とらわれた天使の歌声 -2ページ目

ゼノ話その16




 とらわれた天使の歌声   とらわれた天使の歌声


バルトとマルー。


通称「若マル(バルマルよかこっちのほうがいいですね)」はゼノギアスにおいて代表的な公式カップリングです。そのなれそめに関しては生粋の若マラーでしたら周知だとは思いますが、改めてどういうもんだったかなと思い、ちょっとPWを調べ直してみました。


バルト(バルトロメイ・ファティマ)は9981年当時のアヴェ国王エドバルトⅣ世と王妃マリエルとの間に生まれた子(この年フェイやエレハイムも生まれています)で、マルー(マルグレーテ・ファティマ)はその2年後、当時のニサン大教母エルヴァラ・ファティマとフランシス・ラヴァーン侯との間に生まれた子(同年、ビリーも誕生)ですがアヴェ王とニサン大教母、どちらも姓がファティマなのは何故でしょう。それはご存じの通り、両家の遠い祖先が初代アヴェ王であるロニ・ファティマ、その双子の弟レネ・ファティマの子孫であるからなのです(ロニの末裔は代々アヴェ国王を引きつぎ、レネの末裔はニサン大教母を引き継いでいきます)


そのバルトとマルーの関係ですが、9987年に大きな転機が訪れます。当時の宰相シャーカーンがアヴェ王国をクーデターで転覆させ、バルトとマルーを幽閉してしまうのですね。


シャーカーンの目的はひとつ、「ファティマの至宝」を手に入れるためのカギとなる「ファティマの碧玉」の奪取であった(これがなになのか、また碧玉を使ってどういう仕組みでその至宝が手に入れられるのかっていうのはゲーム本編でわかりますね)わけなのですが、シャーカーン自身はアヴェ王という権力を欲しただけであり、実はその背後にソラリス(の特務部隊であるゲブラー)の糸引きがあったわけなのでした。すなわちギア・バーラーであるEl・アンドヴァリの奪取はソラリスの真の目的でありそのためにシャーカーンという人物を使ってクーデターを引き起こしたわけなのでした。


何故ソラリスがギア・バーラーを欲したのかというとちょっと話が長くなりますのでおいときますが、ファティマの至宝を手に入れんがために一族を拷問にかけるもことごとく失敗、その結果両家一族根絶やしにしたシャーカーンが行った残虐非道はついには幽閉されたバルトとマルーにも及ぶわけです。


ただ、マルーに関してはシャーカーンに協力した民族内にニサン大教母に対しての敬意があり、比較的扱いは穏やかであったのですが、バルトには対しては容赦ない仕打ちが待っていました。


ゲーム当時のバルト自身の身体にはその時に受けた拷問(鞭打ち)の傷跡が今も残っているわけですが、すべてはマルーを庇って自らが率先して受けた傷であり、その結果としてバルト自身には潜在的な「ムチへの恐怖」を植えつけられてしまいます。


あれ?バルトの武器ってそのムチじゃない? と疑問を抱く方もいらっしゃると思いますが、それは後にバルトたちがシャーカーンの幽閉から救出され、彼の部下であるシグルドの手によって「逆療法的に」教育訓練され、その恐怖を克服した結果であるわけです。


一方のマルーはというと直接的拷問は上記の理由により免れたわけなのですが、自分を庇い、そして碧玉の秘密を守るために凄惨な拷問を受けるバルトの姿を目の当たりにし、その強い自責の念からか、みずからの精神を幼児退化させることで自分のココロを封印してしまいます。マルー自身が自らを「ボク」と呼び、また年齢の割には体型が未発達なのはその影響であるのです。ラムサスがはじめてマルーの対面したシーンがありましたが、あそこのマルーとラムサスとの会話はマルーのその精神状態が現れていてなかなか興味深いものでした。


その後、結局ソラリスを脱出したシグルドとメイソン卿(彼ら二人の関係、ファティマ家とのかかわりはまた興味深いものでしてまたおいおい書いていこうかと思っています)の手によって救出されるわけですが、マルー自身が常々放つセリフである「ボクはいつも若に助けられてばっかり。自分は若のためになにもしてあげられないや・・(意訳)」はもともとはこの出来事が起因となっているわけでした。


ただ、バルト自身ははたしてマルー自身になにかを求めていたんでしょうかね?


自分は男ですから男目線からしかモノは言えませんが、決してそうではないと思います。


「なにもしなくてもオレのそばで微笑んでくれてたらそれでいいさ」


バルトならきっとこういうと思います。


同じような事をしてちょうどバランスがとれている・・・女性の目からしたらこんなのでは申し訳ないって思うような他愛ないような事が男にとってはすごく大切だったりするわけで。


うーん・・・これってたとえれば「無償の愛」ですかねえ。


男女の関係の中には単に「恋愛」とひとくくり出来ない様々な「愛」があると思うのですがこの愛もまたひとつの「大切な形」なんでしょうね。きっと。