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最近、巷をにぎわしている「VIVANT」や「LOST10」などの謎解きドラマ。
一部の熱狂的なファンがSNSなどで、いわゆる「伏線回収」と称して、作品内で発せられた意味深なセリフや出来事を自分なりに解釈や推察をして、次の展開を予想する愉しみに浸っている方たちもいらっしゃるんだとか。
そんな、気になるドラマの展開で往々にして仕込まれているのが、「裏切り」。
アイツとアイツは絶対に信頼関係で結ばれているだろう。
彼と彼女は相思相愛で絶対に心変わりすることはないだろう。
性善説に洗脳されている平和な日本民族にとって、「昨日の敵は今日の友」的な発想はあるにせよ、「昨日の友は今日の敵」的な発想はなかなか馴染みにくいもの。
その心理を突いてくるのが、まさかの裏切り。観ている人をアッと言わせ、アドレナリンを増幅させるには、欠かせない調味料と言っていいでしょう。
武士の世の中においても、「本能寺の変」を筆頭として、謀反や調略は履いて捨てるほどたくさんありました。最初は「この人に命を預けます!」と身命を賭して奉公を誓った君主であっても、意見の食い違い、気の迷い、疲弊、他家からのオファー、プッツンなどなど様々な理由で主の元を去る者、他家へ奉公するもの、元鞘(もとさや)に戻る者のケースがありました。
今回は、我らが伊達政宗様のもとを去った人、戻った人についてひも解いてみましょう。
1人目は、伊達成実(伊達藤五郎成実)
政宗様の従兄にあたり、伊達一門(亘理伊達家の祖)の武将であり、人取橋の戦いや摺上原の戦いなどで輝かしい戦功を挙げ、「伊達軍の武の象徴」として政宗様を支えた名将。
では、なぜそんな功労者の成実様が政宗様の元を去ったのか?
出奔したのは、文禄4年(1595年)頃、朝鮮出兵から帰国した後だそうですが、出奔の理由としては、「石川昭光の処遇を巡る政宗との意見対立」「戦功への報酬・知行に対する不満」「豊臣秀次事件に連座するリスクの回避」など諸説ありますが、正確な理由は未だ解明されていません。
ですが、「I'll be back.」(俺はまた戻ってくる)。そう、彼は戻ってくるのです。
成実様が出奔したという噂を聞きつけ、徳川家康や上杉景勝(五万石という破格の待遇)といった有力大名から非常に高い条件で仕官の勧誘がかかりました。
しかし成実様は「政宗様以外の主君には仕えない」「旧主・政宗様と敵対するわけにはいかない」とこれらの誘いをすべて固辞し、高野山や相模国(現在の神奈川県)などを転々とする浪人生活を選びました。
その間、成実様の才能を惜しみ、他家への流出を心配した片倉小十郎(景綱)や留守政景らの執拗な説得を受け、慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いに伴い、伊達家が上杉家との戦い(白石城攻略戦など)に直面した際、伊達家の危機を救うために政宗のもとへ帰参し、白石城攻めで凄まじい働きを見せ、見事に伊達軍の一員として復帰を果たしました。
その後は亘理城主として伊達家の重臣(一門筆頭)を務め、仙台藩の基礎固めや徳川家との外交交渉などで政宗様を最後まで支え続けました。
彼の著作とされている政宗様の軍記と逸話集からなる「成実記」は、当時の出来事を今に伝える貴重な書物となっています。
2人目は、茂庭綱元(鬼庭綱元)
「伊達の知恵袋」と言われた重臣中の重臣であった彼も、政宗様の元を去っています。
その出奔の経緯が「なんだかなぁ~」と言いたくなる残念な理由。
朝鮮出兵の際、豊臣秀吉から愛妾の「香の前」を拝領したことで、政宗様の不快感を買って疑われることになり、処分に反発した綱元は文禄4年(1595年)頃に伊達家を出奔しました。(諸説あり)
有能な彼は、徳川家康から高禄での召し抱えの打診を受けたりしたのですが、政宗様から「奉公構(他家への仕官を禁止する処分)」を出されたこともあり固辞し、浪人として過ごしました。
(奉公構とは、出奔した者を召し抱えたら、お宅と一戦交えるかもよ!という意味である)
しかし、彼もカムバックする。
綱元の行政能力を高く評価していた政宗様は、やがて誤解を解いて許し、伊達家に復帰させます。復帰後は仙台藩の行政を統括する奉行(国老)として、仙台城下町の建設や藩政の基礎作りに大きく貢献しました。
ちなみに、出奔の引き金となった愛妾の「香の前」さんについては、こちらをどうぞ↓
そのほかの出奔者としては、政宗様に反旗を翻して出奔・離反し、最上家に仕えた鮎貝宗信(あゆかい ふみのぶ) や、出奔した成実様の城の接収を担当したり、岩出山城の留守居役などを務めた側近の屋代景頼(やしろ かげより)などがおりました。
人間関係はいつの世も思い通りにはならず、難しいものですが、最後は「成らぬ堪忍 するが堪忍(どうしても我慢することができないことを我慢するのが本当の意味での忍耐である)ということなのでしょうかね。
※昨今の歴史研究の進展は目覚ましいものがあり、過去の書物に記された史実や出来事などとは別の説が発表されたり、歴史認識が改められたりしている事も多く見受けられます。このブログで書かれたことは、諸説ある中でも多く語られることの多い部分を抽出して書かれたものであり、歴史認識や見解の確からしさを断定するものではありませんことをご理解頂きますようお願い申し上げます。
