出雲の旅を終えて帰ってきました。


 一つ旅すると、

心が大きくなる。


  そしてなによりも、

 友だちとの間柄が深まる。


   旅すると、

  余計なものを持ちたくなくなります。


    ひらりと軽く、

  いつも旅立てるよう


   絶えず


人生の新陳代謝をしていたいものです。

   
   「持つこと」に喜びが得られた時代を経て、
 「持たないこと」が嬉しい年ごろになったようです。

 

「持つこと」によって得られる嬉しさ以上に、

「持たないこと」によってもたらされる心地よさのほう

が、はるかに大きいと気づくのはしあわせです。


日常からふと離れて、

非日常の中に身を置くとき、

「人生」を考えるひとときがやってきます。


人は、日常にあれば、

人生を問うことなど思いもよらず、

人は、人生を問えば、

日常がたちまちにして色あせてゆくのです。

だから、

知らず知らずのうちに、

ずっとその問いを避けていたにちがいないのです。


けれど、

私たちは知っています。

日常と人生、それを分けることなどできるはずもないことを。

日常と人生は不可分。 

ならば、

日常の中に人生を見つけ出してみようか。



日常が心地よければ、人生は心地よい。 

だとしたら、

日常の心地よさの源はどこにあるのだろう。


  旅に出て、そう自分に問いかける。

「居心地のよい生活とは、どんなものから得られるのだろう」


暮らしに、

何があって、何がないと居心地がよくなって、

何を持つと、何を持っていないことが、

居心地を悪くしてしまうのか。


「ある」ことによって得られることばかりを追いかけていた私たちに、気づきがやってくる。

「ない」ことによってもたらされる居心地のよい生活があることを。


  家電が溢れた家に、

  クルマまで電気で走らせようと言う。

だが、電気が足りないから節電せよとTVは叫ぶ。


   おかしい


 立ち止まって、日常を見てみよう。

   解像度を上げよう。

 



 溜めこみ屋さんは過去と未来に生きているのです。

過去も未来も、エネルギーの場ではありません。 

エネルギーは「今」」につながったとき流れてくる一瞬の調和だから。


私はしばしば

「人は何のために生まれてきたのだろう、どうせ死んでしまうのに? 」

と考え込むことがあります。

  まだ、答えはわかりません。

でも、

そんなことは生まれる前によく考えておくべきこと。

もう生まれてきてしまったのだから、死ぬまで生きていかなければならないのです。


  人生とは、

気がついたら、

始まってしまっていたのです。


巨大なショッピングモールで列をなし、安売りによって手に入るのは、切に願っていた夢が叶うのでなく、普段よりいくばくか、あるいは大幅に安い価格の日常の必需品。

モノが手に入ったというよりも、「安く買えた」という体験が得られたにすぎません。

安く買えたという体験は、お得感とツキ感を刹那的に与えてくれます。 

私たちはそんな手軽な「得」と「ツキ」にこだわり、しがみつくことになってゆきます。

 まるでアル中のように。

得とツキの囚われには、自分自身はツイてないという思いこみがガッチリある。

だから、いつも得すること、ツクことでモノゴトをみてしまいます。

どうやら、そこには平安はないようです。


小さな「ごきげん」をみつけましょう。


「ごきげん」探しの達人になりましょう。


囚われている観念から離れるには、手放すに限ります。

 

「引き算」のある暮らしは、

風通しのいい「心」と「時間」と「空間」を生む。


  旅する時間はこうして生まれるのです。

そして、人生の宝である、良き友を得ます。