憤りを発して食を忘れる(論語・発憤忘食)と、妄想する勿れ(禅語・莫妄想)。この二つの古語を物差しに、昭和の終わりから平成の終盤にかけて、永田町に25年ほど身を置いた経験から、昨今の政治状況についてプラス面・マイナス面の双方から検証してみた。

はじめに、二つの古語

論語の述而篇に名高い一節がある。楚の葉公が子路に孔子の人柄を尋ねたが、子路は答えられなかった。これを聞いた孔子は言った。「お前はなぜこう言わなかったのか。その人となりは、憤りを発して食を忘れ、楽しみて以て憂いを忘れ、老いのまさに至らんとするを知らざるのみ、と」。学問と道の探究に没頭するあまり食事を忘れ、老いの迫ることにすら気づかない。これは、後世「発憤忘食」と呼ばれた有名な逸話だ。

 

いま一つは禅語の「莫妄想(まくもうぞう)」である。唐代の無業禅師は、誰が何を問うても「妄想すること勿れ」とのみ答えたと伝わる。根拠なき思い込み、ありもしない幻影に心を奪われるな、目の前の現実をあるがままに見よ、という峻厳な戒めである。

 

当方は、昭和の終わりから平成の終盤近くまでおよそ四半世紀にわたり、国会議員秘書として永田町に身を置いた。その際の経験を踏まえ、この二つの古語を物差しに、現在の政治状況をプラス面とマイナス面の双方から論じてみたい。

令和の政治のプラス面 ― 可視化と開放

まず、令和の政治が昭和・平成より明らかに前進した点を挙げる。昔は良かったが、今はダメだ、などということを言うつもりは毛頭ない。平等に評価したいと思う。

 

第1に、政治活動の可視化である。かつての永田町では、政治の中心は料亭と派閥にあった。国民が知り得る情報は、記者クラブという閉じた回路を通した新聞とテレビニュースに限られていた。今日、国会審議はネットで全てが中継され、議事録も速やかに公開される。政治家は自らの言葉でSNS等で直接発信する。政治家の行動はかなり正確に把握できるようになった。

 

第2に、政策情報の透明化である。秘書時代、一つの政策課題を調べるためにも国会図書館に通い詰め、各省の記録を一頁ずつ繰った。今日では、政府の一次データの多くがオンラインで公開され、データを伴わぬ政策論は通用しにくくなった。政策を論じたい場合は、誰でも一次資料に当たり、政府の説明を検証できる。民主主義の足腰は強くなった。

 

第3に、政治への参加の多様化である。世襲と派閥力学が支配したかつての候補者選定に比べれば、公募や政治塾を経た人材、地方議会や民間からの転身者が増え、女性の宰相も誕生した。当選回数と派閥の論理だけでは説明できない人事も、随所で行なわれるようになっている。まだまだ不十分とはいえ、これは方向性として正しい変化と評価したい。

令和の政治のマイナス面 ― 妄想の政治と没頭の喪失

しかし、良い面ばかりではない。影もまた濃いと言える。皮肉なことに、プラス面を生んだ同じ技術が、最大のマイナス面をも生んでいる。

 

第1に、「妄想政治」の蔓延である。切り取り動画、文脈を剥ぎ取った引用、根拠なき陰謀論が、検証を経ぬまま拡散し、ときに選挙結果すら左右する。発言の一部を恣意的に編集した動画が、攻撃材料として一瞬で広がる。無業禅師が「莫妄想」と一喝した、幻影に心を奪われる状況の中で、事実に基づかない批判が、事実に基づく批判の信用まで毀損している。

 

第2に、熟議の衰退である。国会質疑が、政府を質し政策を磨く場ではなく、SNSで拡散される見せ場を作る場へと変質しつつある。昭和や平成の時代は、一つの質問のために役所と何日も折衝し、答弁の逃げ道を塞ぐ準備に没頭した議員も多かった。質問は、調査の集大成であったが、今日の週刊誌やSNSの切り抜きに最適化された質疑にはその痕跡はない。

 

第3に、「発憤忘食」の気概喪失である。かつての永田町には、毀誉褒貶はあれども、一つの立法のために、食を忘れ、夜を徹して条文を練る政治家が多くいた。彼らを動かしたのは、支持率でもいいねの数でもない。この国を良くしたいという憤りからであった。今日の政治家は、政敵の言動とSNSの批判に重きを置き過ぎており、これが政治を小さくしている。

 

第4に、結論を急ぎすぎる傾向である。日々公表される支持率や市場の反応に一喜一憂し、10年、20年の時間軸を要する政治課題、人口減少、安全保障環境の構造変化、技術覇権競争などで、腰の据わった取り組みが行われていない。常に選挙の都合が優先し、あらゆるものが可視化され過ぎた結果、政治の視野が狭くなってしまった。

最近の事例から学ぶ

そこで、具体例に即して問題点を指摘したい。現在国会では、中傷動画問題が取り上げられており、高市陣営の関与が疑われ、野党側は中傷動画で選挙に負けたと気色ばんでいる。

 

だが、事実を冷静に見れば、動画を作成したと言われる当事者が、「依頼という形ではなかった」と述べ、高市陣営のプラスになると自ら判断して主導したと明言していることから、疑惑の核心である「依頼」と「指示」は、当事者の証言によって否定されている。

 

では、「接触」はどうかというと、高市首相は国会で、秘書が昨年、信頼できる人物の紹介を受けた企業とのグループオンライン会議に参加し、国民の声を広く聞くために検討している企画の紹介を受けたこと、すなわち会議への参加は認めている。

 

