憤りを発して食を忘れる(論語・発憤忘食)と、妄想する勿れ(禅語・莫妄想)。この二つの古語を物差しに、昭和の終わりから平成の終盤にかけて、永田町に25年ほど身を置いた経験から、昨今の政治状況についてプラス面・マイナス面の双方から検証してみた。
はじめに、二つの古語
論語の述而篇に名高い一節がある。楚の葉公が子路に孔子の人柄を尋ねたが、子路は答えられなかった。これを聞いた孔子は言った。「お前はなぜこう言わなかったのか。その人となりは、憤りを発して食を忘れ、楽しみて以て憂いを忘れ、老いのまさに至らんとするを知らざるのみ、と」。学問と道の探究に没頭するあまり食事を忘れ、老いの迫ることにすら気づかない。これは、後世「発憤忘食」と呼ばれた有名な逸話だ。
いま一つは禅語の「莫妄想(まくもうぞう)」である。唐代の無業禅師は、誰が何を問うても「妄想すること勿れ」とのみ答えたと伝わる。根拠なき思い込み、ありもしない幻影に心を奪われるな、目の前の現実をあるがままに見よ、という峻厳な戒めである。
当方は、昭和の終わりから平成の終盤近くまでおよそ四半世紀にわたり、国会議員秘書として永田町に身を置いた。その際の経験を踏まえ、この二つの古語を物差しに、現在の政治状況をプラス面とマイナス面の双方から論じてみたい。
令和の政治のプラス面 ― 可視化と開放
まず、令和の政治が昭和・平成より明らかに前進した点を挙げる。昔は良かったが、今はダメだ、などということを言うつもりは毛頭ない。平等に評価したいと思う。
第1に、政治活動の可視化である。かつての永田町では、政治の中心は料亭と派閥にあった。国民が知り得る情報は、記者クラブという閉じた回路を通した新聞とテレビニュースに限られていた。今日、国会審議はネットで全てが中継され、議事録も速やかに公開される。政治家は自らの言葉でSNS等で直接発信する。政治家の行動はかなり正確に把握できるようになった。
第2に、政策情報の透明化である。秘書時代、一つの政策課題を調べるためにも国会図書館に通い詰め、各省の記録を一頁ずつ繰った。今日では、政府の一次データの多くがオンラインで公開され、データを伴わぬ政策論は通用しにくくなった。政策を論じたい場合は、誰でも一次資料に当たり、政府の説明を検証できる。民主主義の足腰は強くなった。
第3に、政治への参加の多様化である。世襲と派閥力学が支配したかつての候補者選定に比べれば、公募や政治塾を経た人材、地方議会や民間からの転身者が増え、女性の宰相も誕生した。当選回数と派閥の論理だけでは説明できない人事も、随所で行なわれるようになっている。まだまだ不十分とはいえ、これは方向性として正しい変化と評価したい。
令和の政治のマイナス面 ― 妄想の政治と没頭の喪失
しかし、良い面ばかりではない。影もまた濃いと言える。皮肉なことに、プラス面を生んだ同じ技術が、最大のマイナス面をも生んでいる。
第1に、「妄想政治」の蔓延である。切り取り動画、文脈を剥ぎ取った引用、根拠なき陰謀論が、検証を経ぬまま拡散し、ときに選挙結果すら左右する。発言の一部を恣意的に編集した動画が、攻撃材料として一瞬で広がる。無業禅師が「莫妄想」と一喝した、幻影に心を奪われる状況の中で、事実に基づかない批判が、事実に基づく批判の信用まで毀損している。
第2に、熟議の衰退である。国会質疑が、政府を質し政策を磨く場ではなく、SNSで拡散される見せ場を作る場へと変質しつつある。昭和や平成の時代は、一つの質問のために役所と何日も折衝し、答弁の逃げ道を塞ぐ準備に没頭した議員も多かった。質問は、調査の集大成であったが、今日の週刊誌やSNSの切り抜きに最適化された質疑にはその痕跡はない。
