知る人ぞ知る!仙台城大手門と脇櫓の復元模型が仙台市戦災復興記念館にあるのです | 「ガイドが教える 仙台城を10倍楽しむ方法!」

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仙台城のボランティアガイドが、仙台城の魅力や伊達政宗のトリビアな話を出し惜しみせず、ボリューム満載で語り尽くしまーす。(^_^)

仙台観光をお考えの方は、旅支度の前に予習としてご一読を頂ければ、仙台城が10倍楽しめるかも。

仙台城ガイドボランティア会のブログをご覧頂き、ありがとうございます。m(_ _)m

 

仙台城を語るうえで、今注目の的となっているのが、仙台城の大手門の復元計画。

 

なんでも、伊達政宗公没後400年にあたる2036年を目標に、仙台市が推進しているプロジェクトと銘打たれています。復元に向けて、新たな飾り金具の発見や礎石の確認などの発掘調査が進められており、より正確な復元が目指されています。また、市民の関心を高め、歴史を学ぶきっかけとするため、定禅寺通りのケヤキを復元に活用する可能性も併せて検討されています。

 

ご存じない方のために、少しばかり仙台城大手門について説明いたしましょう。

 

大手門は仙台城全体の正門で、藩主の出入りの時や特定の儀式の時にしか開門されない特別な門でした。幅約20m、高さ約12.5m、二階建てで、日本国内の城門としても最大級の大きさでした。

 

江戸時代の大手門というと石垣を詰んだ門の上に櫓(物見や武器庫などの役割を持つ建物)を乗せた、二階建ての櫓門が主流でしたが、仙台城は平安時代から建てられていた、規模の大きな社寺に採用されたような楼門でした。

 

実のところ、正確な建築時期が分かっておらず、伊達政宗による築城期の建築とする説がある一方で、政宗が仙台城を大改修した慶長10年代から元和年間(1605-1624)にかけてとする説や、二代藩主忠宗が二の丸を造った寛永10年代後半(1638-1642)とする説があります。

 

由緒正しき、歴史的価値の高かった大手門と脇櫓。 昭和6年(1931年)には国宝に指定されたのですが、昭和20年(1945)の空襲で焼失。以後、脇櫓だけが再建され昭和42年(1967)に市に寄附されました。

 

ちなみ、あった場所は現在のこちらの位置に当たります。↓

 

2036年ということは、2025年から11年後。いくら東北の中心都市として隆盛を極める仙台市とはいえ、予算取り、トップの交代、建築費の高騰、社会情勢の移り変わり等々で再建計画が予定通りに実行されるかどうかは、昨今の自民党総裁選ぐらい不透明なもの。

 

そもそも、人によっては11年後に鬼籍に入っておられる方もいるかもしれない。

 

そこで、ぜひとも訪れておきたいのが、仙台市青葉区大町にあります仙台市戦災復興記念館。

 

なんと、こちらには仙台城大手門と脇櫓の模型が展示されているのです。(昭和42年の復元計画版のもの)

 

戦時下の状況や昭和20年7月10日の仙台空襲の爪痕や、その後の復興事業の記録など貴重な資料が展示されているのですが、入口から歩を進めてすぐのところに、在りし日の仙台城大手門についての資料が展示されています。

こちらが大手門模型、なかなかでしょ!

こちらは別な角度から

脇櫓はこんな感じ

こちらも別な角度から

こちらが、在りし日の仙台城大手門のお姿

 

ほかにも、こちらの仙台市戦災復興記念館には、戦争の悲惨さを今に伝えるこんなものが、、、。

 

こちらは、仙台空襲の際にB-29爆撃機から投下された焼夷弾

焼夷弾って親爆弾が空中で分解して、子爆弾をバラまく仕組みだって知ってましたか?

こちらが焼け野原となった仙台市の写真

仙台を訪れる機会があったら、ぜひ立ち寄ってみて頂きたいのがこちらの場所

なんと、爆撃の中心点は現在のアーケード街のまん真ん中。

ここに立って、何を思うかはみなさんの心情に委ねます。

 

大手門と脇櫓の模型を見られて、仙台空襲および戦争の悲惨さを目と心に刻むことができる、貴重な施設です。訪れて損なし!機会がありましたら、ぜひ足を運んでみてください。m(_ _)m