その上で、報じられた音声が仮にその場のものだとしても、その会議は中傷動画を依頼する場ではない。音声についても秘書自身が、「自分の声に似ているように思うが、編集で発言が細切れにされており、内容も含め確信が持てない」と説明している。

 

複数人が参加する会議で、企画の紹介を聞いただけの相手への認識が薄いのは、むしろ自然なことであり、名刺交換も対面もしていないと先方が認めていることから、「面識がない」という説明は何ら矛盾しない。

 

こうして双方の説明を重ねれば、「依頼」と「指示」は作成者本人が否定し、「接触」の実体は別目的のグループ会議への参加にとどまる。それにもかかわらず、「高市側の関与で選挙に負けた」とまで断ずるのは、概念のすり替えにほかならない。

 

当事者の証言で都合の良い部分のみを切り取り、疑惑を語り続けるメディアや野党の手法は、感心できるものではない。そもそも、総裁選においても、衆院選においても、高市サイドがそこまでの危険を冒して工作を仕掛ける必然性は、乏しかったはずである。

 

誹謗中傷の被害ということであれば、高市首相自身の方が常にその最上位に置かれてきた。国を貶めている、不正な選挙で日本を誤った方向に導いている、独裁体制を敷いている、高い支持率は操作された結果など、聞くに堪えない罵詈雑言がネット上には溢れている。

 

しかし、当の本人から、相手を誹謗するような言動は、今まで一切見られていない。誹謗中傷が行われたと主張する側が、その最大の標的に対して、検証もなく断定的に誹謗中傷を浴びせるのであれば、その論理は破綻している。

 

また、レッテル貼りの応酬も問題だ。一方は批判されれば「ネトウヨが騒いでいる」と喚き、他方は「パヨクが喚いている」と騒ぐ。このようなレッテル貼りは、相手の主張を検証しないごまかしであり、思考停止の最たるものだ。その結果は、政治の劣化につながる。

 

視線を国外に転じれば、逆の構図である。高市政権は、発足直後から各国首脳との会談を矢継ぎ早に実現し、信頼構築を重ねてきた。米中首脳会談において、習近平国家主席が高市首相を名指しで批判した際には、トランプ大統領が「首相は素晴らしい指導者だ」と真っ向から擁護し、訪中を終えるや直ちに機中から首相に電話を入れて会談内容を共有した。

 

同盟国の大統領が、対立する大国の首脳の面前で日本の宰相を庇う。これほど分かりやすい国際的評価があるだろうか。国の外で、ここまで評価を高める政権を、国内では検証なき断定とレッテル貼りで、足を引っ張っているという現実がある。

首相サイドの脇の甘さにも課題

ここまでは、追及する側の手法を批判してきたが、検証の物差しは高市首相サイドの脇の甘さにもある。この点についても指摘しておきたい。

 

高市首相の宰相像は、従来の古いタイプのそれとは全く異なる。やるかやらないか、良いか悪いかをはっきりと言い切り、素早く決断して行動する。この明快さが有権者に受け入れられ、高い支持率につながっていることは大いに頷ける。

 

だが、その一方で、入念な根回しや、万が一に備えた二重三重のガードが十分に張られているようには見えない。今回のケースが図らずも示したのは、まさにその隙である。「首相の周辺にいれば商売になる」と暗躍する胡散臭い人物が近づいてきたとき、それを入口で弾く備えがなければ、真面目な事務所ほど簡単に付け込まれてしまう。

 

政権がこれから本格的に進める成長戦略は、桁違いの資金が動く領域であり、利権を狙って群がる者の数も質も、総裁選のSNS戦略の比ではない。脇の甘さを放置したまま大型の政策を回せば、いずれ今回より深刻な形で足元を掬われかねない。

 

足元を掬われれば、支持率は一気に急落し、高市下ろしが噴き出す可能性は高い。逆にここで守りを固めきれば、次の総裁選は無投票での再選すら視野に入る。分水嶺は、政策の成否そのものではなく、足元の備えにあると見ておくべきである。

 

もう一つ付け加えたい。真面目で直向きな姿勢は大いに評価するが、正面突破ではどうにもならない局面(例えば現在の中国との関係のような局面)においては、搦め手を含めてどのような手を講じるかが、日本の宰相としての大きな課題である。

 

俗に「人が良いのも阿呆のうち」と言う。一人でやれることには限界がある。武田信玄の歌と伝わる「人は城、人は石垣、人は堀」ではないが、しっかりとした人間関係を築き、二重三重に守ってもらえる「人の石垣」を組み上げることが、この異色の宰相に最も足りない部分であり、最も取り組まねばならない仕事である。

問題の解決へ向けた姿勢は?

最後に、政治家には、「発憤忘食」の姿勢を求めたい。憤りを発するなら、国家百年の課題に対して発せよ。食を忘れるほど没頭すべきは、政敵への反論ではなく、政策の磨き上げである。SNSは手段であって、政治家の本分ではない。昭和の密室政治を美化する気はないが、あの時代の政治家が持っていた政治家としての矜持は、引き継がれるべき遺産である。

 

その上で、「莫妄想」も求めたい。切り抜き動画や記事で騒ぐ前に、議事録や批判すべき相手の発言などに当たる労を取るべきだ。令和の最大の進歩は、誰もが一次資料に到達できることにある。その便利な手段を使わず、妄想を拡散するのなら、昭和の密室政治を笑う資格はない。検証の習慣を持つ者だけが、検証に耐える政治家を育てることができる。

 

再度、高市首相にも触れたい。首相は自らが掲げる政策の実現のため、進退を賭けて総選挙に踏み切り、その結果が歴史的な大勝につながった。ここまで言い切り、やり切れる胆力を備えた政治家は、長いこと永田町を間近に見てきたが、そう多くはいない。

