(神奈川県三浦市)
 
現代俳句の「黄金世代」と呼ぶべき世代が燦然とある。
大正8年、9年生まれの人々である。
 
大正8年生まれ  森 澄雄  、金子兜太 
大正9年生まれ  飯田龍太、三橋敏雄、鈴木六林男、佐藤鬼房、石原八束、澤木欣一
 
この世代はどういう世代かといえば、最も悲惨な体験をした戦争世代と言っていい。
彼らは戦争が最も激しかった昭和18年~20年、24歳~26歳だった。
例えば、森澄雄は九州帝大出、金子兜太・澤木欣一は東京帝大出である。
こういう高学歴の人は「将校」に任命され、若いながらも多数の部下を持たされた。
そして、過酷な戦線に送られた。 
 
○森 澄雄               
九州大学卒業後応召。
ボルネオ、ガダルカナル等を転戦し、ボルネオで200人の部下を率いるが、8人しか生還できなかった「死の行軍」を体験。
敗戦後、捕虜。
 
〇金子兜太
東京大学卒業後、日本銀行入行もすぐ応召。
大日本帝国海軍主計中尉に任官、トラック島に従軍し200人の部下を率いる。
行軍中、餓死者が相次ぎ、終戦後、翌年まで捕虜として春島でアメリカ航空基地建設に従事、11月に最終復員船で帰国。
 
一人一人を挙げるときりがないので省くが、澄雄や兜太は青年将校として、責任ある立場を与えられ、もっとも過酷な戦争体験をした。
この戦争体験が、彼らの、以降の、俳句の原動力となった、と考えられる。
この二人は同じような体験をしながらも、ある意味、正反対の道を歩いた。
 
〇戦争とは悲惨なものです。
何かもっともらしい賢いことを言って、自然や人間を慈しむ大事な心を見失わせてしまう。
だから戦後は、ひとりの平凡な人間として生涯を送りたいと強く思うようになりました。
〇妻を娶ったら妻を愛し、子供が出来たら子供を慈しみ、友を大事にする。
俳句も奇を弄せず、平凡な人間が抱く平凡で素直な深い思いを詠ってゆきたいと考えたし、それが僕の読売俳壇の選の基準でもありました。
森 澄雄

〇トラック島には当時4万人の日本人がいましたが、最終的に生き残ったのはその3分の2くらいのはずです。
(中略)
軍隊というのは階級社会です。
その中でも軍属は最下級で、すべての点で最低の扱いでした。
(中略)
そんな無残な死を日常的に見ました。
まさに「非業の死者」です。
そうやって死んでいくのは私の部下です。
私は責任を感じていました。
一方で、主計将校ですから食料があとどれくらいあるのかも知っている。
このくらい死ねば、ほかの者に食料を回せるとか、そんな計算もしている。
自分が薄汚い存在のように思えてなりませんでした。
若かっただけに余計にこたえました。
金子兜太         
 
森澄雄は「死の行軍」中、『万葉集』と『おくのほそ道』を持ち歩き、折を見て読みふけっていた、という。
そして、平凡に生きる…、安穏に生きるということが以下に尊いものかを痛感し、もし、自分が生きて帰ることが出来たら、「平凡に生きる」という事を大切にしようと考えた。
澄雄は折につけ「俳人」としてではなく「一人の平凡な人間」の作る詩を尊び追求した。
そして、芭蕉を恋い、生涯を賭けて近江を旅した。
 
一方、金子兜太は、無謀な戦争に突き進んだ国家への怒りを原動力とし、常に反骨精神を貫いた。
復職した日本銀行では、初代労働組合事務局長に就任した。
上層部から疎まれ、各地に飛ばされたり、金庫番などの閑職を与えられたりしたが、最後までへこたれなかった。
私は生前、インタビューさせていただいた時、
 
つらくなかったですか?
 
