翌日、小夜子が目を覚ますと犯人は早々に見つかった。別段顔を隠していたわけでもないので例の蓮の追っかけの女だと小夜子が証言したのだ。警察もすぐに身柄を確保し、悪びれもせず自分がやったと供述しているらしい。


小夜子はしばらく社長宅に身を寄せていたが抜糸がすむとすぐに仕事に復帰した。今回の事では深く反省し、あっては欲しくないがまた危険なことがありそうならすぐに報告すると約束をした。蓮も自分が原因で小夜子が傷つけられたことにショックを隠せずにいたがこれを教訓に些細なことも注意しようと身を引き締めた。余談だがキョーコにしこたま叱られたことは言うまでもない。


小夜子は直接、社に謝罪したかったが会えない日が続いていた。小夜子の思わぬ休養でお互いに忙しいせいだと思っていたが数日もすると、これは避けられていると思わずにはいられなくなった。なぜ、社が小夜子を避けるのか理由が全くわからない。最初こそ迷惑のかけどうしで、厄介な部下に愛想が尽きたのかと殊勝に考えていたが日がたつうちに段々と腹が立ってきた。グルグルと考えこむのは小夜子の性には合わない。痺れを切らした小夜子は社のマンションへ向った。出かけているかもしれないが、とにかく仕事は終わっているのは確認してある。


何度かインターホンを鳴らしたが応答はない。帰ろうかどうしようかと迷っているとマンションの住人らしき人がオートロックを開けた。小夜子は閉まる寸前に中に入り込む。笑顔で挨拶をして何食わぬ顔で階数ボタンを押す。


玄関の前まで来てしばし考えこんでしまった。下で応答がないということは、不在なはずなのにこんなところまで入り込んで自分はどうしようというのか。つい、目の前で開いた自動ドアが何かの啓示のようで飛び込んでしまったのだ。誰もいない廊下で小夜子は自嘲的な笑みを浮かべた。とにかく来てしまったのだから、玄関のインターホンを押し、不在を確かめよう。それで気がすむはずだ。小夜子が思うほど社は小夜子を気にかけていない、それどころか迷惑に思っているとハッキリするのだから。社本人が言ったわけでもなんでもないのに、どういう訳かこの不在が小夜子に対する社の思いのような気がして仕方ない。


インターホンを押す。少し待ったがやはり反応はない。もう一度だけと思って再度インターホンを押した。それでも諦めきれずにグズグズと玄関で待つ。帰ろうかと思いかけた時に、中から何かが動く気配がしてゆっくりとドアが開いた。

