松尾芭蕉の幕府隠密説は仙台藩の過敏な警戒意識から? | 「ガイドが教える 仙台城を10倍楽しむ方法!」

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松尾芭蕉といえば、俳諧紀行「奥の細道」の作者として、当時の陸奥国(今の東北地方)にも関わりの深い人物として有名です。


その松尾芭蕉、そもそも一俳諧人が1985.5キロメートルを150日を掛けて走破するという行程が、「実は幕府の隠密(スパイ)だったのでは?」というミステリアスな説がある。


その説の根拠なのではないかと推察される説がある。


芭蕉と曽良が尿前(しとまえ)の関から出羽の国へ越えようとしたとき、尿前の関で何らかの「不審」を買い足止めを食ってかなりのロスタイムをした、と奥の細道には記されているのだが原因は不明である。


当時尿前の関を管理していた仙台藩(伊達)が幕府より日光東照宮の改修工事を命ぜられていた。こうした幕府の命令は参勤交代制と並んで各地の諸大名の蓄財を恐れた政策の一環だったわけだが、仙台藩は「凶作」による財政難を理由に辞退を申し出たらしい。


こうした幕府の強制する出資は、各藩の財政を圧迫することになり、いずれの諸大名にとっても何らかの理由を掲げて極力回避したいというのが本音だった。


一方で幕府側もそんな理由を簡単に受け入れるほど甘くはなく、それが事実かどうかを隠密(スパイ)を使って密かに探索するケースもあったという。


つまり仙台藩はそうした密偵の暗躍を恐れてこの時期藩内一円に外来者に対する警戒を厳重にするよう布令を発していたという説である。


仙台藩と幕府の駆け引きが「芭蕉隠密説」の元になったのかもしれないということのようです。


ひょっとして、芭蕉さんはそれを察知して足早に今の宮城県を後にしたのでしょうか?


※昨今の歴史研究の進展は目覚ましいものがあり、過去の書物に記された史実や出来事などとは別の説が発表されたり、歴史認識が改められたりしている事も多く見受けられます。このブログで書かれたことは、諸説ある中でも多く語られることの多い部分を抽出して書かれたものであり、歴史認識や見解の確からしさを断定するものではありませんことをご理解頂きますようお願い申し上げます。