知覧にある「富屋食堂・ホタル館」に飾られている、第51振武隊の写真です。

後列左名札に「島仁」の名前を見たとき、
  身体に電気が走りました。
 私たちが、
 今日も目覚めて、
日本という国で新しい一日を始められるのも、
祖国を守ろうと、
命を捧げてくださいました
名もなき英霊の皆さんのおかげです。


 昨日は、神戸で
私が敬愛する知覧の語り部
富屋食堂特任館長・武田勝彦講演会でした。

 主催は、私の友人渡邉和とその仲間たち。


  感動しました。

  先日お亡くなりになった鳥濱明久さんが
そこにいるかのように、武田勝彦に乗り移ったかの如く、英霊たちの声が聞こえてきます。

 涙が止まりませんでした。




 写真は中島一式戦闘機「隼」

 最後に一言ご挨拶させていただく機会に恵まれ、
 光栄に思います。





鹿児島から飛び立った零戦は、

250キロの爆弾を抱えて2時間以上かけて、

沖縄まで飛びます。


護衛もない特攻機は、米軍機の餌食となりほとんど沖縄にたどり着くことはありませんでした。



しかも、

沖縄海域の米軍艦隊の艦砲射撃は熾烈を極め、

特攻機一機に対して4トンの弾が撃ち込まれたといいます。




その雨あられと降り注ぐ弾をかいくぐり、石野さんの操縦する零戦は米戦艦ミズーリに激突しました。


しかし、

爆弾は不発、機体は海に沈み、

石野さんの上半身がちぎれて、甲板に転がりました。






 岡山県出身の19歳、石野節雄二等飛曹


その勇敢さを称え、ミズーリのウィリアム・キャラハン船長は米国海軍の儀式にのっとり、

英雄として水葬としました。



赤と白の布を徹夜して縫い上げ作った日章旗にくるんで・・・



 真珠湾にある戦艦ミズーリの右舷後方には石野節雄さんの零戦がぶつかった跡があり、

彼の水葬様子が記されています。






私は、ハワイでそれを見るまで知りませんでした。



私たちは、本当のことを知らない。


それは、

本当のことを知らされていないからです。





 19歳の特攻隊員が、命に代えても守ろうとしたものは何だったのでしょうか。


「犬死」


「無駄死に」


そんな風に言われたら、護国のために散華された英霊たちはどんな思いがするでしょう。




 自分の未来を後に来るものに託し、御国のために笑って死んでいった若者たちを侮辱することは断じて許されません。




石野節雄さんの声が聞こえました


僕たちを可哀そうだなどと言わないでください。よくやったと言ってやってください


 講演会で私のすぐそばに石野節雄さんがいるような気がしました。



そして、それを会場の誰もが感じられるようなひとときででありました。




 

 どうぞ神様、私が願うことではなく、

 あなたが私に願ってくださることを、

 私に為さしめてください。

    と祈ります。




ところで、

靖国神社で正式参拝をするときには自分の名前と、祀られている英霊の名前を書く欄があるのですが、

私は、


「島仁 命 (しまひとしのみこと)」


と書きます。





仲良しの光田なおこさんのメールマガジン、

(引用ここから)



知覧の平和記念館に来たかった理由があります。

イスラエル旅行以来仲良くさせていただいている三重の赤塚高仁さん。


ある方から、かつて赤塚さんは特攻隊員として、この知覧から飛び立ち、いのちを落とした青年だったと言われたことがあるそうなのです。


実際にそれを確かめるべくこの平和記念館に来たら、彼女に言われたとおり「島 仁(しま・ひとし)」という名前と写真が。


それまで赤塚さんは、スピ系の話題とか輪廻転生について、ちょっと懐疑的な気持ちが大きかったそうですが、疑おうにも、現実に彼女に言われた通りの名前が記念館にあったわけですから、それ以降、赤塚さんは彼女が言う不思議系のお話にもちゃんと耳を貸すようになったそうです。


そんなエピソードを以前、赤塚さんから聞いていたこともあって知覧に行くチャンスがあれば、是非その「島 仁さん」の写真を私もこの目で見たいと思っていました。



こんなに近い転生の証明なんて、そうそう無いですし、探そうと思えば、島仁さんのご遺族にもたどり着けるほど距離も時間も近いわけですから。


事前に赤塚さんに電話して「入り口入って、右側のコーナーに沿ってずっと歩いた一番最後のあたりにあるよ」と聞いていました。



1036名分の写真と遺品や遺書が並んでいますから、もしその情報を知らずに来たらとても探しきれなかったでしょうが、言われたとおり、ずんずん奥まで歩いていった突き当たりのコーナーに確かにありました。