 

選挙に敗れた野党が「多数の横暴」と喚いたところで、民主主義は結果が全てである。選挙で多数を与えられた者には、公約を実現する責任があり、それを果たすことこそが、約束を交わした有権者への誠意ある対応である。

 

進退を賭して政策に挑む姿は、まさに発憤忘食に通じる。雑音にブレることなく、最後まで初志を貫いてもらいたい。検証なき断定には事実で応え、脇は固め、そして掲げた公約をやり切る。その先に、令和の政治の新たなスタイルが生まれるといって良いだろう。

 

孔子は、政治の理想を問われて多くを語ったが、その本人の姿は「憤りを発して食を忘れる」探究者であった。禅師は千言を費やさず「莫妄想」とのみ言った。没頭せよ、そして妄想するな。令和の政治に必要な処方箋は、案外この二語に尽きるのかもしれない。

 

 

 

近年のAIの進化には、まさに目を見張るものがある。文章の作成、情報の収集、プログラムのコーディングに至るまで、かつては専門家の領域とされていた作業が、いまや誰の手でも、しかも驚くほどの速さでこなせるようになった。だが、その便利さの裏側で、いま静かに広がりつつある「落とし穴」がある。AIに何もかもを委ね、出てきた答えをそのまま鵜呑みにしてしまうという使い方である。

 

日々の業務の中で複数のAIを用途ごとに使い分けながら仕事をしているが、その実践を通じて理解したのは、現時点におけるAI活用の最適解は、「AIに頼り切ること」でも「AIを遠ざけること」でもなく、人間とAIが互いの強みを持ち寄るハイブリッド型の活用にあるということである。そこで、具体的な方法と避けるべき使い方についてを考えてみたい。

万能のAIは存在しない

最初に押さえておくべきは、「すべての分野で最強のAI」などは存在しないという事実である。各AIには、それぞれ得意とする領域や固有の性能がある。総合病院に内科や外科の専門医がいるのと同じで、AIにもまた専門性の濃淡があると考えれば分かりやすい。

 

それにもかかわらず、一つのAIだけを使い続けている人は少なくない。慣れたツールを使い続けたくなる気持ちは分かるが、これは機会損失でもあり、危うさにもつながる。

 

一つのAIに偏れば、そのAIの癖や弱点、思考の偏りまでもが、そのまま自分の成果物に乗り移ってしまう。そのため、できるかぎり一つに偏らず、複数のAIを横断して使うことが、賢い活用の出発点である。

 

次に強調したいのは、AIが出力したものを100%信じ込み、精査もせずにそのまま公開したり、人に伝えたりしてはならないということである。AIは、もっともらしい顔をして、事実と異なることを語ることがある。文章は流暢で説得力があるから、誤りに気づきにくい。

 

出力された内容を一読して「よくできている」と感じても、そこに含まれる数字や固有名詞、因果関係が本当に正しいのかは、別の話である。公開を前提としたものであれば、なおさらのことである。

 

最終的に内容の正確性を担保する責任は、AIではなく、それを世に出す人間の側にある。これを忘れてはいけない。この一点は、いくらAIが進化しても変わることはない。

基本動作は「まず自分、次にAI」

では、具体的にどう使うのか。当方の使い方を参考例に説明する。一言でいえば、「まず自分の考えを示し、その後にAIを動かす」という作業を基本に置くべきだ。順序にはこだわらない。むしろ、整然と組み立てようとせず、頭に浮かんだ順に、考えうる限りの論点を箇条書きにしていく。

 

この「思いつくままの書き出し」が、後の文章の骨格になる。自分なりの視点を一度すべて吐き出したうえで、その内容の裏付けとなる情報やエビデンスをAIに集めさせる。そうして集まった根拠を自身の考えに加えながら、章を組み立てていく。

 

そして、書き上げたものを、今度はAIに点検させる。文脈は通っているか、論理に飛躍はないか、抜け落ちている観点はないかなどをAIに洗い出させ、修正を重ねていく。このとき大事なのは、点検作業を、できれば属性の異なる二つ以上のAIにやらせることだ。

 

一つのAIに点検させただけでは、そのAIの偏りや癖を見逃してしまう。性格の違うAI同士をぶつけることで、はじめてAIが書き漏らした死角も浮かび上がってくる。

 

当方の実際の使い分けを紹介しよう。専門的なレポートを作成したいときは、その分野に強いOpenAIを使う。一方、ブログやコラムのように、読者にとって読みやすい形の文章を作りたいときには、Claudeを使うことが多い。議事録的なものをまとめるときは、Gladiaを使い、その後Geminiで整理する、という具合である。

 

プレゼン用の資料を作るときは、顔ぶれがぐっと広がる。Gamma、NotebookLM、Genspark、Felo、Gemini、Claude、そして最近ではOpenAIと、その時々の狙いに応じて使い分けている。さらに必要に応じて、文脈の評価や、内容に欠落がないかを調べる工程で、また別のAIを使うこともある。

 

要は、それぞれのAIの個性を理解したうえで、適材適所で割り振っているということである。一つの道具にすべてを任せるのではなく、複数の道具を組み合わせて、一つの成果物を仕上げていく。この感覚を持てるかどうかが、活用の質を大きく左右する。

 

アイディアに行き詰まり、何を書けばよいか悩むこともある。そんなときは、そのヒントをAIに探してもらうことがある。ただし、ここでも丸投げはしない。ヒントをきっかけにアイディアが浮かんだら、先ほどと同じように、まずはその問題に対する自分なりの考え方を、考えうる限り、浮かんだ順に箇条書きにする。そのうえで、それらの視点を踏まえた文章を、AIに整理した形で出させるのである。

