日本庭園など小宇宙を楽しむ日本らしい梅園。
狭い敷地に様々な種類の梅を集めた場所がある「安八百梅園」が大好きです。
母が要介護になってからは特に。
平地、広さ、梅との近さなど、車椅子で周るには優しい梅園なのです。
その「優しさ」は、この梅園ができた理由にも通じます。
敷地内には下水処理場があります。
嫌われがちな施設に人が集うように、志のある方々が梅の樹を持ち寄ったらしい。
こうして生まれた梅園は、いつしか数百種類の梅が咲き誇るようになり、一時期、梅の種類で全国2位を誇っていたこともあります。
ただ、数年前、うかがったら4位くらいじゃないかなぁとのことでした。
様々な勾配で、梅の種類は曖昧で判別が難しいとのこと。
年々、知名度も高まり、
観光客も観光バスも増え、
土日は百梅園渋滞が起きることもあります。
その一方で平日は地元の方々が何度もいらっしゃることも。
「近くに百梅園があって、ありがたいわ」
以前、観光ボランティアに立った際、近隣の介護施設のスタッフがおっしゃったことがありました。
毎日のようにワゴン車でいらっしゃり、車椅子を押しながら、高齢者の方々が嬉しそうに眺めている姿を拝見していると、こちらまで優しい笑顔になります。
そんな時、
「障害者に優しい町は高齢者にも優しい町になるんだよ」
哲さん(元パラリンピック日本代表選手の田中哲也さん)が、おっしゃったことを想い出すんだよなぁ。
4年ぶりに開催中の「梅まつり」(3月10日まで)も折り返し。
今年は開花が早いので、お早目がいいかと。
観光ボランティアに未だ一度も立てていませんが、来週、一日だけ立たせていただきます。
僕が立つ頃には、ほとんど散っているかもしれないけれど、
うどんやみたらし、たこ焼きなど、「花より団子」は楽しめます。
一本の木から、白い花と紅の花が咲く「思いのまま」は、昨日の時点では満開でした。
写真は一昨年。
昨日、「あれ?」と思って確認してみました。
同じ枝に白や紅の花が咲くとは限らず、年によって違うんですね。
映画プロデューサーでコラムニストの叶井俊太郎さんが亡くなられたことをネットニュースで拝見しました。
すっかり、ご無沙汰してしまっているけれど、今朝は想い出を綴りながら、ご冥福をお祈りします。
叶井さんはラジオのADから洋画配給会社に転職され、B級映画の買い付け、宣伝を担当します。
買い付けたフランス映画「アメリ」を大ヒットさせ、その後、独立。
「俺、「アメリ」はホラー映画だと思って買ってさぁ……買ってから観てびっくりしだんよ」
と笑ってらっしゃったなぁ。
ひょっとしたら、照れ隠しだったのかもしれないけれど、叶井さんならあり得ると思ってしまう豪快さのある方でした。
一カ月マクドナルドのハンバーガーを食べ続けたらどうなるかの記録を綴ったドキュメンタリー映画「スーパーサイズミー」を叶井さんが買い付けた時、
そのプロモーションで、「一カ月寿司90食食べ続ける」ブログ企画を、
僕がやることになったことが出会いのきっかけでした。
その直後、カンヌ映画祭を散歩目線で旅するブログ企画では、
その前に一緒にスペインにも立ち寄り、
カンヌ映画祭で赤絨毯の上も一緒に歩くなど、
叶井さんのダジャレを聞きながら、
楽しい時間を過ごさせていただきました。
「イシコさん、一緒に観てほしい映画があるんだけど」
カンヌの街角で呼び止められ、拝見した映画は、橋から飛び降りた自殺者たちの人生を綴るドキュメンタリー作品。
「次は、このプロモーションで、全国のいろんな橋から飛ぶブログをしようよ」
隣の席から小さな声で提案してきます。
「狂ってる……」
僕がつぶやくと、
「狂ってるくらいでなきゃ!中途半端じゃダメなんだって!」
橋の企画は、その場でお断りしたけれど、この時の叶井さんの言葉は、今も時折、想い出し、自分の中途半端さ具合を猛省することがあります。
いろいろ教えてくださり、ありがとうございました。
