(愛知県名古屋市)

 

坪井杜国(つぼい・とこく)は生年不詳、 元禄3年3月20日(1690年4月28日)に亡くなっている。

名古屋蕉門の俊英で、松尾芭蕉が最も愛した弟子の一人である。

真実はわからないが、芭蕉とは男色の関係にあった、とも言われている。

名古屋有数の米殻問屋の主人で、若く、ハンサムで、俳諧の才能もあった。

一時期の杜国はまさに「鷹」であり、「蝶」であった。

 

その杜国について調べると、必ず以下の事が書いてある。

 

貞享2年(1685)、「空米(くうまい)取引」の罪で保美へ流された。

 

この「空米取引」というのが、経済音痴の私にはよくわからず、いつももやもやしてしまうのである。

ちょっと調べてみると、「日本国語辞典」には、

 

現物の受け渡しの意思がなく、ただ差金の授受だけを目的として行なわれる米穀の売買。

あるいは、米穀取引所の相場を標準として行なわれた米穀の賭博的な取引。

空米商い、空米取引、空米売買。

 

とある。

「差金」というのは「手付金」のことのようだ。

ただ、これを読んでも(私には…)よくわからない。

「架空」の「米」を大店などの間で、売買し合うことなのだろうか。

これだけを読むと、なんだかバブル時代の「土地ころがし」のようにも思える。

 

「悪行」そのもののように思えるが、実はこの「空米取引」はなかなか善悪の判断が付かない難しい問題であるようだ。

いわゆる「必要悪」なのかどうか、ということらしい。

たまたま見つけた「日本経済の父」と言われる「渋沢栄一」の文章に以下のようなものがあった。 

 

維新後、空相場――近頃でいふ延取引の事で、当時まだ株式の売買は無かつたから米に就てだが――実際米を買はうといふのでも無いのに買ふ契約をしたり、又売る米を持つて居りもせぬ癖に売る契約を結んだりする空米相場を、政府が果して公許したものだらうか或は禁止すべきものだらうかと、当時随分議論があつたのである。
玉乃氏は全然之を禁止してしまはねば、国民の賭博性を助長する恐れがあるからとて盛んに其の禁止を主張されたものだ。
私は玉乃氏とは反対の意見で人には現物の取引をする外に、なほ景気を売買したがる性分があるもの故、景気を売買する空相場までも如何に賭博に類似するからとて禁止してしまつては、却て人心に悪影響を及ぼし、法網を潜つて盛んに賭博を行ふに至るが如き危険を醸す恐れある故、今日でいふ延取引即ち空相場は之を禁止せず、公許する方が治政の良方便であるとの論を主張したのだ。
この意見の杆格から、私と玉乃氏とは至つて熟懇の間柄なるにも拘らず絶えず空相場の許否に関する議論を戦はし、両々相持して降らなかつたのである。
ー渋沢栄一『実験論語処世談』ー

 

要するに渋沢栄一は「空米取引」容認派なのである。

禁止してしまうと、陰で賭博性の高い「空米取引」が行われる危険性があり、それなら「公認」したほうがいい、と言うのである。

また「空取引」は「お金の流動」を生み出し、「景気」を盛んにする効果がある、と考えている。

 

「空米売買」の歴史を調べると、「米相場」は1602年ごろに大阪の堂島で始まっている。

(※「米相場」とは江戸時代における米の先物相場を指す用語である。)

これは世界で最初に行われた画期的な商法なのだそうだ。

つまり、それまでは「米」という「現物」を目の前にして取引が行われたわけだが、米は重いので、「手形」で売買をするのである。

これだけなら問題はないが、ここから「架空取引」や「詐欺」「賭博」が生まれやすいのである。

「賭博」とは、米の値段が高騰した時に売り、利益を得ることだ。

実際、米を持っていなくても、手形で売買が出来る。

 

ゆえに幕府は禁止したが、陰では継続していたそうで、享保15年(1730)にはついに「幕府公認」となった。

つまり、幕府も「必要性」を認めた、ということになる。

「空米取引」には米価格の安定につながる、という利点があることを幕府も認識したのである。

その後、調べてみると、時代に寄って政府公認となったり、禁止となったりしている。

つまり、常に「善悪」「必要性、必要悪」の議論の対象となっているのだ。

 

「空米取引」の利点は、米は重い為、移動をせずに取引が出来る。

そして、大量の米を扱うため、価格変動によるリスクを避けることが出来る。

名古屋有数の米殻問屋の杜国にとっては、どうしても一定の、それも大量の米を事前に押さえる必要はあったであろう。

 

名古屋有数の米殻問屋としては、多くの米殻問屋が慣例的に行っていることを、拒否すれば、たちまち「米の確保」に送れを取ることになる。

杜国は1685年に処罰を受けたが、その45年後には「政府公認」となっているので、実に不運である。

尾張藩に睨まれた…、同業者に妬まれた…、などの理由で貶められたのではないか、などと邪推もしてしまう。

杜国も「なんで俺だけ…」という思いがあっただろう。

 

芭蕉は「野ざらし紀行の旅」で貞享元年(1684)、名古屋で杜国と出会い、別れる際、

 

白げしにはねもぐ蝶の形見かな

 

という句を残している。

白い罌粟の花に、蝶が片翅を捥いで、これを別れの形見としよう、というもので、よっぽど別れるのがつらかったように思える。

「笈の小文の旅」では貞享4年(1687)に、芭蕉は、杜国が蟄居させられていた伊良子崎を訪ね、

 

鷹一つ見付てうれしいらご崎

 

という句を杜国に捧げた。

この「鷹」は当然、「杜国」のことである。

故郷・伊賀で年越しをした芭蕉は「伊勢」で杜国と落ち合い、吉野の桜を一緒に見に行く。

その時の句は、

 

吉野にて桜見せふぞ檜の木笠     芭蕉

吉野にて我も見せふぞ檜の木笠    杜国

 

である。

これを現代風に「超訳」すれば、

 

吉野の桜を一緒に見に行こうぜ!   芭蕉

私も見た~~~~い。        杜国

 

となる(笑)。

まるで恋人同士の会話のようである(笑)。

その他のエピソードは以下を見ていただきたい。

 

 

 

 

 

この「空米取引」は世界で最初の「先物取引」でアメリカのウォール街で、先物取引は大阪の堂島で始まった、と記載されプレートが飾られているそうである。

経済音痴の私なので、はっきりしたことは言えないが、世界の金融市場に於いてこの、日本が生んだ「先物取引」という概念が大きく貢献しているのはまぎれもない事実のようだ。

こういうことこそ日本人が誇るべきではないか。

杜国はその過程における「犠牲者」であった、と言っていい。

 

 

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