我夢は聖人君子の夢にあらず 松尾芭蕉
(わがゆめはせいじんくんしのゆめにあらず)
芭蕉の『嵯峨日記』、元禄4年4月28日のの一文に、この言葉がある。
『嵯峨日記』というのは、全体において穏やかな文章で綴られているが、この記述だけに、感情の高ぶりがある。
「特異」と言っていい。
なぜ、このような感情の昂ぶりがあったかというと、
愛弟子・杜國(とこく)の夢
を見たからである。
夢に杜國が事をいひ出して、涕泣して覚ム。
つまり、
杜國が夢に現れ、話しかけてきて、私は泣き出して、目が覚めた。
というのである。
杜國のことは以前に何回か書いている。
地名の入った名句4 愛知県伊良湖崎
小春
陽炎 坪井杜国
このあと、芭蕉は「漢文調」で、杜國のことを思い、悲しんでいる。
芭蕉の文章で「漢文調」の時は、必ず感情が昂っている、というのは、他の作品にも見られる芭蕉のわかりやすい特徴である。
杜國は元禄3年、つまり、前年に亡くなっている。
杜國は、名古屋の大きな米問屋を営んでいたが、当時、禁止されていた米の先物取引を咎められ、家財を全て没収され、伊良湖崎へ流され、失意のうちに死んだ。
大変な美男子で、衆道もたしなんで(?)いた、と言われる芭蕉には特別な存在だった。
芭蕉は、「笈の小文」の旅で、わざわざ伊良湖崎を訪ね、杜國と再会し、
鷹一つ見付けてうれし伊良古崎
という句を残した。
この「鷹」は杜國を指している。
そのあと、ともに関西を旅している。
罪人、流人の杜國がなにゆえ「旅」が出来たのか?
ひょっとしたら、禁を破っての旅であったのかもしれない。
もし、そうであったとしたら、芭蕉の杜國への思いは、命がけであった、と言ってもいい。
その杜國が夢に現れた。
そして芭蕉も泣いたのである。
杜國の「憐れ」を思い、そして、上記の言葉を吐く。
私の見る夢は聖人君子の見るような清く正しい夢ではない。
と言っている。
このような「正直」な言葉を吐く、芭蕉の心情を考える。
ただ、普通に、人を悼む心であれば、
聖人君子の夢ではない。
などと、わざわざ言わない。
のちに俳聖と言われた男の、数々の傑作は、このような「俗」な感情の葛藤の上にあった、と考えられる。
しかし、逆に考えれば、芭蕉の数々の傑作、或いは、俳句とは、「俗」を認めた上での詩の昇華、或いは「俗」にまみれながら、のたうち回って、詩を生み出すもの、ということも言えなくもない。
いろいろぐだぐたと書いたが、つまり、
俳句は聖人君子の文学ではない
と、私は言いたいのである。
私は「海光」創刊の言葉でも、おきれいな言葉でおきれいな俳句を作って何の意味があるだろう、と書いた。
そこで満足されている方々にぜひ考えてもらいたいのである。
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今週の一句 花八つ手 中村草田男
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