第3に、「発憤忘食」の気概喪失である。かつての永田町には、毀誉褒貶はあれども、一つの立法のために、食を忘れ、夜を徹して条文を練る政治家が多くいた。彼らを動かしたのは、支持率でもいいねの数でもない。この国を良くしたいという憤りからであった。今日の政治家は、政敵の言動とSNSの批判に重きを置き過ぎており、これが政治を小さくしている。
第4に、結論を急ぎすぎる傾向である。日々公表される支持率や市場の反応に一喜一憂し、10年、20年の時間軸を要する政治課題、人口減少、安全保障環境の構造変化、技術覇権競争などで、腰の据わった取り組みが行われていない。常に選挙の都合が優先し、あらゆるものが可視化され過ぎた結果、政治の視野が狭くなってしまった。
最近の事例から学ぶ
そこで、具体例に即して問題点を指摘したい。現在国会では、中傷動画問題が取り上げられており、高市陣営の関与が疑われ、野党側は中傷動画で選挙に負けたと気色ばんでいる。
だが、事実を冷静に見れば、動画を作成したと言われる当事者が、「依頼という形ではなかった」と述べ、高市陣営のプラスになると自ら判断して主導したと明言していることから、疑惑の核心である「依頼」と「指示」は、当事者の証言によって否定されている。
では、「接触」はどうかというと、高市首相は国会で、秘書が昨年、信頼できる人物の紹介を受けた企業とのグループオンライン会議に参加し、国民の声を広く聞くために検討している企画の紹介を受けたこと、すなわち会議への参加は認めている。
その上で、報じられた音声が仮にその場のものだとしても、その会議は中傷動画を依頼する場ではない。音声についても秘書自身が、「自分の声に似ているように思うが、編集で発言が細切れにされており、内容も含め確信が持てない」と説明している。
複数人が参加する会議で、企画の紹介を聞いただけの相手への認識が薄いのは、むしろ自然なことであり、名刺交換も対面もしていないと先方が認めていることから、「面識がない」という説明は何ら矛盾しない。
こうして双方の説明を重ねれば、「依頼」と「指示」は作成者本人が否定し、「接触」の実体は別目的のグループ会議への参加にとどまる。それにもかかわらず、「高市側の関与で選挙に負けた」とまで断ずるのは、概念のすり替えにほかならない。
当事者の証言で都合の良い部分のみを切り取り、疑惑を語り続けるメディアや野党の手法は、感心できるものではない。そもそも、総裁選においても、衆院選においても、高市サイドがそこまでの危険を冒して工作を仕掛ける必然性は、乏しかったはずである。
誹謗中傷の被害ということであれば、高市首相自身の方が常にその最上位に置かれてきた。国を貶めている、不正な選挙で日本を誤った方向に導いている、独裁体制を敷いている、高い支持率は操作された結果など、聞くに堪えない罵詈雑言がネット上には溢れている。
しかし、当の本人から、相手を誹謗するような言動は、今まで一切見られていない。誹謗中傷が行われたと主張する側が、その最大の標的に対して、検証もなく断定的に誹謗中傷を浴びせるのであれば、その論理は破綻している。
また、レッテル貼りの応酬も問題だ。一方は批判されれば「ネトウヨが騒いでいる」と喚き、他方は「パヨクが喚いている」と騒ぐ。このようなレッテル貼りは、相手の主張を検証しないごまかしであり、思考停止の最たるものだ。その結果は、政治の劣化につながる。
視線を国外に転じれば、逆の構図である。高市政権は、発足直後から各国首脳との会談を矢継ぎ早に実現し、信頼構築を重ねてきた。米中首脳会談において、習近平国家主席が高市首相を名指しで批判した際には、トランプ大統領が「首相は素晴らしい指導者だ」と真っ向から擁護し、訪中を終えるや直ちに機中から首相に電話を入れて会談内容を共有した。
同盟国の大統領が、対立する大国の首脳の面前で日本の宰相を庇う。これほど分かりやすい国際的評価があるだろうか。国の外で、ここまで評価を高める政権を、国内では検証なき断定とレッテル貼りで、足を引っ張っているという現実がある。
