明治天皇の新嘗祭に臨まれるご姿勢 | 月刊誌『祖国と青年』応援ブログ

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 「祖国と青年」4月号の連載「甦る歴史のいのち」で、占部賢志先生が明治天皇の新嘗祭に臨まれるご姿勢について紹介されています。

 

 新嘗祭は毎年十一月二十三日、神嘉殿において、天皇陛下御自ら新穀、神饌を盛り付けて皇祖・天照大神に供え、御告文を奏上し、新穀を召し上がられるお祭りで、「夕の儀」は午後六時から八時にかけて、「暁の儀」は午後十一時から翌午前一時にかけて、同じ形で行われます。

 

 占部先生の記述は、天皇陛下がいかに祭祀を厳修なさっているか、私たち国民がその一端を垣間見ることのできる貴重なものなので、以下にご紹介します。

 

 

 明治期の掌典長であつた宮地巌夫が後進に語り伝へた挿話に、次のやうなものがある。明治期に執り行はれた新嘗祭の折の出来事である。


 新嘗祭当夜はしんしんと冷え込む。神嘉殿の前庭に控へる参列者は篝火が焚かれてゐても冷気に震へが止まらないほどだといふ。勿論、明治天皇が神事を執り行はれる神嘉殿には暖房設備は皆無である。


 ところが、祭儀が済み神嘉殿をお出になつて廊下を進まれるお顔を拝した時、宮地は少なからぬ驚きを覚えた。この寒中にあつて、なんと明治天皇はしつとりと汗をかかれてゐたからである。その時の印象を、宮地はかう述べてゐる。「陛下には全身全精神を神の御奉仕に御尽しになつた御しるしと拝するより仕方がない」と。


  宮地の門弟の一人、後の掌典長である星野輝興が語つた以下の内容はその事実を裏づける貴重な証言である。時は明治四十一年十一月二十三日のこと、陛下は午後五時頃に潔斎を済まされ、綾綺殿で純白の生絹の御服にお召替へとなつた。併せて冠をつけられるのだが、星野によれば、この時、陛下は冠に手を加へられた。


 冠の後部には「纓」が天を突くやうに立つてゐて、これを立纓冠と呼び、天皇以外には用ゐない。臣下の纓は途中で垂れ下がつてゐる。ところが、新嘗祭に臨まれる際は、陛下自ら直立した纓を前に折り曲げ、白の平絹でしつかりと結んで揺れないやうに固定されたといふ。


 冒頭に掲げた記念切手は、大正天皇が斎行された大嘗祭の折の冠を写した稀少なものだが、このやうな変形に敢へて造作されたのである。いつたい、なにゆゑか。


 陛下は神嘉殿の中で寸暇の余裕もなく激しく神事に務められる。そのため直立した纓は揺れて邪魔になる。そこできつちりと固定した上で神事に専念出来るやう工夫を施されたわけである。結ぶ際に用ゐる平絹は一種の「鉢巻」に等しいのだといふ。


 一般にもさうだが、鉢巻といふのは、これから全力を傾けて行動を起こす際に締めるものである。すなはち、新嘗祭に臨む側近や参列者の中で、陛下お一人が鉢巻を締め渾身の神事に向かはれる。それほどの信念と覚悟を定めて斎行されるのが新嘗祭の神事なのである。

 

 

 また、同記事には、昭和天皇の新嘗祭に臨まれるご姿勢についても書かれているので、そちらもぜひ本誌でお読みいただきたいと思います。