と率直に聞いたことがあるが、
 
いや、俳句が作る時間が出来てよかった。
 
と答えていた。
本心かどうかはともかく、強がりだったとしても大したものだ、と感心した。
現代人であれば、きっと辞職するか、うつ病になっているのではないかるか。
兜太さんからしてみれば、このような苦労はトラック島での辛苦に比べれば屁でもなかったのかもしれない。
これらの世代には、進んだ道はそれぞれだが、おそらく皆、このようなものすごく強く信じる「芯」があった。
 
飯田龍太のことも書きたい。
龍太は兵役不合格となり、戦争にはいかなかったが、長兄、次兄、三兄、すべてが戦死、戦病死した。
気楽(?)な四男であった龍太はふいに飯田家次期当主となり、偉大な俳人である父・飯田蛇笏の後継者となった。
長兄の妻と結婚し、いきなり子持ちとなった。
そこには大きな葛藤があっただろう。
龍太もある意味、やはり戦争に運命を翻弄された一人と言える。
 
一方で、これらの世代が活躍した要因には他の要因がある、という人もいるかもしれない。
ただ、私が考えるに、やはり(皮肉にも…)この悲惨な戦争体験が、現代俳句の巨星が次々と生まれた要因となっているように思える。
 
正岡子規は明治の激動の時代を生きた。
やはり芸術家というか、風雲児はこういう激動の時代経験から生まれる、という考えもある。
そう、考えれば、一応は平和な世界に生きている我々はどうしたらいいだろう、と考える。
 
しかし、一方で私は「松尾芭蕉」のことを考える。
芭蕉が生きた時代は平穏で、華やかな文化が花開いた元禄時代である。
安定した時代にも、芭蕉のような凄い俳人が生まれている。
与謝蕪村も小林一茶も同様である。
そのことを考えれば、一概に、時代のせいとは言えないし、我々にも彼ら黄金世代に負けない、作品を示すことが出来るのではないか、と考えている。
 

 

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(東京都豊島区池袋)

 

 

道連れとしたる香りや沈丁花     誠司

 

 

今日はまず事務所を出て、徒歩で荻窪駅前の荻窪税務署へ。

確定申告を済ませた。

ホント、大変だったが、無事済んで、ホッとした。

 

そのあとは早稲田へ。

ふと、会津八一記念館へ行ってみようと思ったのである。

会津八一記念館は早稲田大学構内になる。

八一というと、「奈良」というイメージがあるが、なんと早稲田大学卒(しかも英文科)であり、早稲田大学教授だったらしい。

彼の略歴を以下に。

 

1881年(明治14年)8月1日、新潟県新潟市生まれ。

歌人・美術史家・書家。

雅号は「秋艸道人」など。

中学生の頃より『万葉集』や良寛の歌に親しむ。

1900年、上京、東京専門学校(早稲田大学の前身校)に入学し、坪内逍遙や小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)らの講義を聴講した。

この頃すでに「東北日報」の俳句選者となる。

1906年、早稲田大学英文科卒業。

卒業後は、私立有恒学舎(現:新潟県立有恒高等学校)の英語教員となって新潟に戻り、多くの俳句・俳論を残した。

1908年、最初の奈良旅行をおこなって奈良の仏教美術へ関心を持つ。

この旅行が俳句から短歌へと移るきっかけとなった。

1910年、坪内逍遙の招聘により早稲田中学校英語教員となり上京

1918年、早稲田中学校教頭に就任。

1924年、歌集『南京新唱』刊行。
1925年、早稲田高等学院教授となり翌年には早稲田大学文学部講師を兼任して美術史関連の講義をおこない、研究のためにしばしば奈良へ旅行。

1931年、早稲田大学文学部教授に就任。
1935年、早稲田大学文学部芸術学専攻科主任教授就任。

1940年、歌集『鹿鳴集』刊行。

1944年、歌集『山光集』刊行。
1945年、早稲田大学教授辞任、新潟へ帰郷。
1948年、早稲田大学名誉教授。

1951年、新潟市名誉市民。同年、『會津八一全歌集』刊行、読売文学賞受賞

1956年、11月21日死去。

 

驚いたことは二つ。

八一が、早稲田大学と実に深い関係であったこと。

もう一つは、八一はもともと俳人であったこと、である。

 

19歳の頃にすでに「東北日報」の俳句選者になっているのだから、ある意味、「天才俳句少年」だった。

「東北日報」のことも調べたが、正直、わからなかった。

大正時代、新潟で発行されていた新聞のようだ。

ちなみに今の新潟日報とは関係がないようだ。

八一の俳句を見てみたい、とも思ったが、それは別の機会にして、八一の短歌を以下に。

 