「あっ、チーフいらしたんですね?」

「あぁ、どうかした?」

いつものパリッとした社ではなく、目つきがどんよりしている。


「すみません、お休みでしたか?」

ネクタイこそしていないがシャツにスラックス姿で寝ていたとは思えないが、小夜子は話しの糸口が見つけられず当たり障りのないことを口にした。

「いや。それでどうかした?こんな時間にまさか一人できたんじゃないよね?」


小夜子の問いにはたった一言で返答し、その後はまるでなんて迂闊なんだと責めるような口調に頭に血が上る。

「それがどうかしました?」

「それがって…。あんなことがあったのに反省していないのか?また、あんな目にあったらどうするんだ?!」

お互いに声が大きくなっていく。痴話喧嘩かと隣室の住人が怪訝な顔をのぞかせた。

「すみません、お騒がせして。」

社が隣人に笑顔を見せると小夜子の耳元で小さく囁いた。「用がないなら帰って。」笑顔とは裏腹の不機嫌な声だ。隣人は社の笑顔を見るとドアを閉めた。


小夜子は黙って踵を返すとエレベーターに向って歩き出したが腕を捕まえられた。

「なんです?」

「どうやって帰るんだ?」

「歩いてでも帰ります。気になさらないでください。」

「まったく…。」

社はため息をつくと、小夜子の腕を引っ張った。


「帰れって言ったのはチーフです!離してください!」

社は何も言わず小夜子を玄関の内側へ引きずりこんだ。

「君は俺をこのマンションにいられなくする気か?大声をだすな。」

「そんなことは知りません!帰してください!」

「あぁ、帰すさ。いま、タクシーを呼ぶからそれまで大人しくしてろ。」




音楽に合せてキョーコは囲いの中から顔を出します。時として飛び跳ね、その肢体を全て見せることもします。長く潜り暫く顔を出さずにおき人でないことも印象付けたりもしますが、一連の動きはさながら踊っているようでした。最初の1曲こそキョーコのための曲でしたが、その後は貴族のダンスのための曲に変わります。最初の曲が終われば、あとは気の向くままに泳いでも岩で休んでいてもお咎めはありません。舞踏会が終わるのを待つだけになります。休憩がてらテラスに出てきてキョーコを眺める者もいましたが、舞踏会の最初から最後までずっと眺めている者はいなかったからです。


夜も更け、テラスには誰もいなくなりました。もう最後の曲が演奏されています。キョーコは今日の余興を終えて、いつもの小屋へと向いました。波打ち際に腰かけ尾ひれを脱ぎます。立ち上がり、ヒレを持とうと腰をかがめた瞬間、人の気配を感じました。ここは浜辺から分かりにくい場所です。ここで誰かに会ったことはありませんでした。しかも夜も遅い時間です。振り返ることもできずに立ち尽くしていると聞きなれた声がしました。


「キョーコ?」


その声に振り向くと、そこにはずぶ濡れの蓮が立っていました。上半身裸で膝まで海に浸した姿は海から泳いできたことを示しています。


「蓮さま?!」


キョーコも驚いていましたが蓮も驚いています。それはそうでしょう、人魚だと思っていたキョーコが実は人間だったのですから。蓮の驚きの表情を嫌悪だと解釈したキョーコは慌てて逃げようとしました。蓮は突然走り出したキョーコを慌てて引き留めます。すんでのところで腕を掴まえそのまま抱きしめました。


「逃げないで。」


抱きしめたキョーコは震えています。寒さからではありません。蓮に嫌われたと思ったからです。


「ど...どうして...ここに?」


本当に言いたかったことはそんなことではありませんでしたが、キョーコは震える声で蓮に聞きました。


「昨日酒場で、今日の舞踏会で人魚が踊るって噂を聞いたから本当かどうか確かめようと思って。きっと、それっぽい見世物だと思ってたんだ。まさかキョーコだと思わなかった。」


『見世物』だと言われてキョーコは血の気が引きました。蓮の言う通りだからです。


「ごめんなさい。」

「なんで?凄い綺麗だったよ。」

キョーコはごめんなさいを繰り返しながら蓮の腕から逃げようとします。

「逃げないで。話をしよう?」

「でも、私、騙しててごめんなさい。」


キョーコが人間であろうと人魚であろうと蓮にとってはどちらでも良いのです。キョーコがキョーコであることが大切だからです。蓮は腕の中でもがくキョーコを抱き上げて小屋の中へ連れて行きました。それでも安心はできずに抱きしめたまま壁を背に座りました。小屋の中には家具は何もなく尾ひれを吊るすロープがあるだけだったからです。今は尾ひれの代わりにキョーコの服がかけてありました。自分の服が視界に入るとキョーコは急に自分が裸であることを思い出しました。先ほどとは違った理由でキョーコは蓮の腕から逃れようともがきます。一度大人しくなったキョーコが再び暴れだしたので蓮は怪訝な顔でキョーコを見下ろしました。


「まだ、逃げようとするの?」

「だって、だって...服を...」


キョーコに言われて蓮はやっと思い当たりました。人魚は基本、裸なので気にも留めていなかったのです。よくよく見ればキョーコは裸でした。しかも人間のように自分と同じように足があるのです。けれど...自分とは違うからだ。突然、恥ずかしくなり蓮はキョーコを放しました。


「あっ、あの、その!」

「あっち、向いて!」


その言葉に蓮は慌てて後ろを向くとその間にキョーコは急いで服を着ました。衣擦れの音がやけに生々しく蓮の耳に響きます。音が止まると蓮は恐る恐る振り向きました。キョーコは身を守るように自分で自分を抱きしめています。小さく頼りなげな姿をみて蓮は抱きしめたくなりました。蓮が手を伸ばすとキョーコは身を固くしました。