 

プログラムの作成も、考え方の根っこは同じだ。AIにも得意・不得意があるから、必要に迫られてプログラミングをする際も、いきなり整然と順序立てようとはしない。まずは思い浮かぶ限りの「やりたいこと」を箇条書きにする。それを一度AIに整理させたうえで要件を確定し、それからコーディングに入る。この手順を踏むことで、手戻りが格段に減る。

主役は、あくまで人間である

ここまで述べてきたことの根底にある考えは、ただ一つである。AIが導く答えの中に、しっかりと自分の考えを入れること。そして、自分の考えに基づいて、反論も検証しながら、自分なりの文章やプログラムを作り上げることである。

 

AIの進化が著しいとはいえ、AIが100%正しいという世界には、まだ遠い。そして、アイディアの出し手としては、人間の方が無限大の可能性を秘めていると思う。一方で、AIは世界中のネット上に公開された膨大な情報を学習しており、公になっている知識に関しては、人間一人の何十億倍も賢い。ならば、この両者をハイブリッドに使うことこそが、今の時点での最適解ではないだろうか。

 

AIに100%頼り切っていれば、成果物からオリジナリティは失われていく。誰が使っても同じような、のっぺりとしたものしか生まれない。AIは、自分のアイディアを磨き上げるためにこそ活用すべきものなのだ。その使い方を確立できている人こそが、これからのAI時代の勝ち組になっていくだろうと確信している。

 

こうした手順を積み重ねてこそ、最適解であり、創造力とオリジナリティに満ちた、世界でただ一つの自分の作品——ほかの誰にも作り得ないレポートやプログラムが出来上がる。ここまで手を尽くして仕上げたものであれば、その著作権は作成者にあると言ってよいだろう。

 

インターネットが出現し、世界中のあらゆる情報に誰もがアクセスできるようになったとき以上の可能性が、いま、AIを通じて広がり始めている。AIに使われるのではなく、AIを使いこなす。その分かれ道は、案外すぐそこにあることに気づくべきだ。

 

 

 

日中の経済を比較するとき、いまだに「中国は巨大で、日本は停滞している」という古い構図で語られることが多い。確かに規模だけを見れば、中国は依然として圧倒的である。IMFの2026年見通しでも、中国の実質成長率は日本を大きく上回る。

 

しかし、問題は成長率の数字そのものではない。重要なのは、その成長が持続可能な内需、雇用、民間投資、社会の安心感に支えられているかである。IMFは2026年の成長率を、中国4.4%、日本0.7%と見込むが、この数字だけで両国の基礎体力の変化は読み切れない。

作る力は強く、買う力が弱い中国経済

中国経済の最大の問題は、見かけの成長と実感の乖離である。中国国家統計局の発表では、2026年1〜4月の工業生産は前年同期比5.6%増、高技術製造業は12.6%増と好調である。

 

一方で、小売売上高は1.9%増にとどまり、固定資産投資は1.6%減、不動産開発投資は13.7%減、民間投資も5.2%減となっている。

 

しかも、4月単月の小売売上高は0.2%増とほぼ横ばいにとどまり、市場予想を下回った。つまり、中国は「作る力」はなお強いが、「買う力」と「投資する力」が弱っている。

 

この乖離は、企業収益との対比でも際立つ。同じ1〜4月の工業企業利益は、前年同期比18.2%増と収益面はむしろ改善している。供給側は堅調なのに、需要側がそれに追いついていない。これが、いまの中国経済を貫く構図である。

 

ここに、習近平体制の政策上の限界が表れている。問題は、単純に「習近平が経済を理解していない」ということではない。経済運営の優先順位を、民間活力、消費、雇用の回復よりも、国家主導の産業育成、安全保障、自立自強に置きすぎたことが問題なのである。

 

AI、半導体、EV、ロボットなどへの集中投資は、国家戦略としては理解できる。しかし、それが過剰供給、価格競争、民間部門の萎縮、若年雇用の悪化を伴うなら、成長戦略は社会不安の温床にもなる。

若者の雇用に表れる構造矛盾

中国の若者雇用は、その矛盾を鮮明に映している。2026年の大学入試「高考」の出願者は、前年から45万人減り、1,290万人となった。ただし、これを、学齢人口の縮小と捉えるのは正確ではない。2026年に高考を迎える世代が生まれた2008年の出生数は約1,608万人であり、前後の年をむしろ上回っている。

 

減少の主因は、浪人(復読)を選ぶ若者の割合が下がったこと、職業教育への分流が進んだこと、留学が増えたことなどにある。とりわけ、大学を出ても良い仕事に就けないため、浪人してまで名門を狙う合理性が薄れたことは見逃せない。

 

中国の教育関係者の間では、高校学齢人口のピークは2029年ごろで、出生数が急増した2016年世代が高考を迎える2030年代半ばに、受験者数が再び増えるとの見方もある。足元の減少は、人口構造の転換ではなく、若者の進路選択の変化を映したものと見るべきだ。

 

その進路選択の背後にあるのが、深刻な就職難である。中国では16〜24歳の若年失業率が16%を超え、2026年には過去最多級の1,270万人の大学卒業者が労働市場に出ると報じられている。しかし、その多くが就職難に喘いでおり、寝そべり族といわれる若者も増えている。失業率は実際にはもっと悪いのではないかと、公表値そのものにも懐疑の声すらある。