叶井さんがプロデュースした映画「いかレスラー」好きです。
「使った物は元の場所に戻し、
後は気づいた時、こまめに掃除をするだけ。
そうすれば大掃除はいらないですよ」
20年ほど前、フィラデルフィア(当時)に住んでいた家具作家がおっしゃいました。
当時、僕は雑誌の編集長と子どもショーと活動を全て辞め、渡米、渡英しながら、次にやることを模索し、
その一つの選択肢として英語留学も考えていて、家具作家にホームステイ先を相談していたのです。
といっても彼所有の一軒家に一週間ほど居候してゴロゴロしていただけですけどね。
彼の豪邸は心地よかったのです。
一人暮らしにも関わらず、トイレや台所の水回り、客室から階段まで、どこも常にキレイでした。
特に驚いたのは、バスルーム。
水垢さえ見当たらずピカピカ。
帰国してから、彼のように完璧には、できないけれど、以前より、こまめに風呂掃除をするようになったと思います。
結局、渡米、渡英はせず、日本でホワイトマンプロジェクトを始めちゃいました。
未だに掃除をする際、当時のことを思い出すことがあります。
現在、自分が風呂に入った時、
夏場はシャワーを浴びた後、ブラシで床掃除をして、
今の季節は寒いので風呂に浸かったまま、ブラシを動かすことも。
バスタブは、
普段は湯を貯める前に、
こすらずに流すことのできる洗浄剤を吹きかけて、ざっと流すだけ。
週に一度、母の訪問入浴がある時に、別の洗剤をスポンジにつけてこするかなぁ。
そして、今年、使用してハマっているのが循環型社会貢献のブランドが作った洗剤。
廃食油からバイオディーゼル燃料を製造する過程で排出されるグリセリン廃液を再利用して作られた商品です。
水垢や石鹸カスなど酸性の汚れを落とす感触が気持ちいい。
とは言え、バスルームだけ。
キッチンにしろ、トイレにしろ、他の水回りは、こまめに掃除できていないし、
未だに使った物を戻さず、そのままで、
書類も、どんどん積み上げていき、
あっという間にテーブルの上は書類の山なんだよなぁ。
国公立大学の2次試験中のニュースを見ながら、母に37年前には言えなかったことを話しました。
以前、話したような気もするけれど、母曰く「聞いてない」らしい。
2次試験で大阪府立大学を受験した日のこと。
1つ目の試験は英語。
ここまでは順調でした。
2つ目の数学が始まったところで、お腹に異変を感じます。
当時の僕は朝に排便の習慣はありませんでした。
便秘がひどかったこともあります。
気づくと3日ほど便通がないことも普通で、
試験の日もホテルで排便することはありませんした。
しかし、便秘から一転、便意をもよおすと厄介なのです。
肛門の蓋をしている固い便が出るまでトイレに籠らなくてはなりません。
しかし、試験は始まったばかり。
お腹の激痛は増していきます。
既に問題を解くどころではありませんでした。
ただごとではない雰囲気を醸し出していたのでしょう。
「大丈夫?」
と中年の試験管から声をかけられます。
「トイレに行かせてください」
と訴えました。
試験管に付き添われ、トイレへ向かいます。
時間をかけて排便し、試験会場へ戻る際、
「もう一度、行くかもしれません」
と伝えます。
便秘の後の排便は、時間をおいて、二度、三度と下痢になるまで排便が続くのです。
「次は手をあげなさい。すぐ連れていくから」
と優しくおっしゃってくださいました。
案の定、席について間もなく、次の便意の波がやってきます。
そのままトイレにいればよかったのではと思われますが、
トイレを一旦、出て、しばらくしてからでないと次の波が来ないのです。
同じ試験管に付き添われ、再びトイレへ。
「一度、背伸びしてごらん。
お腹に違和感があるようなら、まだ、座っていなさい」
ドアの外からアドバイスを受けた記憶があります。
その節は大変お世話になりました。