「いや?」


キョーコの拒絶に蓮はショックを受けました。拒絶されるとは思わなかったし、ショックを受けた自分に大層驚きました。キョーコは俯きながら首を左右に振ります。


「なら...。」


もう一度蓮は手を伸ばします。キョーコは狭い小屋の中にも関わらず精いっぱい後ずさりました。壁に背がついても押せば壁が下がるのではないかというように後ずさります。キョーコがチラリと蓮を伺うとこの世の終わりというほど悲しい目をしていました。その目をみて今度はキョーコの方が驚きます。


「だって、私はあなたにふさわしくない!」

「ふさわしくない?」

「だって、私は化け物だから!」


迷惑メールは相変わらずで少しずつ脅迫メールが増えていたが、ロッカーを荒らされるといった実質的な被害はなかった。そのため小夜子は特に気にせず過ごしていた。とはいえ、地方ロケでしばらく東京にいなかったのでその間はどうなっているかはわからないのだが。

東京へは夜遅くについた。蓮の愛車だったために運転は蓮がした。仕事帰りとはいえ、久しぶりのロングドライブに蓮はご満悦だ。アメリカでも運転はしているが、ファミリーカーでドライブそのものを楽しむことはあまりない。小夜子をマンションの前で降ろし、オートロックの中へ入るのを確認して車を走らせた。



玄関のドアを開けようとしていた時だった。小夜子は背中に衝撃を受けた。何かがぶつかってきたと思った次に感じたのは焼けつくような痛みだった。後ろを見ると女が不気味な笑顔で立っている。明らかに様子がおかしい。小夜子は自分の背中に手をあてるとヌメリとした感触がする。やっぱり血よね…とどこか他人事のような感じで妙な笑いが浮かんだ。意識もあるし、立ってもいられる。痛みはヒドイがそんなに深くはないのかもしれない。滅多にできない体験で役者だったら演技に活かせるかもなんて考えるあたり、我ながら冷静なのか逃避しているのか…。


驚くでもなく叫ぶでもなく、不敵な笑みを見せる小夜子に女が焦れた。

「だから、言ったでしょう?蓮にまとわりつくのはやめなさいって。忠告してやったのに、やめないから悪いのよ。蓮が迷惑してるのがわからないの?」

「まとわりつく?忠告?迷惑?」

どれももちろん小夜子に心当たりはない。嫌がらせはこの女だったらしい。理由は蓮。さて、どうしたものか…。とりあえず、病院にはいかないとマズイだろう。そのためにもこの女をどうにかしないといけない。


「蓮の前から消えるんなら、見逃がしてあげるけどどうする?」

ならば逃がしてもらおうと小夜子は口を開いた。

「ほ、ほんとう?」

「えぇ、あなたがもう二度と蓮につきまとわないって約束するならね。」

「も、もちろん、や、約束するわ。」

多少は怯えて聞こえるだろうか。それともどもるのはやり過ぎだろうか。やっぱり、役者の才能はないらしい。それでも小夜子の演技に女は満足そうに微笑んだ。突き抜けている人間はどこか常人とは違うらしい。

「そう、絶対よ。この会話は録音してあるから。」

自分から脅迫や傷害の証拠を残すなんて内心で小夜子はバカじゃないかと思ってしまった。それに自分は常識を超越しておいて他人には約束を求めるのもおかしすぎる。まぁいい、そろそろ限界がきている。

「じゃあ、そういうことで失礼するわ。」


小夜子は玄関に入るとカギをかけた。さすがに気が抜けてズルズルとしゃがみ込む。いや、ただ出血していたせいだったのかもしれない。段々と意識が遠のきそうな中、小夜子はどうにかスマホを取り出した。コールサインをタップすると最後に話したのは社だった。あまり考えずにそのままコールする。何回かの呼び出し音の後で『もしもし』という社の声がした。


「チーフ、すみません…ヘマしちゃいました…。」

「宮津さん?どうした?」

いつもと違って声に張りがないし、聞き取りづらい。

「もしもし?宮津さん?」

小夜子は一生懸命、話そうとするが何をどう説明してよいのか頭が回らない。

「あの、なんか、さされちゃって…」

社は正確に聞き取りはしたが、普通の状況で『刺される』なんてあるわけがない。虫?蜂か?

