最澄上人の御命日 | 花咲く祈りの寺☆清瀧寺

花咲く祈りの寺☆清瀧寺

山号を雲光山、院号を華蔵院、寺号を清瀧寺といいます。
平安時代、大同2年(807)の創建と伝えられています。
茨城県南部守谷市、鬼怒川のほとりに建ちます。
境内は四季折々様々な花が咲き乱れる、総合霊場が特徴の寺院で『花咲く祈りの寺』です。

おはようございます。



本日6月4日は、天台宗を開かれた『伝教大師・最澄上人』の御命日とされています。



伝教大師最澄さまは、平安時代・弘仁13年6月4日・辰の刻(午前8時ごろ)比叡山・中道院において入滅されたと伝わります(6月5日との説もあり)



伝教大師最澄上人像・江戸時代
清瀧寺蔵
説法印の少し珍しいお姿だそうです。
紅白の輪袈裟は、白が願かけ、で赤がお礼参りと伝わります。


後の貞観8年7月12日、清和天皇より、最澄さまに『伝教大師(でんぎょうだいし)』弟子の円仁さまに『慈覚大師(じかくだいし)』の称号がおくられ、日本で最初のお大師さまとなりました。



伝教大師最澄上人お掛け軸
明治期・清瀧寺蔵


天台宗では、伝教大師最澄さまのご命日に『山家会(さんげえ)』という法要が行われます。



山家会の『山家』とは、中国天台において、天台宗の正統を山家と称していて、最澄さまは、中国において天台宗の正統を受け継がれたので『山家の大師』と称され『山家会』と呼ばれるようになったと言われています。




伝教大師・最澄上人が遺した教えのひとつに『忘己利他』という言葉があります。


忘己利他は、自分のことを後回しにして、他人の幸せのために尽くすという意味です。
最澄上人は亡くなる前、弟子たちに次のように語ったといいます。


我がために仏を作ることなかれ、
我がために経を写すことなかれ、
我が志を述べよ。
(伝述一心戒文より)

※現代語訳
私の亡くなった後、
私を供養するために仏像を作らないでほしい、
私の供養のために経典の書写をしないでほしい、
私の志を実践し伝えてほしい。

嵯峨天皇が最澄上人を偲び綴られた『哭澄上人詩』


最澄上人は亡くなられた後も、自分の供養より、他の多くの方々の幸せを願われたのだと思います。

合掌。