AIが若者の入口を狭めるリスク

AIの加速は、この問題をさらに複雑にする。AIは本来、生産性を高め、単純作業を減らし、高付加価値分野を伸ばす技術である。しかし、中国のように若年層の就職難が深刻な国では、AIは「新しい雇用を生む技術」であると同時に、「若者が最初に経験を積む入口」を狭める技術にもなり得る。

 

事務、翻訳、営業補助、カスタマーサポート、基礎的なプログラミング、データ処理などは、まさに新卒・若手が担ってきた分野である。IMFは、AIが世界の雇用の約4割に影響し、先進国では約6割の雇用が影響を受ける可能性があると指摘している。

 

実際、中国では16〜24歳だけでなく、25〜29歳の失業率も2026年3月に7.7%へと上昇し、統計改定後で最も高い水準となっている。一部の市場関係者は、その背景に、労働市場の悪化に加えて、AIの普及があると指摘している。

日本の課題は、「仕事の不足」ではなく「人の不足」

一方、日本の課題は中国とは逆である。日本には仕事がないのではない。人が足りないのである。厚生労働省と文部科学省によれば、2026年春に卒業した大学生の就職率は、4月1日時点で98.0%に達し、調査開始以来2番目に高い水準となった。

 

卒業前の段階でも、内定率はすでに9割を超えている。リクルートワークス研究所の2026年卒の大卒求人倍率は1.66倍で、前年(1.75倍)からは低下したものの、依然として学生優位の市場が続く。とりわけ従業員300人未満の企業では8.98倍と、約9社で1人の学生を奪い合う極端な人手不足となっている。

 

この売り手市場は、若者にとっては好材料である。しかし、社会全体で見れば、深刻な供給制約でもある。建設、物流、介護、観光、外食、農業、地方製造業では、人手不足が成長の足枷になりつつある。

 

日本ではAIが雇用を奪うというより、むしろ人手不足を補うためにAIを使わざるを得ないことになっている。中国におけるAIは「過剰な若年労働力との競合」になりやすいが、日本におけるAIは「不足する労働力の補完」になりやすい。この違いは決定的である。

見え始めたデフレ脱却と成長戦略の課題

高市政権下で日本経済は、デフレ脱却に向けた政策の形が見え始めていると言って良いだろう。政府の2026年度経済見通しは、実質GDP成長率1.3%、名目GDP成長率3.4%、消費者物価上昇率2%程度を掲げ、民間消費と設備投資の増加を見込んでいる。

 

失業率が2.4%程度まで低下し、GDPデフレーターは2.0%上昇していることから、政府が、名目成長、賃上げ、投資拡大を軸に経済を動かそうとしていることは明らかである。

 

もちろん、高市政権の成長戦略が成功するかはまだ分からない。AI、半導体、造船、防衛、宇宙、量子、バイオ、コンテンツ、観光、地域産業クラスターといった重点分野は、方向性としては妥当だが、補助金を配るだけであれば産業が育つのは難しい。

 

規制改革、電力・エネルギー供給、人材育成、スタートアップ資金、地方大学との連携、公共調達の改革まで、一体で動かせるかが問われる。ロイターも、日本企業の設備投資は、地政学リスクで一時鈍化しているとする一方で、省力化・生産性向上投資への需要は残っており、政府は半導体や造船など戦略分野への投資促進を進めていると報じている。

株高をどう読むか

株高についての評価も考える必要がある。日経平均は2026年6月3日に史上初めて6万8千円台に乗せ、終値は6万8,402円となった。AI・半導体関連株が相場をけん引し、その2日前の6月1日には、ソフトバンクグループの時価総額がトヨタ自動車を抜き、国内首位となった。

 

ソフトバンクが、終値ベースでトヨタを上回るのはITバブル期の2000年以来であり、国内首位は1998年の上場以来初である。これは、ものづくりの象徴から、AI・投資主導の評価軸への交代を映す象徴的な出来事ともいえる。

 

ただし、この上昇は一部の値がさ株への極端な集中によるものでもある。2026年4〜5月の日経平均の上昇は4銘柄が主因で、TOPIXを12ポイント上回り、日経平均をTOPIXで割ったNT倍率は17倍前後と過去最高圏に達した。

 

5月半ば時点では、アドバンテストと東京エレクトロンの2銘柄だけで、年初来の上昇幅の約3割を説明できる状態であった。そのため、現在の株高は、日本経済全体への全面的な信任というより、AI・半導体・円安・財政期待に集中した結果という人もいる。

 

かつての日本株は、低成長、低インフレ、低賃金、企業の内部留保、資本効率の低さを反映したものであった。しかし、今ではその評価の軸が変わったと言って良い。少なくとも海外投資家は、現在の日本に再評価の余地があると見始めている。そのため、今後も株価の上昇は続く可能性が高い。

 

高市政権への市場の期待は、積極財政そのものではなく、デフレ心理を壊し、名目成長を取り戻す可能性に向けられている。一方で、円安、長期金利上昇、財政規律、エネルギー価格が同時に悪化すれば、株高は一転して急落するリスクもあると考えるのが、現時点での正しい見方であろう。

人口減少が持つ意味は日中で異なる

人口問題では、日中双方に重い課題がある。日本はすでに少子高齢化の先進国であり、2024年の出生数は68万6,173人、合計特殊出生率は1.15まで低下し、いずれも過去最低を更新した。これは社会保障、地方経済、防衛力、教育、住宅、消費市場のすべてを制約する。

 

中国も人口減少局面に入り、2024年時点で人口は3年連続で減少した。死亡数が出生数を上回り、労働力縮小と高齢者扶養負担の増大が避けられない。中国の人口減少は、この先日本以上に深刻な加速状態になる可能性があるとも言われている。

