「祖国と青年」7月号で、鈴木編集長が憲法の成立過程についてまとめていますが、その中に清水澄(とおる)博士のことがでてきます。
清水博士は当時、枢密院議長として憲法改正案の審議を取りまとめた方ですが、現憲法の成立後、国体の護持を祈って熱海の海岸から身を投げて自決されました。
こういう方がいた、ということはぜひ記憶にとどめていただきたいので、「祖国と青年」7月号から該当箇所をご紹介します。
日本国憲法が公布されたのは昭和二十一年十一月三日、施行されたのは翌二十二年五月三日である。それから数カ月後の九月二十五日、一人の法学者が熱海の錦ヶ浦海岸から身を投げた。枢密院議長として憲法改正案の審議を取りまとめた清水澄博士である。清水博士は、新憲法施行の日に既に自決の意志を固め、次の遺書を認めていた。
「自決ノ辞
新日本憲法ノ発布ニ先ダチ私擬憲法案ヲ公表シタル団体及個人アリタリ其中ニハ共和制ヲ採用スルコトヲ希望スルモノアリ或ハ戦争責任者トシテ今上陛下ノ退位ヲ主唱スル人アリ我国ノ将来ヲ考へ憂慮ノ至リニ堪ヘズ併シ小生微力ニシテ之ガ対策ナシ依テ自決シ幽界ヨリ我国体を護持シ今上陛下ノ御在位ヲ祈願セント欲ス小生ノ自決スル所以ナリ而シテ自決ノ方法トシテ水死ヲ択ビタルハ楚ノ名臣屈原ニ倣ヒタルナリ
元枢密院議長 八十翁 清水澄 法学博士
昭和二十二年五月 新憲法実施ノ日認ム
追言 小生昭和九年以後進講(宮内省御用係トシテ十数年一週ニ二回又ハ一回)シタルコト従テ龍顔ヲ拝シタルコト夥敷ヲ以テ陛下ノ平和愛好ノ御性質ヲ熟知セリ従テ戦争ヲ御賛成ナカリシコト明ナリ」
清水博士は、公人として憲法改正案を取りまとめねばならなかったが、「国体の護持」を思えば憂憤やる方ない思いだったのだろう。「幽界ヨリ我国体を護持シ」との老博士の烈々たる気概が偲ばれる。