〇はるきぬといまかもろびとゆきかへり ほとけのにはにはなさくらしも
(春来ぬと今か諸人行き帰り 仏の庭に花咲くらしも)      
〇おほてらのまろきはしらのつきかげを つちにふみつつものをこそおもへ
(大寺の丸き柱の月影を 土に踏みつつ物をこそ思へ)
〇おほらかにもろてのゆびをひらかせて おほきほとけはあまたらしたり
(大らかに諸手の指を光らせて 大き仏は天垂らしたり)
〇あきしののみてらをいでてかへりみる  いこまがたけにひはおちむとす
(秋篠の御寺を出でて帰り見る 生駒ヶ嶽に日は落ちむとす)
〇ならざかのいしのほとけのおとがひに こさめながるるはるはきにけり
(奈良坂の石の仏の頤に 小雨流るる春は来にけり)
 
奈良が大好きで、これまでたくさん歩いたが、そのたびに会津八一の歌碑に出会い、感動した。
年譜を見ればわかるが、八一にはどうも「歌の師」がいるように見えず、独学で学んだのかもしれない。
 
で、そのあたりも記念館に行って調べようと思い、早稲田大学へ向かったが、至る所、校門が閉ざされ、なかなか中に入れない。
聞いてみたら、今、なんと入試期間中で部外者は入れないのだそうだ。
また次回にするしかない。
 
 

駅に戻る途中、民家の垣根に「沈丁花」がたくさん咲いていた。

「はるはきにけり(春は来にけり)」である。

 

 

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(滋賀県 琵琶湖)

 

秋の淡海かすみ誰にもたよりせず    森 澄雄

 

(あきのおうみ かすみ たれにも たよりせず)

 

森澄雄の代表句である。

が、

 

この句はどういう意味ですか

 

と聞かれることが多い。

簡単に言えば、

 

秋の琵琶湖が霞んで、私は誰にも手紙を書かず過ごしています。

 

という意味である。

が、おそらく、この句がわからないという人は、「それくらいはわかっているのだけれど、それのどこがいいのだろう…」という思いがあるのだろう。

 

私の意見を述べてみたい。

もちろん、これは私の考えであって、正解かどうかはわからない。

もっとも、句の鑑賞に正解などというものはない。

あらゆる人が鑑賞を出し合い、その中でもっとも優れている、感動する、という鑑賞を探すことこそが大事なのだ。

 

さて、この句だが、

 

なぜ手紙を書かないのだろう。

手紙を書かないで何をしているのだろう。

 

と考えればいい。

 

私の答えは、

 

(時空を超えて)いにしえの詩歌人と…、とりわけ芭蕉と語り合っている。

 

のである。

 

秋の琵琶湖である。

行楽シーズンを過ぎ、今、琵琶湖には静かな時が訪れている。

そこを一人、旅しているのである。

「手紙を書く」ということは「現世」の人と通じ合うことである。

琵琶湖を前にして、澄雄に今、そのことに何の感懐もわかないのだ。

静かにゆっくりと芭蕉と語っていたいのである。

 

「淡海」(近江)は「詩歌のふるさと」である。

松尾芭蕉は近江をこよなく愛し、今、近江に(義仲寺に)眠っている。

芭蕉は生涯に於いて約1000句を残したが、そのうちの1/10が近江で詠んだものだ。

 

山路来て何やらゆかし菫草
辛崎の松は花より朧にて
五月雨にかくれぬものや瀬田の橋
この螢田毎の月にくらべみん
目に残る吉野を瀬田の螢かな
世の夏や湖水に浮ぶ波の上
少将の尼の咄や志賀の雪
薦を来て誰人ゐます花の春
草枕まことの花見をしても来よ
獺の祭見て来よ瀬田の奥
四方より花吹き入れて鳰の波
行春を近江の人とおしみける
曙はまだ紫にほととぎす
先ず頼む椎の木もあり夏木立
螢見や船頭酔うておぼつかな
わが宿は歌の小さき馳走かな
やがて死ぬ景色は見えず蝉の声
こちら向け我もさびしき秋の暮
明月や座に美しき顔もなし
月代や膝に手を置く宵の宿
白髪抜く枕の下やきりぎりす
病雁の夜寒に落ちて旅寝かな
見送りのうしろや寂し秋の風
比良三上雪さしわたせ鷺の橋
貴さや雪降らぬ日も蓑と笠
梅若菜丸子の宿のとろろ汁
三井寺の門敲かばや今日の月
名月はふたつ過ぎても瀬田の月
夏の夜や崩れて明けし冷し物
湖や暑さを惜しむ雲の峰
秋近き心の寄りや四畳半
 