「ササレルって何に?」

「だから、わたしがさされ、たんです。」

やっぱり小夜子は刺されたと言っている。もしかして相当ヤバイ状況なのだろうか。

「今どこ?」

「いえ、です。」

「病院は?」

「いきたい、けど、ひとり、じゃムリ…。」

その後は社がいくら話しかけても返事がない。社は警察へ連絡した。自分が行くよりも警察の方が早くつくはずだ。

小夜子は駆けつけた警察官によって助けられ、すぐに病院へ運ばれた。小夜子の身内が社にはわからず、病院に向かいながら社長に連絡をいれる。遠縁とはいえ、身内に入るであろう小夜子が事件に巻き込まれたらしいことでかなり慌てていた。しかも連絡をしている社にも状況が全くわからないのだ。


社が病院につくと既に社長はついていてロビーで待っていた。手術というよりは処置レベルで済むと聞いてひとまず安心する。そうそうに警察官につかまり、事情を説明した。

社が病室に顔を出すと小夜子は青白い顔でベッドに横たわっていた。目は硬く閉じられている。その様子に社は社長を振り返った。


「輸血はいらないそうだが、あと少し失血していたら必要だったそうだ。今は貧血状態だから顔色が悪いのは仕方ない。傷は縫合したから大丈夫。まぁ、跡は…残るだろうが…。目を開けないのは麻酔のせいもあるし、精神的ショックのせいもあるだろう。明日には退院だ。とりあえず、俺の家に連れて帰る。」

社に話ながらも社長は小夜子から目を離さなかった。沈痛な表情が心配の程を伺わせる。一通り説明を終えるとギロリと社を睨みつけた。

「で、何か知っているか?」

別に社が刺したわけではないのだから社長に睨まれる筋合いはない。社は社長を睨みかえしながら答えた。

「全くわかりません。俺だって頭にきてるんですよ。」

暗に八つ当たりをされるいわれはないと言い返されて社長も我にかえる。

「あぁ、そうだな。すまない…。」

素直に謝られて、社も自分が随分キツイ言い方だったと反省する。社長は身内なんだから心配も怒りも当然だ。ほんの少し、一緒に仕事をした自分だって犯人を同じ目に合わせてやりたいのに。

「俺の方こそすみません。」

「いや、いいんだ。俺の八つ当たりだから。社もわからないか…。蓮は知ってると思うか?」

「さぁ、どうでしょう?連絡してみますか?」


社はチラリと時計を見た。すでに25時を過ぎている。明日の蓮のスケジュールが浮かんだがそんなことも言ってられないかと連絡をいれる。どちらにしろ警察から事情を聞かれるのだろうから明日より今のほうがいいだろう。

蓮はすぐに病院にやってきた。警察と話し終え、眠っている小夜子を見るといたましげに眉をよせる。

「蓮、何か知っているか?」

「迷惑メールが増えたとは聞いています。あとはわかりません。」

「迷惑メール?見たのか?」

「えぇ、ほとんどは詐欺とかアダルト系のものでしたが、中には脅迫っぽいものもありました。社長か社さんに報告したほうがいいって言ったんですけど、このぐらい大丈夫だからって。続くようなら…」

話しの途中で蓮は社に突き飛ばされた。

「知ってたのに放っておいたのか?」

そのまま殴りかかりそうな社を社長が止めた。

「ここは病室だ。それに、メールと刺した奴が同じとは限らないだろう?」

蓮は立ち上がると、二人とベッドを交互に見ながら言った。

「いえ、俺も悪いんです。彼女の性格を考えれば報告なんてするはずがないのに、そのままにしておいたんですから。」

さっきは社長に八つ当たりはするなと釘をさしておきながら、自分は蓮に八つ当たりだなんて理不尽だといまさらながら思い当たり、社は蓮に謝った。