こちらの記事の続きとなっております
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キーボーディスト、としての誇り10
さて【F】を克服したことで、俄然面白くなってきたマイギターライフ。当然のようにもうひとつの難関【B♭】も楽々クリアしてもはや敵なし。“カポタスト”なんていう便利な道具も早々に導入してありとあらゆる曲を学校でジャンジャカ・家でもジャンジャカ。
そうなってくるとピアノが疎かになってくるのは当然の成り行きで。ほぼ『レッスンに通うために(仕方なく)練習する』という堕落っぷり。
そんなジャンジャカな日々のなか、所属していたテニス部(はいそこ笑わない)をここには書けない理由により退部、優雅な帰宅部生活も束の間、音楽担当教諭が顧問をしていた吹奏楽部に引っ張られ(あ、音楽の成績はとても良かったのです)、吹奏楽の花形とも言えるトランペッターの座におさまりました。
…でも実は地味ですよね、吹奏楽。
校庭の隅で『プァ〜〜〜〜〜♪』とロングトーンの練習だったり、肺活量増強のために学校敷地の外周を走ったり(文化部なのに)。その憂さを晴らすかのように帰宅後はジャンジャカジャンジャカ。きっと耳障りだったろうな、パパママごめんなさい。
時は流れて中2のある日。
たぶんこれはどこかに書いたので知っている方もいらっしゃるかもしれませんが、発熱により学校を休んでいた(ズル休みではない)ある日のこと。
買い物に出かけるという母が「何か欲しいものある?」というので、どこで知ったのか覚えていないのですが「イエローマジックオーケストラのソリッドステイトサヴァイヴァーっていうLP(当時はアナログ)買ってきて」と朦朧とする意識の中(嘘)伝えたのです。それが果たしてなんなのかもわからないまま。
そして本当に買ってきた母(※3件ぐらい探したそうです)。これが親の望みを大きく裏切る道標になるとも知らずに…それは当の本人も。
幼少の頃から何度も「男のくせにピアノなんて習ってんのかよ〜」と屈辱的な言葉をぶつけられ、蔑まれてきたピアノ=鍵盤楽器が主役になれる音世界がそこにありました。もうA面に針を落とした直後の【トキオゥッ!!】で熱が下がりましたもん。とにかく色々斬新すぎて凄すぎて、何がなんだかわからないまま、熱の下がった翌日にはアルバムジャケットを自転車の前カゴに放り込んで行きつけの床屋に行って「この頭にしてください!!」って言ってしまうほどの衝撃。まだ“テクノカット”という呼び名が付くまえのこと、そして本当は教授の髪型にしたかったのに細野さんになってしまったのは今となってはいい思い出。まあいいでしょう、とりあえずもみあげは青々と剃り上げてもらったし。
前投稿でも触れましたが小2の秋、我が家にエレクトーンがやってきまして。ある日学校から帰ったらいきなりウチにありました。
そりゃ黒光りしたアイツ(ピアノ)よりコイツだ!ってなりますよ。なんたって2段鍵盤+足鍵盤つき、いろんな音色が出せるうえにリズムボックスまでついてるんですから。そんなわけでピアノ道に見切りをつけて(というよりなかばドロップアウト)、エレクトーンに浮気することと相成りました。
同じ鍵盤楽器といえども奏法から何から違うのではじめた当初はそう簡単には行きませんでしたが、この頃になると自分でいわゆる“耳コピ”をしてさらにそれをエレクトーン用にアレンジを加え、少しジョリジョリしはじめたもみあげをさすりながら日々練習に励みました。
それからほどなくして人生初のバンドを組み(当然YMOの真似ごとで)、スタジオで練習したりコンテストに出たり…という今に繋がる活動がスタートしたのでした。
で、ギターはどうなったかって?
これがまた紆余曲折の曲がりくねりっぷりなんですが。
YMOから何故かユキヒロさんのルーツを遡って“サディスティック・ミカ・バンド”に行き当たって。「あれ?この【加藤和彦】ってひと、『帰ってきたヨッパライ』の人じゃん」とか「【高中正義】って、YMOの1枚目でギター弾いてた人だ!」「しかも最近よく流れてるあの曲(※Blue Lagoon)の人?」ってことで、YMOごっこが終了したあとに【ミカバンドごっこ】がはじまりました。というのもさすがに【TAKANAKAごっこ】は敷居が高かったので。家でひとりでごっこしてました。髪をオールバックにしてアロハ着て、なかば無理やり買ってもらったヤマハのSG抱えて(これが最初のエレキギターでした)。
そこからまあまた色々で、最終的にキーボードに落ち着いたっていうところです。
そのあたりについてはいつか気が向いたら書きます。
ああよかった、なんとかキーボードの話でまとまって(ない)
以下画像は2025.04 福島にて
曲の場面ごとにギター弾いたりキーボード弾いたりなのでこんな有り様に↓