首相サイドの脇の甘さにも課題
ここまでは、追及する側の手法を批判してきたが、検証の物差しは高市首相サイドの脇の甘さにもある。この点についても指摘しておきたい。
高市首相の宰相像は、従来の古いタイプのそれとは全く異なる。やるかやらないか、良いか悪いかをはっきりと言い切り、素早く決断して行動する。この明快さが有権者に受け入れられ、高い支持率につながっていることは大いに頷ける。
だが、その一方で、入念な根回しや、万が一に備えた二重三重のガードが十分に張られているようには見えない。今回のケースが図らずも示したのは、まさにその隙である。「首相の周辺にいれば商売になる」と暗躍する胡散臭い人物が近づいてきたとき、それを入口で弾く備えがなければ、真面目な事務所ほど簡単に付け込まれてしまう。
政権がこれから本格的に進める成長戦略は、桁違いの資金が動く領域であり、利権を狙って群がる者の数も質も、総裁選のSNS戦略の比ではない。脇の甘さを放置したまま大型の政策を回せば、いずれ今回より深刻な形で足元を掬われかねない。
足元を掬われれば、支持率は一気に急落し、高市下ろしが噴き出す可能性は高い。逆にここで守りを固めきれば、次の総裁選は無投票での再選すら視野に入る。分水嶺は、政策の成否そのものではなく、足元の備えにあると見ておくべきである。
もう一つ付け加えたい。真面目で直向きな姿勢は大いに評価するが、正面突破ではどうにもならない局面(例えば現在の中国との関係のような局面)においては、搦め手を含めてどのような手を講じるかが、日本の宰相としての大きな課題である。
俗に「人が良いのも阿呆のうち」と言う。一人でやれることには限界がある。武田信玄の歌と伝わる「人は城、人は石垣、人は堀」ではないが、しっかりとした人間関係を築き、二重三重に守ってもらえる「人の石垣」を組み上げることが、この異色の宰相に最も足りない部分であり、最も取り組まねばならない仕事である。
問題の解決へ向けた姿勢は?
最後に、政治家には、「発憤忘食」の姿勢を求めたい。憤りを発するなら、国家百年の課題に対して発せよ。食を忘れるほど没頭すべきは、政敵への反論ではなく、政策の磨き上げである。SNSは手段であって、政治家の本分ではない。昭和の密室政治を美化する気はないが、あの時代の政治家が持っていた政治家としての矜持は、引き継がれるべき遺産である。
その上で、「莫妄想」も求めたい。切り抜き動画や記事で騒ぐ前に、議事録や批判すべき相手の発言などに当たる労を取るべきだ。令和の最大の進歩は、誰もが一次資料に到達できることにある。その便利な手段を使わず、妄想を拡散するのなら、昭和の密室政治を笑う資格はない。検証の習慣を持つ者だけが、検証に耐える政治家を育てることができる。
再度、高市首相にも触れたい。首相は自らが掲げる政策の実現のため、進退を賭けて総選挙に踏み切り、その結果が歴史的な大勝につながった。ここまで言い切り、やり切れる胆力を備えた政治家は、長いこと永田町を間近に見てきたが、そう多くはいない。
選挙に敗れた野党が「多数の横暴」と喚いたところで、民主主義は結果が全てである。選挙で多数を与えられた者には、公約を実現する責任があり、それを果たすことこそが、約束を交わした有権者への誠意ある対応である。
進退を賭して政策に挑む姿は、まさに発憤忘食に通じる。雑音にブレることなく、最後まで初志を貫いてもらいたい。検証なき断定には事実で応え、脇は固め、そして掲げた公約をやり切る。その先に、令和の政治の新たなスタイルが生まれるといって良いだろう。
孔子は、政治の理想を問われて多くを語ったが、その本人の姿は「憤りを発して食を忘れる」探究者であった。禅師は千言を費やさず「莫妄想」とのみ言った。没頭せよ、そして妄想するな。令和の政治に必要な処方箋は、案外この二語に尽きるのかもしれない。