当然、数学の試験どころではなく、終了と同時に逃げるように試験会場を後にしました。
自宅に戻り、母から、「どうだった?」と聞かれても、正直に話すことはできなかったのです。
受験者の皆さま、可能な限り、排便を済ませてから、お出かけください。
ちなみに後日、「モズ ナカズ(中百舌鳥(もず)に大学のキャンパスがあるので)」の電報が届きました。
「寒の戻り」で寒い日が続いていますが、植物たちは3月が見えているのでしょうか。
かなり遅くに土へ入れたチューリップの球根から芽が、ぐんぐん伸びています。
そして一面の枯草の隙間から雑草も出てきました。
あいかわらず、雑草の名前はタンポポとイヌノフグリ以外はわらかりません。
いや、イヌノフグリでさえ、オオイヌノフグリとの区別がつかないなぁ。
今年、初めて、ヤギに雑草を食べさせるために移動させました。
10年ほど前まで蔵が建っていた我が家の敷地では一番の高台へ。
僕が子どもの頃、この蔵は、冬になると敷かれていた絨毯、法事の際に使用する器などが収納されていました。
当時、我が家には押し入れというものがなかったのです。
四方が障子か襖で覆われ、冠婚葬祭や法事などの際には、
すぐ大広間にできて便利ですが、
身の回りの荷物が増えてしまった現代の生活では不便です。
30年ほど前、大規模な改築工事の際、いくつか押し入れのスペースを作ってからは、蔵の利用頻度は減っていきました。
絨毯も使わなくなり、いつの間にか粗大ごみで捨てたらしい。
僕が安八町に戻って住み始めた頃、既に崩れかけていました。
隣の家に迷惑がかかる恐れがあるので解体することに。
見積もりをとってもらう際、壁に穴が開けられ、泥棒が入った痕跡があることもわかりました。
ある激しい雨の日のこと。
轟音が聞こえました。
庭に出ると、蔵が崩れていたのです。
テレビでビルの爆破をする際、真下に崩れるように、キレイに。
雨で土埃も抑えられていました。
多少、我が家の母屋の方に瓦が散らばっていたけれど。
母も呼び、2人とも無言で拝んでいたっけ。
その後、少しずつ散らばった瓦を集めて母屋の壁の脇に積み、
崩れた蔵の木材で焚火をしながら、
ウィスキーを飲む時間が好きだったなぁ……
と、すっかり、話が逸れました。
2年ほど前に亡くなったヤギ「らら」も、この高台の近くで眠っています。
今日は、在りし日の「らら」@高台。
僕の席から、右斜め前で視界が入るテーブルにスーツ姿の男性4人組が座っていました。
全員20代後半くらいでしょうか。
4人それぞれの目の前にはノートパソコンが並び、
僕の視界に入る2人の画面上には、チャット、メール、ファイルが同時に浮かび上がっていて、3つの作業を同時進行しているようでした。
叩くスピードの早いこと、切り替え画面の早いことと言ったらありません。
頭の中はどうなっているんだろう。
僕はパートナーとコーヒーを飲んでいました。
彼女が化粧室に立った際、ぼーっとしながら、何気なく彼らの会話を聞いていても、
「仕様書」という単語以外はわからないカタカナ言葉のオンパレードで、僕にはわかりません。
だからこそ、「一生こんなことやってるのかなぁ」の声が際立ちました。
20代半ばの記憶が蘇ってきます。
映画にしろ、イベントにしろ、編集にしろ、耳障りは華やかだけれど、
関わっているというだけで、
やっている仕事は雑用ばかり。
生活は不規則で収入も不安定だし、こんなことをしていて、本当に未来があるのかなぁと思いながら、
「一生こんなことやってるのかなぁ」
とつぶやいたのです。
「だいじょうぶだよ」
そんな時、パートナーは抑揚のない淡々とした声で言っていたっけ。
それでどれだけ救われたことか。
彼女は全く憶えていないけれど。
30代後半にも、そんなことをつぶやいた記憶があります。
ホワイトマンとして顔を白塗りにして、
メンバーの家でこたつに入って、24時間の生活の様を撮っていたとき、
