永遠の武士道 2 | 月刊誌『祖国と青年』応援ブログ

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青木聖子とその仲間たちが、『祖国と青年』や日本協議会・日本青年協議会の活動を紹介したり、日々考えたことを綴ったりします!
(日本協議会・日本青年協議会の公式見解ではありません。)

 「祖国と青年」11月号の多久善郎理事長の講演録から、武士道の言葉を何回かに分けてご紹介します。本講演録は、多久理事長の著書『永遠の武士道』(明成社)のポイントがまとめてられていますので、本書を読む上での道しるべにもなると思います。

 

 今日ご紹介するのは、特攻隊員とソ連抑留者の言葉です。

 

 特攻隊員の道を求める心


 こういう道を求める姿勢は、大東亜戦争における特攻隊の青年たちにも受け継がれています。神風特別攻撃隊第五昭和隊として沖縄で戦死した市島保男さんは、早稲田大学から学徒出陣した際の日記にこのように書いています。


「悲壮も興奮もない。若さと情熱を潜め己の姿を視つめ古の若武者が香を焚き出陣したように心静かに行きたい。征く者の気持は皆そうである。周囲があまり騒ぎすぎる。くるべきことが当然きたまでのことであるのに」


 そして、特攻戦死五日前、昭和二十年四月二十四日の日記です。


「隣の室では酒を飲んで騒いでいるが、それもまたよし。俺は死するまで静かな気持でいたい。人間は死するまで精進しつづけるべきだ。まして大和魂を代表する我々特攻隊員である。その名に恥じない行動を最後まで堅持したい。私は自己の人生は人間が歩みうる最も美しい道の一つを歩んできたと信じている。精神も肉体も父母から受けたままで美しく生き抜けたのは、神の大いなる愛と私を囲んでいた人々の美しい愛情のお蔭であった。今限りなく美しい祖国に、我が清き生命を捧げうることに大きな誇りと喜びを感ずる」


 また、中央大学を出て、神風特別攻撃隊神雷第一爆戦隊として沖縄で散華した溝口幸次郎さんは、日記にこう書いています。


「生まれ出でてより死ぬるまで、我等は己の一秒一刻によって創られる人生の彫刻を、悲喜善悪のしゅらぞうをきざみつつあるのです。(略)私の二十三年間の人生は、それが善であろうと、悪であろうと、悲しみであろうと、喜びであろうとも、刻み刻まれてきたのです。私は、私の全精魂をうって、最後の入魂に努力しなければならない」


 溝口さんは二十三歳で、後数日の命です。しかし最後の魂を人生という彫刻に刻みつけていったのです。


 私は大東亜戦争で亡くなった方々の遺書を若い頃から読んできましたが、常に心打たれるのは、その生き方の真摯さ、真剣さです。彼らもまた、戦う者として、道を求める人生を貫いていったのです。


 ソ連抑留という逆境の中で


 本書の最後に、ソ連に抑留された方の話を紹介しています。昭和二十年八月九日、ソ連は日ソ不可侵条約を破って満洲、樺太、千島に進撃しました。進撃は九月二日まで続きましたが、その途中で、ソ連のスターリンはアメリカのトルーマン大統領に対して、北海道を分割しようと提案します。もちろん、トルーマンは「ノー」と答えます。そこでスターリンは、土地が獲れないのだったら、人を獲って労働させようとして、日本人将兵七十万人を抑留したのです。そのうちの十万人近くが亡くなっています。


 ソ連に抑留された経験を持つ志水陽洸さんは、「酷寒のシベリアで私の人生は開かれた」という文章で、あるエピソードを紹介しています。抑留当時、志水さんは、なぜソ連のために働かなければならないのかと、毎日毎日、監視している兵隊の目を盗んではサボることばかり考えていたそうです。するとある日、異様な日本人の集団がやってきました。彼らは身なりは自分たちよりボロボロだが、朝から夕方まで一心不乱に働いていた。それで、ソ連のスパイに違いないと思った志水さんは、彼らに文句を言いに行ったのです。すると、彼らの代表者・村中一等兵は、志水さんの目をじっと見て、次のように語りました。


「あなた方は逆立ちの人生を送っている。一番大事な芯が抜けてしまっている。それでは栄養失調になったり、餓死するのも当たり前だ。私を見なさい。私の目や筋肉は、失礼だがあなた方とは違って、生き生きしていますよ。国境でソ連と戦闘して、敵を殺したためにわれわれは最悪の作業場を回されている。食事も待遇も、あなた方より悪い……でも、私たちは負けない。なぜか? それはわれわれは捕虜ではなく、日本人だからだ。どうです。あなた方も、もういい加減に捕虜を卒業したら。心までが何で捕虜にならなければいかんのです?」


 村中一等兵は、さらにこう言うのです。


「現在の苦しい作業や悪条件は天が与えてくれた試練です。(略)人間が成長するために苦があるということは、これは生命の本源です。(略)私たちが負けていないのは、捕虜ではない、日本人なのだという自覚に燃えているからです」


 この村中一等兵の言葉に、志水さんは衝撃を受けます。そして翌日から、村中一等兵が言う通りに、朝から前向きな気持ちで働いていった。すると心が充実して来たのです。この出会いが、志水さんの人生観を一八〇度変えたと述べています。ここには、逆境にあっても道を求めていく日本人の姿が表れています。


 抑留された日本人は、中央アジアのウズベキスタンにも連れていかれました。日本の将兵は現地のウズベキスタンの人たちと共にナヴォイ劇場を作り、ベガワートに水力発電所を作りました。ナヴォイ劇場は、首都タシュケントで地震があった際もびくともしなかった、本当に立派な建物です。ベガワートの水力発電所は今も動いています。私も現地に行ったことがありますが、ウズベキスタンでは、日本人がいかにまじめで勤勉であったかが今なお語り継がれています。