 

ともに人口減少社会に突入しているが、人口減少の意味は日中で異なる。日本はすでに高齢化社会に適応する制度、医療、介護、地方自治、企業経営の経験を蓄積している。中国は、所得水準が十分に高まる前に高齢化が進む「未富先老」のリスクを抱えている。

 

しかも、中国では若年失業、不動産不況、地方債務、社会保障不足が同時に進んでおり、人口減少は単なる労働力不足ではなく、国家統治の正統性にも関わる問題ともなっている。

国際情勢と外交が分ける立ち位置

国際情勢も、両国の評価を分ける。中東紛争の長期化は、エネルギー輸入依存度の高い日本にとって明確なリスクである。OECDは、中東情勢が長引けば世界成長を大きく押し下げ、インフレを再燃させる可能性があると警告している。

 

日本にとっては、原油・LNG価格、円安、企業収益、家計負担が同時に悪化する危険がある。一方、中国は、輸出力と資源外交で一定の耐性を持つが、外需依存が強まれば、米欧との摩擦、過剰生産批判、制裁リスクにさらされる。

 

外交面では、中国の存在感は依然として大きい。一帯一路、巨大市場、重要鉱物、製造業、安保理常任理事国というカードは強力である。中国は、一帯一路を再構築し、グローバルサウスにおける影響力を維持しようとする意欲を隠していない。

 

しかし、その影響力は同時に警戒感も生む。技術流出規制、投資規制、経済的威圧、台湾問題、南シナ海問題は、各国に「中国依存のリスク」を再認識させている。中国が巨大であることは事実だが、巨大であるほど、相手国は距離の取り方を考えるようになる。

 

日本の外交的存在感は、中国ほど圧倒的ではないが、高市政権になり徐々に存在感を示し始めている。自由で開かれたインド太平洋、経済安全保障、サプライチェーン再構築、ODA、インフラ支援、技術協力、日米同盟を通じた信頼を基盤にした影響力が出始めている。

 

インド太平洋諸国では、米国への不安と中国の台頭を背景に、防衛協力や経済安全保障上の連携を深める動きが強まっている。この環境は、日本にとって追い風である。

大きいが重くなった国と小さいが再起する国

結論として、中国は「大きいが、重くなりすぎた国」である。製造業、AI、輸出、国家資本の動員力はなお強い。しかし、不動産不況、内需不足、若年失業、民間投資の低迷、人口減少、対外不信が同時に進めば、成長率の数字とは別に、国の活力は徐々に鈍る。衰退は突然来るのではない。数字上は成長しているのに、人々が未来を信じなくなる形で進む。

 

一方、日本は「小さくなったが、再起の条件がそろい始めた国」である。人手不足、人口減少、財政赤字、エネルギー制約という問題は深刻である。しかし、裏を返せば、省力化投資、AI活用、賃上げ、地方産業再編、戦略産業育成が機能すれば、長く眠っていた生産性向上の余地が一気に表面化する可能性がある。

 

したがって、現時点での仮説はこうである。中国は、規模の大きさにあぐらをかき、国家主導の産業政策を優先しすぎた結果、若者、民間企業、消費者の活力を失いつつある。日本は、遅すぎたとはいえ、デフレ脱却、賃上げ、投資拡大、AI活用、経済安全保障を軸に、ようやく再起の入口に立った。

 

中国はなお強いが、下向きの流れが強くなっており、日本はなお弱いが、上向きに転じる条件が見え始めている。問題は、この差を政策の実行力に変えられるかである。高市政権の成長戦略が本物であるかどうかは、株価だけでなく、賃金、設備投資、地方産業、出生率、そして若者が未来を信じられるかによっても判断されるべきである。

巨大な隣国に怯えない国家へ

最後に確認すべきは、日本がいつまでも中国の巨大さに怯える必要はないということである。中国は確かに大国であり、軍事力、経済規模、製造力、資源外交の面で大きな影響力を持つ。しかし、その巨大さは同時に、不動産不況、若年失業、人口減少、民間活力の低下、対外不信という重荷を抱えた巨大さでもある。

 

日本がなすべきことは、中国の圧力に一喜一憂することではない。技術力、人材の質、自由で開かれた制度、信頼される外交、精密なものづくり、地域産業の底力といった日本自身の優位性を、したたかに磨き直すことである。

 

中国が経済的、外交的、軍事的な圧力をかけてきたとしても、それに屈しない国家の強靭性を築くことが、日本再起の前提となる。サプライチェーンを多元化し、重要技術を国内外の同志国と守り、AIや半導体、防衛、エネルギー、食料、医療といった基盤分野を強化する。

 

そのうえで、若者が将来に希望を持ち、企業が国内に投資し、地方が再び成長の現場となる経済をつくることが重要である。

 

中国を過小評価してはならない。しかし、過大評価して萎縮する必要もない。中国が本当に恐れているのは、日本が再び強靭な国家となり、経済的にも外交的にも、自分たちの圧力に屈しない国へと立ち直ることなのかもしれない。

 

さらに言えば、その日本の姿が中国国民の目に映り、「自由で、豊かで、強靭な隣国」という比較対象として意識されることを、共産党指導部は何より警戒しているようにも見える。

 

中国経済の失速や若年失業の深刻化に対して、国民生活の再建よりも統制と体制防衛を優先している現実は、その関心の所在を如実に物語っている。

 

これからの日本に求められるのは、巨大な隣国に怯える国家ではなく、自らの強みを冷静に見極め、それを磨き上げ、必要な場面では毅然と立ち向かう国家である。

 

