かばない、そんな終わり方になっています。
しかし、映画のラストは違います。
映画のラストは希望にあふれています。少なくとも、わたしはそう感じました。
感想でも熱く語りましたが、成長した「ねずみ」の穏やかで上品な語り口から、きっと2人は親子として平和で幸せな日々を送ったのだと思わせてくれました。
原作における「鉄」を「ねずみ」に変えたことに、どんな理由があったのか。
わたしはもちろん原作者本人ではないので、想像することしかできませんが。
ただ単に尺の問題でしょ? で終わるのではなく、いろいろと予想(妄想ともいう)していきたいと思います!