(東京都杉並区西荻窪 JR西荻窪駅)
松尾芭蕉及び日本の詩歌における「雉(きじ)」の意味についてはこれまで何回かブログに書いてきた。
「雉」は父や母、親しい人を恋う気持の象徴として登場することが多い。
古くは「行基」の和歌、
山鳥のほろほろと鳴く声聞けば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ(『玉葉集』)
があり、松永貞徳の句に、
子を思ふ雉子は涙のほろろかな
があり、芭蕉の句にも、
ちちははのしきりに恋し雉の声(『笈の小文』)
がある。
また、与謝蕪村の自由詩「北壽老仙を悼む」にも恩人が亡くなってしまった悲しみの象徴として「雉」が登場する。
どれも父や母あるいは親しい人を偲ぶのに「雉」が登場する。
これは詩歌の伝統であり、約束事であったようだ。
ただ、私には、あの猛々しい、ギョッとするような雉の鳴き声がなぜ、父や母の声に感じるのか、どうにも理解出来ない。
『俳諧雅楽集』には、雉の声について、
勢(いきおい)ありて淋し
という記述がある。
『俳諧雅楽集』は芭蕉の高弟・森川許六が記した俳諧書。
なので「雉の声」を「勢(いきおい)ありて淋し」と感じるのは芭蕉一派の共通認識と考えていい。
しかし、「勢(いきおい)ありて淋し」とは、
勢いがあって淋しい
という意味だと考えていいと思うが、「勢いがあって淋しい」というのはどういう意味なのだろう。
ちょっとわかりづらいし、これを読んでもやはり納得できない。
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