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伊達政宗様を語る上で、側室の話というものは避けては通れません。
武家の棟梁であられますから、お家断絶は一大事。長子存続、男子存続という当時のオールドノーマルに従えば、子孫を残すことこそが至上命題。
まあ、そうは言っても正室であります愛姫様との間には4人も子供を授かった分けですから、2人の間は固い絆で結ばれていたことは紛れもない事実なのでしょう。が、そこはそれ誰しもそんな純愛ラブストーリーだけを聞いていれば、満足出来るというものでもありますまい。
今日は確認されている8人の側室の中で、最も有名な逸話が残されている「香の前」について話をしてみたいと思います。m(_ _)m
さて、この「香の前」という名前、なんか妙な感じがしませんか?実はちゃーんとした名前がありました。
本当の名前は種(たね)さん。だから、香姫(こうひめ)若しくはお種(たね)殿という呼び方もされていたようです。
詳しくは分かりませんが、さぞかし香りが際立つお種さんだったのでしょうか。
では、なぜ題名にあるように香の前さんがそんなに怒りをあらわにしなければならないのか?
これは有名な話なんで知っている人も多いとは思いますが、紹介をします。
このお種さん、元々は太閤豊臣秀吉の側室(愛妾)でした。ところが、伊達政宗の有能な家臣である茂庭綱元はたいそう秀吉に気に入られていました。あるとき、秀吉からこんなことを持ちかけられます。「私と囲碁をやって、もし私(秀吉)が勝ったらお前は私の家臣になれ。その代わりにお前が勝ったら、マイ側室コレクションの中から好きな物(女)をくれてやろうではないか。」とまあ、聞いているだけ(読んでいるだけ)でも大変胸くそが悪くなる話で、このブログをご覧の女性陣には大変耳障りな話で恐縮なんですが、そこは辛抱して読み続けてくださいませ。m(_ _)m
かくして現代なら完全NGであろう、非人道的賭け囲碁の「秀吉カップ」が開催された。
しかし、これはさすがの茂庭綱元も迷っただろうね。だって、なんといっても相手は天下人ですから。
接待ゴルフじゃあないけど、あっさりと勝っても機嫌を損ねられてしまう可能性があるし、負けたら負けたで政宗様の元を去らねばならない。苦渋の決断を求められた綱元だったが、彼の政宗様に対する忠誠心は折り紙付き。見事太閤秀吉に完全勝利を収めたのであった。
素直に負けを認めた太閤(そこは潔い)。約束通り、綱元に側室コレクションの中から好きなのを選ばせます。なんとも心苦しい綱元は秀吉に遠慮して、ちょっと地味そうな一番近くにいた側室をチョイスしたのですが、実はこの方こそが秀吉のお気に入りでもあった「香の前」さんだったのです。
(一説には秀吉と囲碁をやったのは伊達政宗だという話もあるそうです)
こうして、秀吉から綱元に下賜された香の前さん。ただし、この辺については、いくつかの説がありまして、秀吉から政宗様に下賜されて、政宗様が手を付けて子共が出来てしまったので、綱元に下賜して子供は自分の子供では無く、綱元の子として育てたとか、綱元と秀吉の親密な関係が面白くなかった政宗様が綱元の子供に強制的に跡を継がせて、怒る綱元。出奔するが2年後に赦免されて帰参した時に香の前さんを政宗様に献上して自宅の別棟に住まわせ、そこに政宗が通って子供が生まれた等々。
諸説はいろいろありますが、そんなことよりも400年の時を超えて「香の前(お種)」さんの気持ちを代弁して一言、言わせてもらうとですね。
「あたしゃあ、物や賞品じゃあない!誰から誰に下賜したとか、誰が誰に献上したとか、いい加減にしろってぇの!(`Д´)」
と抑え気味で怒りをぶつけてみましたけど、種ちゃんの気持ち、少しは晴れたかな、、、。(-_-;)
この時代、容姿端麗であれば時の権力者の目に留まり、愛妾となることでお家は栄える。世継ぎが生まれたりすれば、それこそお祭り騒ぎでお家は安泰。そう考えますと、一概に普通にお嫁に行くだけが能では無く、サイドストーリーからお家を支えるという考え方も一理あったようです。
その後、香の前さんは一男一女をもうけ、娘は柴田郡船岡城主原田宗資(むねすけ)に嫁ぎ、宗輔を生んだのですが、この原田宗輔こそあの伊達騒動で有名な原田甲斐なのです。息子は亘理重宗の娘婿となり、亘理宗根(むねもと)を名乗り亘理家を継いでいる。晩年、彼女は息子の宗根の元に身を寄せて余生を過ごし、寛永17(1641)年12月2日にこの世を去った、享年64歳。
時代の波に翻弄された人生を過ごした感の香の前さんですが、終焉の地はここ宮城。(墓所は不明)
今頃、香の前さんは天国で太閤秀吉様や政宗様や綱元様とどんな会話をしているんでしょうかね。
(あー、全員が天国にいるという保証はないか、、、。)
※昨今の歴史研究の進展は目覚ましいものがあり、過去の書物に記された史実や出来事などとは別の説が発表されたり、歴史認識が改められたりしている事も多く見受けられます。このブログで書かれたことは、諸説ある中でも多く語られることの多い部分を抽出して書かれたものであり、歴史認識や見解の確からしさを断定するものではありませんことをご理解頂きますようお願い申し上げます。