始業式 5つの約束
今日は、可愛いお子たちと久しぶりに会える嬉しい日です。
お子たちが「まとめの3学期」を意欲的に活動する為に、日頃お話している「5つの約束」をあらためてお話することに致しました。
5つのやくそく
①へんじは はい
②ありがとう
③ごめんなさい
④うそを つかない
⑤よわいものを いじめない
1学期・2学期でたくさんの成長が見られるお子たちです。
私のお話をしっかりきいてくれて、お傍にいる御仏さまも、目を細めて喜ばれるこてでしょう。
またこの1年が、1日1日の積み重ねを大切にし、充実した年になりますよう、昨日は職員全員が御仏さまの前で、その心構えを誓いました。
御仏さまも応援してくださると思います。
合掌
美食を食いあさり、食べ物を粗末にする人間がおちる地獄2
「屎泥処」とは、まさしくそういる世界であろう。
罪人は、その糞尿が煮え立った中に投じられる。悪臭と汚物の真っ只中だが、それ以外に口にするものはないから、罪人はその糞尿を食う。
「その味、最も苦し」とある。しかし、味はすざまじいが、それなりの滋養分はあるらしい。地獄の中で、罪人はまるまると太っていく。罪人の太っていくのを、じっと待っているものがある。うじ虫である。うじ虫たちは罪人をとりまいて、ざわざわとうごめいている。そのうちの一匹が、その身を不気味にくねらせて、罪人のもとへ泳ぎ寄ろうとしはじめた。すると、どうであろう。
ほかの虫たちも行動を開始したのである。
首もとに、つめたいものを感じた。最初にとりついたうじ虫である。罪人は反射的に手を伸ばしてその虫をはらった。二匹目は腹部に来た。それもはらったが、三匹目からはもう対応すべき術もなかった。肩といわず胸といわず腹といわず、手足にも無数の虫がまつわりつき、皮膚を食い破り、肉の中にもぐり込んだ。それだけではない。首から上へ、顔一面にもとりかかって、目も鼻も口も、無数のうじ虫におおわれた。罪人は絶叫し、手足をばたつかせながら、糞尿の中で悶えた。悶えている罪人の体に、うじ虫はじわじわと食い入っていき、やがて肉も内臓も食い尽くして、骨の髄にまで入っていった・・・・。
美食を食いあさり、食べ物を粗末にする人間がおちる地獄1
■美食を食いあさり、食べ物を粗末にする人間がおちる地獄<屎泥処>
ひと昔前まで、“美食家”といえば、お腹の少し出た四、五十歳の男性と、相場がきまっていた。ところが今や、そうした体系のおじさんだけにとどまらず、美食の輪は、若者の間にもひろがっているといわれる。グルメ・ブームといわれるゆえんである。
そういえば、本屋さんではやたらに料理の専門店を紹介する本が目につく。だからであろうか。街を歩けば、この店の××がおいしいからと、何十人もの“美食家”たちが列をなしているという光景も珍しくはなくなった。
一方、家庭での食環境もグルメ・ブームと同様、大きな様がわりをみせている。外食の・・・・・などと、わざわざ手をかけて食事を作らなくても、いつでも、どこでも、手軽に食事が出来るようになっている。今や、味噌汁のダシをカツオやコンブでとるなどという主婦は、ほとんどいなくなったとさえいわれるぐらいである。
こうしたグルメ・ブーム、そして外食ブームは、いつの間にか日本人を「飽食人種」と追い込んではいないだろうか。そして、この飽食が結果として食べ物を粗末にすることにつながってはいないか。
あるホテルのレストランでのバイキング式の朝食で、自分の皿にとった食べ物を残して平然と席を立つ客が、相当数にのぼるという話を聞いた。食べ物を食いあさり、そして食べ物を粗末にする人間は、こういうおぞましい地獄におちる。
<いわく極熱の屎泥あり。その味最も苦し。金剛の嘴の虫、その中に充満す>
いま、都市はもとより、農村地域にも水洗トイレが行き渡りつつある。したがって、「屎泥」といっても、これからさき、おぞましさを実感できる人は、なくなってしまうであろう。
むかし、といってもつい四半世紀まえまで、農村で肥料は人肥が主流だった。牛馬などの家畜を飼っていたのも、農村の機動力としての役割もさることながら、その糞が堆肥をつくる貴重な原料となった。だから、肥料をつねに有効にもちいるために、農村のトイレの株は、建物の幅いっぱいに解放される仕組みになっていた。その部分は簡単な板蓋いが普通で、光線がもれて、便壺の中がよく見えた。農薬をふんだんに使わなかった時代だから、便壺は便所虫の巣窟であり、おびただしい虫で壺の中は涌きたつように動いていた。水位が下がると、壺のまわりを虫が這い上がってきては、ぽとりぽとりと落ちるという営みを繰り返していた。