「一生こんなことやってるのかなぁ」
とつぶやいた憶えがあります。
20代は不安だらけのネガティブな感情だけれど、
30代は「このまま続けたい」といったポジティブな感情で、
口から出た言葉は同じだけれど全く違うんですよね。
僕の斜め前のテーブルの彼らは、どっちなんだろう。
「人の心配している場合か!」
想い出に浸っているとパートナーから叱られるわけで。
タグをつけるなら、#戦争、#ジェンダー、#古代ギリシア、#寺山修司などが入るのかな。
大好きな音楽劇とはいえ、このワードが続いたら興味を持たなかったかもしれません。
「不思議の国のエロス」@新国立劇場。
セカイサンポで大変、お世話になった方や、
旧知の女優が関わっていたこともあり、どうしても拝見しておきたく……と恩義せがましく綴ったのですが、予想以上の面白さに大興奮でした。
積み上がったパイプ椅子が崩れるところから物語は始まります。
ギリシア統一をめぐり、アテナイとスパルタとの戦争が長期に渡り、
兵士の妻たちも疲弊し、我慢の限界へ。
そこで女性たちが立ち上がり、セックスストライキで、平和を掴み取っていこうとするお話です。
60年ほど前、
劇団四季の創設者浅利慶太から依頼を受けた寺山修司が、
古代ギリシアの作家(アリストパネス)の「女の平和」をベースに書き下ろした戯曲ですが、
当時、上演されることはありませんでした。
頻繁に使用されるパイプ椅子を使った舞台美術、
曲から振付、照明や音響にいたるまで、どれも素晴らしく、
ジャージ素材の衣装なんて、もし、ロビーで売っていたら買っていただろうと思うほど気に入りました。
寺山修司のセリフの言い回しやキャラクター設定は、
60年代のアングラ劇団の要素が強い部分もあり、
僕の頭ではついていけないことが多い。
しかし、演出によって、こんなにも爆発的に面白くなるのかと、改めて教えていただき、終始、前のめりでした。
ロシアとウクライナ、
イスラエルとパレスチナ
ジェンダーなど、
まさに今、重なる部分も多く、
本当に60年前に書かれたのかと疑いたくなるほど、
一つ一つのセリフが刺さってくることも多かったなぁ。
疲れ気味で、寝ることを覚悟していたのですが、客席が明るくなった時には元気になっていました。
岐阜新聞の神保さんのことを「給食ソムリエ」と呼び、からかうことがあります。
岐阜県内の学校を巡り、給食を食べる連載していたことがあるから。
その彼女が、「安八町」の給食はレベルが高いと言っていました。
先ほど学校給食センター運営審議会にて「喫食」の際、ふと思い出したのです。
ちなみに「試食」ではなく「喫食」。
なかなか馴染みがない単語ですが、「楽しく食べる」という意味らしい。
ということは「喫茶店」は「楽しくお茶を飲む店」というとになるのでしょう。
校長先生から給食の時間の話をうかがうと、
まだまだ黙食の名残を感じ、
コロナ禍の3年は大きいことを改めて思いました。
5類になって、かなりの時間が経ったように感じますが、まだ10ヶ月も経ってないんですもんね。
さて、教育長によれば、安八町の給食は地産地消に力を入れ、
その影響もあり、
県内で給食費が安い自治体としても知られているのだとか。
本日も、お支払したのは1日分237円で、「安っ」と思わずつぶやきました。
35年以上前、大学時代の学食のカレーの値段なみ。
それでも、近隣の垂井町、神戸町は給食費無償化が始まり、
当町でも町長は段階的な給食費無償化の方向性を公言されています。
人口減少にともない、
子どもの数も減り、
今後は給食運営の在り方も問題は山積みになっていくのでしょう。
写真は本日の小学生の給食のメニュー。
地元で採れたハツシモの米飯給食、
チャプチェ、野菜スープ、人気の唐揚げ(中学生の給食では、唐揚げがひとまわり大きいらしい)、そして牛乳。
現在、牛乳は小学1年生以外はストローがなくなったことも初めて知りました。