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真夏の夜空を彩る風物詩といえば、花火。
最近では夏だけではなく、秋でも冬でも花火見物が企画されるようになりましたね。
かつては庶民が平等に楽しめる大衆娯楽の王道だった花火見物も、今では「有料観覧席」が設けられるのが当たり前になりました。
運営する主催者側があみ出した「錬金術」なのか?「推し活志向」によるお金の使い方の移り変わりなのか?
まあ、無料であれ、有料であれ、花火が老若男女の心を躍らせることに変わりはありません。
さて、よくインターネットで「日本人で最初に花火見物をしたのは誰ですか?」という検索をすると、真っ先に二人の戦国武将の名前が登場することをご存知でしたでしょうか?
一人目は江戸幕府を開いた天下人、徳川家康様だという説。そして、もう一人が我らが伊達政宗様だという説なのです。
家康様の説は次のようなものです。
1613年(慶長18年)8月6日に駿府城で花火を見たということが、複数の文献の記述に確認されております。家康様が将軍職を秀忠様に譲り駿府(静岡市)に引退した後の日々について記した日記風記録『駿府政事録』には、漢文体で「花火唐人」「立花火御覧」といった言葉が確認でき、徳川家康様の伝記『武徳編年集成』には「花火精錬ノ大明商客長崎ヨリ参府シテ」と記されています。
8月3日、長崎に商館を建てたイギリス人ジョン・セリーが明の商人と共に徳川家康様に面会し、献上した花火を8月6日に尾張、紀伊、水戸の徳川御三家初代藩主とともに家康様が見物をしたと記録されており、これは日本におけるごく初期の観賞用花火見物と言われている。ちなみに、このときの花火は筒を立てて黒色火薬を詰め、これに点火すると火の粉が噴き出すというものだったようです。
続いて我らが伊達政宗様の説は次のようなものです。
伊達政宗様には家康様よりも前に花火を楽しんだとされる記述が存在する。『天正日記』や『伊達家治家記録』に、1589年(天正17年)7月に米沢(山形県米沢市)の居城で行われた花火の記録が残っている。
7月7日「夜になって、外国人(大唐人)が三人来て、花火を行い、その後、歌も歌った」、7月8日「夜になって、外国人が花火を配った。伊達政宗様がなさいました。一段と見事でした」、7月14日「その後、外国人が四人来て、花火を行った」、7月16日「お帰りになって、花火をなさいました」と、何度も繰り返し居城に招き入れて花火を行っている様子が記されており、当時23歳の伊達政宗様がたいそう花火を気に入られた様子がうかがえます。
ただし、この花火は、「外国人が花火を配った」と記されているので、打ち上げ花火ではなく、現在の手に持つ花火のようなものだったと推察されます。
がしかし、この「花火見物一番乗り論争」に第三の男が名乗りを上げました。
最近になって、天正10年(1582年)キリシタン大名の大友宗麟がポルトガルのイエズス会宣教師に花火を打上げさせて、人々を驚かせたという記録が歴史の表舞台に登場しました。
本命の徳川家康か?対抗の伊達政宗か?それともダークホースの大友宗麟か?
そもそも手持ち花火を「花火見物」とカウントするのか?
そもそも西洋人が打ち上げた花火は純粋な日本の花火とカウントしていいのか?
ひょっとして鎌倉時代の元寇のときに、花火に似たようなものがあったら、それは花火カウントなのか?
議論は尽きませんが、ここはひとまず家康公の顔を立てて、徳川家康様に「花火見物一番乗り」の名誉を譲るとしましょう。
仙台では仙台七夕の開催初日(8月6日)の前日に恒例の七夕前夜祭の花火大会が開催されます。
杜の都の夜空に見事な大輪の花を咲かせてご覧にいれますので、ぜひとも足を運んでみてはいかがでしょうか?
※昨今の歴史研究の進展は目覚ましいものがあり、過去の書物に記された史実や出来事などとは別の説が発表されたり、歴史認識が改められたりしている事も多く見受けられます。このブログで書かれたことは、諸説ある中でも多く語られることの多い部分を抽出して書かれたものであり、歴史認識や見解の確からしさを断定するものではありませんことをご理解頂きますようお願い申し上げます。