日中経済の分岐点とは、中国の行方を眺めるだけの問題ではない。日本が自らの優位性を再発見し、圧力に屈しない強靭な国家へと進化できるかどうかが、問われる局面となっている。その意味で、日本外交は新たなフェーズに入ったと言って良いだろう。

 

高市政権になり、物事を相手にしっかり物事を伝える姿勢が明らかとなってきた。そのことを危惧する人もいるが、相手に気を使い伝えることも伝えることができなかったのが、今までの日本である。新たなステージを迎えようとしていることを、大いに歓迎したい。

 

 

 

AIを使って文章を整理していると、しばしば襟を正される思いがする。一方的な見方のまま問いを投げると、AIは決まって「反対意見についても検証すべきだ」と返してくる。反論を無視したまま結論へ飛ぼうとすると、「根拠は十分ではない」と釘を刺される。つまり、自説を述べる前に、まず相手の論理をきちんと踏まえよ、というわけである。

 

これは、考えてみればごく当たり前の話である。反対意見を検証し、それでもなお自説に立つからこそ、主張には説得力が生まれる。検証を経ない断定は、どれほど声高であったとしても、結局は思い込みにすぎない。ところが、昨今の国会質疑を眺めていると、この当たり前の作業を欠いた議論が、堂々とまかり通っているように見えることがある。

 

初めから結論ありきで、相手の説明を検証する姿勢を見せず、自分たちの見立てだけを絶対視して相手を追い込んでいく。そうした質疑は、特定の支持層には「よくぞ言った」と受け止められるかもしれない。しかし、傍で見ている多くの有権者を本当に説得しているかといえば、かなり疑わしい。その口ぶりは、まるで中国が他国を批判するときの、あの一方的で高圧的な論調にそっくりである。

 

中傷動画問題で報じられたこと

最近の高市事務所をめぐる中傷動画問題は、その典型例である。週刊文春は、昨年の自民党総裁選や衆院選において、高市首相陣営が他候補や野党を中傷する動画の作成・拡散に関わったと報じ、首相の公設秘書と動画作成者とされる人物のオンライン上のやり取りや音声まで取り上げた。しかし、動画を作成したといわれる人物は、YouTubeの番組で、高市事務所からの依頼はなく動画の作成は自分の判断で行ったと述べており、オンラインの会議以外で面識はないことも明らかにしている。

 

また、高市首相は、オンライン会議は数多くやっており、一つ一つの会議の参加者全員を覚えているわけではないとし、その人物との面識はないとの認識を示している。しかし、オンライン会議のやりとり音声が明らかになったとされたことから、国会で野党がこれを追及し、6月4日の衆院予算委員会では応酬の末に審議が一時中断した。

 

当初、首相は音声が有料公開であることから確認を拒んだが、翌5日の委員会では「昨夜確認した」と述べ、その内容は動画作成に関するやり取りではないと反論した。秘書本人の声かどうかは「判断するのは難しい」「違和感があった」とし、作成者との面識を否定、膨大なやり取りについても事務所には記録が残っていないと説明している。

接点と作成させたは次元が違う

もちろん、この問題をすべて「言いがかり」と切り捨てるつもりはない。選挙における虚偽情報、匿名アカウントによる世論誘導、資金源の不透明な政治広告、ボットを使った拡散などは、民主主義の根幹に関わる重大な問題である。疑惑があるなら、一定の説明を求めること自体は当然であり、指摘を受けた側は、まさに今回のように、確認すべきは確認し、正しく反論すれば良い。

 

しかし、ここで最も重要なのは、「接点があった」という話と、「中傷動画を作成させた」という話を、意識的に同一視している点である。次元の異なる問題が、ひとつながりのものとして語られている。そもそも、双方の主張はいずれも、まだ「認定」の段階にない。文春が示した音声は取材の成果であって、第三者が事実と認めたものではない。

 

一方で、首相の否定や「違和感」もまた本人の説明であり、声紋の鑑定や記録の照合を経たわけではない。秘書本人の声かどうかは判然とせず、やり取りの記録も確認されていないことから、どちらの側にも断定できる材料は、揃っているとは言い切れない状況にある。

 

その上で、仮に何らかの接触があったとしても、それが直ちに高市首相本人の指示や、陣営ぐるみの組織的な中傷工作を意味するわけではないということである。接点、依頼、組織的関与、本人の指示は、それぞれ全く別の問題である。

 

この区別を曖昧にしたまま、すべてを中傷動画の作成へと繋げて追及を畳みかければ、真相解明よりも印象形成が先に立つ。熱心な支持者や外部の発信者が過激な投稿を行ったとしても、それを高市氏本人の政治姿勢とただちに同一視するのは、明らかに飛躍である。

限られた審議時間を、何に費やすのか

それにもかかわらず、「高市陣営が中傷動画を作らせた」という構図を前提に質疑が進められるなら、そこにはかなりの危うさがある。国会質疑は、週刊誌の見出しを増幅する場ではない。国会には、事実関係を冷静に確認し、制度上の問題を明らかにし、再発防止の仕組みを議論する責任がある。

 

しかも、いま国会が向き合うべき課題は山積している。物価高対策、安全保障、エネルギー政策、社会保障改革、衆院定数の見直しなど、いずれも国民生活と国家の将来に直結する問題である。その只中で、貴重な予算審議の時間を、週刊誌報道に基づく疑惑追及に費やし続けることが、国民の負託に応える優先順位なのか。ここは冷静に考えなければならない。