澄雄の心は「いにしえ」へと飛び、芭蕉と、近江の素晴らしさや旅の素晴らしさを「霞」を通して、語り合っているのだ。
もちろん芭蕉だけではない。
柿本人麻呂、大伴家持、小野小町など、近江を愛した詩歌人はたくさんいる。
その人々と霞を通して語り合っているのである。
 
芭蕉は、
 
古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ
 
と言った。
森澄雄は、
 
千年の声を聞くのが俳句だ
 
と弟子に語った、という。
優れた詩歌人は、先人たちの声を聞く為に、旅を続けるのである。
芭蕉の『おくのほそ道』の旅はまさしくそういう旅であっただろう。
 
さらに言えば、この句はそういうことから離れて、ただただ、秋の淡海の静けさを、この句の持つ静けさを味わえば、それで十分でもある。

 

 

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no

(神奈川県横須賀市長沢)

 

 

会ひてすぐプール開きのこと話す      誠司

 

 

先日、「俳句α(あるふぁ)」(毎日新聞社刊)編集部より、上記の句を、次回刊行の最新号に掲載してくれるそうで、その掲載許可を求める手紙が来た。

この句は第二句集『退屈王』の中の一句で、離婚して、元・妻と暮らしている二人の子どもとひさしぶりに会った時に作ったものだ。

五月だったか、六月だったか、すでに真っ黒に日焼した子どもたちが、会うなりすぐに、

 

お父さん、この間、学校のプールに入ったんだよ!

 

と嬉しそうに話してくれたのである。

 

雄大な風景句でもないし、感覚鋭い句でもないし、表現豊かな写生句でもなく、日常の何気ない一コマを句にしただけなので、とりわけ気に入っている…というわけでもないのだが、割と取り上げてもらうことが多い。

偶然にも、先日、「海光」会員が、ある俳人と話した際、代表が私だ、と話すと、この句を褒めてくれたそうである。

 

芭蕉のようになりたい…、と願う私は、こういうちまちま(?)した句ではなく、もっと雄大で格調の高い句を詠みたい、評価されたい、といつも思っているのだが、取り上げられる句は、例えば、

 

深く深くプールに潜り父の日よ

枝拾ひ来よさよならの焚火とす

学校のことをたづねし柚子湯かな

 

など、日常句が多い。

そのこと自体はとても嬉しいことではあるが、正直、ジレンマを感じる時もある。

自分の俳句のスケールの小ささを改めて感じてしまうのである。

 

ただ、あらためて眺めてみると、当時の思い出が鮮やかに思い出され、自分でもやはりしみじみとしてしまう。

子どもたちはなぜあの時、真っ先にプール開きのことを話したのだろう。

ひょっとしたら、自分たちは元気にやっているよ…、と子供なりに気を遣ってくれたのだろうか、と思ったりもする。

 

ところでこの句、「会ひて」という意味が、すぐにわかるのだろうか。

離婚し、子供たちを離れて暮らし、時々、会うので、「会ひて」という表現になっている。

毎日、一緒に暮らしていたら「会ひて」という表現にはならない(と思う)。

そのへんの事情(?)をわかっていて、選んでくれたのだろうか。

それとも子供同士の会話と解釈したのかな。

まあ、どう解釈しても、それは鑑賞者の自由だ。


 

 

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立春の米こぼれをり葛西橋    石田波郷

 

 

今日は千葉県松戸市八柱のヨークカルチャー。

お一人が埼玉県在住の方で、松戸へ通うのはさすがに遠い…ということで、新しく始まった私の講座、よみうりカルチャー大宮へ移り、さらに今日、お一人が、お仕事の都合で退会されることとなった。

6名から始まり、少しずつ増え、もう少しで10名になる、と喜んでいたのだが…。

欠席者も2名いて、今日はちょっと寂しかった。

が、講義は「正岡子規」。

俳句史有数の重要人物なので、一生懸命に話した。

また、人が少ないということもあり、一句一句をホワイトボードに書き、丁寧に添削した。

そのあとは一人で、回転寿司「銚子丸」へ。

 

今日は横須賀から松戸八柱へ向かったが、荒川を渡る時、東西線の陸橋から「葛西橋」が見えた。

この句は「戦後の飢え」を詠ったものだ、という。

「葛西橋」を渡ると「葛飾」である。

戦後、東京の人間は、着物などをリヤカーに乗せてこの橋を渡り、葛飾の農家と交渉し、「米」と交換してもらったのだそうだ。

その米がこぼれていたのである。

立春の光を浴びて光る「米粒」に、波郷は何を見たのであろう。

 

 

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