島仁さんの顔写真。


島さんは第51振武隊。

敗戦の色も濃くなりつつあった昭和20年5月11日早朝、6人の特攻隊員とともに海に散っていました。


まだ19才という若さで。


島さんの写真、他の隊員の写真と違い、少しピンぼけ気味でした。




でも、不思議なことに、赤塚さんにどことなく似ています。


面長で、目鼻立ちの感じ、目から下が少し長い感じのところなんて、そっくりです。


年表をみると、昭和20年の春以降は、ほぼ毎日のように特攻隊員が旅たち、そして、いのちを落としています。


物資が枯渇してとてもまともな飛行機など作れる余裕のなかった終戦間近の日本軍。


整備不良の飛行機も多く、また神風特攻隊の動きは、すでにアメリカ軍に読まれていましたから、アメリカ軍機に突っ込む遙か前の段階でほとんどの特攻機は撃ち落とされてしまったと言われています。



実際に特攻隊の役目を果たして亡くなった人より、実は、虚しい精神論の延長線上で多くの若い命が空に消えてしまっていたわけです。



そのあたりのことは是非「永遠の0」で。





島さんに話題を戻すと、島さんの少しはにかんだような笑顔の写真を見ながら、私はなんだか不思議な感覚を憶えていました。


今更、「もし」を何度繰り返しても、それは決して起こらなかった過去ではありますが、もし、島さんがこの日、特攻隊員としていのちを落とさず終戦を迎えていたら、島さんは地元に戻って就職をし、結婚をして子どもをつくり・・・と、ごく普通の男性としての経験をして、一生を終えていたような気がします。



となると、当然ですが、赤塚高仁という人物として生まれ変わることはなく、たとえ1959年に赤塚家に長男が生まれていたとしても、全く別の魂を宿した全く違ったキャラクターの少年、青年として赤塚さんは成長したと思います。



そうなると、赤塚さんを取り巻く人たちとの関わりも大きく変わり、私も赤塚さんと知り合うこともなく、それ以前に、あのイスラエル旅行もなかったでしょう。


私の人生も大きく変わったものになっていました。


あのイスラエル旅行がきっかけで次なる出来事が起こってきたわけですから。



変な表現ですが、あのとき、特攻隊員として島仁さんが亡くなったからこそ、私の人生が「今の状態」になっているわけです。



赤塚さんによると、島仁さんと赤塚さんには様々な共通点があります。


まず名前。


赤塚さんの「高仁」には島さんの「仁」という一文字が使われています。


島仁さんの魂を宿していなかったら「仁」という字ではない名前が付けられていた可能性もありますが、この共通点は分かりやすくて、とても面白い。


さらに、赤塚さんの大学時代のニックネームは何故か「志摩」でした。


大学時代の友人はいまでも赤塚さんを「しま」と呼んでいます。



顔や名前だけではなく、精神的な部分でも、赤塚さんの前世が特攻隊員だったとしても全く不思議はありません。


すぐに「納得します」と言えてしまうほど赤塚さんは「戦前のムード」を持っています。


靖国神社にもよくお参りに行っていますし、海外でのツアー中は、日の丸のTシャツを着て、日の丸を掲げながら歩いてもいます。


教育勅語も暗唱してますし、日本の神話の世界、神道の力をもう1度、日本に甦らせたいと様々な活動もされています。



島さんが「こんな日本にするために自分は死んだわけじゃない」と、魂の中の島さんの部分が赤塚さんを揺り動かしているんじゃないかと思えるほどです。


私自身は、島仁さんと赤塚高仁さんが繋がっていることに、全く疑いを持っていません。



もしかしたら、他にもたくさん、この日本に転生してきて、今の日本のために働いているかもしれませんね。

(引用ここまで)



 島仁さんが19歳の春、

511日に乗って行った特攻機は「隼」

糸川英夫が設計したものです。



また、島さんの第51振武隊の結団式の写真が知覧の特攻平和祈念館にあります。

伊勢です。

二見の夫婦岩の前で集合写真が撮られています。



 信じるとか信じないとか、

もはやそんな次元でなく、

ひとは生まれ変わり、

死に変わりしてこの世に生かされています。


過去世の宿題もあることでしょう。


課題もあることでしょう。


そして、それを果たすために出来事もやってくるのです。



 この世に生まれた意味なんて自分にわかりません。


でも、

生まれた意味があることはわかります。


その答えは探す必要もないと思うようになりました。


答え合わせは、最後の最後でいいですね。



 靖国神社の御正殿の大きな御鏡の前に額づいて、赤塚高仁が英霊の代表、島仁命に祝詞奏上していただくとき、

時空を超える感覚があります。


言葉にできない不思議な感覚です。


 ふと目をあげると、明治天皇の書かれた御製が・・・



「我が国の為をつくせる人々の

  名もむさし野にとむる玉垣」



この次、東京に行ったら靖國へ

 そして八千代食堂で玉子丼を食べて

少し泣こう。