追及する側こそ、同じ物差しで

さらに問われるべきは、追及する側の自己点検である。相手の「中傷」を居丈高に責め立てるのであれば、自らの側がこれまで政権や対立候補に対して、どのような言葉を投げかけてきたのかも振り返る必要がある。野党の一部には、政策批判を超えて、人物そのものを否定するような表現や、レッテル貼りに近い言葉を繰り返してきた例も少なくない。

 

SNS上でも、野党支持者による攻撃的な発信は存在する。もちろん、政権批判は民主主義に不可欠である。野党が政府を厳しく追及することも当然である。しかし、相手側の発信だけを「中傷」と呼び、自分たちの攻撃的な言葉は「正義の批判」として扱うのであれば、それは公平とは言えない。自らの土俵には立たず、相手だけを断罪するという、その身勝手な構図が、政治不信を招いているのではないか。

 

また、中傷動画が選挙の勝敗を分けたかのように語られることもあるが、敗因をそこに過度に求めるのは、分析としてあまりに単純である。選挙結果は、候補者の資質、政策訴求力、組織力、政党間の連携、選挙区事情、メディア報道、SNS環境など、複数の要因が重なって生まれるものである。

 

特定の動画が拡散されたとしても、それによって何票が動いたのかを立証することは極めて難しい。敗北の原因をSNS上の中傷に過度に求めれば、自らの政治姿勢や政策訴求の弱さから、かえって目を背けることにもなりかねない。

メディアの報じ方も問われている

メディアの報じ方にも問題がある。一部報道では、「党内からも冷ややかな声」といった表現が使われることがある。しかし、実際に記事中で示されているのが匿名の一人の発言だけであるケースも多く、それを党内の一定層の空気のように見せるのはフェアではない。

 

具体名も人数も示さず、単独の声を大きな流れであるかのように報じる手法は、読者に特定の印象を与える。SNS上の切り取りや印象操作を問題視するのであれば、既存メディア自身の報道手法も、同じ基準で点検されなければならない。

 

また、昨年十月、自民党総裁に就任した直後の取材を待つ報道陣の中から、「支持率を下げてやる」「支持率が下がるような写真しか使わない」といった趣旨の声が、テレビ局のネット生配信のマイクに拾われたことがあった。発言の主は後に時事通信社のカメラマンと判明し、同社は厳重注意を行ったが、報道への不信を強める象徴的な出来事として記憶された。

 

むろん、一人の発言をもって報道機関全体を断じるつもりはない。しかし、高市政権をめぐる報道の一部に、政策の検証よりも、先入観に基づく否定的な目線が混じっているのではないか、そうした疑念を有権者が抱くのは、自然なことであろう。

一方的な追及は、国民を説得しない

こうした状況で、国会が週刊誌報道を材料にした政局的追及に傾けば、政治不信はさらに深まる。断定を重ね、語気を強め、相手に弁明の余地を与えず畳みかける。そのような質疑は、熱心な支持者には響くかもしれないが、第三者の目には、冷静な検証ではなく、初めから結論を決めた攻撃に映る。これでは、多くの国民の心を動かすことはできない。

 

野党がしっかりしなければ、政治全体の質は確実に落ちる。だからこそ、本来は奮起してほしいと思う。政権を監視し、政策の欠陥を指摘し、代案を示す強い野党は、民主主義に不可欠である。しかし、現状では一方的な政権批判ばかりが目立ち、残念と言わざるを得ない。

検証する政治への期待

ただし、救いがないわけではない。同じ野党でも、感情的な断定を排し、対話的に論点を一つひとつ検証しながら質疑を組み立てようとする勢力は、一定数存在する。事実関係の確認を事前に通告し、冷静に詰めていこうとする姿勢には、見るべきものがある。

 

この先の政界再編は、案外そうした「検証する野党」を軸に動き出すのかもしれない。叩き合いではなく、論理で勝負する政治。疑惑を政局の道具にするのではなく、制度の改善へとつなげる政治。その芽が育ちつつあることに、希望を見いだしたいと思う。

 

中傷動画問題は、事実であれば軽視してよい問題ではない。しかし、扱い方を誤れば、真相解明ではなく印象操作に堕してしまう。国会で問われるべきは、相手を断罪する言葉の強さではない。反対意見を検証し、事実と評価を分け、同じ基準で自他を点検する姿勢である。AIにすら求められる最低限の作法を、政治の世界が失っているとしたら、残念でならない。

 

 

 

6月1日から6月7日までの「政策リサーチ」アクセスランキングTop10は以下の通りとなった。

 

1位 予算情報・財務省(令和8年度一般会計補正予算第1号フレーム、同1号の概要)

2位 事業場における労働者の健康保持増進の在り方に関する検討会・厚労省(参考資料1-1 職域におけるがん検診に関するマニュアル)

3位 取引相場のない株式の評価に関する有識者会議・国税庁(資料)

4位 GX需要創出に向けた研究会・経産省(次第、事務局資料)

5位 報道発表・国内(中華料理店の倒産動向・帝国データバンク)

6位 報道発表・国交省(ドローンの多数機同時運航を安全に行うためのガイドラインを改訂)

7位 総合資源エネルギー調査会・基本政策分科会・経産省(エネルギーを巡る最近の動向について)

8位 報道発表・デジタル庁(オープンデータ100地方公共団体等による事例)

9位 報道発表・総務省(G7デジタル技術大臣会合の開催結果、AIのオープン性に関する機会と共通言語に関するG7ビジョン)

10位 中堅企業・中小企業・小規模事業者の活力向上のための関係省庁連絡会議・賃上げに向けた中小企業等の活力向上に関するWG合同会議・首相官邸(取引適正化に向けた取組について)