残したいものは何なのか
「集めたものではなく与えたものが残る」
私たちが一生を終えて後に残るのは
生涯をかけて集めたものではなく
生涯をかけて与えたものである
「生涯をかけて与えたもの」
その言葉だけでこみ上げるものがある。
集めるんじゃなく、与えられるのでもなく
私から与えられるもの、とは。
(落第予告→落第確定→の、続きです)
大学中退に気持ちが傾いた娘に
「留年でも中退でもどちらでもおもしろいよ」
「人生の選択肢ってたくさんあるのね!」
などという台詞を残して早々と寝た私。
あとから帰宅し娘と話し合った夫の方は
生き方を考え直す最高のチャンスと捉えて
パパは最後まで楽しんで卒業してほしいけど
どうしたいかは全部自分で決めていいよ。と。
"辞めてもいい、続けてもいい"
翌日の勤務中に届いた娘からのLINEは
「留年させてください、頑張ります」でした。
その日駅ビルの本屋で娘とバッタリ。
もう落ち込んではいませんでした。
「興味あること全部やれるだけやると決めた」
薬膳漢方検定やメンタルヘルスマネジメント、
医薬品登録販売者のテキストを持っていた。
考え方や興味の持ち方にDNAを感じる。
病気を治すと決めた頃から始めた勉強。
ネガティブの反対は没頭なのだ。
「入学前に色々やりたいと思ってたのに
周りに流されて何をしたいか忘れてたから
この流れは必然だったのかもしれない」
去年私を襲った一年続いたあの苦しさは
落第してでも立て直すためだったのか。
やっぱり必然だったのかもしれない。
きょうは節分、そんな節目にアロマ会。
"残したいものは何なのか"
愛と光を送ります、届きますように。