陛下、ファン・ボイ・チャウ記念館でお言葉 | 月刊誌『祖国と青年』応援ブログ

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青木聖子とその仲間たちが、『祖国と青年』や日本協議会・日本青年協議会の活動を紹介したり、日々考えたことを綴ったりします!
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 「祖国と青年」4月号では、両陛下のベトナムご訪問の現地取材の特集を組んでいますが、その中でちょっと注目していただきたいのは、陛下がファン・ボイ・チャウ記念館でお言葉を述べられたということです。

 

 これはあまり報道されませんでしたが、陛下が、その場でのお声かけではなく、あえてお言葉を述べられたということは、重い意味があると思いますので、「祖国と青年」4月号の外村聖典さんの記事から、関係の箇所をご紹介します。

 

 

 両陛下は三月一日のチャン・ダイ・クアン国家主席夫妻主催の晩餐会において、わが国とベトナムの交流の歴史に触れられ、次のようにお述べになった。


「二十世紀初頭には、 〝東遊運動〟 の下、約二百名の貴国の青年たちが我が国に留学していたこともありました」


 「東遊運動」とは、日露戦争に勝利した日本に学び、フランス統治下におかれていたベトナムを自主独立させようとした運動のことである。その中心人物が、藩佩珠(ファン・ボイ・チャウ)である。

 

 

 当時、ベトナムにおいても日露戦争の勝利によって国民的覚醒が促され、「日本人は凄い」「日本はいつも威張っている白人の国に勝った」という喜びの声が一斉に起こった。ファン・ボイ・チャウは『獄中記』の中で「日露戦役は実に私たちの頭脳に、一新世界を開かしめたものと言うことが出来ます」と記している。


 ファン・ボイ・チャウはベトナムで維新会を結成し、明治三十八年(一九〇五)に来日。阮朝の皇族であるクオン・デ候を党首に戴き、多くの学生を呼び寄せ、日本で「東遊運動」を展開した。その運動を支援した日本人に、政治家としては犬養毅や大隈重信が、民間人として医者の浅羽佐喜太郎がいる。チャウを支援した人々は、ベトナム青年の教育を何より優先させることを説き、その事業を物心両面で支えたのである。


 しかしながら明治四十二年、フランスとの国際協調を優先した日本政府は、クオン・デ候とファン・ボイ・チャウに国外退去を命じることとなる。「東遊運動」は志半ばで挫折したが、ベトナムの独立運動に大きな影響を与えた。


 近年、このファン・ボイ・チャウの歴史はベトナムで注目され、日越友好四十周年の平成二十五年に放映されたテレビドラマ「The Partner ―愛しき百年の友へ」でも描かれている。ベトナムの大学生に聞くと、誰もが知っていると言うが、日本の青年はほとんど知らない。ベトナムに何度も訪れている日本の青年に聞いても、まったく知らなかった。


 両陛下は三月四日、阮朝の古都フエにあるファン・ボイ・チャウ記念館をご訪問された。記念館の敷地には、チャウの墓や、チャウが晩年を過ごした家を再現した邸宅があり、中には特別にチャウが実際に使用していた机やイスが展示されていた。


 両陛下は墓前で頭を下げられ、邸宅並びに記念館をご覧になり、次のようにお言葉をお述べになった。


「ベトナムの独立に関わった日本との関係を伝えていくことは大変喜ばしいことと思います。過去のことを振り返りながら日本がどういう道を歩んできたか、日本の人々が知っていくことは大変大事なことと思っています。歴史というものを知って、現在やこれからのあり方を知るということはとても大事なことです。そういう意味でこの記念館は日本人にとっても大事なものと思っています」


 このお言葉を拝し、日越の青年たちがどのような努力をしたのかという歴史を紐解くことこそ、これからの日越を考える上で重要なことだと思った。